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ヴァンゼー会議

Wannseekonferenz, Wannsee Conference,

池田光穂

ヴァンゼー会議Wannseekonferenz, Wannsee Conference)とは、15名のヒトラー政権の高官が会同して、ヨーロッパ・ユダヤ人の移送と殺害について分担と連携を討議した会議である(このページの情報はウィキペディア"Wannsee Conference"などから吸い上げたものである)。

会議の前年の7月31日ハイドリッヒはゲーリングから「ユダヤ人問題の最終的解 決」(ユダヤ人の絶滅政策)の委任(下記、手紙文書参照)を受け、この権限に基づき、ヴァンゼー会議を企画、翌年実現。

会議は1942年1月20日にベルリンの高級住宅地、ヴァンゼー湖畔にある親衛隊の所有する邸宅で開催された。しかしながら、会議が開かれる以前からアイ ンザッツグルッペンEinsatzgruppen)という部隊は占領下の東ヨーロッパやソ連においてヨーロッパユダヤ人を組織的に殺戮していた。ナチス政権は広大な占領地域に分散し居住 する多数のヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅させるために必要な官僚組織の協調体制を確立できずにいた。官僚組織は異なる省庁に属し、それらはしばしば互いに競 合していたからである。よってナチス政権は「ホロコースト計画完遂の阻害要因は、各省庁がヨーロッパ・ユダヤ人の抹殺を必ずしも優先事項として取り扱わな かったことにある」と考えた。そこで、ヨーロッパユダヤ人の絶滅を優先事項とすることを再確認し、関係省庁の上層幹部に必要な権限を取り戻し、複雑に絡み 合う官僚組織の多くが最終的解決を共同して実行できるようにするためにヴァンゼー会議が開催された。会議主催者であり、かつ議長はヨーロッパ・ユダヤ人問 題の最終的解決を任務とする国家保安本部の事実上の長官職にあるラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将が務めた(→「ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒとユダヤ人絶滅政策」)。

もう、すでにヨーロッパユダヤ人の絶滅を目的とすること を示すヒトラーの演説があったが、ヴァンゼー会議がユダヤ人に対するナチス・ドイツの「ユダヤ人・ポーランド人・少数民族・精神障害者・政治犯・捕虜等の絶滅」政策を理解する上で特別な地位を占めている理由としては、1)会議の 開催に関わる完全な文書記録と会議の議事録が戦争で失われなかったこと、2)会議の出席者がユダヤ人の追放や組織的殺害を実行するのに必要な主要省庁の上 層幹部だったこと、3)会議以降に大量移送や会議目的に適う絶滅収容所における収容者の死亡が加速したこと、4)会議の議事録がニュルンベルク裁判の尋問 や反対尋問において広く使用されたこと、があげられる。

出席者は以下の通りである。


ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将
Reinhard Tristan Eugen Heydrich, 1904-1942
ラ インハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ(Reinhard Tristan Eugen Heydrich, 1904年3月7日 - 1942年6月4日)は、ナチス・ドイツの高官[4]。ナチス親衛隊大将および警察大将。ゲシュタポ長官および親衛隊諜報部(SD)長官。ドイツ海軍・空 軍軍人でもあり、軍人としての最終階級は空軍少佐、海軍中尉。国家保安本部(RSHA)の事実上の初代長官[注 2]。ドイツの政治警察権力を一手に掌握し、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の実力者となった。ユダヤ人問題の最終的解決計画の実質的な推進者であっ た。その冷酷さから親衛隊の部下たちから「金髪の野獣(Die blonde Bestie)」と渾名された[6]。戦時中にはベーメン・メーレン保護領(チェコ)の統治にあたっていたが、大英帝国政府およびチェコスロバキア亡命政 府が送りこんだチェコ人部隊により暗殺された(エンスラポイド作戦)(→「ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒとユダヤ人絶滅政策」)
1

ハインリヒ・ミュラー、国家保安本部第IV局(ゲシュタポ)局長、親衛隊中将
Heinrich Müller, 1904-1945
ハインリヒ・ミュラー(Heinrich Müller、1900年4月28日 - 1945年5月?)は、ドイツの軍人、親衛隊員。ゲシュタポ局長として第二次世界大戦中のホロコーストの計画と遂行に主導的役割を果たした。最終階級は親衛隊中将。
2

ゲルハルト・クロップファー、党官房法務局長
Gerhard Klopfer, 1905-1987 ゲ ルハルト・クロップファー(Gerhard Klopfer、1905年2月18日‐1987年1月29日)は、ナチス・ドイツの政治家。ナチ党官房長マルティン・ボルマンの補佐官、党官房法務局 長。1945年にベルリンの戦いが始まるとベルリンから逃亡した。戦後、戦犯として逮捕されたが、証拠不十分で釈放された。その後、ウルムで税務アドバイ ザーとなった。彼はヴァンゼー会議の出席者の中で最も長生きし、1987年に死去。
3

フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリツィンガー(Friedrich Wilhelm Kritzinger)、首相官房局長
Friedrich Wilhelm Kritzinger, 1890-1947
Friedrich Wilhelm Kritzinger, 1890年4月14日 - 1947年4月25日)は、ナチス・ドイツ時代のドイツの官僚、帝国首相府の国務長官である。ハンス・ランマースのもとで帝国首相府副長官を務め、ラン マースの代理としてヴァンゼー会議にも出席した。1938年2月、クリンジンガーは帝国首相府に移され、B部門の責任者として、正式には常務理事となっ た。1942年初頭、クリンジンガーは国務長官に昇進した。クリンジンガーは、「最終的解決」の方針を決定したヴァンゼー会議の参加者の一人であった。会 議の後、彼は総統府の職を辞任しようとしたが、「彼がいなければもっと悪くなる」という理由で辞任は拒否された[1]。歴史家の間では、彼がヴァンゼー議 定書に公然と声高に反対したのではないか、それが彼の辞任の理由だろうと推測されているが、その推測を支持または確認する正確な史料は存在しない [citation needed] ハンス・モムゼンは、クリツィンガーにはヴァンゼー会議をショッキングでも重大なものだとは思わなかった、と主張している[2]。クリッツィンガーは、 1946年、ヴァンゼー会議の生き残りメンバーとともに逮捕された。ニュルンベルク裁判の証人として、ナチス政権の残虐行為を恥じることを公言した。 1946年4月に釈放されたが、同年12月に再び逮捕される。健康上の理由でその後すぐに再び釈放され、しばらくして自然死した。
4

オットー・ホフマン、親衛隊人種及び移住本部本部長、親衛隊中将
Otto Hofmann, 1896-1982
オッ トー・ホフマン(Otto Hofmann、1896年3月16日 - 1982年12月31日)は、ナチス・ドイツ親衛隊(SS)の将軍。親衛隊の12ある本部の1つ親衛隊人種・移住本部(RuSHA)の本部長だった人 物。ヴァンゼー会議の出席者としても知られる。

1931年、ハインリッヒ・ヒムラーとリヒャルト・ヴァルター・ダレによって、SS人種移住本部(RuSHA)が設立された。1939年、ホフマンは雑誌 『バイオロジスト』の共同編集者となった。1940年7月から1943年4月までは、RuSHAの主任を務めていた。1940年7月から1943年4月ま でRuSHAの主任を務め、ポーランドとソビエト連邦の占領地の「ドイツ化」に参加した。これは、ナチス占領下の東部領土にドイツ人を再定住させ、それら の土地から先住民の家族を追い出すというものであった。

最終階級は親衛隊大将(SS-Gruppenführer)および武装親衛隊大将(General der Waffen-SS)および警察大将(General der Polizei)。1937年1月から親衛隊人種・移住本部(RuSHA)に 勤務。親衛隊上級地区「西方」(SS-Oberabschnitt "West")に人種専門家の将校として勤務した。1939年2月にRuSHAに戻り、人種審査部門の部長となる。さらに1939年8月から系図部門の部 長となる。1940年7月、親衛隊少将の時にギュンター・パンケに代わってRuSHAの本部長に就任。1943年4月20日まで在職した。この間の 1942年1月にはラインハルト・ハイドリヒの主宰したヴァンゼー会議に出席している。ホフマンは、人種選択のために占領地の住民に対して公式の人種テス トを実施する責任者であった。また、ポーランドの子供たちをドイツに拉致し、SS-親族監護(SS - kin care)の責任者でもあった。1942年1月20日のヴァンゼー会議では、いわゆる「ユダヤ人問題の最終的解決」のために出席している。1943年4 月、ホフマンは南西ドイツ(ヴュルテンベルク、バーデン、アルザス)のSSおよび警察指導者としてシュトゥットガルトに異動した。彼は地元の軍管区ヴィル スマニアの捕虜の指揮官であった。

戦後、ニュルンベルク継続裁判の1つ「RuSHA裁判(ドイツ語 版)」にかけられ、懲役25年の刑を受けた。しかし1954年には釈放された。1982年にバート・メルゲントハイムで死去した。
5

ゲオルク・ライプブラント、東部占領地省局長
Georg Leibbrandt, 1899-1982
Georg Leibbrandt, 1899年9月6日 - 1982年6月16日)は、ナチス・ドイツの官僚、外交官である。ナチス党の外交政策局 (APA) と帝国占領下東方領土省 (RMfdbO) において、ロシアに関する問題の専門家として外交政策の要職を占めた。両機関は、ナチスの思想家アルフレッド・ローゼンベルクが率いていた。ライプブラン トは「ヴァンゼー会議」の参加者でもあった。戦後、ライプブラントに対する刑事訴訟が開始されたが、最終的に棄却された。
6

アルフレート・マイヤー、東部占領地省次官・北ヴェストファーレン大管区指導者
Gustav Alfred Julius Meyer, 1891-1945
グ スタフ・アルフレート・ユリウス・マイヤー(ドイツ語: Gustav Alfred Julius Meyer、1891年10月5日 - 1945年4月11日)は、ナチス・ドイツの政治家である。1942年のヴァンゼー会議に出席した人物として知られる。独ソ戦が勃発すると、東部占領地域 大臣(Reichsministerium für die besetzten Ostgebiete : RMfdbO)の筆頭書記及び主席次官となった。1942年11月、マイヤーは占領地のノルウェーへ赴任したヨーゼフ・テアボーフェンに代わって第VI軍 管区(Wehrkreis VI)の全国防衛委員長官に就任した。1945年4月11日、マイヤーはヘッシシュ・オルデンドルフ近郊で死体として発見された。死因は不明であるが、恐 らく敗戦を悟った上での自殺といわれている。
7

ヴィルヘルム・シュトゥッカート、内務省次官
Wilhelm Stuckart, 1902-1953
ヴィ ルヘルム・シュトゥッカート(ドイツ語: Wilhelm Stuckart、1902年11月16日 - 1953年11月15日)は、ドイツ国の法律家、政治家。ドイツ内務省次官。ヴァンゼー会議の出席者の一人。ナチス政権誕生後にはプロイセン文化省、ドイ ツ教育省、そしてドイツ内務省に勤務した。1935年には反ユダヤ主義法「ニュルンベルク法」の作成に携わる。1936年には親衛隊大佐、ドイツ法律アカ デミー会員、行政法委員会議長となり、1944年までに親衛隊大将となっている。第二次世界大戦後、ニュルンベルク継続裁判の一つ大臣裁判にかけられた。 懲役3年10カ月の判決を受けたが、すでにそれ以上の期間拘留されていたので判決後に釈放された。1953年10月にハノーファーの近くで「交通事故」に あって死亡した。モサドによる暗殺だったといわれる。
8

マルティン・フランツ・ユリウス・ルター、外務省次官補
Martin Franz Julius Luther, 1895-1945
マルティン・フランツ・ユリウス・ルター(Martin Franz Julius Luther, 1895年12月16日 - 1945年5月13日)は、ドイツの外交官。家具商人から国家社会主義労働者党の初期からのメンバーであると共に、ヨアヒム・フォン・リッベントロップの 個人的なアドバイザーとして勤め、「ユダヤ人問題の最終的解決」を決定したヴァンゼー会議に外務省を代表して参加した。戦争後期にはフランツ・ラーデマッ ハーの支援によりリッベントロップに取って代わろうとするものの、逆に自らが失脚しザクセンハウゼン強制収容所に送られることになった。彼は1945年5 月にソ連軍によって解放されたが、すぐに心臓発作のため死亡した。
9

エーリヒ・ノイマン(Erich Neumann)、四ヵ年計画省次官
Erich Neumann, 1892-1951
エー リヒ・ノイマンは、政治家。ノイマンはアドルフ・ヒトラーが政権を取った4ヶ月後の1933年5月にナチス党に入党した。1934年に親衛隊に入隊し、少 佐(シュトゥルムバンフューラー)に任官した[1][2]。1936年には4カ年計画全権大使室の外貨部長に任命された。1938年には次官に昇進し、ヘ ルマン・ゲーリングのドイツ経済の「アーリア化」についての会議に出席した。1942年のヴァンゼー会議では、経済・労働・財政・食糧・輸送・軍需・弾薬の各省を代表して出席した。ノイマンは、戦争に不可欠な企業で働くユダヤ人労働者を当分の間国外追放しないよう要請した。1942 年8月から1945年5月にかけて、ノイマンはドイツ・カリウム・シンジケートの総支配人であった。戦後1945年に連合国によって抑留・尋問されたが、 1948年に体調不良のため釈放された[1][2]。 一部の資料では同年の死とされているが[2]、ドイツ連邦公文書館は3年後の1951年3月23日にガルミッシュ・パルテンキルヘンで死亡したと記録して いる。 10

ルドルフ・ランゲ、ラトヴィア保安警察及びSD司令官代理、親衛隊少佐
Rudolf Lange, 1910-1945
ルドルフ・ランゲ(Rudolf Lange, 1910年4月18日 - 1945年2月23日)は、ナチス・ドイツ親衛隊 (SS) の隊員。第二次世界大戦中、アインザッツグルッペンの指揮官となり、リガを中心にラトビアで大虐殺をおこなった。ラインハルト作戦を策定したヴァンゼー会 議の出席者の一人としても知られる。博士号を持つ。親衛隊での最終階級は親衛隊大佐 (SS-Standartenführer)。
11

ヨーゼフ・ビューラー、ポーランド総督府次官
Josef Bühler, 1904-1948
バート・ヴァルトゼー(ドイツ語版)に パン屋の12人の子供の一人として生まれる。家はカトリックだった。法学を学び、1932年に博士号を取得。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の法 律アドバイザーのハンス・フランクの事務所で働く。後にニュルンベルク裁判で彼自身が証言したところによると1933年4月1日にナチ党員となったとい う。ミュンヘン裁判所の監督官となる。1935年に弁護士地区責任者となる。ハンス・フランクがポーランド総督府の長官に任じられるとその次官となった。

1942年1月20日にヴァンゼー会議にポーランド総督府の代表として出席。戦後、ニュルンベルク裁判でハンス・フランクの弁護側証人として出廷。しかし フランクは死刑となった。またビューラーもこの後、ポーランドへ引き渡され、ポーランドの裁判所から人道に対する罪で死刑を宣告された。クラクフで処刑さ れた。
12

カール・エバーハルト・シェーンガルト、ポーランド保安警察およびSD司令官、親衛隊上級大佐
Karl Eberhard Schöngarth, 1903-1946
カール・エバーハルト・シェーンガルト (ドイツ語: Karl Eberhard Schöngarth, 1903年4月22日‐1946年5月16日)は、ナチス・ドイツ親衛隊(SS)の将軍。最終階級は親衛隊少将。ザクセンのライプツィヒ出身。1922年 にアビトゥーアに合格したのち、エルフルト(Erfurt)のドイツ銀行に勤務した。また1922年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党(党 員番号43,870)。1923年のミュンヘン一揆に際して逮捕されたが、すぐに釈放された。ナチス党が解散されたため、この際に党を離れた。1924年 から銀行を辞めてライプツィヒ大学に入学し、法学を学んだ。1928年7月28日に法学博士号を取得した。1933年のナチス党の権力掌握後、ナチス党に 再度入党した(党員番号2,848,857)。また親衛隊員となった(隊員番号67,174)。

1933年から1935年にかけてビーレフェルト、ドルトムント、ミュンスターの州警察の指揮官となった。1936年からSD本部に配属された。1939 年にはザクセン州の保安警察監督官(Inspekteur der Sicherheitspolizei 略称IdS)となる。1941年にクラカウの保安警察及びSD司令官(Befehlshaber der Sicherheitspolizei und des SD 略称BdS)に任じられる。1942年1月20日のヴァンゼー会議に保安警察とSDの代表として出席している。1943年7月に武装親衛隊の第4SS警察 装甲擲弾兵師団に配属された。1944年にはオランダ・ハーグの保安警察及びSD司令官となった。ドイツ敗戦後、ハーメルンに置かれたイギリスの裁判にか けられて死刑判決を受けた後、刑死した。
13

ローラント・フライスラー、司法省次官
Roland Freisler, 1893-1945
ローラント・フライスラー(Roland Freisler、1893年10月30日 - 1945年2月3日)は、ドイツの法律家、裁判官。第二次世界大戦中、ナチス政権下のドイツにおける反ナチス活動家を裁く特別法廷「人民法廷(画像リンク)」 の長官を務め、不法な見せしめ裁判で数千人に死刑判決を下した。人民法廷は、国家反逆罪の被告を裁くため1934年に設置されたもので、後に扱う刑法の範 囲が拡大されている。フライスラーの長官就任後、人民法廷の裁判における死刑判決の数が激増し、彼が担当した裁判の9割は死刑あるいは終身禁固刑判決で終 わっている。たいてい、判決は開廷前から決まっていた。彼の長官在任中に人民法廷は約5000件の死刑判決を下したが、うち2600件はフライスラー自身 が裁判長を兼任する第一小法廷が下したものである。この死刑判決の数は、人民法廷が設置された1934年から1945年の期間中、他の裁判長により下され た死刑判決の合計よりも多い。1945年2月3日、ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフに対する裁判中、裁判所がアメリカ軍の空襲に遭い、瓦礫の下 敷きとなったフライスラーは裁判所前の路上において死体で発見された[19][20]。発見された当時、フライスラーの死体はシュラーブレンドルフのファ イルを抱えたままだったという。フライスラーの死亡を確認した医師は、フライスラーによって死刑判決を下された者の兄という皮肉なものだった。
14

アドルフ・アイヒマン、国家保安本部第IV局第IV部ユダヤ人担当課長、親衛隊中佐
Adolf Otto Eichmann, 1906-1962
アドルフ・オットー・アイ ヒマン(ドイツ語: Adolf Otto Eichmann[1]、1906年3月19日 - 1962年6月1日)は、ドイツの親衛隊隊員。最終階級は親衛隊中佐。ゲシュタポのユダヤ人移送局長官で、アウシュヴィッツ強制収容所 (収容所所長はルドルフ・フェルディナント・ヘス (=ルドルフ・へース)) へのユダヤ人大量移送に関わった[2]。「ユダヤ人問題の最終的解決」 (ホロコースト) に関与し、数百万人におよぶ強制収容所への移送に指揮的役割を担った。第二次世界大戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報 特務庁 (モサド) によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪、死刑判決が下さ れ、翌年5月に絞首刑に処された。 15
ヴァンゼー会議



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●1941年7月31日、ゲーリングからハイドリヒに出された「ユダヤ人問題の最終的解決」を委任する文書。


„In Ergänzung der Ihnen bereits mit Erlaß vom 24. Januar 1939 übertragenen Aufgabe, die Judenfrage in Form der Auswanderung oder Evakuierung einer den Zeitverhältnissen entsprechend möglichst günstigen Lösung zuzuführen, beauftrage ich Sie hiermit, alle erforderlichen Vorbereitungen in organisatorischer, sachlicher und materieller Hinsicht zu treffen für eine Gesamtlösung der Judenfrage im deutschen Einflußgebiet in Europa.

 […]

 Ich beauftrage Sie weiter, mir in Bälde einen Gesamtentwurf über die organisatorischen, sachlichen und materiellen Vorausmaßnahmen zur Durchführung der angestrebten Endlösung der Judenfrage vorzulegen.“

「私(ゲーリング)は貴下(ハイドリヒ)にすでに 1939年1月24日付けの命令で国外移住または疎開の形でユダヤ人問題(Judenfrage)を時代の状況に相応してもっとも有利な解決を図る任務を 与えたが、これに補充してヨーロッパのドイツ勢力圏におけるユダヤ人問題の全面的解決のために組織的及び実務的及び物質的観点からみて必要なあらゆる準備 を行うことを委任する。

そのさいに他の中央機関の権限にかかわる場合には、これらの中央機関を参加させるべきである。

さらに貴下に追求されてきたユダヤ人問題の最終解決(Endlösung der Judenfrage)を実行するための組織的・実際的・物質的準備措置に関する全体的計画を早急に私の所へ送るように委任する」[大野英二著『ナチ親衛 隊知識人の肖像』(未來社)60-61ページ]
●1942年2月26日付けのマルティン・ルター宛てのハイドリヒ書簡/ヴァンゼー・プロトコルの一部。国別のユダヤ人の数が表記された部分

Begleitschreiben Heydrichs an Martin Luther (26. Februar 1942) zur Übersendung des Protokolls der Wannseekonferenz.

ヴァンゼー会議の議事録の送付に関するハイドリッヒからマルティン・ルターへのカバーレター(1942年2月26日)。




ヴァンゼー・プロトコル 会議の公式な議事録(独:Protokoll,プロトコル)では、会議の目的は「最終解決」を実行するために関係省庁の業務を調整することであると述べら れている。プロトコルは親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーの筆頭副官で国家保安本部長官であるラインハルト・ハイドリヒの指示を受けたアドル フ・アイヒマンによって作成された。会議の要約には、ドイツからユダヤ人を排除する方法が国外移住の促進から移送と強制収容と強制労働と計画的殺害に変更 されたことが特記されている。様々な方策(移送、強制収容、強制労働、計画的殺害)の組み合わせがプロトコルに詳述されている。これら方策の組み合わせがナチスのヨーロッパユダヤ人絶 滅政策と相互に関連していた。移送はそれだけで終わりというわけではなかった。ドイツや同盟国からユダヤ人を強制的に移送することは単にユダヤ人を排除す るのではなく、彼らを強制労働者として利用することであった。強制労働者は同時に2つの主要目的を満たした。強制労働は特に道路建設のような大規模な社会基盤の整備に当てられたが、同時にそれは奴隷的重労働であっ た。労働は極度の疲労を伴い、結果として多数の労働者が死亡することが期待されていた。過酷な条件を生き抜いた者は殺されることになっていた。(「最後ま で何とか切り抜けた者は、適切な処置を受けなければならない…」)。プロトコルによれば「特別処置」とは「殺害」と同義語であることは明らかである。アイ ヒマンは後にイスラエルでの裁判でこれを認めた。また、イスラエル政府によってアイヒマンが自白を強要された証拠は発見されていない。会議から一年以内に ホロコーストは加速し、ユダヤ人の多くは絶滅収容所に到着すると同時に強制労働者に選別されることなく殺害されることとなった。
会議議事録に関する論議
ヴァンゼー会議の存在を裏付ける会議の議事録「ヴァンゼー文書」はアド ルフ・アイヒマンが作成したとされ、1947年にアメリカ軍が外務省の文書の中から発見したものである。ドイツ国内でそれが原本であるかどうかの議論が存 在する[1]。しかし会議が開催された時期の前後に、議長であるラインハルト・ハイドリヒと、出席者であるオット・ホフマンやマルティン・ルターの間に複 数の書簡が交わされ、いくつかは現存している。それらにはヴァンゼーで開催される会議の予定と、会議の議題が「ユダヤ人問題」であることが明記されてお り、歴史学的には会議関係者の残した記録(手紙やレポート、日記帳などの一次史料)から明白であり、ヴァンゼーでユダヤ人問題を討議する会議が行われたこ とに疑問の余地は無い。
1942年2月26日ルター宛書簡
親愛なる党同志ルター!
1942年1月20日に行われた手続きに関する会議の議事録を同封する。
ユダヤ人問題の最終的解決の実行に関する基本的立場が幸運にもこれまでに確立され、関係省庁全ての方面で完全な同意があることから、企画された解決の開始 段階における組織的・技術的・物質的必要条件を示す草案の完成に関わる詳細についての必要な討論に貴殿の専門官の1人を派遣されることを、ゲーリング帝国 元帥の要請により依頼するものである。
この方針に沿った最初の会議を1942年3月6日午前10:30にベルリンのクーアフュルステン街116番地にて開催する予定である。よって貴殿に対しては、貴殿の専門官が当地における私の部下である親衛隊中佐アイヒマンにこの件で連絡するように依頼するものである。
ハイル・ヒトラー!

敬具(手書き署名)ハイドリヒ

同封物 1部(ヴァンゼー・プロトコル)

— ラインハルト・ハイドリヒのマルティン・ルター宛て書簡
懐疑派の立場
元ドイツ国防軍の将校で著名なホロコースト否認論者のヴィルヘルム・シュテークリヒ(ドイツ語版)はこのヴァンゼーの会議録を、ニュルンベルク裁判の国際検察局のロベルト・ケンプナーが作成した「偽造文書」だと主張している。

ホロコースト否認論者のゲルマー・ルドルフは、ヴァンゼー会議録には、ユダヤ人の絶滅についての内容がはっきり書かれていない。さらにもしもユダヤ人が絶 滅されるとしても、いつ、どのようにしてか、などについて触れられていない。などとして、ユダヤ人絶滅が決定されたという根拠が不十分としている。

ドイツ近代史研究者のエルンスト・ノルテ(ドイツ語版)らが議事録の改竄の可能性や信憑性に疑問を表明している[2]。
記念館
ヴァンゼー会議が開かれたヴァンゼー別荘は1943年にノルトハフ財団 からRSHAに売却された。戦後はアメリカ軍が使用した後、しばらくホステルとして使われていた。1965年から1972年まで歴史家ヨーゼフ・ヴルフが 記念館の設立を計画したが実現せず、1992年になってヴァンゼー会議記念館として開館した。



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