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ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ

HHhH, Himmlers Hirn heißt Heydrich, Reinhard Tristan Eugen Heydrich, 1904-1942

Bundesarchiv_Bild のBundesarchiv_Bild_183-R98683,_Reinhard_Heydrich.jpgによる

池田光穂

以下の情報はウィキペディア「ラインハルト・ハイドリヒ」(Reinhard Tristan Eugen Heydrich, 1904-1942)による。

ラインハルト・ハイドリヒとは、「ドイツの政治家、軍人。最終階級は親衛隊大将 (SS-Obergruppenführer) および警察大将(General der Polizei)。国家保安本部(RSHA, Reichssicherheitshauptamt der SS)の事実上の初代長官(27 Sep, 1939-4 June, 1942)。ドイツの政治警察権力を一手に掌握し、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の実力者となった。ユダヤ人問題の最終的解決計画の実質的な推進者で あった。その冷酷さから親衛隊の部下たちから「金髪の野獣(Die blonde Bestie)」と渾名された。1942年1月20日のヴァンゼー会議の 主宰者。戦時中にはベーメン・メーレン保護領(チェコ)の統治にあたっていたが、大英帝国政府およびチェコスロバキア亡命政府が送 りこんだチェコ人部隊により暗殺された(エンスラポイド作戦)」。

国家保安本部は、ハイドリヒの暗殺後は、 Reichsführer-SSのHeinrich Himmlerが就き(4, June 1942- 30 January, 1943)、その後SS-ObergruppenführerのErnst Kaltenbrunner(30 January, 1943 - 12 May, 1945)がリーダーシップをとる。

ハイドリヒ年譜

1904 3月7日ドイツ帝国の領邦プロイセン王国 ザクセン州(Provinz Sachsen)の都市ハレのマリエン通り(Marienstraße)21番地に生まれる。

父は音楽家リヒャルト・ブルーノ・ハイドリヒ(ドイ ツ語版)。母はザクセン王国のドレスデンの宮廷で宮廷顧問官をしていた音楽研究者ゲオルク・オイゲン・クランツ教授(Georg Eugen Krantz)の娘、エリーザベト・マリア・アンナ・アマリア・クランツ(Elisabeth Maria Anna Amalia Kranz)

1914 カトリック系のハレ王立実科ギムナジウム へ入学

1919 ゲオルク・メルカー(Georg Maercker)少将率いるドイツ義勇軍に参加。「ドイツ民族防衛同盟」(Deutschvölkischer Schutz- und Trutzbund)にも所属し、反ユダヤ主義的思想に影響される。

1922 NSDAP-Delegation im Oktober 1922 auf dem Deutschen Tag, einer Großveranstaltung des Deutschvölkischen Schutz- und Trutzbundes, in Coburg

1922 18歳。3月30日に18歳でドイツ海軍 (Reichsmarine)へ入隊

1923 1923年7月から1924年3月末にか けてブレーメン級小型巡洋艦「ベルリン」(SMS Berlin)に勤務

この時期に後にアプヴェーア(国防軍諜報部)司令官 となるヴィルヘルム・カナリス(当時は海軍大尉)と出合った。後にカナリスとハイドリヒは同じ諜報部の長官として敵対関係になるが、この頃のハイドリヒは ヴァイオリンの奏者としてよくカナリスのキールの自宅の演奏会に招かれており、二人は大変親密な間柄

1924 4月1日に上級海軍士官候補生 (Oberfähnrich zur See)

1926 海軍少尉(Leutnant zur See)に任官。1928年には海軍中尉(Oberleutnant zur See)に昇進

1930 フェーマルン島出身のリナ・フォン・オス テン(Lina von Osten) と婚約。「金髪のジークフリート」と呼ばれるようになる。

1931 

5月 海軍中佐待遇の軍属の娘との交際のもつれから 軍法会議にかけられ、海軍を不名誉除隊。

6月1日 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に 入党

6月14日に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー の面接を受ける機会を得、情報将校(Nachrichtendienstoffizier)との採用が決まる。ヒムラーが、ハイドリヒの通信将校 (Nachrichtenoffizier)の経歴と混同したためと言われている。

7月14日にハンブルクの親衛隊(SS)に配属

10月親衛隊全国指導者ヒムラー(Reichsführer-SS) 下の幹部の辞令

その仕事っぷり→「発足当時のIC課=Ic- Dienst (Intelligence Service(親衛隊保安部, SD, Sicherheitsdienst の前身)は弱小組織であり(親衛隊自体も大した規模ではなかった)「褐色の家」の4階の狭い部屋を事務所として、ハイドリヒの妻リナが長官秘書をつとめ、 部下は3人だけという状態だった[ルパート・バトラー著『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)36ページ]。 当時のハイドリヒに党から支払われていた給料も180ライヒスマルク程度だった[28][注 3]。 しかしハイドリヒは精力的に働いた。ナチ党のライバルであるドイツ共産党、ドイツ社会民主党、中央党、ドイツ国家人民党などを執拗に調査し、また党内でも 突撃隊の過激派など党首アドルフ・ヒトラーの邪魔になりうる者に対しては徹底的な調査を行い、党内外の政敵を索引カードにする作業に没頭した[30] [20]。 ハイドリヒの索引カードには政敵の様々な情報が記載されており、ヒム ラーも彼のことを「生まれながらの諜報家」「生きた索引カードで、すべての糸を集め、それを編み直すことができる頭脳」と評したという [31]。 ハイドリヒの組織は急速に拡大され、ナチス党の各支部に地方機関が設けられるようになっていった[30]。1932年7月19日、親衛隊大尉の時に正式に SDの長官に任じられた」

1932 7月19日、親衛隊大尉の時に正式にSD の長官に任じられた

1933 

1月30日にヒトラーは、パウル・フォン・ヒンデン ブルク大統領より首相に任命され、ナチ党政権が誕生

3月21日にミュンヘン警察政治局長に任命。翌22 日バイエルン州法相ハンス・フランクの肝いりでミュンヘン郊外に最初の強制収容所ダッハウ強制収容所(Konzentrationslager Dachau)を設立させた。23日には最初の政治犯60人が収監。

4月1日にはヒムラーがバイエルン州警察長官に昇進 し、ハイドリヒもバイエルン州政治警察部長。

5月 収容されていたドイツ共産党代議士が4名殺害されたため、ミュンヘン検察局が捜査に乗り出し、ダッハウ所長ヴェケルレSS中佐が殺人罪で告発された。これ を受けてヒムラーは1933年6月末にヴェケルレSS中佐を解任し、新しい所長としてテオドール・アイケSS上級大佐を任じた[長谷川公昭『ナチ強制収容 所:その誕生から解放まで』草思社、1996年][高橋三郎『強制収容所における「生」』世界思想社、2000年]。

●ゲーリング派との確執:「同年春にはプロイセン州 内相ヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring, 1893-1946)と接近してヒムラーから独立的な動きを取るようになっていたベルリンの親衛隊指導者クルト・ダリューゲ(Kurt Max Franz Daluege, 1897-1946)を鎮撫するためにベルリンへ派遣されている。しかしハイドリヒはダリューゲから面会を拒否された。彼はその後も別ルートでダリューゲ と面会しようとしたが、ついにはゲーリング指揮下のゲシュタポ(プロイセン州秘密警察; Geheime Staatspolizei, Gestapo - 1939年9月27日国家保安本部に吸収される)から脅迫を受けてしまった。ベルリンまで同行していたハイドリヒの妻リナによると、この時、ゲーリングは ハイドリヒの逮捕状を用意したという[36][37]。結局、ハイドリヒは、ダリューゲとの面会を諦めてミュンヘンへ戻らざるを得なかった[37]。 1933年半ば頃までのヒムラーとハイドリヒの権力はバイエルン州に限定されたものでしかなかった[38][39]。 しかしヒムラーとハイドリヒはバイエルン州では精力的に活動した。1933年代にバイエルン州ではハイドリヒによって1万6900人以上が「保護拘禁」さ れている[34]。この活躍は内相ヴィルヘルム・フリックの耳に入り、1933年10月から1934年初めにかけてヒムラーはフリックからバイエルン州の 除くドイツ各州の政治警察を次々と任された。そのため1934年1月までにヒムラー とハイドリヒの警察権力はゲーリングの支配するプロイセン州をのぞいてすべてに及ぶようになった[34]。」

9月ヒムラーとハイドリヒは、プロイセン州秘密警察 ゲシュタポの指揮権を手に入れるため、ゲーリング配下のゲシュタポ局長(Leiter des Geheimen Staatspolizeiamtes)ルドルフ・ディールスを陥れようとしていた。1933年9月末にはヒンデンブルク大統領に讒言して一時ディールス をゲシュタポ局長の座から失脚させることに成功した[40][41]

1934 

4月20日、ゲーリングはヒムラーを「ゲシュタポ統 監及び長官代理(Inspekteur und stellvertretender Chef der Geheimen Staatspolizeiamts)」に任じて実質的な指揮権を引き渡す。4月22日ハイドリヒはヒムラーからディールスに代わるゲシュタポ局長に任じ られ、その実質的指揮を委ねられた[44][45][42]。二人はミュンヘンから首都ベルリンのプリンツ・アルブレヒト街8番地のゲシュタポ本部へ移動 することとなった。 ゲシュタポを抑えたことでいよいよヒムラーとハイドリヒの政治警察権力はドイツ全域に及ぶこととなった。

6月17日の法令でドイツ全州の警察指揮権が正式に 中央政府に移され、ヒムラーが全ドイツ警察長官に任じられた[48]。 ヒムラーは、この権限に基づいて6月25日に刑事警察(クリポ)とゲシュタポを統合させて保安警察(ジポ)を新設し、ハイドリヒをその長官に任じた [49]。 ハイドリヒはゲシュタポ局をハインリヒ・ミュラー、刑事警察をアルトゥール・ネーベに委ねた

6月30日のエルンスト・レームら突撃隊幹部を対象 とした粛清(長いナイフの夜) は、ゲーリング、ヒムラー、ハイドリヒの3名が主導してヒトラーに働きかけたもの。ハイドリヒは、粛清対象をリストアップする事実上の最高責任者であった [58]。彼はこれに乗じて突撃隊だけではなく、党内外の反対分子をまとめて粛清することを企み、突撃隊以外の人々の名前も次々とリストに加えさせていっ た[62]。なおハイドリヒは、粛清名簿の中にゲーリングの息のかかった前ゲシュタポ局長ルドルフ・ディールスの名前も加えていたが、それに気づいたゲー リングが猛抗議し、名簿から削除させている。事件後、ハイドリヒは粛清の功績を認められ、親衛隊中将に昇進した[67]。1934年7月20日には、ヒト ラーは親衛隊の功績を賞して突撃隊からの独立を認めている[68]。この事件でハイドリヒは冷酷無比の評判を得、党の古参党員達からも恐れられるように なった。内相ヴィルヘルム・フリックは、「今後、私はヒムラーの入閣を支持することはあり得る。だがどんな場合でも、あの“暗殺者”ハイドリヒだけは入閣 させるわけにはいかない」と述べたという[69]。

1938 

アンシュルス(オーストリア併合)後、オーストリア にあった国際刑事警察委員会(ICPC、インターポール)の本部をベルリンに移動させ、1940年8月からはハイドリヒがICPC総裁に就任している。 ICPCの理念は失われ、ハイドリヒが指揮するナチス・ドイツ秘密警察の一つに過ぎなくなっていった

1939 

1月24日にはユダヤ人問題の責任者であるゲーリン グの命令でドイツ国内に「ユダヤ人移住中央本部」が開設されることとなり、ハイドリヒがその本部長を兼務した。彼はこの実務をアドルフ・アイヒマンに任せ た。ウィーンに組織がつくられ、第二次世界大戦開戦までに20万人のユダヤ人が出国させられている

8月31日、ハイドリヒはポーランドを攻撃する理由 を作るためにグライヴィッツ事件を策動

1939年9月20日、ハイドリヒは、ヒトラー、ヒ ムラー、ダンツィヒ大管区指導者アルベルト・フォルスター(Albert Forster)とともにポーランド支配体制構想を検討した。「ポーランドをドイツ領とポーランド総督府領に分割する。ドイツ領からはポーランド人とユダ ヤ人を追放する。ポーランドの政治指導者層やインテリ層は弾圧するが労働者層は利用する。ユダヤ人はゲットーに隔離する」という、ポーランド統治の基本方 針が決定。

9月21日ポーランドの500人以下のユダヤ人社会 を解体させてゲットーに集中させ、またポーランド以外のドイツ支配地のユダヤ人をポーランド総督府領ヘ集めるよう命じた。さらにドイツ国内のジプシー(ロ マ)3万人もポーランドへ移住させるよう指示

9月27日、ヒムラーの布告により、ハイドリヒの支配下にあるSD(党組織)と保安警察(国家組織)は統合されることとなり、親衛 隊内部に「国家保安本部」が立ち上げられ、ハイドリヒはそのトップに

1941 

7月31日ゲーリングから「ユダヤ人問題の最終的解 決」(ユダヤ人の絶滅政策)の委任(下記、手紙文書参照)を受け、この権限に基づき、ヴァンゼー会議を企画、翌年実現

9月23日、ハイドリヒはヒトラーによりベーメン・ メーレン保護領副総督に。9月27日にプラハに到着すると同時にチェコ全土に戒厳令を敷き、即決裁判所を設置させた[107]。首相アロイス・エリアーシ を見せしめに逮捕して死刑判決を下し(その後、「市民が問題を起こさなかった」というチェコ市民への温情を装う理由で執行が延期にされた)、またゲシュタ ポに反体制派やヤミ市場の捜査を徹底させ、数週間にして主だった反体制勢力を領内から一掃してしまった。ナチスの法的手続きさえも無視して拘束者を即銃殺 するよう命令を出すこともあった[108]。また、公開処刑もしばしば行う。

1941年12月15日に、ヒムラーがプラハ訪問中 だったプラハ聖堂前の広場で大規模で派手な公開処刑を催した。「プラハの虐殺者」の異名をとる。

1942

1月20日に各省次官を招集してヴァンゼー会議 (Wannseekonferenz, Wannsee Conference)を主 宰し、絶滅作戦を策定。

出席者:1. ハインリヒ・ミュラー(国家保安本部第IV局(ゲシュタポ)局長、親衛隊中将)、 2. ゲルハルト・クロップファー(党官房法務局長)、 3. フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリツィンガー((Friedrich Wilhelm Kritzinger)、首相官房局長)、 4. オットー・ホフマン(親衛隊人種及び移住本部本部長、親衛隊中将)、 5. ゲオルク・ライプブラント(東部占領地省局長)、 6. アルフレート・マイヤー((Alfred Meyer)、東部占領地省次官)、 7. ヴィルヘルム・シュトゥッカート(内務省次官)、 8. マルティン・フランツ・ユリウス・ルター(外務省次官補)、 9. エーリヒ・ノイマン((Erich Neumann)、四ヵ年計画省次官)、 10. ルドルフ・ランゲ(ラトヴィア保安警察及びSD司令官代理、親衛隊少佐) 11. ヨーゼフ・ビューラー(ポーランド総督府次官) 12. カール・エバーハルト・シェーンガルト(ポーランド保安警察およびSD司令官、親衛隊上級大佐) 13. ローラント・フライスラー(司法省次官) 14.アドルフ・アイヒマン(国家保安本部第IV局第IV部ユダヤ人担当課長、親衛隊中佐)。

「最終的解決」の計画: 「会議が開かれる以前からアイ ンザッツグルッペンという部隊は占領下の東ヨーロッパやソ連においてヨーロッパユダヤ人を組織的に絶滅させていたが、ナチス政権は広大な占領地域に分散し 居住する多数のヨーロッパユダヤ人を絶滅させるために必要な官僚組織の協調体制を確立できずにいた。官僚組織は異なる省庁に属し、それらはしばしば互いに 競合していたからである。ホロコースト計画を完全には履行できていなかった失敗の原因は、各省庁がヨーロッパ・ユダヤ人の抹殺を必ずしも優先事項として取 り扱わなかったことにある。 ヴァンゼー会議が開催されたのは、ヨーロッパユダヤ人の絶滅を優先事項とすることを再確認し、関係省庁の上層幹部に必要な権限を取り戻し、複雑に絡み合う 官僚組織の多くが最終的解決を共同して実行できるようにするためであった。 会議以前にもすでにヨーロッパユダヤ人の絶滅を目的とすることを示すヒトラーの演説があったが、ヴァンゼー会議がユダヤ人に対するナチス・ドイツの政策を 理解する上で特別な地位を占めている理由としては、 会議の開催に関わる完全な文書記録と会議の議事録が戦争で失われなかったこと 会議の出席者がユダヤ人の追放や組織的殺害を実行するのに必要な主要省庁の上層幹部だったこと 会議以降に大量移送や会議目的に適う絶滅収容所における収容者の死亡が加速したこと 会議の議事録がニュルンベルク裁判の尋問や反対尋問において広く使用されたこと が挙げられる」。

ヴァンゼー・プロトコル:「会議の公式な議事録(独:Protokoll,プロ トコル, THE WANSEE PROTOCOL) では、会議の目的は「最終解決」を実行するために関係省庁の業務を調整することであると述べられている。プロトコルは親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ ヒムラーの筆頭副官で国家保安本部長官であるラインハルト・ハイドリヒの指示を受けたアドルフ・アイヒマンによって作成された。会議の要約には、ドイツか らユダヤ人を排除する方法が国外移住の促進から移送と強制収容と強制労働と計画的殺害に変更されたことが特記されている。 様々な方策(移送、強制収容、強制労働、計画的殺害)の組み合わせがプロトコルに詳述されている。これら方策の組み合わせがナチスのヨーロッパユダヤ人絶 滅政策と相互に関連していた。移送はそれだけで終わりというわけではなかった。ドイツや同盟国からユダヤ人を強制的に移送することは単にユダヤ人を排除す るのではなく、彼らを強制労働者として利用することであった。 強制労働者は同時に2つの主要目的を満たした。強制労働は特に道路建設のような大規模な社会基盤の整備に当てられたが、同時にそれは奴隷的重労働であっ た。労働は極度の疲労を伴い、結果として多数の労働者が死亡することが期待されていた。過酷な条件を生き抜いた者は殺されることになっていた。(「最後ま で何とか切り抜けた者は、適切な処置を受けなければならない…」)。プロトコルによれば「特別処置」とは「殺害」と同義語であることは明らかである。アイ ヒマンは後にイスラエルでの裁判でこれを認めた。また、イスラエル政府によってアイヒマンが自白を強要された証拠は発見されていない。会議から一年以内に ホロコーストは加速し、ユダヤ人の多くは絶滅収容所に到着すると同時に強制労働者に選別されることなく殺害されることとなった。」

◀︎1941年7月31日、ゲーリングか らハイドリヒに出された「ユダヤ人問題の最終的解決」を委任する文書。

「私(ゲーリング)は貴下(ハイドリヒ)にすでに1939年1月24日付けの命令で国外移住または疎開の形でユダヤ人問題を時代の状況に相応してもっとも 有利な解決を図る任務を与えたが、これに補充してヨーロッパのドイツ勢力圏におけるユダヤ人問題の全面的解決のために組織的及び実務的及び物質的観点から みて必要なあらゆる準備を行うことを委任する。そのさいに他の中央機関の権限にかかわる場合には、これらの中央機関を参加させるべきである。さらに貴下に 追求されてきたユダヤ人問題の最終解決を実行するための組織的・実際的・物質的準備措置に関する全体的計画を早急に私の所へ送るように委任する」[大野英 二著『ナ チ親衛隊知識人の肖像』(未來社)60-61ページ]



親愛なる党同志ルター!

1942年1月20日に行われた手続きに関する会議の議事録を同封する。

ユダヤ人問題の最終的解決の実行に関する基本的立場が幸運にもこれまでに確立され、関係省庁全ての方面で完全な同意があることから、企画された解決の開始 段階における組織的・技術的・物質的必要条件を示す草案の完成に関わる詳細についての必要な討論に貴殿の専門官の1人を派遣されることを、ゲーリング帝国 元帥の要請により依頼するものである。

この方針に沿った最初の会議を1942年3月6日午前10:30にベルリンのクーアフュルステン街116番地にて開催する予定である。よって貴殿に対して は、貴殿の専門官が当地における私の部下である親衛隊中佐アイヒマンにこの件で連絡するように依頼するものである。

ハイル・ヒトラー!

敬具(手書き署名)ハイドリヒ

同封物 1部(ヴァンゼー・プロトコル)

— ラインハルト・ハイドリヒのマルティン・ルター宛て書簡(英訳からの重訳

1942 

1942年5月6日にハイドリヒはパリを訪問

5月27日早朝から、トロヤ橋手前のホレショヴィ チェ通りにあるカーブの前で、イギリス軍特殊作戦執行部(SOE)から暗殺に必要な訓練を受けたチェコスロヴァキア亡命政府の暗殺隊により負傷。1週間後 6月4日に死亡。

6月9日にベルリンにおいてヒトラー出席のもと葬儀 が挙行。

6月10日から11日にかけてリディツェ村虐殺。

6月24日レジャーキ村虐殺

9月1日までの間、公式に拘束されたチェコ人だけで も3188人に及び、1357人がプラハとブリュンの即決裁判で死刑判決を受けた。

●大野英二(2001)『ナチ親衛隊知識人の肖像』 東京:未来社.

「第三帝国」においてナチ党、国家行政、国防軍と並 んで「第四の柱」と言われるようなもっとも強力な権力機構へ発展していったライヒ保安本部における親衛隊知識人の肖像を描きながら、ナチズムのもとでのド イツの若い知識人の問題を考察する。

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