はじめによんでください

アドルフ・アイヒマン

Otto Adolf Eichmann, 1906-1962

解説:池田光穂

オットー・アドルフ・アイヒマン(Otto Adolf Eichmann[1]/Adolf Eichmann、1906年3月19日 - 1962年6月1日)は、ドイツの親衛隊隊員。最終階級は親衛隊中佐。

ゲシュタポのユダヤ人移送局長官で、アウシュヴィッツ強制収容所 (収容所所長はルドルフ・フェルディナント・ヘス (=ルドルフ・へース)) へのユダヤ人大量移送に関わった[2]。「ユダヤ人問題の最終的解決」 (ヴァンゼー会議) に関与し、数百万人におよぶ強制収容所への移送に指揮的役割を担った。

第二次世界大戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁 (モサド) によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪、死刑判決が下さ れ、翌年5月に絞首刑に処された。

アドルフ・アイヒマンは1906年3月19日にドイツ帝国西部ラインラ ントの都市ゾーリンゲンで産まれた。父はアドルフ・カール・アイヒマン (Adolf Karl Eichmann) 。母はオーストリア系[3] マリア・アイヒマン (Maria Eichmann) [1]。アドルフは5人兄弟の長男で[4][5]、長男アドルフから順に次男エミール (Emil) 、三男ヘルムート (Helmuth) 、長女イルムガルト (Irmgard) 、四男オットー (Otto) であった[1][6]。このうち三男ヘルムートは後にスターリングラードの戦いで戦死した[6]。

父アドルフ・カールはアドルフが生まれた当時、電機会社に簿記係として勤務していた。上昇志向のある専門職中産階級者の典型であった。信仰はプロテスタン トだった。アドルフは自身の回顧録に父について「私にとって父は絶対的な権威だった」と書いている[1]。1913年にアドルフ・カールはオーストリア= ハンガリー帝国のリンツにあった同じ電機会社の役員に任じられ、アイヒマン一家はリンツへ移住している[7][4][8]。母マリアの旧姓はシェファーリ ング (Schefferling) と言い、専業主婦としてアイヒマン家を守っていた人物だった。アドルフを含む5人の子供を産んだ後、彼女は1916年に32歳で死去した。アドルフは立て 続けに子供を産んだことが母の早い死の原因ではなかったかと後に語っている。母マリアの死後、父アドルフ・カールはすぐにマリア・ツァヴァルツェル (Maria Zawrzel) という人物と再婚している。彼女はウィーンの資産家の娘で熱心なプロテスタントだった。父アドルフ・カールとは教会で知り合った。アドルフはこの継母につ いて「熱心で非常に良心的だった」と語っている[6][8]。

オーストリアにおける子供時代、アドルフはやや暗い顔色をしていたため、他の子供は「ユダヤ人」のように見えると彼をあざ笑った[9] (当時のオーストリアは、ユダヤ人が居住するウィーンを中心に反ユダヤ主義が日常的に蔓延していた) 。アドルフは学校の成績が悪く、リンツのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を卒業することができなかった[5]。なお全くの偶然であるが、アドル フ・ヒトラーもこのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校に通っていたことがあり、同じく卒業できずに退学している。

父アドルフ・カールはこの頃には会社を退職し、ザルツブルクに鉱山工場を起こしてその株式を51%持ち、自らの事業を始めていた。しかしこの会社はすぐに 行き詰まり、その後、小麦会社や機関車製造会社に投資したが、これも財産を失うだけに終わった[10]。アドルフは1921年にカイザー・フランツ・ヨー ゼフ国立実科学校を退学した後、機械工学を学ぶため工業専門学校に通っていたが、ここも卒業することなく中退している[5]。

その後、アドルフは父のザルツブルクの鉱山工場で働いたが、すぐに辞めて、1925年から1927年にかけて電気製品販売業者で働いた。さらに1928年 からはスタンダード石油のウィーン現地子会社にあたるヴァキューム・オイル・カンパニーという株式会社(AG)で販売員として働いている[4][10]。 この会社に5年半ほど務めたが、1933年には人員削減の対象として解雇されている。アドルフは後にこの解雇について「自分は独身の社員だったため、それ が災いして人員整理された」と語っている[4][11]。



ナチス親衛隊
アドルフは石油会社に勤めていた頃の1932年4月1日にオーストリア・ナチ党 (国家社会主義ドイツ労働者党) に入党のうえ、親衛隊に入隊している (オーストリアナチ党員番号889,895、オーストリアSS隊員番号45,326) [12]。アドルフの父アドルフ・カールの事業仲間である弁護士ヒューゴ・カルテンブルンナーの息子で同じく弁護士のエルンスト・カルテンブルンナー博士 の薦めであったという[12][13]。アドルフ自身はイデオロギーにはさほど興味はなかったようだ[5]。

1933年夏、アドルフがベロニカ・リーベル (Veronica Liebl、愛称ベラ) と結婚の準備を進めていた頃、オーストリア・ナチ党がオーストリア政府から禁止されたため、1933年8月1日に大管区本部の命令でアドルフはドイツへ派 遣されることとなった。アイヒマン一家はドイツ市民権を放棄していなかったし、アドルフは失業中だったので、再度ドイツへ移住することに何ら問題はなかっ た。よって婚約者ベラと共にドイツのパッサウへ移住した。ベラとは1935年にパッサウで結婚している[14]。

1933年8月から1934年9月までレヒフェルト(ドイツ語版)とダッハウでバイエルン州地方警察から「オーストリア人部隊」として訓練を受けていた。 なお、アドルフはダッハウの親衛隊の訓練場にはいたが、同じ場所にあったダッハウ強制収容所の運営とは何も関係していない[15][5][16]。

アドルフはこの時の訓練時代を「軍務の単調さが耐えられなかった。毎日毎日が全く同じで、くりかえしくりかえし同じことをさせられる」[15]、「訓練は 国防軍の兵士と全く変わらないものでした。 (中略) 徹底的な匍匐前進でした。肘に貼った絆創膏なんかすぐにはがれてしまって。 (中略) 私はどうやってここから抜け出すか、そればかり考えていました。そんなときにSDの人員募集の噂を聞きつけたんです。私は、これだ、と思いました。」と回 顧している[16]。

SD勤務時代
1934年9月、当時親衛隊伍長であったアイヒマンは、SDに応募し、SD長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将により採用された。SDII/111課 (フリーメイソン担当課) の補助員となった。同僚のディーター・ヴィスリツェニーによるとこの頃からアイヒマンは記録や組織的な整理といった体系的な作業を好んだという[17]。 しかし数か月で人事異動となり、レオポルト・フォン・ミルデンシュタイン(ドイツ語版)親衛隊少尉が課長をしていたII/112課 (ユダヤ人担当課) へ異動した[18][19]。以降一貫してアイヒマンはユダヤ人問題に携わることとなる。同年12月15日には大臣ハンス・フランク博士を筆頭とする 100余名のナチス学者による『ナチスの法制及び立法綱要』 (Nationalsozialistisches Handbuch für Recht und Gesetzgebung) が出版された。

ユダヤ人課の上官フォン・ミルデンシュタインから読むよう命じられたテオドール・ヘルツルの著作『ユダヤ人と国家』にアイヒマンは強い影響を受けたという [18]。アイヒマンはドイツ在住のユダヤ人をパレスチナへ移住させる計画に関心を示すようになった。1933年から1937年にかけて2万4000人の 在独ユダヤ人がパレスチナへ移住していた[20]。アイヒマンは、これをさらに拡大できないかと考え、1937年夏に長官ハイドリヒの許可を得てパレスチ ナ移住計画の可能性を評価するため、上官のヘルベルト・ハーゲン (フォン・ミルデンシュタインの後任のII/112課課長) とともに英国委任統治領パレスチナに赴いた[19]。彼らはハイファに到着したが通過ビザしか得られず、カイロへ進んだ。カイロではハガナーのメンバーに 会った。さらにパレスチナでアラビア人のリーダーに会うことを計画したが、パレスチナへの入国はイギリス当局によって拒絶された。そのため外遊の成果はほ とんどなかった。しかもナチスの政策は後にユダヤ人国家の設立を妨げる方向で定められたので、結局、経済的理由のためのパレスチナへの大規模移住に反対す る報告書を書いている。

ウィーン勤務時代


オーストリア併合後の1938年3月、当時親衛隊少尉だったアイヒマンは「ユダヤ人問題の専門家」としてオーストリアのウィーンへ派遣された[21]。ロ スチャイルド家の財閥ユダヤ人ルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト(de)男爵からナチスが没収した邸宅は親衛隊の建物となり、アイヒマンはここの一 室をあてがわれて「ユダヤ人移民局」を起こし、オーストリアのユダヤ人の移住に取り組んだ[21]。ユダヤ人たちの亡命の代償は全財産であり、その所有物 はすべて没収された[22]。移住者は「提示金」として不可欠な外国為替を法外なレートで購入させられた[22]。アイヒマンは移住政策を巨額のビジネス に仕立て上げたのだった[22]。アイヒマンは1938年10月21日の報告書で着任の日から9月末までに5万人のユダヤ人をオーストリアから追放した、 と報告している。同時期のドイツでは1万9000人であったからアイヒマンの成果は歴然であった[23]。

1938年6月の親衛隊内部の勤務評定はアイヒマンに「秀」の成績をつけており、「彼の格別な能力は交渉、話術、組織編成」「精力的かつ機敏な人物であ り、専門分野の自己管理に優れた能力を備えている」と記している[24]。1939年1月24日には名目上のユダヤ人問題責任者であるヘルマン・ゲーリン グの命令でベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が開設されることとなったが、これはハイドリヒがアイヒマンのウィーンでの働きを高く評価し、アイ ヒマンの方式を全国に拡大しようと設置したものであった[25]。アイヒマンは親衛隊内でユダヤ人移住の権威として知られるようになり、ユダヤ人移住の 「マイスター」などと呼ばれるようになった[26]。

アイヒマンも後に述べているが、ウィーン時代はアイヒマンの人生で最良の時代であった[27]。アイヒマンは、ロスチャイルドから没収した高級リムジンを公用車にして乗り回し、旧ロスチャイルド邸のワイン蔵からワインを持ち出して同志たちと飲みかわして楽しんだ[24]。

プラハ勤務時代
1939年3月、チェコスロバキア併合によりベーメン・メーレン保護領が誕生し、4月に旧チェコスロバキア首都プラハへ派遣されることが決まった [26]。当時親衛隊大尉だったアイヒマンは、ウィーンの移民局の仕事を部下のロルフ・ギュンター (Rolf Günther) やアロイス・ブルンナーに任せて次なる任地プラハへ移動した[26][28]。しかしアイヒマン自身は後に「最初、私はウィーンを離れたくなかった。万事 円滑、かつ秩序正しく動いているのであるから (ウィーン勤務を) 手放したくないのは当然だった。」と語っている[29]。

しかもプラハではアイヒマンはウィーンでの仕事ほど成果を上げられなかった。すでにほとんどの国でユダヤ人の受け入れを拒否するようになっていた上、ベル リンも保護領のユダヤ人追放よりライヒ (ドイツとオーストリア) 内のユダヤ人追放を優先したがっていた[26]。しかしプラハ勤務時代はすぐに終わりを迎えた。

ゲシュタポ・ユダヤ人課課長
ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が開戦した後の1939年9月27日に保安警察(ゲシュタポ)とSDが統合されて国家保安本部が新設され た。アイヒマンはそのIV局 (ゲシュタポ局) B部 (宗派部) 4課 (ユダヤ人課) の課長に任命され、ベルリン勤務となった。各地のユダヤ人移住局を統括する立場となった[30][31]。

1940年6月にフランスがドイツに降伏し、西部ヨーロッパはほぼドイツの支配領域となった。支配領域の拡大に伴い、ドイツの抱えるユダヤ人の数は大幅に 増した。1940年6月の時点でドイツの支配領域にユダヤ人は325万人生活しており、彼らの追放先を探すことがドイツ政府にとって急務となった [32]。アイヒマンは支配領域のユダヤ人をポーランドのゲットーへ集中させていった。一方1940年10月にアイヒマンは、バーデン・プファルツ・ザー ルラントのユダヤ人7500人ほどを南フランスの非占領地域 (ヴィシー政府領) へ移送させている[31]。このうち2000人以上のユダヤ人がフランスの収容所で病死し、残りもほとんどがポーランドへ再移送されてそこで殺害されたと みられる。アイヒマンによるとこのフランスへの移送は親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの咄嗟の思いつきであったという[33]。

併行してフランス降伏から独ソ戦開始までの間、アイヒマンは、フランスの植民地であったマダガスカル島へユダヤ人を移住させる計画(マダガスカル計画)の 立案に熱心になっていた[32]。しかし何百万人も送るために必要な船舶がドイツには無い上に、マダガスカルまでの海路がイギリスとアメリカに抑えられて いることからこの計画をまともに取り合ってくれる上官はいなかった[32]。独ソ戦の準備が始まる中、アインザッツグルッペンが組織されるなどユダヤ人は 「最終解決」される方向で首脳部の意図が定まっていき、マダガスカル島移住計画は消えていった[32]。


1938年3月18日、ウィーンのザイテンシュテッテンのユダヤ人協会。手前の親衛隊員がアイヒマン。
「ユダヤ人問題の最終解決」
本人の証言によるとアイヒマンは、1941年8月から9月頃にラインハルト・ハイドリヒの口から総統アドルフ・ヒトラーの命令によりヨーロッパのユダヤ人 がすべて絶滅させられることになったのを知らされたという[34]。さらにこの時、ハイドリヒからポーランド総督府領ルブリンの親衛隊及び警察指導者オ ディロ・グロボクニクの指揮下で行われているユダヤ人虐殺活動を視察することを命じられ、ルブリンへ赴き、トレブリンカ(後にここにトレブリンカ強制収容 所が置かれる)でガス殺を行う建物を視察した[35]。

ついでアイヒマンの直属の上官であるゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーからの命令でポーランド西部地域のクルムホーフ(ポーランド語でヘウムノ。ここに はヘウムノ強制収容所がつくられた)で行われていたガストラックによるガス殺を視察し、またその後にはミンスクでのアインザッツグルッペンのユダヤ人銃殺 活動の視察をした[35]。さらに再度ルブリンのトレブリンカへ派遣されてガス殺を視察することとなった。

アイヒマンは後にイスラエル警察からの尋問に対して、これらの視察について「強いショックを受けたこと」や「正視できなかったこと」を強調している [36][37]。アドルフ本人の証言によるとレンベルクの親衛隊司令官や直属の上官ハインリヒ・ミュラーに「あれでは若い兵士たちをサディストにするだ けだ」と抗議を行ったという[38]。

1941年11月に親衛隊中佐に昇進[39]。しかし以降の昇進はなく、アイヒマンの階級はここで止まっている[32]。1942年1月20日にハイドリ ヒの命令で関係各省庁の次官級担当者がベルリン高級住宅地ヴァンゼーに集まった、いわゆるヴァンゼー会議に議事録作成担当として出席し、ユダヤ人を絶滅収 容所へ移送して絶滅させる「ユダヤ人問題の最終解決」(=虐殺)政策の決定に関与した[40][41]。アドルフ本人もこの会議で絶滅政策が決定されたこ とを認めているが、アイヒマン自身は会議の席上で一言も発言しておらず、出席者の誰からも気にとめられることもなく、ただタイピストとともにテーブルの 隅っこに座っていただけだと証言している[42]。

この会議後、アイヒマンは、ゲシュタポ・ユダヤ人課課長としてヨーロッパ各地からユダヤ人をポーランドの絶滅収容所へ列車輸送する最高責任者となる。 1942年3月6日と10月27日に行われたヴァンゼー会議に続く二度の最終解決についての省庁会議はアイヒマンが議長を務めている[43]。

1942年3月から絶滅収容所への移送が始まったが、その移送プロジェクトの中枢こそがアドルフ・アイヒマンであった。総力戦体制が強まり、1台でも多く の車両を戦線に動員したい状況の中でも交通省と折衝して輸送列車を確保し、ユダヤ人の移送に努めた[44]。続く2年間にアドルフは「500万人ものユダ ヤ人を列車で運んだ」と自慢するように、任務を着実に遂行した[45]。

アイヒマンの実績は注目され、1944年3月には計画の捗らないハンガリーに派遣される。彼は直ちにユダヤ人の移送に着手し、40万人ものユダヤ系ハンガ リー人を列車輸送してアウシュヴィッツのガス室に送った[46]。1945年にドイツの敗色が濃くなると、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーはユダ ヤ人虐殺の停止を命令したが、アイヒマンはそれに従わずハンガリーで任務を続けた[47]。彼は更に武装親衛隊の予備役として委任させられていたため、戦 闘命令を回避するために自らの任務を継続していた。

アイヒマンはソ連軍が迫るハンガリーから脱出し知己であったカルテンブルンナーの居るオーストリアへ戻ったが、彼はアイヒマンの任務がユダヤ人の根絶であ ることを知っていたため、連合国軍から責任を問われることを恐れアイヒマンとの面会を拒絶した[48]。なお、アイヒマンは自身がユダヤ人虐殺の責任者で あることを充分に認識していたことから、敗戦が現実味を帯びてくるにつれて写真に写ることを極度に嫌った[49]。ある日写真を撮られたことに激怒し、カ メラを破壊したことがあった[49]。

逃亡

「リカルド・クレメント」の偽名で交付されたアイヒマンの赤十字渡航証
第二次世界大戦終結後、アイヒマンは進駐してきたアメリカ軍によって拘束されたが、偽名を用いて正体を隠すことに成功すると、捕虜収容所から脱出した[50]。なおアイヒマンは死んだと思われていた。

1947年初頭から西ドイツ国内で逃亡生活を送り、1950年初頭には難民を装いイタリアに到着[51]。反共主義の立場から元ドイツ軍人や元ナチス党員の戦犯容疑者の逃亡に力を貸していたローマの修道士の助力を得た[52]。

「オデッサ」などの組織の助力も受け、リカルド・クレメント(Ricardo Klement)名義で国際赤十字委員会から渡航証(難民に対して人道上発行されるパスポートに代わる文書)の発給を受け、1950年7月15日に、当時 親ドイツのファン・ペロン政権の下、元ナチス党員を中心としたドイツ人の主な逃亡先となっていたアルゼンチンのブエノスアイレスに船で上陸した[52]。 この偽造渡航証は、2007年5月にアルゼンチンの裁判所の資料庫から発見された。

その後ブエノスアイレス近郊に住まいを構え、約10年にわたって工員やウサギ飼育農家など様々な職に就き、またドイツから家族を呼び寄せ新生活を送った[53]。

捜査
1957年、逃亡したナチ戦犯の追及を続けていた西ドイツの検事フリッツ・バウアー(英語版)は独自に調べた結果、アイヒマンがリカルド・クレメントの偽 名でアルゼンチンに潜伏しているという情報を入手。国内では捜査が許可されなかったため、彼はイスラエル諜報特務庁(モサド) に情報提供を行った。

早速ブエノスアイレスに工作員が派遣されたものの、アイヒマンも身分を隠しながら慎重に行動しており、消息をつかむことは容易ではなかった。しかし、彼の 息子がユダヤ人女性と交際しており、彼女にたびたび父親の素性について話していたことから、モサド工作員は、息子の行動確認をしてアイヒマンの足取りをつ かもうとした。2年にわたる入念な作業のすえ、モサドはついに彼を見つけ出した。バウアーの側も「アイヒマンはクウェートにいる」と偽の情報を発表し、ア イヒマンに悟られないよう欺瞞作戦を行った。

モサドのイサル・ハルエル長官は、ラフィ・エイタン率いる作業班を結成させ、彼らと共に自らもブエノスアイレスへ飛んだ。作業班はアイヒマンに「E」と コードネームを付け、行動を監視した。最終的に作業班が彼をアイヒマンであると断定したのは、自身の結婚記念日に、彼が花屋で妻へ贈る花束を買ったことで あった。

「リカルド・クレメント」の偽名で交付されたアイヒマンの赤十字渡航証
拘束

イスラエルの留置所に収監されたアイヒマン
1960年5月11日、アイヒマンがバスから降りて自宅へ帰る道中、路肩に止めた窓のないバンから数人の工作員が飛び出し、彼を車の中に引きずりこんだ。 車中で男たちは親衛隊の制帽を出して彼にかぶせ、写真と見比べて「お前はアイヒマンだな」と尋ねた。彼は当初否定したが、少し経つとあっさり認めたとい う。

その後アイヒマンは、ブエノスアイレス市内にあったモサドのセーフハウスに置かれた。アルゼンチン当局および元ナチスの仲間たちにはそのことは気づかれずに済んだ。モサドのメンバーはアイヒマンが自殺することに注意をしたと言う。



https://bit.ly/3BEA0lB
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アイヒマンの生涯
(1)本作の主題となる人物アドルフ・アイヒマンは、1906年3月19日、ドイツ連邦共和国のノルトライン=ヴェストファーレン州ゾーリンゲンに生まれ た。1913年に一家でオーストリアに移住。学生時代は成績不良で、複数の学校で退学・中退を繰り返す。父の採鉱会社で数ヶ月間働いた後、家電製品の販売 員を経て石油会社の販売人になるが、1933年に人員削減の対象となり解雇された。1932年にナチス党員になり、後に親衛隊(SS)の中佐に昇進する。 そして1942年以降、アドルフ・ヒトラーのユダヤ人撲滅作戦の責任者の一人となる。彼は親衛隊大将ライハンル ト・ハイドリヒ(1904年~1942年)から、ドイツ占領下の東欧にあるゲットーや絶滅収容所へ向け、ユダヤ人を大量移送する計画の実行・促進 を命じられたのであった。第二次世界大戦終焉後、米軍に逮捕されるが、1946年に脱走。逃亡の末、1958年にアルゼンチンに落ち着いた。

(2)それから約二年後の1960年5 月11日に、アイヒマンは潜伏先であるブエノスアイレスのサンフェルナンドにある自宅近くで、ラフィ・エイタン率いるモサド(イスラエル諜報機関)のチー ムに身柄を拘束された。続く約九日間、アイヒマンはモサドの隠れ家に監禁されたうえ、同月20日に極秘裏に旅客機に乗せられてブエノスアイレスを発ち、 22日にイスラエルに到着した。アイヒマンの“密輸”を主権侵害とみなしたアルゼンチン側は、イスラエルに抗議。数回にわたる交渉の末、両国は8月3日に 論争を集結させる旨の共同声明を発表する。その後イスラエル法廷は、アイヒマン捕縛をめぐる状況は、裁判の合法性とは何ら関係を持たないものとした。

(3)アイヒマンはイスラエル北部のハ イファ近郊ヤグル・キブツ内にある厳重警備の警察署に移送され、同署で九ヶ月間過ごす。イスラエル側は、証拠資料および証人の宣誓証言のみに基づいてアイ ヒマンを裁判にかけることを良しとせず、彼を連日尋問した(尋問記録は3500ページを超えた)。このとき尋問を担当したのは、ベルリン生まれのイスラエ ル警察職員アヴナー・レス(1916年~1987年)。主にヤド・ヴァシェム(1953年に設立された、ユダヤ人虐殺およびその犠牲者を記念するイスラエ ルの公的機関)と、アイヒマン捕縛に一役買ったナチ・ハンターのトゥヴィア・フリードマン(1922年~ 2011年)提供による資料を参照したおかげで、レスはアイヒマンが尋問中に嘘をついたり話をはぐらかそうとした場合、それを見抜くことができた。その 後、アイヒマンに自らの所業を認めざるを得なくさせる追加情報がもたらされた際、この元親衛隊中佐は、自分はナチ内部で何ら権限を持たない存在であり、単 に命令に従っただけだと主張した。このときレスは、アイヒマンが自らの罪の重さを認識しておらず、何ら良心の呵責を覚えていないことに気づく。なお、尋問 の記録は、書籍『アイヒマン調書─イスラエル警察尋問録音記録』(ヨッヘン・フォ ンラング編、小俣和一郎訳、岩波書店、2009年)にまとめられている
Eichmann interrogated : transcripts from the archives of the Israeli police.
(4)1961年4月11日、イェルサ レム地方裁判所でアイヒマン裁判が開始された。アイヒマンに対する告発の法的根拠は、1950年のナチおよびナチ協力者法であった。同法によりアイヒマン は人道性に対する犯罪、戦争犯罪、ユダヤ人に対する犯罪、犯罪組織の構成員であったことなど、15におよぶ刑事上の容疑で起訴された。裁判は三人の裁判官 ──モシェ・ランダウ裁判長(1912年~2011年)、ベンヤミン・ハレヴィ判事(1910年~1996年)、イツァク・ラヴェー判事(1906年 ~1989年)──によって執りおこなわれた。主任検察官はイスラエル人ギデオン・ハウスナー(1915年~1990年)。ハウスナーの補佐を務めたの は、司法省のガブリエル・バック(1927年~)と、テル・アヴィヴ地方検事ヤーコヴ・バロール。弁護団は、ドイツ人弁護士ロベルト・セヴァティウス (1894年~1983年)、弁護士助手ディーター・ヴェヒテンブルッフとアイヒマン自身。

(5)イスラエル政府は、さまざまなメ ディアがアイヒマン裁判を取材・報道するようお膳立てした。世界中の有力紙が記者をイェルサレムに送り込み、この裁判をめぐる記事を第一面に配した。裁判 はイェルサレムの中心部にある劇場(現:ジェラルド・ベハール・センター)でおこなわれた。アイヒマンは、防弾ガラスで周囲を囲まれたブース内に座る。暗 殺の試みから彼を守るためである。建物は記者たちが裁判の様子を閉回路テレビ(限られた数の受信者にサーヴィスすることを目的としたテレビ伝送システム) で眺めることができるよう変更を加えられており、劇場自体750の座席を有していた。これはイスラエル人たちにとって初めてテレビの生放送を目にする機会 となり、撮影されたヴィデオ素材は毎日アメリカ合衆国へ空輸され、翌日テレビ放映された。

(6)訴追は56日間にわたっておこな われ、数百におよぶ証拠書類が参照され、112名の証人(その大半がホロコーストの生還者)が召喚された。ハウスナーはアイヒマンの罪状を立証するだけで なく、ホロコーストの全貌を描き出すデータをも提示することで、包括的な記録を作り上げることを意図していた。セルヴァティウス弁護士は、アイヒマンに直 接関係ないデータの提示を繰り返し抑制しようとし、概ね成功した。裁判では戦時の記録文書に加え、アイヒマン尋問時の録音テープや筆記録、オランダ人元対 独協力者(武装親衛隊員)でジャーナリストのヴィレム・サッセン(1918年~2002年)が、1956年暮れから1957年にかけて評伝執筆のためヴェ ネズエラでアイヒマンに取材した際の記録も証拠として提出された(ただし後者の場合、取材時におけるアイヒマンの自筆メモのみが証拠として認められた)。

(7)検察側が提出した証拠のなかに は、主要な元ナチ党員たちによる証言録取書も含まれていた。弁護側は、反対尋問を可能とするために、証言した元ナチ党員たちをイスラエルに召喚するよう要 求。しかし主任検察官ハウスナーは、イスラエルに入国した戦争犯罪人は誰であれ逮捕しなくてはならないと言明した。検察当局はアイヒマンがヘウムノ、アウ シュヴィッツ、ミンスクなど、ナチによるユダヤ人らの“絶滅”がおこなわれた数々の場所を訪れていたこと(とりわけミンスクで、アイヒマンはユダヤ人が銃 撃により大量殺戮された現場を目撃している)、ゆえにユダヤ人たちが殺害されていた事実に気づいていたことを証明した。検察側が弁論を終えると、弁護側は アイヒマンに長々しく直接尋問しつつ、冒頭陳述をおこなった。モシェ・パールマン(1911年~1986年)やハンナ・アーレント(1906年~1975 年)といった裁判を傍聴した知識人たちは、アイヒマンのありふれた外見や感情を表にあらわさない態度に注目する。このときアイヒマンは、「自分には命令に 従う以外に選択肢がなかった」のだと主張した。

(8)このような主張は、1945年か ら1946年にかけておこなわれたニュルンベルク裁判の被告人たちもおこなったものである。つまりアイヒマンは、決定は自分が下したものではなく、ハイン リッヒ・ミューラー、ラインハルト・ハイドリヒ、ハインリッヒ・ヒムラー、そして最終的にはアドルフ・ヒトラーが下したのだと主張したのであった。セル ヴァティウス弁護士は、ナチ政府の決定は国家無答責であって、通常の訴訟手続きには属さないものであると申し出た。ヴァ ンゼー会議(ヒトラー政権の高官15名が1942年1月20日にベルリンのヴァンゼー湖畔に集まって、ユダヤ人の抹殺を討議した会議)に関しては、アイヒ マンはその結果に満足と安堵を覚えたと語った。というのも、彼の上役たちが絶滅政策をはっきりと決定したことで、(決定に関わらなかった)自分はいかなる 罪からも放免されたと感じたからであった。尋問最終日、アイヒマンは移送手配に関して自らの罪を認めたが、同時にその結果に関しては罪の意識を覚えていな いと述べた
「ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ ハイドリヒとユダヤ人絶滅政策」
(9)ハウスナー検察官は反対尋問中、 アイヒマン個人の罪を本人に認めさせようとし続けたが、その種の告白を引き出すことはできなかった。アイヒマンは、自分がユダヤ人のことを良く思わず、敵 だとみなしていることを認めたが、彼らに対する絶滅政策は正当化できないと考えていた。1945年にアイヒマンが漏らした「私は笑いながら墓に飛び込む。 というのも、[自分が死に追いやった]500万におよぶ人間のことを思うと、素晴らしく満足した気持ちになるからだ」との言葉をハウスナーが証拠として提 出すると、被告人は「その発言は(ユダヤ人のことでなく)ソビエトのような“ドイツの敵”のことを指したもの」だと応じた。その後の尋問で、アイヒマンは 上記の発言がユダヤ人に言及したものであることを認めたが、同発言は当時の自分の見解を正確に反映したものであると述べた。

(10)評決は1961年12月12日 に読み上げられた。裁 判官たちはアイヒマンに対し、個人としての殺人罪、「アインザッツグルッペン」(ドイツ語で「出動集団」「機動部隊」の意。「ユダヤ人問題の最終解決」の 実行において主導的役割を果たした)の活動を監督した罪には問われないと宣した。他方彼は、移送列車内の劣悪きわまりない環境や、移送のため大勢のユダヤ 人たちを捕縛・連行させた責任を問われた。アイヒマンは人道に対する罪、戦争に対する罪、ポーランド人やスロヴェニア人やジプシーに対する罪で有罪判決を 受けた。また、三つの違法組織──ゲシュタポ、秘密情報機関(SD)、親衛隊(SS)──の一員であったことでも、有罪判決を受ける。裁判官たちはアイヒ マンが命令に従っただけでなく、ナチの大義を誠心誠意信奉し、大量虐殺を遂行するにあたって欠かせない役割を担った人物であると結論づけた。 そして1961年12月15日、アイヒマンは死刑を宣告される。
アインザッツグルッペンEinsatzgruppen
(11)セルヴァティウス弁護士は、イ スラエルの司法権とアイヒマン告発の合法性をめぐる法的議論に焦点を当てつつ評決に異議申し立てをした。1962年3月22日から29日にかけて、審理が おこなわれる。アイヒマンの妻ヴェラがイスラエルを訪れ、4月末に夫に面会(二人が顔を合わせたのは、これが最後の機会となった)。5月29日、イスラエ ル最高裁判所は弁護側の異議申し立てを棄却し、地方裁判所の判決を全面的に支持した。一方、アイヒマンはイスラエル大統領イツァク・ベン=ズヴィ (1884年~1963年)に、ただちに恩赦を申請した。哲学者のフーゴ・ベルクマン(1883年~1975年)やマルティン・ブーバー(1878年 ~1965年)、作家パール・バック(1892年~1973年)、教育家・宗教哲学者エルンスト・ジーモン(1899年~1988年)といった著名人が、 アイヒマンへの恩赦を請願する。イスラエル初代首相ダヴィッド・ベン=グリオン(1886年~1973年)が問題解決を図って特別に閣議を開き、5月31 日午後8時にアイヒマンは恩赦の申請が却下されたことを知らされる。死刑執行は同日深夜に予定される。

(12)そしてアイヒマンは、予定通り 1962年5月31日真夜中少し前に、イスラエル中央地区のラムラにある刑務所内で絞首刑に処せられた。処刑前、アイヒマンは最後の食事を拒否し、ワイン を少量だけ飲んだ。また彼は、処刑時の慣習である黒頭巾を被ることも拒否した。最後にアイヒマンは、以下の言葉を残した。「ドイツ万歳、アルゼンチン万 歳、オーストリア万歳。私が最も強く結びつき、そして忘れない三つの国だ。妻、家族、友人たちに挨拶を送る。準備はできた。人の宿命として、私たちは間も なく再会するだろう。神を信じつつ、私は死ぬ」。処刑終了後間もなく、アイヒマンの遺体は内密に火葬された。6月1日午前4時、その遺灰はイスラエル海軍 の警備艇に乗せられ、地中海の国際水域に撒かれた。

出典:http://mermaidfilms.co.jp/specialist-movie/


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