悪の陳腐さ
Banality of evil
解説:池田光穂
★ 陳腐な悪とは、ハンナ・ アーレントが『エルサレムのアイヒマン』の中で指摘した:「悪の陳腐さ」に由来する。それは、アイヒマン裁判において、明らかになったことは、アドルフ・ アイヒマンは狂信者でも社会病質者でもなく、自分の頭で考えるよりも決まりきった自分自身の保身に頼り、イデオロギーよりも職業上の昇進に突き動かされた 極めて平凡な人間だったということだった。それは、アイヒマンの行動が凡庸であったということでも、私たち全員の中に潜在的なアイヒマンがいるということ でもなく、むしろ彼の行動が「まったく例外のないある種の愚かさ」に突き動かされていたということである。この「まったく例外のないある種の愚かさ」に突き動かされたなかで行う行為を、彼女は「悪の陳腐さ(Banality of evil)」と呼んだ。
このアーレントの「まったく例外のないある種の愚かさ」という言及は、アイヒマン裁判に関わっていた法廷関係者や証言者である生存者あるいは傍聴人たちにとっては、アイヒマンを「正しく裁く」過程を毀損する不遜な表現として受け取られた。他方、アーレントは『エ ルサレムのアイヒマン』——元は雑誌「ニューヨーカー」の特派員報告——の中で、アイヒマンの犯罪行為は明々白々で、死刑にも値することを明言している。 そのために彼女は、このレトリック(=ある種のナンセンスな表象行為)の主張を取り消さないために、どちらかというと支離滅裂な事後的弁明を重ねている。 また、背理にも似たこのレトリックは、絶滅収容所システムの真面目な官吏——彼はユダヤ人の移送計画の責任者で大量殺戮についての参与責任は明白である ——にすぎなかったアイヒマンだけに、強制収容所による大量殺戮犯罪——殺戮対象になった人には最大多数のユダヤ人のほかに共産主義者、反体制政治犯、ロ マ・シンティなどの少数民族、遺伝的ユニークな家族、ソ連兵士、ポーランド人などがいた——の罪を着せて、矮小な答弁を繰り返すアイヒマンを、大悪人に仕 立てたい、法廷とユダヤ人ジャーナリズムに対しては、大きな反感を産んだ。
ちなみに、アイヒマンの拉致・監禁・裁判は、一種の超法規的な手続きに行われたため、国際法的には「普遍的人道に対する裁判」だったとしか、事後的に承認できないため「まったく例外のないある種の正義」 という「正義の陳腐さ」の観点からしか正当化できないという皮肉もあろう。さらに興味ふかいことに彼女は『全体主義の起源』のなかで、全体主義とは「なん でもあり」の状態をつくりだす政治システムであり、特定の首尾一貫したイデオロギーに裏付けられているものでないと主張している。つまり、アーレントの全 体主義とは「例外だらけの体制」だから、彼女を含めて全体主義体制の狂気をくぐり抜けた人には「例外のないある種の愚かさ」とは、「例外のないある種の正 義」とは紙一重であり、裁判そのものを茶番であると冷ややかにみていた、元親衛隊の「隠れた心情」とあい通じるものになるのではないが、そのことを論証す るためには、当時のアイヒマン裁判を元親衛隊員の連中がどのようにみていたのか、に関するさらなる情報が必要になる」。
参照・出典:- Eichmann in
Jerusalem: A Report on the Banality of Evil. ならびに「もう「悪の陳腐さ」を忘れてもよい頃だ」
オットー・アドルフ・アイヒマン(Otto
Adolf Eichmann[1]/Adolf Eichmann、1906年3月19日 -
1962年6月1日)は、ドイツの親衛隊隊員。最終階級は親衛隊中佐。ゲシュタポのユダヤ人移送局長官で、アウシュヴィッツ強制収容所
(収容所所長はルドルフ・フェルディナント・ヘス (=ルドルフ・へース))
へのユダヤ人大量移送に関わった。「ユダヤ人問題の最終的解決」 (ヴァンゼー会
議)
に関与し、数百万人におよぶ強制収容所への移送に指揮的役割を担った。第二次世界大戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報
特務庁 (モサド)
によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪、死刑判決が下さ
れ、1962年5月に絞首刑に処された。
ハンナ・アーレントがエルサレムの「アイヒマン裁判(1960-1961)」を傍聴した時 に、雑誌『ニューヨーカー』から海外特派のジャーナリ ストして記事を送り続けた。それが一冊の書籍『エルサレムのアイヒマン(Eichmann in Jerusalem)』として出版された時に、その本の副題として「悪の陳腐さについてのある報告(A Report on the Banality of Evil )」とされたことに、悪の陳腐さの議論がはじまる。
ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイ ヒマン』が今日にいたるまでの、不評の理由は、私が考えるに次の3つにあると思う。
1)アーレントのアイヒマンに関する情報 集めが、(全体主義の専門家ではあったが)ナチスの戦争犯罪の専門家でなかった上に、『ニューヨー カー』から海外特派という急なスケジュールで、ジャーナリストとしては(膨大な裁判資料の読破はしたものの)中途半端で思い込みのガチンコ取材になったこ と、とりわけ、このことは(3)に関連する「悪の陳腐さ」という、道徳哲学における重要な鍵概念を提唱する契機になった。
2)アーレントは、イスラエル・モサドに よる拉致と移送、イスラエル国内における戦犯裁判を、いかなる国際法上の手続きにおいても踏襲しなかっ た「異例」なものであることを、的確に指摘したこと、
3) 「正常な人間がユダヤ人殺し」をしたという表現に、反ナチス感情をもつ、常識的なユダヤ人が怒り狂ったこと(とりわけ、ベンヤミンを介した友人であったゲ ルショム・ショーレムに絶交までされている)。だが、この表現は、「悪の陳腐さ」という、道徳哲学における重要な鍵概念を提唱する契機になった。そして、 このことは、このページの末尾に掲げている、二人称のアイヒマンに、死罪になることを呼びかける、類稀なるユダヤ人から大量虐殺に責任のあるナチス元将校 への名言の理由にもなっている。
■ On Banality of evil
"Arendt's book introduced the expression and concept the
banality
of evil.[6] Her thesis is that
Eichmann was not a fanatic or sociopath,
but an extremely average person who relied on cliché defenses rather
than thinking for himself and was motivated by professional promotion
rather than ideology. Banality,
in this sense, is not that Eichmann's
actions were ordinary, or that there
is a potential Eichmann in all of
us, but that his actions were motivated by a sort of stupidity
which
was wholly unexceptional.[7]
In his 2010 history of the Second World
War, Moral Combat, British historian Michael Burleigh calls the
expression a "cliché" and gives many documented examples of gratuitous
acts of cruelty by those involved in the Holocaust, including
Eichmann.[8] Arendt certainly did not
disagree about the fact of
gratuitous cruelty, but, she claims, "banality of evil" is unrelated to
this question. Similarly, the first attempted rebuttal of
Arendt's
thesis relied on a misreading of this phrase, claiming Arendt meant
that there was nothing exceptional about the Holocaust.[9][10]" - Eichmann in
Jerusalem: A Report on the Banality of Evil.
ハンナ・アーレントの著書は、「悪の凡庸性(陳腐さ)」という表現と概念を紹介した。彼女のテーゼは、アイヒマンは狂信者でも社会病質者でもな
く、自分の頭で考えるよりも決まりきった防衛策に頼り、イデオロギーよりも職業上の昇進に突き動かされた極めて平凡な人間だったというものだ。この意味で
の凡庸さとは、アイヒマンの行動が凡庸であったということでも、私たち全員の中に潜在的なアイヒマンがいるということでもなく、彼の行動がまったく例外の
ないある種の愚かさに突き動かされていたということである。イギリスの歴史家マイケル・バーレイは、2010年の第二次世界大戦史『Moral
Combat』の中で、この表現を「決まり文句」と呼び、アイヒマンを含むホロコースト関係者による無償の残虐行為について、多くの文書化された例を挙げ
ている。アーレントは確かに、無償の残虐行為の事実に異論はなかったが、「悪の凡庸性」はこの問題とは無関係であると主張している。同様に、アーレントの
テーゼに対する最初の反駁の試みは、このフレーズの誤読に依拠しており、アーレントは、ホロコーストには例外的なものは何もなかったという意味であると主
張している。
『エルサレムのアイヒマン』目次
■田村光彰『ナチス・ドイツの強制労働と 戦後処理』社会評論社、p.42、2006年
絶滅収容所の場所
「結局、ユダヤ人の絶滅は法律や命令の産
物というよりも、精神とか、共通理解とか、一致や同調の問題であった。この企てに加担したのはだれなの
か。この事業のためにどんな機構が作動したのか。絶滅機構はさまざまなものの集合体であった。全作業を担った官庁はなかった。……ヨーロッパ・ユダヤ人を
絶滅するために、特定の機関が創出されることはなかったし、特定の予算も割かれなかった。それぞれの組織は絶滅過程においてそれぞれの役割を果たし、それ
ぞれの課題を実行する方法を発見せねばならなかった」。ラウル・ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅(上)』44-50ページ(未確認調査中)、柏書
房1997年
●捕縛後のアイヒマン:映画『スペシャリスト』の解説より
アイヒマンの生涯 (1)本作の主題となる人物アドルフ・アイヒマンは、1906年3月19日、ドイツ連邦共和国のノルトライン=ヴェストファーレン州ゾーリンゲンに生まれ た。1913年に一家でオーストリアに移住。学生時代は成績不良で、複数の学校で退学・中退を繰り返す。父の採鉱会社で数ヶ月間働いた後、家電製品の販売 員を経て石油会社の販売人になるが、1933年に人員削減の対象となり解雇された。1932年にナチス党員になり、後に親衛隊(SS)の中佐に昇進する。 そして1942年以降、アドルフ・ヒトラーのユダヤ人撲滅作戦の責任者の一人となる。彼は親衛隊大将ライハンル ト・ハイドリヒ(1904年~1942年)から、ドイツ占領下の東欧にあるゲットーや絶滅収容所へ向け、ユダヤ人を大量移送する計画の実行・促進 を命じられたのであった。第二次世界大戦終焉後、米軍に逮捕されるが、1946年に脱走。逃亡の末、1958年にアルゼンチンに落ち着いた。 |
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(2)それから約二年後の1960年5
月11日に、アイヒマンは潜伏先であるブエノスアイレスのサンフェルナンドにある自宅近くで、ラフィ・エイタン率いるモサド(イスラエル諜報機関)のチー
ムに身柄を拘束された。続く約九日間、アイヒマンはモサドの隠れ家に監禁されたうえ、同月20日に極秘裏に旅客機に乗せられてブエノスアイレスを発ち、
22日にイスラエルに到着した。アイヒマンの“密輸”を主権侵害とみなしたアルゼンチン側は、イスラエルに抗議。数回にわたる交渉の末、両国は8月3日に
論争を集結させる旨の共同声明を発表する。その後イスラエル法廷は、アイヒマン捕縛をめぐる状況は、裁判の合法性とは何ら関係を持たないものとした。 |
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(3)アイヒマンはイスラエル北部のハ
イファ近郊ヤグル・キブツ内にある厳重警備の警察署に移送され、同署で九ヶ月間過ごす。イスラエル側は、証拠資料および証人の宣誓証言のみに基づいてアイ
ヒマンを裁判にかけることを良しとせず、彼を連日尋問した(尋問記録は3500ページを超えた)。このとき尋問を担当したのは、ベルリン生まれのイスラエ
ル警察職員アヴナー・レス(1916年~1987年)。主にヤド・ヴァシェム(1953年に設立された、ユダヤ人虐殺およびその犠牲者を記念するイスラエ
ルの公的機関)と、アイヒマン捕縛に一役買ったナチ・ハンターのトゥヴィア・フリードマン(1922年~
2011年)提供による資料を参照したおかげで、レスはアイヒマンが尋問中に嘘をついたり話をはぐらかそうとした場合、それを見抜くことができた。その
後、アイヒマンに自らの所業を認めざるを得なくさせる追加情報がもたらされた際、この元親衛隊中佐は、自分はナチ内部で何ら権限を持たない存在であり、単
に命令に従っただけだと主張した。このときレスは、アイヒマンが自らの罪の重さを認識しておらず、何ら良心の呵責を覚えていないことに気づく。なお、尋問
の記録は、書籍『アイヒマン調書─イスラエル警察尋問録音記録』(ヨッヘン・フォ
ンラング編、小俣和一郎訳、岩波書店、2009年)にまとめられている |
Eichmann interrogated :
transcripts from the archives of the Israeli police. |
(4)1961年4月11日、イェルサ
レム地方裁判所でアイヒマン裁判が開始された。アイヒマンに対する告発の法的根拠は、1950年のナチおよびナチ協力者法であった。同法によりアイヒマン
は人道性に対する犯罪、戦争犯罪、ユダヤ人に対する犯罪、犯罪組織の構成員であったことなど、15におよぶ刑事上の容疑で起訴された。裁判は三人の裁判官
──モシェ・ランダウ裁判長(1912年~2011年)、ベンヤミン・ハレヴィ判事(1910年~1996年)、イツァク・ラヴェー判事(1906年
~1989年)──によって執りおこなわれた。主任検察官はイスラエル人ギデオン・ハウスナー(1915年~1990年)。ハウスナーの補佐を務めたの
は、司法省のガブリエル・バック(1927年~)と、テル・アヴィヴ地方検事ヤーコヴ・バロール。弁護団は、ドイツ人弁護士ロベルト・セヴァティウス
(1894年~1983年)、弁護士助手ディーター・ヴェヒテンブルッフとアイヒマン自身。 |
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(5)イスラエル政府は、さまざまなメ
ディアがアイヒマン裁判を取材・報道するようお膳立てした。世界中の有力紙が記者をイェルサレムに送り込み、この裁判をめぐる記事を第一面に配した。裁判
はイェルサレムの中心部にある劇場(現:ジェラルド・ベハール・センター)でおこなわれた。アイヒマンは、防弾ガラスで周囲を囲まれたブース内に座る。暗
殺の試みから彼を守るためである。建物は記者たちが裁判の様子を閉回路テレビ(限られた数の受信者にサーヴィスすることを目的としたテレビ伝送システム)
で眺めることができるよう変更を加えられており、劇場自体750の座席を有していた。これはイスラエル人たちにとって初めてテレビの生放送を目にする機会
となり、撮影されたヴィデオ素材は毎日アメリカ合衆国へ空輸され、翌日テレビ放映された。 |
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(6)訴追は56日間にわたっておこな
われ、数百におよぶ証拠書類が参照され、112名の証人(その大半がホロコーストの生還者)が召喚された。ハウスナーはアイヒマンの罪状を立証するだけで
なく、ホロコーストの全貌を描き出すデータをも提示することで、包括的な記録を作り上げることを意図していた。セルヴァティウス弁護士は、アイヒマンに直
接関係ないデータの提示を繰り返し抑制しようとし、概ね成功した。裁判では戦時の記録文書に加え、アイヒマン尋問時の録音テープや筆記録、オランダ人元対
独協力者(武装親衛隊員)でジャーナリストのヴィレム・サッセン(1918年~2002年)が、1956年暮れから1957年にかけて評伝執筆のためヴェ
ネズエラでアイヒマンに取材した際の記録も証拠として提出された(ただし後者の場合、取材時におけるアイヒマンの自筆メモのみが証拠として認められた)。 |
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(7)検察側が提出した証拠のなかに
は、主要な元ナチ党員たちによる証言録取書も含まれていた。弁護側は、反対尋問を可能とするために、証言した元ナチ党員たちをイスラエルに召喚するよう要
求。しかし主任検察官ハウスナーは、イスラエルに入国した戦争犯罪人は誰であれ逮捕しなくてはならないと言明した。検察当局はアイヒマンがヘウムノ、アウ
シュヴィッツ、ミンスクなど、ナチによるユダヤ人らの“絶滅”がおこなわれた数々の場所を訪れていたこと(とりわけミンスクで、アイヒマンはユダヤ人が銃
撃により大量殺戮された現場を目撃している)、ゆえにユダヤ人たちが殺害されていた事実に気づいていたことを証明した。検察側が弁論を終えると、弁護側は
アイヒマンに長々しく直接尋問しつつ、冒頭陳述をおこなった。モシェ・パールマン(1911年~1986年)やハンナ・アーレント(1906年~1975
年)といった裁判を傍聴した知識人たちは、アイヒマンのありふれた外見や感情を表にあらわさない態度に注目する。このときアイヒマンは、「自分には命令に
従う以外に選択肢がなかった」のだと主張した。 |
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(8)このような主張は、1945年か
ら1946年にかけておこなわれたニュルンベルク裁判の被告人たちもおこなったものである。つまりアイヒマンは、決定は自分が下したものではなく、ハイン
リッヒ・ミューラー、ラインハルト・ハイドリヒ、ハインリッヒ・ヒムラー、そして最終的にはアドルフ・ヒトラーが下したのだと主張したのであった。セル
ヴァティウス弁護士は、ナチ政府の決定は国家無答責であって、通常の訴訟手続きには属さないものであると申し出た。ヴァ
ンゼー会議(ヒトラー政権の高官15名が1942年1月20日にベルリンのヴァンゼー湖畔に集まって、ユダヤ人の抹殺を討議した会議)に関しては、アイヒ
マンはその結果に満足と安堵を覚えたと語った。というのも、彼の上役たちが絶滅政策をはっきりと決定したことで、(決定に関わらなかった)自分はいかなる
罪からも放免されたと感じたからであった。尋問最終日、アイヒマンは移送手配に関して自らの罪を認めたが、同時にその結果に関しては罪の意識を覚えていな
いと述べた。 |
「ラインハルト・トリスタン・オイゲン・
ハイドリヒとユダヤ人絶滅政策」 |
(9)ハウスナー検察官は反対尋問中、
アイヒマン個人の罪を本人に認めさせようとし続けたが、その種の告白を引き出すことはできなかった。アイヒマンは、自分がユダヤ人のことを良く思わず、敵
だとみなしていることを認めたが、彼らに対する絶滅政策は正当化できないと考えていた。1945年にアイヒマンが漏らした「私は笑いながら墓に飛び込む。
というのも、[自分が死に追いやった]500万におよぶ人間のことを思うと、素晴らしく満足した気持ちになるからだ」との言葉をハウスナーが証拠として提
出すると、被告人は「その発言は(ユダヤ人のことでなく)ソビエトのような“ドイツの敵”のことを指したもの」だと応じた。その後の尋問で、アイヒマンは
上記の発言がユダヤ人に言及したものであることを認めたが、同発言は当時の自分の見解を正確に反映したものであると述べた。 |
|
(10)評決は1961年12月12日
に読み上げられた。裁
判官たちはアイヒマンに対し、個人としての殺人罪、「アインザッツグルッペン」(ドイツ語で「出動集団」「機動部隊」の意。「ユダヤ人問題の最終解決」の
実行において主導的役割を果たした)の活動を監督した罪には問われないと宣した。他方彼は、移送列車内の劣悪きわまりない環境や、移送のため大勢のユダヤ
人たちを捕縛・連行させた責任を問われた。アイヒマンは人道に対する罪、戦争に対する罪、ポーランド人やスロヴェニア人やジプシーに対する罪で有罪判決を
受けた。また、三つの違法組織──ゲシュタポ、秘密情報機関(SD)、親衛隊(SS)──の一員であったことでも、有罪判決を受ける。裁判官たちはアイヒ
マンが命令に従っただけでなく、ナチの大義を誠心誠意信奉し、大量虐殺を遂行するにあたって欠かせない役割を担った人物であると結論づけた。
そして1961年12月15日、アイヒマンは死刑を宣告される。 |
・アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen) |
(11)セルヴァティウス弁護士は、イ
スラエルの司法権とアイヒマン告発の合法性をめぐる法的議論に焦点を当てつつ評決に異議申し立てをした。1962年3月22日から29日にかけて、審理が
おこなわれる。アイヒマンの妻ヴェラがイスラエルを訪れ、4月末に夫に面会(二人が顔を合わせたのは、これが最後の機会となった)。5月29日、イスラエ
ル最高裁判所は弁護側の異議申し立てを棄却し、地方裁判所の判決を全面的に支持した。一方、アイヒマンはイスラエル大統領イツァク・ベン=ズヴィ
(1884年~1963年)に、ただちに恩赦を申請した。哲学者のフーゴ・ベルクマン(1883年~1975年)やマルティン・ブーバー(1878年
~1965年)、作家パール・バック(1892年~1973年)、教育家・宗教哲学者エルンスト・ジーモン(1899年~1988年)といった著名人が、
アイヒマンへの恩赦を請願する。イスラエル初代首相ダヴィッド・ベン=グリオン(1886年~1973年)が問題解決を図って特別に閣議を開き、5月31
日午後8時にアイヒマンは恩赦の申請が却下されたことを知らされる。死刑執行は同日深夜に予定される。 |
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(12)そしてアイヒマンは、予定通り
1962年5月31日真夜中少し前に、イスラエル中央地区のラムラにある刑務所内で絞首刑に処せられた。処刑前、アイヒマンは最後の食事を拒否し、ワイン
を少量だけ飲んだ。また彼は、処刑時の慣習である黒頭巾を被ることも拒否した。最後にアイヒマンは、以下の言葉を残した。「ドイツ万歳、アルゼンチン万
歳、オーストリア万歳。私が最も強く結びつき、そして忘れない三つの国だ。妻、家族、友人たちに挨拶を送る。準備はできた。人の宿命として、私たちは間も
なく再会するだろう。神を信じつつ、私は死ぬ」。処刑終了後間もなく、アイヒマンの遺体は内密に火葬された。6月1日午前4時、その遺灰はイスラエル海軍
の警備艇に乗せられ、地中海の国際水域に撒かれた。 |
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出典:http://mermaidfilms.co.jp/specialist-movie/ |
■それでもなお、アイヒマンに対して死に値する理由が存在すると、アーレントは『エルサレムのアイヒマン』の末尾で、二人称で次のよう に呼びか ける。
「……君が大量虐殺組織の従順な道具となったのはひとえに君の逆境の ためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を 実行し、それゆえ積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては服従と支持は同じものなの だ。そしてまさに、ユダヤの民および他のいくつかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒む——あたかも君と君の情感がこの世界に誰が住み誰が 住んではならないかを決定する権利をもっているかのように——政治を君が支持したからこそ、なに人からのすなわち人類に属するなにものからも、君とともに この地球上に行きたいと願うことは期待しえないと我々は思う。これが君が絞首されなければならぬ理由、しかもその唯一の理由である」(アー レント[大久保 和郎訳]1994:214-215)。
"Let us assume,
for the sake of argument, that it was nothing more than misfortune
that made you a willing .instrument in the organization
of mass murder; there still-remains the fact.that you have carried
out, and therefore actively supported, a policy of mass murder.
For politics is not like the nursery; in politics obedience and
support are the same. And just as you supported and carried out
a policy of not wanting to share the earth with the Jewish
people and the people of a number of other nations-as
though you and your superiors had any .right to determine who
should and who should not inhabit the world-we find that . no
one, that is, no member of the human race, can be expected to
want to share the earth with you. This is the reason, and the
only reason, you must hang." (p.279)[ペンギンブックス版 1963年]
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