かならずよんで ね!

年表・アメリカ合衆国の優生学

History of American Eugenics

池田光穂


アメリカ合衆国における優生学」はこちらです!!!


このページは今後「優生学の現代」 「優 生学の年表」「マディソン・グラントと優生学」「ナチ優生学の時代」「ナ チが実施した安楽殺(T-4)」「新しい人類計画」「ナチス・ドイツ血液証明書」「ナチスの「生命の泉」計画と優生」「エヴァ・ユスティンとロマ民族」「ナチス・ドイツの優生学を学ぶ人のために」などに展開します。

《前史:英国ほか欧州》

1798 トーマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus, 1766-1834)匿名で『人口論(An Essay on the Principle of Population)』(初版)を出版

1803 マルサス『人口論』第2版、これによりマ ルサス主義(Malthusianism) が膾炙。

1932 1832 Royal Commission's findings(Royal Commission into the Operation of the Poor Laws 1832

1834 英国で新・救貧法(Poor Law Amendment Act 1834, PLAA, New Poor Law)

1840年代 アイルランド・じゃがいも大飢饉

1853 Arthur de Gobineau, Essai sur l'inégalité des races humaines, tomes I et II (1853), III [archive], IV [archive], V et VI (1855). Les livres 1 à 6 sont disponibles sous format word et PDF ici : Uqac.ca [archive]

1869 Galton, F. (1869). Hereditary Genius. London: Macmillan.

1871 チャールズ・ダーウィン、The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex [pdf]、 で、マルサス的な優生概念を記す。

1877 マルサス主義者ロバート・ブリュアー= リットン、ベンジャミン・ディズレイリー首相の命によりインド総督に就任。(インドでは餓死で1000万人が餓死といわれる)

1880年代

"The American eugenics movement was rooted in the biological determinist ideas of Sir Francis Galton, which originated in the 1880s. Galton studied the upper classes of Britain, and arrived at the conclusion that their social positions were due to a superior genetic makeup" - Eugenics in the United States

1883 Galton, F (1883). Inquiries into Human Faculty and Its Development. London: J.M. Dent & Company

1889 Galton, F (1889). Natural Inheritance. London: Macmillan.

1892 エルンスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel, 1834-1919)の講演(アルテンブルグ:Altenburg)。マル サスとホッブスより、人種差別と優生学を結びつける講演をおこなう。

1892 スイスで精神障害者女性への(強制)断種 手術を[→Compulsory sterilization]実施。

1897 ドイツで遺伝病の女性の(強制)断種手術 の実施。

1897 

"The first state to introduce a compulsory sterilization bill was Michigan, in 1897, but the proposed law failed to pass. Eight years later Pennsylvania's state legislators passed a sterilization bill that was vetoed by the governor. Indiana became the first state to enact sterilization legislation in 1907,[73] followed closely by California and Washington in 1909."[-> https://goo.gl/nJxGM7]

1900 グレゴール・メンデルの遺伝法則の再発 見。

1905 

Alfred Ploetz(1860 -1940)らにより〈民族衛生のためのドイツ協会[ベルリン人種衛生学協会]: Gesellschaft für Rassenhygiene〉(German Society for Racial Hygiene)が創設。その中には民族学者リヒャルト・トゥンヴァルトRichard Thurnwald (1869-1954)も含まれていた。

《米国における優生学/欧州での重要な事件を含む》

1907 最初の断種法(インディアナ州)

"15 states enacted Eugenics legislation in America: Indiana, Washington, California, Connecticut, Nevada, Iowa, New Jersey, New York, North Dakota, Michigan, Kansas, Wisconsin, Nebraska, Oregon, and South Dakota. Eugenics began on March 9, 1907, with Indiana being the first state to enact a law, and ended on December 13, 1921, with Oregon proving the law unconstitutional. But that wasn’t the end. Wisconsin’s law was still active on January 1, 1922. From 1913 to January 1, 1921, the state of Wisconsin performed 76 forced sterilizations on inmates at the Home for Feeble-Minded at Chippewa Falls: 15 males (Vasectomy); and 61 females (Salpingectomy)."- https://inmatesofwillard.com/tag/bleecker-van-wagenen/

「アメリカでは、インディアナ、ワシントン、カリ フォルニア、コネチカット、ネバダ、アイオワ、ニュージャージー、ニューヨーク、ノースダコタ、ミシガン、カンザス、ウィスコンシン、ネブラスカ、オレゴ ン、サウスダコタの15州が優生学の法律を制定しています。優生学は1907年3月9日、インディアナ州が初めて法律を制定して始まり、1921年12月 13日、オレゴン州が法律を違憲と証明したことで幕を閉じた。しかし、それで終わりではなかった。ウィスコンシン州の法律は、1922年1月1日になって もまだ有効だったのだ。1913年から1921年1月1日までに、ウィスコンシン州は、チペワ・フォールズの心弱き者のための施設の収容者に76件の強制 不妊手術を行った。男性15人(精管切除術)、女性61人(卵管切除術)であった。」

1907 Japan: Compulsory sterilization in Japan(→ただしこ れらの法令には断種の規定は明文化されていない)

The Leprosy Prevention laws of 1907, 1931 and 1953, permitted the segregation of patients in sanitariums where forced abortions and sterilization were common and authorized punishment of patients "disturbing peace" - Sato, Hajime (February 2002). "Abolition of leprosy isolation policy in Japan: policy termination through leadership". Policy Studies Journal. 30 (1): 29–46. doi:10.1111/j.1541-0072.2002.tb02126.x. [https://goo.gl/nJxGM7]

1910 優生学記録局(Eugenics Record Office, ERO)が、コールドスプリングス(ニューヨーク)に開設、チャールズ・ダベンポート(Charles Davenport, 1866-1944)による。

1912 

"New York State passed a Eugenics Law on April 16, 1912, Chapter 445; Declared Unconstitutional by the Supreme Court of Albany County, March 5, 1918, and by Appellate Division July 1, 1918; and Repealed by the State Legislature, May 10, 1920. Forty-two operations were performed in the State of New York “while the statute was in force, but none of them was performed under this statute; all were performed by special arrangement with the patients and their families under the laws and customs governing ordinary surgical operations.” An agreement was made between the inmate who was targeted for sterilization and the inmate’s family, for permission to perform the needed operation that would make the life of their loved one more comfortable, leaving them to lead a productive, “normal” life. One vasectomy (1) was performed at the Auburn State Prison; twelve salpingectomies (2) at the Buffalo State Hospital; and twenty-four salpingectomies (2) and five ovariotomies (3) by the Gowanda State Hospital at Collins. Buffalo State Hospital opened in December 1880 and Gowanda State Homeopathic Hospital (Collins Farm) opened on August 9, 1898. Both were for the care of the mentally ill and were located in Erie County, New York." https://inmatesofwillard.com/tag/bleecker-van-wagenen/

「ニューヨーク州は1912年4月16日に優生学法 を可決した(第445章)。1918年3月5日にアルバニー郡最高裁判所、1918年7月1日に控訴院によって違憲とされ、1920年5月10日に州議会 によって廃止とされた。ニューヨーク州では「この法律が施行されている間に42件の手術が行われたが、いずれもこの法律に基づいて行われたものではなく、 すべて通常の外科手術に適用される法律と慣習に基づいて患者やその家族との特別な取り決めにより行われたものである」。不妊手術の対象となった受刑者と受 刑者の家族との間で、愛する人の生活をより快適にし、生産的で「普通」の生活を送れるようにするために必要な手術の許可を得るための合意がなされたのであ る。オーバーン州立刑務所ではパイプカット(1件)、バッファロー州立病院ではサルピネクトミー(2件)、コリンズのゴワンダ州立病院ではサルピネクト ミー(2件)24件と卵巣摘出(3件)が行われました。バッファロー州立病院は1880年12月に、ゴワンダ州立ホメオパシー病院(コリンズ農場)は 1898年8月9日に開院した。どちらも精神障害者のケアを目的としたもので、ニューヨーク州エリー郡にあった」

7月24日から29日にかけて、ロンドン大学で第1回国際優生学会議が開催された。ブ リーカー・ヴァン・ワーゲン(Bleecker van Wagenen)は、アメリカの強制不妊手術法について説明した[3][4]。 彼は、遺伝子の構成に欠陥がある人々を人類から排除することを要求したのである。精神障害者、てんかん患者、盲人、聾唖者、奇形者、犯罪者などを社会的不 適格者として名指ししたのである。彼は、アメリカの国勢調査のデータによると、刑務所、病院、精神病院に住む人は63万人で、人口の約1%にあたるという 数字を挙げた。さらに300万人の劣悪な血液を持つ人々がまだ施設に入所していないという。さらに人口の約10%にあたる700万人が、遺伝性疾患のキャ リアである。このような人々は、有用な市民の親になる能力がないと彼は言った[5]。

1916 マディソン・グラント(Madison Grant, 1865-1937)が『偉大な人種の消滅(The passing of the great race)』を 出版。

北方人種=優秀説(the Nordic Theory) を展開。この本は1924年の(北米)移民法に影響を与える。ヒトラーはグラントの説に感動し、彼に同書を「私の聖書だと」の手紙を認める。”Among those who embraced the book and its message was Adolf Hitler, who wrote to Grant to personally thank him for writing it, referring to the book as "my Bible.” - Stefan Kühl. 2002. Nazi Connection: Eugenics, American Racism, and German National Socialism. Oxford University Press, p. 85

1912 ロンドンで第1回国際優生学会議(レナー ド・ダーウィン会長、主席裁判官、海軍卿チャーチル):ただし、ジョサイア・ウェッジウッドIV世(Josiah Wedgwood, 1st Baron Wedgwood, 1872-1943)の抵抗により英国内では優生学的法案は通過しなかった。

1916 サンガーのもとで、家族計画連盟が創設。

1920 【ドイツ】「刑法学者カール・ビンディン グと精神科 医アルフレート・ボーへが『生きるに値しない生命の根絶の許容』を発表し、不治の者が死への意思を表明している場合や、瀕死の重傷を負った意識のない患者 は安楽死が認められるべきであるし、意思表明ができない「不治の痴呆者」については「彼らの生命自体が無目的で家族にとっても社会にとっても重荷であるゆ え」、家族や後見人が申請し、医師と法律家から認定されるなら殺害を可能とした」(https://goo.gl/Wk6SXk

1921 第2回国際優生学会議がニューヨークで開 催(アレクサンダー・グラハム・ベル名誉議長)ヘンリー・オズボーン・フェアチャイルド(Henry Fairfield Osborn, 1857-1935)の司会。

出席できなかったレナード・ダーウィン(Leonard Darwin, 1850-1943)は優生学的政策無き場合には(やがて)人類の崩壊するとの確信を表明する。

1923 【ドイツ】「遺伝学者エルヴィン・バウ アー、オイゲ ン・フィッシャー、フリッツ・レンツ(Fritz Lenz)共著 『人類遺伝学と民族衛生学の概説』で劣等な遺伝子の排除が民族衛生にとって最善であるとし、レンツは障害者の「繁殖」は安楽死よりも断種で予防できると し、ヒトラーやナチスに影響を与え、「ナチス優生学のバイブル」と呼ばれた」(https://goo.gl/Wk6SXk

1924 (北米)移民法

1929 A map from a 1929 Swedish royal commission report displays the U.S. states that had implemented sterilization legislation by then

1930 日本民族衛生学会設立(1930)の趣旨 は「生命の根本を浄化し培養せんとするのが我が民族衛生学会の使命」であるとして「政治を浄化し、経済を浄化し、法律を浄化し、宗教を浄化し」と記載され ている(莇 2002:346)。

1931 「レンツ『人種衛生学に対する国民社会主 義の立場』で「ナチスは人種衛生学をその綱領の中心的な要求として代表する最初の政党」であると称賛」(https://goo.gl/Wk6SXk

1932 優生学記録局ハ リー・ラフリン(Harry H. Laughlin, 1880-1943)は、優生学法の原型を提案。

優生学法はやがて、米国30州の州法に取り入れられ て、1970年代前半に廃止されるまで、6万5千人が強制的不妊手術を受けた。その対象者は、知的障害、精神異常、犯罪常習、てんかん、アルコール依存、 薬物依存、視覚障害、聴覚障害、奇形、遺伝病などが対象になる。

1932 第3回国際優生学会議がニューヨークで開 催: The Third International Eugenics Congress (1932)

ca. 1933 カリフォルニア州は、米国でも有数の不妊手術の件数を誇る。Eugenics Society of Northern Californiaを創設したCharles Matthias Goethe(1875-1966)が先導(→Eugenics in California)。

1934 第4回国際優生学会議は不開催で、チュー リッヒでこの年に会合。1936年にオランダのScheveningenで国際会合があったのを最後に以降開催されなくなる。

1935 ニュルンベルグ法

1939 マーガレット・サンガー(Margaret Sanger (1879-1966))、黒人の産児制限である〈ニグロ・プロジェクト; The Negro Project〉を発足。

1939 ユダヤ人の子供たちの受け入れ法案が連邦 議会で否決。反対派の頭目は、ハリー・ラフリン(Harry H. Laughlin, 1880-1943)。930人のユダヤ人を乗せたセントルイス号は、その多数がヨーロッパに帰還を余儀なくされ収容所で亡 くなる。

1939 T4作戦の実施

1940 Japan: The Race Eugenic Protection Law was submitted from 1934 to 1938 to the Diet. After four amendments, this draft was promulgated as a National Eugenic Law in 1940 by the Konoe government.[-> https://goo.gl/nJxGM7]

1941 T4による安楽殺が中止され、収容所に送 致する方針転換。

1942 ヴァンゼー会議(Wannseekonferenz, Wannsee Conference)

1948 Henry Fairfield Osborn Jr. (1887-1969)が、Our Plundered Planet、を公刊。人類の人口増加を懸念。

1948 Japan: "According to the Eugenic Protection Law (1948), sterilization could be enforced on criminals "with genetic predisposition to commit crime", patients with genetic diseases including mild ones such as total color-blindness, hemophilia, albinism and ichthyosis, and mental affections such as schizophrenia, manic-depression possibly deemed occurrent in their opposition and epilepsy, the sickness of Caesar.[52] The mental sicknesses were added in 1952."[-> https://goo.gl/nJxGM7]

第2次大戦後は、声高に優生政策を唱える論者は少な くなったが、途上国における人口増加抑制政策を通して、西洋開発国側の「成長の限界」を回避するための政策は継続している。

リンク

文献

その他の情報

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