優生学の年表
(日欧米)
History
of Eugenics
ナチスの Gleichschaltung (強制的同質化) はユダヤ人排斥のための論理的予見をなしていたが、逆に論理的に突き詰めれば、なぜロマやユダヤ人への同質化のモーメントに繋がらなかったのだろう、と考 えることも可能だ。その理由は、優生学や人種学によるロマやユダヤ人が同質化にそぐわない「科学的証明」によるものだとしたらどうであろうか。つまり学問 そのものも戦争犯罪や人道的犯罪の被告になり得るのである。
Gleichschaltung (German pronunciation: [ˈɡlaɪçʃaltʊŋ]), or in English co-ordination, was in Nazi terminology the process of Nazification by which Adolf Hitler and the Nazi Party successively established a system of totalitarian control and coordination over all aspects of German society and societies occupied by Nazi Germany "from the economy and trade associations to the media, culture and education".[1]/ The apex of the Nazification of Germany was in the resolutions approved during the Nuremberg Rally of 1935, when the symbols of the Nazi Party and the State were fused (see Flag of Germany) and German Jews were deprived of their citizenship (see Nuremberg Laws).- Gleichschaltung.
このページでは、主に欧米と日本の優生学の時間的経緯につい
て記してい
ます。 「英国・ヨーロッパ・米国・ドイツ・日本の相対年表はこちらです」 |
《前史:英国ほか欧州》——この年表のオリジナルは 「アメリカ合衆国の優生学」「英国・ヨーロッパ・米国・ドイツ・日本の相対年表はこちらです」
1798 |
トーマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus, 1766-1834)匿名で『人口論(An Essay on the Principle of Population)』(初版)を出版 | |
1803 | マルサス『人口論』第2版、これによりマ ルサス主義(Malthusianism) が膾炙。 | |
1832 | 1832 Royal Commission's findings(Royal Commission into the Operation of the Poor Laws 1832) | |
1834 | 英国で新・救貧法(Poor Law Amendment Act 1834, PLAA, New Poor Law) | |
1840年代 1848 |
アイルランド・じゃがいも大飢饉 アルチュール・ド・ゴビノー『人類の不平等に関する試論』 |
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1853 | Arthur de Gobineau, Essai sur l'inégalité des races humaines, tomes I et II (1853), III [archive], IV [archive], V et VI (1855). Les livres 1 à 6 sont disponibles sous format word et PDF ici : Uqac.ca [archive] | 1855 福沢諭吉は、長崎、中津を経由して緒方洪庵に適塾に入門
(1857年塾頭) 1860 諭吉、万延元年遣米使節に参加 |
1869 | Galton, F. (1869). Hereditary Genius. London: Macmillan. | 1868(新暦) 王政復古の大号令・諭吉「慶應義塾」を開塾 |
1871 1872 |
・チャールズ・ダーウィン、The
Descent
of Man, and Selection in Relation to Sex [pdf]、
で、マルサス的な優生概念を記す。 ・W.R.グレッグ『生命の謎』 |
1870 諭吉『西洋事情』 1872 福沢諭吉『学問のすすめ』初編の発行(〜1876) 1875 「教育の力」(1875-1876年 『雜纂』「続福澤全集第七巻所収」) |
1877 | マルサス主義者ロバート・ブリュアー= リットン、ベンジャミン・ディズレイリー首相の命によりインド総督に就任。(インドでは餓死で1000万人が餓死といわれる) | 1877 西南戦争 1879 琉球処分 |
1880年代 | "The American eugenics movement was rooted in the biological determinist ideas of Sir Francis Galton, which originated in the 1880s. Galton studied the upper classes of Britain, and arrived at the conclusion that their social positions were due to a superior genetic makeup" - Eugenics in the United States | |
1881 | 1881 『人祖論』(山中市兵衞 1881年) 1881 「國民の氣力を養ふ事」(1881年 『時事小言』) 1881 「人爲淘汰ニヨリテ人才ヲ得ルノ術ヲ論ス」(1881年 『東洋學藝雜誌』) |
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1882 |
1882 福沢諭吉「人間の能力の遺伝を論ず」 1882 「遺傳の能力」(1882年 『時事新報』) 「妾の功能 (漫言)」「眞言秘密は以て夫婦喧嘩を和するに足らず (漫言)」(1882年 『時事新報』) |
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1883 |
・フランシス・ゴルトン(Francis Galton, 1822-1911)「優生学」を提唱 | |
1884 |
1884 高橋義雄『日本人人種改良論』で黄白雑婚論を展開 1884 「社會ニ起レル人爲淘汰ノ一大疑問」, 「社會ニ起レル人爲淘汰ノ疑問ノ答辨」(1884年 『東洋學藝雜誌』) . 「加藤先生ノ垂問ニ答ヘ併テ競爭併進説ヲ論ス」, 「加藤先生ノ提出セラレタル疑問ニ答フ」(1884年 『東洋學藝雜誌』) . |
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1885 |
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1886 |
1886 加
藤弘之は、高橋義雄による雑婚論を批判 1886 『日本婦人論』(1886年) 「人種改良ノ辨」(1886年 『東洋學藝雜誌』) 「加藤弘之君ノ日本人改良辨ヲ怪ム」(『大阪醫報』) . 「加藤弘之君ヘ質問 (漫言)」(1886年 『時事新報』) |
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1887 |
1887(丸山真男説によると)「脱亜入欧」の用語の初出(執筆者は鈴
木券太郎) |
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1888 |
Galton, F (1883). Inquiries into Human Faculty and Its Development. London: J.M. Dent & Company
[This book's] intention
is to touch on various topics more or less connected with that of the
cultivation of race, or, as we might call it, with "eugenic"1
questions, and to present the results of several of my own separate
investigations. →(脚注1の部分)"1 This is, with questions bearing on what is
termed in Greek, eugenes, namely, good in stock, hereditarily endowed
with noble qualities. This, and the allied words, eugeneia, etc., are
equally applicable to men, brutes, and plants. We greatly want a brief
word to express the science of improving stock, which is by no means
confined to questions of judicious mating, but which, especially in the
case of man, takes cognisance of all influences that tend in however
remote a degree to give the more suitable races or strains of blood a
better chance of prevailing speedily over the less suitable than they
otherwise would have had. The word eugenics would sufficiently express
the idea; it is at least a neater word and a more generalised one than
viriculture, which I once ventured to use."
1889 |
Galton, F (1889). Natural Inheritance. London: Macmillan. | |
1890 |
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1891 |
鈴木券太郎『 亜細亜人』政教社(→このアジア人とはモンゴロイ
ド人種のことでその風俗習慣を紹介) |
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1892 |
・スイスで精神障害者女性への(強制)断種
手術を[→Compulsory
sterilization]実施。 ・エ ルンスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel, 1834-1919)の講演(アルテンブルグ:Altenburg)。マル サスとホッブスより、人種差別と優生学を結びつける講演をおこなう。 |
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1893 |
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1894 |
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1895 |
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1896 |
1896 「教育の力は唯人の天賦を発達せしむるのみ」,
「人種改良」, 「人生の遺傳を視察す可し」(1896年 『福翁百話』) |
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1897 |
・ドイツで遺伝病の女性の(強制)断種手術
の実施。 ・"The first state to introduce a compulsory sterilization bill was Michigan, in 1897, but the proposed law failed to pass. Eight years later Pennsylvania's state legislators passed a sterilization bill that was vetoed by the governor. Indiana became the first state to enact sterilization legislation in 1907,[73] followed closely by California and Washington in 1909." |
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1898 |
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1899 |
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1900 |
・グレゴール・メンデルの遺伝法則の再発
見。 |
・1900年以前の優生学は、雑婚論などに留まり、萌芽的時代である
(横山 2020:200) |
1901 |
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1902 |
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1903 |
・ロバート・レントゥール『ある種の精神的身体的障害者への断種のすす め』 | |
1904 |
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1905 |
・Alfred Ploetz(1860 -1940)らにより〈民族衛生のためのドイツ協会: Gesellschaft für Rassenhygiene〉(German Society for Racial Hygiene)が創設。その中には民族学者Richard Thurnwald (1869-1954)も含まれていた。 | ・雑誌『人
性』(主宰:富士川游) ・「進化論と衛生」(1905年 『國家醫學會雜誌』) ・「體質改良と社會政策」(1905年 『東京醫事新誌』) |
1906 |
・ |
・外山亀太郎、カイコ |
1907 |
・フランシス・ゴールトン、優生学教育協会を創設;U.K.
Eugenics Education Society
(-1926) Eugenics Society (-1989), Galton Institute
(present) ・米国で最初の断種法(インディアナ州など) ・ロバート・レントゥール『民族文化あるいは民族自滅』 |
・Japan: Compulsory sterilization in Japan The Leprosy Prevention laws of 1907, 1931 and 1953, permitted the segregation of patients in sanitariums where forced abortions and sterilization were common and authorized punishment of patients "disturbing peace" - Sato, Hajime (February 2002). "Abolition of leprosy isolation policy in Japan: policy termination through leadership". Policy Studies Journal. 30 (1): 29–46. doi:10.1111/j.1541-0072.2002.tb02126.x. [7] |
1908 |
・「遺傳ノ現象ハ數理的ナリ」(1908年 『東洋學藝雜誌』) |
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1909 |
・U.K. Eugenics Education Society (-1926)が、The Eugenics Review, 1909-1968.を発刊 | ・「人格に就て」(1909年 『人性』) ・「遺傳と教育」(弘道館 1909年 『論文集』) . |
1910 |
・優生学記録局(Eugenics
Record Office, ERO)が、コールドスプリングス(ニューヨーク)に解説、チャールズ・ダベンポート(Charles
Davenport, 1866-1944)による。 ・1910年代→ドイツ「「劣等分子」の断種や、治癒 不能の病人を要請に応じて殺すという「安楽死」の概念」の誕生(のちに「アクションT4」で流用される) |
・海野幸徳『日本人種改造論』冨山房、1910. ・「人類の將来」(1910年 『中央公論』) ・「遺傳學の進歩と人生との關係」(1910年 『理學界』) |
1911 |
「民種改善學の實際價値」,
「「ゼネチックス」ノ方法及範圍」(1911年 『人性』) ・「人類改良學と生物改造學」(1911年 『新日本』) |
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1912 |
・ ロンドンで第1回国際優生学会議(レナー ド・ダーウィン会長、主席裁判官、海軍卿チャーチル):ただし、ジョサイア・ウェッジウッドIV世(Josiah Wedgwood, 1st Baron Wedgwood, 1872-1943)の抵抗により英国内では優生学的法案は通過しなかった。 | ・「結婚と遺傳」(1912年 『心理研究』) ・「人類に於ける遺傳研究法」(1912年 『人性』) ・「優良種族の消長」(1912年 『心理研究』) |
1913 |
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1914 |
・『細胞と遺傳』(大日本圖書 1914年) . ・「社會の改善と遺傳」(1914年 『心理研究』) |
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1915 |
・日本育種学会創設(→1920日本遺伝学会)創設メンバーに田中義麿、安藤広太郎ら。 ・『遺傳論』(大日本學術協會 1915年) ・「人種改善學の理論」(1915年 『人性』) ・「遺傳と境遇」 (1915年 『心理研究』) . |
北方人種=優秀説(the Nordic
Theory)
を展開。この本は1924年の(北米)移民法に影響を与える。ヒトラーはグラントの説に感動し、彼に同書を「私の聖書だと」の手紙を認める。”Among
those who embraced the book and its message was Adolf Hitler, who wrote
to Grant to personally thank him for writing it, referring to the book
as "my Bible.” - Stefan Kühl. 2002. Nazi Connection: Eugenics, American
Racism, and German National Socialism. Oxford University Press, p. 85
★
1916 | ・マディソン・グラント(Madison Grant,
1865-1937)が『偉大な人種の消滅(The passing of the great race)』を
出版 ・サンガーのもとで、家族計画連盟が創設。 |
・永井潜、保健衛生調査会で優生学の政策化を提唱 ・ゴルトン『天才と遺傳』(早稻田大學出版部 大正5年) ・『生命論』 (第3版 洛陽堂 1916年) ・『生物學と哲學との境』(洛陽堂 1916年) ・『優生學 : 人類の遺傳と社會の進化』(不老閣書房 1916年) |
1917 |
・日本優生学会設立(ほどなくして消滅)[岡田靖雄
2008:673] ・「遺傳の中心問題」(1917年 『心理研究』) ・『智能の遺傳』(心理學研究會出版部 1917年) |
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1918 | ・Popence, Paul Bowman(1888-1979) and Johnson, Roswell Hill(1877-1967), Applied eugenics. New York, MacMillan.(邦訳「應 用優生學」東京 : 大日本文明協会, 1922.) | ・『遺傳の實驗』(弘學館書店 1918年) . |
1919 |
・ 『最新遺傳論』(六盟館 1919年) ・『生物學講義』(裳華房, 養賢堂 1919年) |
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1920 |
・英国遺伝学会設立 ・ドイツ:「法学博士で元ライプチヒ大学学 長のカール・ビンディング(ドイツ語版)と医学博士・フライブルク大学教授で精神科医のアルフレート・ホッヘ(ドイツ語版)により、重度精神障害者などの 安楽死を提唱した「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」が出版」(アクションT4) ・ 1920年「刑法学者カール・ビンディングと精神科 医アルフレート・ボーへが『生きるに値しない生命の根絶の許容』を発表し、不 治の者が死への意思を表明している場合や、瀕死の重傷を負った意識のない患者 は安楽死が認められるべきであるし、意思表明ができない「不治の痴呆者」については「彼らの生命自体が無目的で家族にとっても社会にとっても重荷であるゆ え」、家族や後見人が申請し、医師と法律家から認定されるなら殺害を可能とした」 |
・日本育種学会は、日本遺伝学会に改称。 ・「人性の遺傳」(1920年 『心理研究』) . ・「最近の大戰争と人種衞生」(1920年 『東洋學藝雜誌』) |
1921 |
第2回国際優生学会議がニューヨークで開
催(アレクサンダー・グラハム・ベル名誉議長)ヘンリー・オズボーン・フェアチャイルド(Henry
Fairfield Osborn, 1857-1935)の司会。 出席できなかったレナード・ダーウィン(Leonard Darwin, 1850-1943)は優生学的政策無き場合の人類の崩壊するとの確信を表明する |
・『遺伝学雑誌』創刊 |
1922 |
・3月マーガレット・サンガー来日、産児調整を訴えるが、永井潜や古屋芳雄は人口減を
目標にするネオ・マルサス主義を批判。 ・Popence and Johnson「應 用優生學」東京 : 大日本文明協会, 1922.(原著:Applied eugenics. 1918) |
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1923 |
【ドイツ】「遺伝学者エルヴィン・バウ
アー、オイゲ
ン・フィッシャー、フリッツ・レンツ(Fritz Lenz)共著
『人類遺伝学と民族衛生学の概説』で劣等な遺伝子の排除が民族衛生にとって最善であるとし、レンツは障害者の「繁殖」は安楽死よりも断種で予防できると
し、ヒトラーやナチスに影響を与え、後に「ナチス優生学のバイブル」と呼ばれ
た」 |
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1924 |
(北米)移民法 | ・後
藤龍吉による日本優生学協会『優生学』誌 ・『遺傳と結婚』(雄山閣 1924年) |
1925 |
・「日本優生學協會の第一戰線」 .
「財團法人日本優生學協會設立参考草案」, 「財團法人日本優生學協會創立發起人氏名」(1925年 『優生學』) ・「建設的産兒調節とはどんなものか : 英國の産兒調節運動の近状」(1925年 『産兒調節評論』) |
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1926 |
U.K. Eugenics Education Societyが、Eugenics Society (1926-1989)に改称。The Eugenics Reviewは引き続き刊行(1909 to 1968)。 | ・池
田林儀による優生運動協会『優生運動』誌 ・「法人運動の經過報告」 . 「優生學とはどんな學問か」(1926年 『優生學』) ・「優生運動に直面して」(1926年 『優生運動』) ・『通俗應用優生學講話』(冨山房 1926年) |
1927 |
精神遅滞者のキャリー・バッグの断種の決定を8〈対〉1で1927年の
連邦最高裁で決定(Buck v.
Bell, 274 U.S. 200 (1927))(トロンブレイ 2000:138-139)。 |
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1928 |
・日本遺伝学会第1回大会(九州帝国大学農学部) ・『人間』(萬里閣書房 1928年) ・「民族衛生施設に關する一考察」, 「各國の優生學運動」(1928年 『優生學』) |
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1929 |
A map from a 1929 Swedish royal commission report displays the U.S. states that had implemented sterilization legislation by then(下図) | 阿部文夫が国際優生学会より帰国、消滅し
ていた優生学会(1917-)の(再)設立を提案。東京帝大医学部生理学教室にで設立会議開催。永井潜が理事長に内定。優生学の俗用を嫌い「民族衛生学」を考
案。 ・『應用優生學』(萬里閣書房 1929年) ・「民族衞生學 (優生學) の社會醫學的使命」(1929-1930年 『優生學』) |
1930 |
・(1930年代)ドイツ:優生学に基づく断種が議論 | 日
本民族衛生学会設立(1930)の趣旨
は「生命の根本を浄化し培養せんとするのが我が民族衛生学会の使命」であるとして「政治を浄化し、経済を浄化し、法律を浄化し、宗教を浄化し」と記載され
ている(莇 2002:346)。 『性と生命』(武侠社 1930年) 「所謂 胎教と優生學」(1930年 『優生学』) ・『生物學叢話』(改造社 1930年) |
1929 A map from a 1929 Swedish royal commission report displays the U.S. states that had implemented sterilization legislation by then/ 永井潜(1876-1957)による『民族衛生(Race hygiene)』巻頭言(1931)
1931 |
「レンツ『人種衛生学に対する国民社会主 義の立場』で「ナチスは人種衛生学をその綱領の中心的な要求として代表する最初の政党」であると称賛」 | ・
永
井潜(1876-1957)による日本民族衛生学会『民族衛生(Race
hygiene)』巻頭言(1931) ・設立趣意書には、「新マルサス主義サンガー主義」を批判する旨が記載されており、当初から産児制限には消極的であったことがわかる。 ・『民族衞生』(創刊号 日本民族衞生學會 1931年 『民族衞生』) . ・『民族衞生』巻頭語 (日本民族衞生學會 第1-5巻) . 「民族衞生の使命」(1931年 『民族衞生』) |
1932 |
・優生学記録局ハ
リー・ラフリン(Harry
H. Laughlin, 1880-1943)は、優生学法の原型を提案。 ・優生学法はやがて、米国30州の州法に取り入れられ て、1970年代前半に廃止されるまで、6万5千人が強制的不妊手術を受けた。その対象者は、知的障害、精神異常、犯罪常習、てんかん、アルコール依存、 薬物依存、視覚障害、聴覚障害、奇形、遺伝病などが対象になる。 ・第3回国際優生学会議がニューヨークで開 催: The Third International Eugenics Congress (1932) ・7月30日にはプロイセン州で「劣等分 子」の断種にかかわる法律が提出(アクションT4) |
|
1933 |
・1933頃:カリフォルニア州は、米国でも有数の不妊手術の件数を誇
る。
Eugenics Society of Northern
Californiaを創設したCharles
Matthias Goethe(1875-1966)が先導(→Eugenics
in California) ・1月30日ナチス政権掌握 ・7月14日ドイツ「遺伝病根絶法(Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses)」(英訳:Law for the Prevention of Hereditarily Diseased Offspring)成立。断種の法制化。 ・日本では、この年に精神病や性病等を防ぐための配偶 者の相談者を受け付ける優生結婚相談所の設置運営を開始する。 |
・「遺傳より觀たる未來の社會」(1933年 『優生學』) |
1934 |
・第4回国際優生学会議は不開催で、チュー リッヒでこの年に会合。1936年にオランダのScheveningenで国際会合があったのを最後に以降開催されなくなる。 | ・Japan: The Race
Eugenic Protection Law was submitted from 1934 to 1938 to the Diet.
After four amendments, this draft was promulgated as a National Eugenic
Law in 1940 by the Konoe government. ・「強健なる後裔の為の戰ひ : 新しき獨逸斷種法」, 「スウエーデン新斷種法草案の批判」, 「斷種の動機及び目的」, 「ナチス斷種法に就いての感想」, 「強制斷種の法律的考案」, 「斷種法に就いて」, 「斷種運動の歴史」, 「斷種法に対する反對の反對」(1934年 『民族衞生』) |
1935 |
・9月15日 ニュルンベルク法(Nürnberger Gesetze; )の制定 ・12月ナチス、レーベンスボルン=生命の泉 (Lebensborn)協会を設置(→「ナチスの「生命の泉」計画と優生学」) |
・日本民族衛生学会は、日本民族衛生協会に改称。 |
1936 |
・日本民族衛生協会の永井潜らは1936年7月に断種法の制定を建議
(「民
族衛生振興の建議」 民族衛生 1936 年 5 巻 (1936) 3-4 号 p. 401-414;「民族衞生振興の建議」,
「民族衞生學的社會政策解説」(1936年 『民族衞生』) ・国会で断種法(八木逸郎)の提出(70,73,74議会) ・『人間の進化』(興文社 1936年 『石川千代松全集』8巻) |
|
1937 |
・『優生と結婚』(大日本圖書 1937年) |
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1938 |
・「1938年から1939年にかけて、重度の身体障害と知的障害を持
つクナウアーという少年の父親が、少年の「慈悲殺」を総統アドルフ・ヒトラーに訴えた。この訴えを審議した総統官房長のフィリップ・ボウラーと親衛隊軍医
のカール・ブラントは、その後の安楽死政策の中心人物となった」 |
・1月内務省から衛生局及び社会局が分離される形で、厚生省が設置される。設置当初は1官房5局(体力局、衛生局、予防局、社会局及
び労働局)からなり、外局として保険院が置かれた。予防局内に優生課がおかれる。 ・4月民族衛生協議会が(厚生省内に?)設置。 ・日本学術振興会に第26小委員会設置(優生学的遺伝研究) ・精神神経遺伝に関する学術調査(日本精神神経学会) ・内村祐之のアイヌのイム研究が同年に発表されている。 ・11月厚生省・民族衛生研究会(永井潜、三宅鉱一、古屋芳雄、川 上理一、吉益脩夫、青木延春、) ・「反對論者の言 斷種法反對論」(1938年 『優生學』 ) |
1939 |
・マーガレット・サンガー(Margaret
Sanger (1879-1966))、黒人の産児制限である〈ニグロ・プロジェクト; The
Negro Project〉を発足。 ・ユダヤ人の子供たちの受け入れ法案が連邦 議会で否決。反対派の頭目は、ハリー・ラフリン(Harry H. Laughlin, 1880-1943)。930人のユダヤ人を乗せたセントルイス号は、その多数がヨーロッパに帰還を余儀なくされ収容所で亡 くなる。 ・「ヒトラーは日付のない秘密命令書を発令 し、指定の医師が「不治の患者」に対して「慈悲死」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者」としての地位をフィリップ・ボウラー(Philipp Bouhler, 1899-1945)とカール・ブラント(Karl Brandt, 1904-1948) に与え」T4作戦(アクショ ンT4)の実施がはじまる。 |
・10月国民体力審議会において、民族優生制度の審議 |
1940 |
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・3月国民優生法の成立(断種は1948年の法の廃止まで、該当調査数=21,580
件;優生手術申請数=803件:手術累計数538件)——手術実施数は調査該当数の2.49%(太田 1967:158) ・池見猛『斷種の理論と國民優生法の解説』巖松堂書店, 1940年。 ・「國立遺傳研究所設立の急務」(1940年 『優生學』) |
1941 |
・T4による安楽殺が中止され、収容所に送
致する方針転換。 ・ナチの安楽死推奨を訴える宣伝映画「私は告発する」(1941)の主人公ハンナ・ヘイトの病名は多発性硬化症。プロパンガンダ 映画『私は告発する(Ich klage an)』の公開。 |
|
1942 |
・ヴァ ンゼー会議(Wannseekonferenz, Wannsee Conference) | ・ 『豫防醫學ノート』(河出書房 1942年) |
1943 |
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1944 |
・『遺傳学叢話』(甲鳥書林 1944年) |
|
1945 |
◎(再掲)ナチスの Gleichschaltung (強制的同質化) はユダヤ人排斥のための論理的予見をなしていたが、逆に論理的に突き詰めれば、なぜロマやユダヤ人への同質化のモーメントに繋がらなかったのだろう、と考 えることも可能だ。その理由は、優生学や人種学によるロマやユダヤ人が同質化にそぐわない「科学的証明」によるものだとしたらどうであろうか。つまり学問 そのものも戦争犯罪や人道的犯罪の被告になり得るのである。
◎(リビジョニスト横山尊(2020:204))《優生保護法は,国民優生法を手本としたナ チス 断種法を引き継いだ法律といった類の説明、は時代遅れ、という主張》
「優生保護法は,国民優生法を手本としたナチス 断種法を引き継いだ法律といった類の説明は1970 年代頃からありふれており,信じがたいことに今 でも成される. この見解は,優生学の研究史で再 三問題視されてきた.無論,国民優生法はナチス 断種法を手本にはした.しかし,問われるべきは, いかなる動機で何を手本にしたかであろう./ 厚生省の民族衛生協議会や民族衛生研究会にも 参加した吉益脩夫ら学会員や『民族衛生』誌は, ナチスの民族精神や人種主義にさほど共感せず, それを断種法に反映させた形跡がない.ナチス断 種法は,激しい断種法論争を背景に,「学理」に基 づ<ことを示す便法のため, 具体的遺伝病の列挙 などフォーマットが手本にされたのが実態だった. 言うなれば,ノルウェー草案のような風俗犯の去 勢や米国の一部の州にあった刑罰としての断種を 避け,ナチス式が採用されたのである./ もっとも,条文が表面的に似通っても,ナチス 断種法では重度のアル中,精神病者,社会からの 逸脱者と見なされた者や政治犯にまでにまで断種 がされたのに対し,国民優生法は断種法として十 分に機能せず,戦後に機能不全が批判されたのだっ た./ 上述の過程を踏まえず,優生保護法の悪辣さを 示す目的で国民優生法のナチス断種法への影響を 強調しても有害無益でしかあるまい.」(/は改行)。
この論証の問題点は、1)ナチス断種法→国民優生法→優生保護法の連続性と断続性の論点が未 整備。とりわけ、ナチス断種法を手本にした国民優生法だが、その適用に日本では現場が対応していなかった、ということと、2)国民優生法の後継である優生 保護法は国民優生法と同じではないが、ナチス 断種法を引き継いだのではない、という主張は明確だが、この3者の法令の比較がない。また、3)法律は、どのようなものでも、実際の適用で判断されるので ——破防法のことを思い出したまえ!!——、それらが仮に似ていたとしても、法を使う医療者や政策担当者が異なるために、違った様相をみせる——これが歴 史家である横山が本当は言いたかったところではないのか?——ことの説明が中途半端に終わっていることである。
(1945) | ||
1946 |
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1947 | |
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1948 |
Henry Fairfield
Osborn Jr. (1887-1969)が、Our
Plundered Planet、を公刊。人類の人口増加を懸念。第2次大戦後は、声高に優生政策を唱える論者は少な
くなったが、途上国における人口増加抑制政策を通して、西洋開発国側の「成長の限界」を回避するための政策は継続している。 ・American Society of Human Genetics 創設 |
・国民優生法を廃止して優生保護法を制定 ・駒井卓「日 本の資料を主とした生物進化学」 Japan: "According to the Eugenic Protection Law (1948), sterilization could be enforced on criminals "with genetic predisposition to commit crime", patients with genetic diseases including mild ones such as total color-blindness, hemophilia, albinism and ichthyosis, and mental affections such as schizophrenia, manic-depression possibly deemed occurrent in their opposition and epilepsy, the sickness of Caesar.[52] The mental sicknesses were added in 1952."[-> https://goo.gl/nJxGM7] ・青木延春『応用優生学としての断種』竜吟 社、1948年 |
1949 |
・日本母性保護医協会(現、日本産婦人科医会) |
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1950 |
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1951 |
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1952 |
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1953 |
ワトソンとクリックDNAの二重螺旋仮説を証明 |
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1954 |
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1955 |
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1956 |
国際遺伝学会開催(東京と京都) |
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1957 |
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1958 |
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1959 |
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1960 |
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*** | 第25
回日本民族衛生学会で1960 年10 月27 日に谷口弥
三郎が特別講演「如何にすれば民族優生を達し得
るか」を行なったことだ.優生保護法指定医団体
の日本母性保護医協会長,参議院議員として谷口
は50 年代の国会で「遺伝性精神病」者らへの断種
拡大を訴え続け,講演でもその主張を繰り返し,
優生保護相談所を活用した優生結婚の指導や精神
障害児向けの特殊学級の整備を唱えた. 翌28 日
は福田邦三が公開講演「日本民族素質向上の悲願」
を行ない,「公益断種は患者側の恨みを買うという
結果になりやすく, 医師は公益奉仕の良心と患者
奉仕の善意との間に板挟みの羽目になる」理由か
ら「優生断種を励行して民族の資質を向上させよ
うというには余り有効でない」などの注目すべき
発言をした(横山 2020:205)。 |
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1968 |
The Eugenics Review (1909-1968)
が終刊(→The Eugenics Review, Archives) |
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1972 1973 1975 |
The limits to growth : a report
for the Club of Rome's project on the predicament of mankind Roe v. Wade で最高裁は妊娠3か月までの中絶は法律で禁止されないことを示し、中絶が合憲にとされる(1973) アシロマ会議 (Asilomar conference) により、遺伝子組換えに関するガイドラインが議論された。 |
・1978年「年1 月の「座談会「Human Ecology と民族衛生」」では会誌の英文タイトル変更の 趣旨に70 年代的な解釈が加わった.勝沼晴雄の発 言によれば,‘、Rassenhygiene" を「ナチがやった 政策」ととらえ,「「民族衛生」に置き換えても, その暗いイメージというものは払拭できない」一 方, "Human Ecology" は「人間の将来のよりよい 生存条件を整備する,というための学問ですので, それを一緒にすれば, Race Hygiene の方の暗いイ メージも,自然に修正されて行く」と考えたとい う.丸山博も「Human Ecology と一体の概念の中 でEugenics を考えるほうが望ましい」と支持した」(横山 2020:206)。 |
1981 |
胚性幹細胞(ES細胞)が、マウスの胚か ら2つの研究グループ(Martin J.Evans and Matthew H. Kaufman; Gail R. Martin) によって独立に樹立される。Gail R. Martinは、embryonic stem cells (ES cells)と命名する。 | ・1983
年『民族衛生』誌の英文タイトルは83 年1 月(49 巻1 号)から"Health and Human Ecology" となった. しかし,
92
年に…鈴木継美は「変えてみると,今度は日本語名称〔『民族衛生』〕との釣り合いが取れない」と述べ,かかる感覚が一定数の会員に共有されていたのも実態
であろう.また, 70 年代後半でも,福田も丸山も「民族衛生」という概念からナチス優生政策は排除しても,ゴルトン以来のEugenics
やそれに連なる優生学的方策まで否定していないことにも留意すべきだろう. |
1989 |
Eugenics Society (U.K.) は The Galton Institute に改称。 | |
1996 |
世界初の哺乳類の体細胞クローンである雌 羊ドリー(Dolly, sheep)が生まれた。 | ・優生保護法を改正して母体保護法を施行 ・1998年国際連合人権委員会は、母体保護法による強制不妊手術を強いられた被害者への補償を日本国政府に勧告 |
2000 2006 |
2000米本昌平ら『優生学と人間社会 : 生命科学の世紀はどこへ向かうのか 』講談社 2006 山中伸弥らは、マウスの線維芽細胞より人 工多能性幹細胞( induced pluripotent stem cells, iPS)を作り上げた。 |
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2007 |
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2008 |
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2009 |
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2010 |
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2011 |
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2012 |
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2013 |
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2014 |
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2015 |
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2016 |
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2017 |
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2018 |
・優生保護法(1948-1996)強制不妊手術をめぐる訴訟、強制不
妊手術の宮城県の被害者女性が国家賠償請求訴訟を提訴 |
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2019 |
「旧
優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給等に関する法律」 |
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2020 |
・横山尊「優生学史における日本民族衛生学会の位置」『日本健康学会 誌』8685):197-208.2020. | |
2021 |
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2022 |
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2023 |
◎ 優生思想の歴史 : 生殖への権利 / スティーブン・トロンブレイ著 ; 藤田真利子訳、明石書店 , 2000/The right to reproduce : a history of coercive sterilization / Stephen Trombley, Weidenfeld and Nicolson , 1988.
【優生学は終わらない】優生学は20世紀におわった医科学のダークサイドのスキャンダルで21世紀はそうではないという楽観論に警鐘をならした書物(2000年).著者たちの予言通り優生学思想は現在もなお医科学者の頭の隅に掬う思考のパラサイトということだ.
◎横山尊『日本が優生社会になるまで : 科学啓蒙、メディア、生殖の政治』勁草書房 , 2015年
課題と方法の提示
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