加藤弘之
Katō
Hiroyuki, 1836-1916
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Baron Katō Hiroyuki (加藤 弘之, August 5, 1836 – February 9, 1916) was an academic and politician of the Meiji period Japan.[1] Biography Katō was born on August 5, 1836, to a samurai family in Izushi domain, Tajima Province (present day Hyōgo Prefecture), and studied military science under Sakuma Shōzan and rangaku under Oki Nakamasu in Edo. As an instructor at the Tokugawa bakufu's Bansho Shirabesho institute for researching Western science and technology from 1860 to 1868, he was one of the first Japanese to study German language and German philosophy. After the Meiji Restoration, Katō wrote numerous theses recommending Japanese adoption of Western forms of government, especially that of a constitutional monarchy with a national assembly based on representative democracy. He joined the Rikken Seiyūkai political party, and was also a founding member of the Meirokusha intellectual society organized by Mori Arinori. A strong believer in social Darwinism, he drew parallels a democratic government and the natural order. As a member of the Genroin, he strongly supported Statism, a much more authoritarian version of government against the views propounded by the Freedom and People's Rights Movement. Katō gave lectures to the emperor each week on constitutional and international law, using translations from western texts to explain the concept of separation of powers between executive, legislative and judiciary branches of government, the history of constitutions in Europe, and various forms of local administration.[2] Katō served as superintendent of the Departments of Law, Science, and Literature of Tokyo Imperial University 1877–1886, and again as president 1890–1893, and was head of the Imperial Academy 1905–1909. He was also a special adviser to the Imperial Household Agency. Katō was appointed a member of the House of Peers in 1890, and was ennobled with the title of danshaku (baron) under the kazoku peerage system in 1900. In addition, he became a Privy Councilor. He died on February 9, 1916. Honours From the corresponding article in the Japanese Wikipedia Baron - 1900 Grand Cordon of the Order of the Sacred Treasure - December 1905. Grand Cordon of the Order of the Rising Sun - April 1906. Grand Cordon of the Order of the Paulownia Flowers - February 1916 (posthumous) |
加藤弘之男爵(かとうひろゆき、1836年8月5日 - 1916年2月9日)は、明治時代の日本の学者、政治家である。 経歴 加藤は1836年8月5日、但馬国出石藩(現在の兵庫県)の藩士の家に生まれ、佐久間象山に兵学、大木喬任に蘭学を学んだ。 1860年から1868年まで徳川幕府の蕃書調所(西洋の科学技術を研究する機関)の教官として、彼は日本人として初めてドイツ語とドイツ哲学を学んだ。 明治維新後、加藤は西洋の政治形態、特に議会制民主主義に基づく立憲君主制を日本が採用することを推奨する論文を数多く執筆した。立憲政友会に参加し、森 有礼が創設した思想結社「明六社」の創設メンバーでもあった。社会ダーウィニズムの強力な信奉者であった彼は、民主政治と自然の摂理との類似点を指摘し た。元老院のメンバーとして、自由民権運動の主張とは対照的に、国家主義を強く支持した。 加藤は、西洋の文献からの翻訳を用いて、行政、立法、司法の三権分立の概念、ヨーロッパの憲法の歴史、地方行政のさまざまな形態について説明し、毎週天皇に憲法と国際法の講義を行った。 加藤は1877年から1886年まで東京帝国大学法学部、理学部、文学部の学部長を務め、1890年から1893年には再び学長となり、1905年から1909年には帝国学士院総裁を務めた。また、宮内省の特別顧問でもあった。 1890年に貴族院議員に任命され、1900年には華族院の爵位制度により男爵(だんしゃく)に叙せられた。さらに枢密顧問官にも就任した。 1916年2月9日に死去した。 栄誉 日本語版ウィキペディアの該当記事より 男爵 - 1900年 勲一等瑞宝章 - 1905年12月 勲一等旭日章 - 1906年4月 勲一等桐花大綬章 - 1916年2月(死後) |
年譜(加藤弘之) 1836年(天保7年) - 但馬国出石藩(現在の兵庫県豊岡市)の藩士として、同藩家老をも務めた加藤家の加藤正照と、妻・錫子の長男として生まれる。幼名は土代士(とよし)。 1852年(嘉永5年) - 江戸に出て佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。 1854年(安政元年) - 大木仲益(坪井為春)に入門して蘭学を学ぶ。 1860年(万延元年) - 蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。 1861年(文久元年) - 『鄰草(となりぐさ)』を著す。外敵を防ぐためには武器だけでは駄目で人和が必要であると喝破し、立憲思想(議会による上下分権)の優越性を論じ、同僚の西周や津田真道に大きな影響を与える(但し印刷・公表されたのは1889年)。 1864年(元治元年) - 旗本となり開成所教授職並に任ぜられる[5]。 1868年(慶応4年) - 1月、目付に任ぜられる。新暦12月12日、政体律令取調御用掛に就任。この年、『立憲政体略』刊行。 1869年(明治2年) - 新政府へ出仕、外務大丞などに任じられる。この年『非人穢多御廃止之儀』を公議所に提出。 1870年(明治3年) - 洋書進講担当の侍講に任ぜられる。旧暦7月、『真政大意』を著し天賦人権論を紹介。 1872年(明治5年) - ヨハン・カスパル・ブルンチュリ(英語版)の『国家学』を進講(後に『国法汎論』として翻訳出版)。 1873年(明治6年) - 明六社に参加。民撰議院設立論争では時期尚早論を唱えた。 1874年(明治7年) - 『国体新論』を発表。『日新真事誌』2月3日に、民撰議院設立尚早論を掲載。 1877年(明治10年) - 2月1日、東京開成学校綜理に就任。4月13日、旧東京大学法文理三学部綜理に就任。 1881年(明治14年) - 7月、職制改革により、旧東京大学初代綜理に(1887年1月迄)。11月22日、加藤の絶版届により『真政大意』『国体新論』の販売禁止(内務省達)。 1882年(明治15年) - 10月、『人権新説』出版、社会進化論の立場から民権思想に対する批判を明確にし、民権思想家との論争を引き起こす。一般的には、この『人権新説』を境に、加藤は自らの思想、態度を変化させたと考えられている。 1886年(明治19年) - 1月11日、元老院議官。 1888年(明治21年) - 日本初の文学博士の一人として学位取得。 1890年(明治23年) - 5月、旧東京大学を改制した帝国大学の第2代総長となる。9月29日、貴族院議員に勅任[6](1906年12月15日迄)。 1893年(明治26年) - 6月、帝国大学総長を辞任。7月、錦鶏間祗候。11月29日、『強者の権利の競争』(ドイツ語にも翻訳され5月、 Der Kampf ums Recht des Stärkeren und seine Entwicklung として出版)では、強権的な国家主義を展開した。 1895年(明治28年) - 7月、宮中顧問官。 1898年(明治31年) - 高等教育会議議長。 1900年(明治33年) - 5月、男爵に叙せられ華族に列する[7]。 1901年(明治33年) - 3月、東京帝国大学名誉教授の称号を授与される[8]。 1906年(明治39年) - 7月、初代帝国学士院長。12月10日、枢密顧問官。 1907年(明治40年) - 8月28日、『吾国体と基督教』、キリスト教を攻撃し、国体とキリスト教をめぐって論争がおこる。 1916年(大正5年):79歳で死去。遺言により、無宗教で葬儀が行われた。墓所は雑司ヶ谷霊園。 |
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1861
年(文久元年)に執筆された『鄰艸』はわが国で初めて立憲政体(上下分権の政体)の透徹した理解を示し、その強みと必要性を説得的に論じた画期的な著作で
あり、公表されなかったとは言え、同僚の西周や津田真道に読まれ、大きな影響を与えた。(上下分権とは、「君主万民の上に在りて之を統御すると雖も、確固
たる大律(憲法)を設け又公会(議会)と云える者を置きて王権を殺ぐ者を云ふ」) [9] また、1868年(明治元年)には『立憲政体略』を著わす。これらは人和がなければ兵器があっても外敵を防げず、人和のためには立憲政体(上下同治、君民 同治)が必要であるという論旨である。明治初年における政府内で、すでに将来の立憲政体樹立のコンセンサスが形成されていたことは、加藤の多大な貢献によ る。1872年(明治5年)宮島誠一郎の『立国憲議』、同年左院が正院に提出した『下議院を設くるの議』や1873年、大久保利通の『立憲政体に関する意 見書』などは基本的に加藤の論に基づいている。[10] 加藤の思想は終生現実的だった。 維新後はじめは天賦人権説に拠った啓蒙思想の傾向が強く、1873年(明治6年)には福澤諭吉、森有礼、西周らとともに明六社を結成、啓蒙活動を展開した。しかし後には社会進化論の立場から民権思想を批判するようになり、この180度の転向が終生攻撃の的となる。 加藤は1879年(明治12年)11月には、愛宕下青松寺での講演「天賦人権説ナキノ説并善悪ノ別天然ニアラザルノ説」で、進化論の立場から天賦人権説を 否定していたが、1881年(明治14年)に海江田信義がこれを批判すると、この問題は政府部内にも波及した。加藤は文部卿・福岡孝弟に促され、改めて天 賦人権論の立場から書かれた旧著『真政大意』と『国体新論』の絶版を宣言するという騒動になっている。 |
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『立憲政体略』 谷山楼、1868年 吉野作造編輯代表 『明治文化全集 第七巻 政治篇』 日本評論社、1929年11月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第三集 政治篇』 日本評論新社、1955年5月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第八巻 政治篇』 日本評論社、1992年7月、ISBN 4535042489 前掲 『日本の名著 34 西周 加藤弘之』 『交易問答』 谷山楼、1869年巻之上・巻之下 吉野作造編輯代表 『明治文化全集 第九巻 経済篇』 日本評論社、1929年8月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第十二巻 経済篇』 日本評論新社、1957年1月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第十巻 経済篇』 日本評論社、1992年7月、ISBN 4535042500 李長波編集・解説 『近代日本語教科書選集 第12巻』 クロスカルチャー出版、2011年6月、ISBN 9784905388371 『真政大意』 谷山楼、1870年7月巻上・巻下 吉野作造編輯代表 『明治文化全集 第五巻 自由民権篇』 日本評論社、1927年11月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第二巻 自由民権篇』 日本評論新社、1955年1月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第五巻 自由民権篇上巻』 日本評論社、1992年7月、ISBN 4535042454 前掲 『日本の名著 34 西周 加藤弘之』 川戸道昭、榊原貴教編著 『資料集成 近代日本語〈形成と翻訳〉 第11巻』 大空社、2015年10月、ISBN 4283011851 『国体新論』 谷山楼、1874年12月 前掲 『明治文化全集 第五巻 自由民権篇』 ほか 前掲 『日本の名著 34 西周 加藤弘之』 近代日本社会学史叢書編集委員会編 『近代日本社会学史叢書 第1期第4巻』 龍溪書舎、2007年7月 『人権新説』 谷山楼、1882年10月 『人権新説』 谷山楼、1883年1月第三版 前掲 『明治文化全集 第五巻 自由民権篇』 ほか 藤田徳太郎ほか編輯 『日本精神文化大系 第九巻 明治時代篇上』 日本精神文化大系刊行会、1933年10月 / 日本図書センター、2001年2月、ISBN 4820567268 前掲 『日本の名著 34 西周 加藤弘之』 前掲 『近代日本社会学史叢書 第1期第4巻』 『徳育方法案』 哲学書院、1887年11月 『教育勅語渙発関係資料集 第二巻』 国民精神文化研究所、1939年3月 貝塚茂樹監修 『文献資料集成 日本道徳教育論争史 第1期第1巻』 日本図書センター、2012年6月、ISBN 9784284306089 - 抄録 『雑居尚早』 哲学書院、1893年11月 『強者の権利の競争』 哲学書院、1893年11月 『強者の権利の競争』 日本評論社〈明治文化叢書〉、1942年9月 『道徳法律之進歩』 敬業社、1894年2月 瀬沼茂樹編 『明治文学全集 80 明治哲学思想集』 筑摩書房、1974年6月、ISBN 4480103805 - 抄録 『二百年後の吾人』 哲学書院、1894年3月 『小学教育改良論』 哲学書院、1894年4月 『日本之十大勝算』 哲学書院、1894年11月 『還暦祝賀始末』 加藤弘之、1898年7月 『天則百話』 博文館、1899年1月 『道徳法律進化の理』 博文館、1900年4月 『増補改訂 道徳法律進化の理』 博文館、1903年12月 『仏教改革談』 金港堂書籍、1902年8月 『学芸叢談 学問の話』 開成館、1903年4月 『進化学より観察したる日露の運命』 博文館、1904年3月 『自然界の矛盾と進化』 金港堂書籍、1906年12月 『吾国体と基督教』 金港堂書籍、1907年8月 『基督教の害毒』 金港堂書籍、1911年6月 鈴木範久監修 『近代日本キリスト教名著選集 第4期28』 日本図書センター、2004年4月、ISBN 4820587099 『迷想的宇宙観』 丙午出版社、1908年7月 前掲 『基督教の害毒』 『新文明の利弊』 金港堂書籍、1908年11月 『基督教徒窮す』 同文館、1909年7月 前掲 『基督教の害毒』 『学説乞丐袋』 弘道館、1911年10月 『自然と倫理』 実業之日本社、1912年3月 『国家の統治権』 実業之日本社、1913年6月 『新常識論』 広文堂書店、1914年9月 『責任論』 実業之日本社、1915年5月 『加藤弘之自叙伝 附金婚式記事概略 追遠碑建設始末』 加藤弘之先生八十歳祝賀会編、加藤弘之先生八十歳祝賀会、1915年6月 『加藤弘之自叙伝』 大空社〈伝記叢書〉、1991年11月、ISBN 4872363876 『人性の自然と吾邦の前途』 大日本学術協会、1915年11月 『覆刻 弘之自伝』 長陵書林〈日本思想史資料叢刊〉、1979年10月 |
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https://x.gd/5OTaS |
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Osamu
Sakura, Similarities and Varieties: A Brief Sketch on the Reception of
Darwinism and Sociobiology in Japan. Biology and Philosophy. Volume 13,
pages 341–357, (1998) This paper discusses the reception of Darwinian evolutionary theory and sociobiology in Japan. Darwinism was introduced into Japan in the late 19th century and Japanese people readily accepted the concept of evolution because, lacking Christianity, there was no religious opposition. However, the theory of evolution was treated as a kind of social scientific tool, i.e., social Spencerism and eugenics. Although evolutionary biology was developed during the late 19th and the early 20th century, orthodox Darwinian theory was neglected for a long time. In the mid 1980s, sociobiology was introduced but it was ignored and criticized by a large part of the ecologist-evolutionist community in Japan. This hostile attitude was due to the absence of Darwinism among these scientists. Compared with the reception of sociobiology in English-speaking countries, there were both similarities and differences in Japan. |
さくら・おさむ「類似点と相違点:日本におけるダーウィニズムと社会生物学の受容に関する概略」、『生物学と哲学』、第13巻、341-357ページ、1998年 本論文では、日本におけるダーウィンの進化論と社会生物学の受容について論じている。ダーウィニズムは19世紀後半に日本に紹介されたが、キリスト教が存 在せず、宗教的な反対がなかったため、日本人は進化論の概念を容易に受け入れた。しかし、進化論は一種の社会科学的手法、すなわち社会スペンサー主義や優 生学として扱われた。19世紀後半から20世紀初頭にかけて進化生物学が発展したが、正統派のダーウィニズム理論は長い間顧みられることはなかった。 1980年代半ばに社会生物学が紹介されたが、日本の生態学者や進化論者の多くから無視され、批判された。この敵対的な態度は、これらの科学者たちの間で はダーウィニズムが欠如していたことに起因する。英語圏における社会生物学の受容と比較すると、日本では類似点と相違点の両方がある。 |
Prestige and Comfort: The development of Social Darwinism in early Meiji Japan, and the role of Edward Sylvester Morse Sherrie Cross. https://doi.org/10.1080/00033799608560820 The importation of Spencerism and Social Darwinism into Japan in the early Meiji era (from 1868 to the early 1880s) occurred against a background of rapid economic and industrial change which provoked widespread political unrest. This accelerated modernization was forced by Western demands for trade liberalization and the threat of Western imperialism. In this context, selected elements of Western scientific naturalism and liberalism could provide a prestigious ratification of élite agendas for the management of change, provided they could be made culturally recognizable. It is suggested that traditional and Western knowledge claims were combined by key Meiji intellectuals in such a way that the product, Meiji Social Darwinism, supplied both the prestige of Western scientific positivism and the familiarity conferred by traditional resources. The clear differentiation between the constituents which made up Meiji Social Darwinism enables us to identify the distinct cultural functions performed by each of these sets of resources. In this study, these cultural functions emerge as elements in an élite class strategy. |
威信と快適さ:明治初期における社会ダーウィニズムの展開とエドワード・シルベスター・モースの役割 シェリー・クロス著。https://doi.org/10.1080/00033799608560820 明治初期(1868年から1880年代初頭)におけるスペンサリズムと社会ダーウィニズムの日本への流入は、急速な経済・産業の変化を背景に、広範な政治 的不安を引き起こした。この加速する近代化は、貿易自由化を求める西洋からの圧力と西洋帝国主義の脅威によって強制されたものであった。このような状況下 では、西洋の科学自然主義と自由主義の要素を厳選し、それが文化的に認知されるのであれば、変化の管理というエリート層の計画を正当化するものとして提供 することが可能であった。 明治の主要な知識人たちは、伝統的な知識と西洋の知識を組み合わせ、西洋の科学実証主義の威信と伝統的な資源から得られる馴染みやすさを併せ持つ「明治社 会ダーウィニズム」を生み出したと示唆されている。明治社会ダーウィニズムを構成する要素を明確に区別することで、これらのリソースのセットがそれぞれ果 たす独特な文化的機能を特定することができる。本研究では、これらの文化的機能はエリート階級の戦略の要素として浮上する。 |
『人祖論』(山中市兵衞 1881年) |
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