金関 丈夫
Takeo KANASEKI, 1897-1983
『日 本民 族と南方文化』の扉写真として掲載されたもの(71歳ごろの写真か?)
このページでは、人類学者として多大な業績を残し た、金関丈夫(かなせき・たけお;1897-1983)の人生と、同時代の社会。ならびに彼が収集した、沖縄(琉球)の人骨とその返還について検討する (→「京都大学と南西諸島の遺骨の収蔵ならびにそれらの返還 について」)。このページを設置した趣旨は、金関丈夫氏の1926年から1934年までの、琉球における発掘をはじめとするさまざまな民族学・人類学調査の実態について、 できるだけ正確に把握するためのものであり、闇雲に顕彰するものでも、また皮相的に批判するためのものでもないことを、このページの閲覧者に申し述べてお きます(2022年5月30日, 7月12日改定)。
氏の、その博覧強記、そしてさまざまな研究のアイ ディアを豊富に持つ金関であり、さまざまなあだ名をもつ。つまり「南方熊楠の再来」(→大林太良[Taryo OOBAYASHI, 1929-2001]の弁?)、「現代のゲーテ」(池田敏雄)、日本のダビンチ(ジョージ・H・カー, George Henry Kerr, 1911-1992)と言われる金関だがウィキペディアの日本語解説の概要は(中文=繁体に比べると)完結すぎる。そこで、中国 語の解説を引用する。
「由於金關丈夫雙親皆為 衛理公會信徒,故幼年即受洗為基督徒。明治43年(1910年)4月,金關丈夫13歲即進入儒學教育著名的藩校「閒谷黌」岡山分黌就讀。1919年7月, 自第三高等學校畢業,同年9月進入京都帝國大學醫學部就讀,1923年畢業後擔任該校解剖學教室的助手。/大正13年(1924年)1月,受足立文太郎教 授的指引,金關開始研究人類學,同時受教於清野謙次教授學習病理學,及濱田耕作教授帶領下接觸考古學。[1]同年3月,與新潟縣小野鈴藏的四女みどり結 婚,並在岳父的指導下學習古美術鑑賞。/大正14年(1925年)升為助教授,主講骨學,之後也於大谷大學、京都大學文學部史學科授課。昭和4年 (1929年)1月,進行琉球人掌紋調查及人骨採集的研究,昭和5年(1930年)9月,以《琉球人的人類學研究》取得京都大學醫學博士學位。昭和8年 (1933年)4月,金關丈夫與三宅宗悅一同前往遼東半島,參加東亞考古會的「關東州羊頭漥發掘調查」。昭和9年(1934年)9月,受命為台北醫專解剖 學與人類學的海外研究學者,由臺灣出發前往法國南部的馬賽港。/昭和11年(1936年)3月任台北帝國大學醫學部解剖學教授,與森於菟教授(日本文豪森 鷗外之長子)共同負責該校醫學院的籌設工作。同時也從事人類學、考古學、民俗學的研究,曾多次進行史前遺跡發掘與原住民體質調查。1941年參與 創辦《民 俗台灣》月刊,又以「林熊生」為筆名,發表偵探小說《船中的殺人》、《龍山寺的曹老人》。/昭和17年(1942年)1月,與移川子之藏、宮本延人、國分 直一一同進行台南州大湖遺跡的發掘調查。昭和18年(1943年)8月,與國分直一進行台中州營埔遺跡發掘。昭和18年(1943年)12月,於萬華有明 町發掘貝塚。/二戰結束後,國民政府留用為台灣大學教授,1948年5月,與國分直一進行小琉球漁民的體質調查及考古調查。[1]1949年,受228事 件的影響,返回日本。任教於九州大學、鳥取大學、帝塚山學院大學等。1979年與國分直一合著《台灣考古誌》。/昭和54年(1979年)3月,自帝塚山 大学退休,後於天理市岩室町的自宅整理個人著作。昭和58年(1983年)年2月27日早上,因心肌梗塞逝世,享年八十六歲。」
「金関さんは、伊波普猷はもとより、柳田国男や折口 信夫のように、主として人間の心情より南方文化を探求しようとし た人ではなく、そのような心情を充分にもちながら、物に即して科学のメスを振るった人であ る。沖縄の人々がどう考えるか、或いはどう考えて きたかを問うのではなく、調査と研究によって導かれた事実に、時として金関さんは非常なまでに真実を語ら せていることがある」(中村哲 1978:286)。
★旧クレジット:金関丈夫と琉球の人骨: Dr. Takeo Kanaseki and
Ryukyuan Remains.
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1609 島津軍勢が琉球征伐のために運天に上陸。
1697 『中山世譜』
尚徳王失徳。履宗絶祁。由是。監守
貴族之徒。皆遁世而隠。即今。今帰仁間切。下運天村。所謂百
按司墓者。其貴族之墓也。墓内枯墓甚多。又有骨篭数個。以木為之。修飾尤美。皆銘巴字金紋。而一
個。梢新者之壁。有字云。弘治十三年九月某日。以此考之。則其貴族。至干尚真王代。而老霊罵。此
其誼也。
(大意:尚徳王は失脚し、今では監守貴族たちも皆世の中から隠れて暮らしている。今
帰仁間切の
下運天村に百按司墓という墓があり、その貴族たちの墓である。墓の中には古い骨が多数散乱し、ま
た骨の入った篭も数個ある。これらは木で作られていて、美しく飾られている。金色の巴紋のものが
一個あり、それは他のものと比べて新しく、弘治十三年九月某日の字が記されている。すなわちその
貴族たちが、尚真王の代に至って老い絶えてしまったことの証拠だろう。)
1872-1879 廃藩置県(1879)琉球併合 (いわゆる「琉球処分」の完了)、琉球が日 本の植民地統治下に入る。以降「沖縄」と呼ばれる。
1881 上杉茂憲県令が百按司墓を訪問。墓の荒れ ることを視察、翌年修復を申請(今帰仁村教育委員会 2004:6)。
「墓の築造以降、墓所は重要な参拝地として人も訪
れていたことであると考えるが、これ
らを知ることのできる文書は希少である。墓所の様子と増改築があったことを伝える事例
として、明治14(1881)年上杉県令が今帰仁問切を訪れ百按司墓を巡見したときの記録か
ら知ることができる。それは、「山ノ半腹二遼洞アリ、白骨ノ調儀、其ノ中二堆積ス、或ハ
腐朽セル、鎧植ノ中ニアルモアリ、士人伝ヘテ、百按司墓ト伝う」と県令日誌に記されて
いる。当時の百按司墓が荒れ果てていたことを伺うことができる。翌明治15年2月2日付で
県令上杉茂憲から内務卿山田顕義へ「管下今帰仁間切運天港側白骨埋座ノ義二付上申」書
が提出され、さらに明治15年8月3日付で内務卿山田顕義から太政大臣三条実美に伺いが立
てられている。その返事は「県庁費中ヲ似テ支弁セシムヘシ」というもので、百按司墓は
県の予算で修復されることとなった。」
1882 上杉県令による上申が裁可され修復がおこ なわれる(今帰仁村教育委員会 2004:6)。
「百按司墓修復については『沖縄県史』12巻史料 編(2)841-842頁に掲載されている 「沖縄県下今帰仁間切白骨埋えいノ件」と題する資料にその経緯を見ることができる この文書によると、百按司墓の修復の予算は総額40円6銭。上杉県令から内務卿宛の文 書に「至急御裁可して欲しい。御裁可できたら別紙(見積書)の金額40円6銭を別途支給 して下さい」旨の内容が記されているので、百按司墓の修復費用は補正予算でもって組ま れたものと思われる。修復見積の内訳は材木や石、小石、石灰などの材料費がおおよそ18 円。残りの金額が石工人夫、その手伝い、石灰を練る職人の賃金となっている。 上杉県令の具申は通り、その後百按司墓の修復がなされた。修復の時期についてははっ きりしないが、上杉県令の具申が通った直後に修復がなされたと考えられる。菊池幽芳が 『琉球と為朝』(明治41年)の中で「明治15年には始めてこれらの石畳(石垣)を設けてか らは、空気の疎通を妨げたのと、中には湿気が多い」と修復後の様子を記している。」
1885 島袋源一郎、今帰仁村謙次に生まれる。
1890 Minik Wallace(1890
-1918)が、Greenlandで生まれる
1893 5月〜10月笹森儀助、南島探検。百按司 墓の遺骨の 持ち出しを画策するが失敗(松島 2018:53-54)
1893 笹森儀助による百按司木棺の図面作成 (仲原 1993)
「明治26年、修復から数年後に運天を訪れた笹森 儀助が「番所ノ南、百按司山二百按司墓 ヲ参拝ス。洞窟ハ数年前、石垣へ悪塗ニテ堅メ外部ヨリ顕レタル数百ノ濁膜ヲ蔽ヘリ」と 記している。「悪塗ニテ」とあるのは、漆喰の状態があまり良くなかったのであろうか。笹 森は第一墓所に納められていた屋根のついた棺等の実測図を残しており、「造りは精巧人目 を驚かす、恐らくは(琉)球人の細工にあらざるくし」とコメントを残している。」(今帰仁村教育委員会 2004:6)
1895 4月日清講和条約調印
グスタフ・シュレーゲルが、元以前の「琉 球」は台湾のことを指し、明以降は沖縄県周辺のことを指すようになったとする説を主張。
1896 山口秀高、台北病院長に任命。5月台湾医 業規則公布
台湾公医規則(台湾総督府令第8号)公布(6月3
日)
1897 2月阿片令を公布、漸禁策を採用。
ルートヴィヒ・リース(帝国大学文科大 学・史学科・教授)は『台湾島史』(吉国藤吉訳、1898年)において「流求」は台湾を指すと主張。
1897 2月18日金関丈夫、香川県仲多度郡榎井村で生まれ る。両親はキリスト教徒であり、受洗している(メソジスト) 父・喜三郎、母たみの間の長男。
1898 総督・児玉源太郎(46歳)、民政長官・
後藤新平(41歳)着任。
1899 4月台湾総督府医学校が開講。 『台湾医事雑誌』創刊(2年後に年末に廃刊)。※日本では伝染病研究所は国立に移管。(→「臺北帝國大學醫 學部ならびに醫學專 門部(臺灣總督府醫學校)」)
1900 当時の阿片吸飲者は約17万人、人口の 6%と発表される。
1902 山口秀高に代わり高木友枝が台北医院長等 に着任。台湾医学会を結成、『医学会雑誌』を創刊。
1903 第一回台湾医学会大会を開催。島袋源一 郎、沖縄県師範学校に入学。
1904 足立文太郎、京都帝国大学・医科大学・解
剖学第二講座初代教授(-1924)として赴任。
1905 島袋源一郎、運天百按司墓の木棺調査、木 棺を首里博物館に運ぶ(東恩納 1957)1905 島袋源一郎(当 時20歳)、運天百按司墓より木棺調査、木棺は首里博物館へ
1906
台湾、後藤民政長官退任。
3月22日 菊池幽芳、運天百按司墓現地調査(仲 村源正の立会い)(菊池 1908)/
加藤三吾の『琉球の研究』「(運天港の)後丘の崖
下に百按司墓(モモジアナ)と呼ぶ古墳があって白骨の累々として推積し、鎧植に似た個数の敗棺も在るが、棺側に巴字の紋形績に存し弘治十三年九月某日の文
字も辛く認められる」
1907
足立文太郎「臺灣蕃人頭葢」『東京人類學 會雜誌』22, no. 252・254・255(1907)板垣(2020:82)に足立が収集分析した15体の頭蓋骨に関するリストがある。
菊池幽芳、運天百按司墓現地調査。島袋 は、この年、沖縄県師範学校を卒業し、名護小学校訓導などを歴任(『沖縄県史』別巻、沖縄近代史辞典、p.301)
1908 菊池幽芳『琉球と為朝』文録堂(→百按司墓の記述部分pdf)。国分直一、東京に生まれる。
1909
総督府研究所設置、高木友枝が所長を兼
任。
1909-1914 金関丈夫、父の転勤で住んだ松
江の旧制中学時代に(幼児洗礼のメソジストより)聖公会に入る。この時期に聖公会のバークレー・E・バックストーン師来日(国分 1988:245)。
1910 4月金関丈夫は、岡山備前の閑谷学校(しずたに)=旧制中学に入学
1911
木造台北医院を取り壊し。7年計画にて大 正十(1921)年本館・病棟・伝染病棟完成
伊波普猷『琉球人種論』 小沢博愛堂,1911.(Fuyu_Iha_origin_race_ryukyu.pdf with pass word)
濱田耕作、日本ではじめて京都帝国大学文科大学の
考古学教授となる。
1912 金関、この頃(中学3年)メソジストか
ら、聖公会に改派。当時の松江教会創設者バークレー・E・バックストーン師の来日に霊感を受けたという(国分 1988:245)。
1913
1914 Edmund Simon,
運天百按司墓調査: (Edmound 1914)
Edmund M.H. Simon (1882-?) はドレスデン生まれ。Tübingen, Berlin, and Greifswaldで法律を勉強するとともにベルリンで日本語を勉強。1904外交官試験に合格。Greifswald大学で法学博士。1908- 1910に日本滞在。1910年に沖縄訪問。"His detailed field research led to another inaugural dissertation for a PhD from the philosophical faculty of the Royal University of Leipzig in 1912, which was published in 1913. On a scope of 182 pages, it is divided in two parts: geographical contributions (chapter I.-VII.) and ethnological contributions (chapter VIII.-XIV.). It includes 159 maps, plans, illustrations, and photos" - Edmund M. H. Simon and the photo of Ufuchiku.
"Dr. Edmund Simon
(1882–?) studierte Rechtswissenschaft und Philosophie an den
Universitäten von Tübingen und Berlin. Außerdem studierte er in Berlin
noch Japanisch. Nachdem er 1908 seine Prüfung bestanden hatte, wurde er
zum offiziellen Dolmetscher der deutschen Botschaft von Tokyo ernannt.
1909 wurde er zum Konsul für Kobe und Nagasaki berufen. Er verließ
Japan Ende 1910 nach Europa und beendete auch den diplomatischen
Dienst. Er widmete sich der Schriftstellerei und kehrte 1911 nach
Nagasaki zurück, um als Lehrer für Deutsch an der Handelsschule von
Nagasaki zu arbeiten. Für sein Studium der Ryukyu-Inseln wurde ihm
später von der Leipziger Universität der Titel Dr. jur. verliehen." - https://oag.jp/people/edmund-simon/
この年、島袋源一郎、国頭(くにがみ)郡教育部会
の委嘱をうけて『沖縄県国頭郡誌』の執筆を開始する。この著作は、5年後の1919年に、沖縄県国頭郡教育部会より出版される
西来庵事件=余 清芳事件(日本領台湾の台南庁噍吧哖[タパニーTapani incident-1915;玉井区]で発生した本島人による最後の 抗日武装蜂起)
(1915年頃?)丈夫、第三高等学校に進学。ト ルストイアンになり、菜食主義を始める。国分は、金関の生涯におけるヒューマニズム的志向をトルストイアンから説明している(国分 1988:245)。
1916 金関丈夫、沖縄本島を訪問(金関 1978)。
1917 3-4月 柳田國男が台湾視察旅行;「海
知らぬ島びとこそあわれなれ山のはざまをおのが世にして」(日月潭)『台湾日々新報』(SOM_2004-Ch05-6.pdf)
1918
Minik Wallace(1890 -1918)が、Pittsburg, New Hampshire, United Statesでインフルエンザにて死す(28歳) [→「お父さんのからだを返して」]
医学校に、専門学校令による専門部を併設(→「臺北帝國大學醫 學部ならびに醫學專 門部(臺灣總督府醫學校)」)。
大正7(1918)年5月台北病院の医師・桂三友が、京都帝国大学解剖学教室に紅頭嶼(Botel
Tobago)蕃人ジルク(享年22歳——死亡時期不詳)の全身骨格を寄贈(標本番号 3017)する。12年後の1930年5月に金関丈
夫・中野由巳により「人類学雑誌」に記載される。
1919
3月1日三・一独立運動(March 1st Movement)三高の同級生、金億兼の憤慨と共感(国分 1988:245)。
金関、7月第三高等学校卒業。9月京都帝 国大学医学部に進学。
島袋源一郎、5年の歳月をかけて『沖縄県国頭郡 誌』が完成、沖縄県国頭郡教育部会より出版される。「垣を禁じて中を窺うに木篭及び鎧植の如き朽薩数個ありて白骨累々として堆積せり。而して壁側に『弘治 十三年九月某日』およびえさしきやのあし(伊差川の按司ならん)の墨痕を認め得くし」
1920
島袋源一郎、沖縄県初代社会教育主事に就
任。
1921
清野謙次(Kenji KIYONO, 1885-1955)
清野謙次、微生物学講座教授に就任。この
ころから清野は人骨収集に励むようになる(収集人骨は、縄文時代人骨・古墳時代人
骨・アイヌ人骨等、約1,500体に及ぶと言われている)。
1922
濱田耕作『通論考古学』大鐙閣。金関、バオリニス ト、フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875-1962)の来日公演に感動し、京都、大阪、神戸で鑑賞。マックス・クリ ンガー(Max Klinger, 1857-1920)『絵画とデッサン(Malerei und Zeichnung, 1899)』の翻訳をはじめる(国分 1988:246)。
1923 26歳
京都帝国大学医学部を卒業(7月)。すぐに京都帝 国大学医 学部解剖学教室助手(足立文太郎教授[1865-1945])に就任。
9月1日関東大震災。柳宗悦、京都に転居し、「民 藝」(用語は1925年以降)運動を本格化する。
島袋源一郎、沖縄県島尻郡視学に就任(翌年沖縄県 視学)。
*
同志社大学の板垣竜太さん(2020b:143, 163,
166)によると、百按司で金関が収集した遺骨は、足立文太郎の命令により収集し、その一部が、清野に渡った可能性があるが、「琉球民族遺骨返還訴訟」で
争われている、26体のうち25体は、百按司の遺骨は、清野の命令により南西諸島で広範囲に集めた三宅宗悦によるものだと、板垣さんは主張されておられま
す。そして、「金関丈夫は、……1929年1月に沖縄本島各地で人骨を収集したことは間違いないが,金関はその後赴任した台北帝大にそれらを全て持って
いった」と記しています。この文章が書かれたのは、2020年4月7日であるが、2年後の2022年4月21日に京都地裁の第一審の判決での、裁判所の
「認定事実」の判断では「(キ) G[=金関のこと]は、上記 、(オ)、 (カ)で収集した人骨を京都帝国大学に持ち帰った後、昭
和9~11年頃、台北帝国大学(当時。現在の国立台湾大学)に転任するに際し、その全部又は一部(少なくとも頭蓋骨33体分)を同大学に持
ち出した(甲41〔268頁〕、55〔11頁、13頁〕)」とされている。つまり、当該裁判で争われた遺骨を含めて《金関丈夫の収集した百按司の遺骨がい
まだ京都大学に存在する可能性》ことを否定していません。 MIYAKE, Muneyoshi, 1905-1944; みやけ・むねよし 板垣さんの当該論文(2020b)での、論証は、公開された論文や記録にもとづいて丹念に追求されたものですが、彼の意見書の主張「台北帝大にそれらを全 て持っていった」と、裁判所の「その全部又は一部(少なくとも頭 蓋骨33体分)」を台北帝大に持っていったという、両者のあいだには、完全に一致するわけではありません。学問の手法の区別でいうと、板垣 さんの方法は「文献的実証主義」、そして裁判所の方法は「ローカル・ノレッジ」 あるいは「厚い記述」にもとづいて、事実を構成していることになります。 また、人骨を実見もしていない板垣さんが、実際に人骨を実見し、かつ「百按司墓木棺修理報告書」(2004)で報告している土井直美・琉球大学名誉教授の 指摘内容を「誤り」ないしは「誤認」と断定している(板垣 2020b:162)。土井さんの訴訟の対象になっている骨も、それ以外の、百按司もまた、「全部ないしは一部」のうち、少なくとも「一部」は、京都大学 にあることを証言しており、また、裁判所はそのように認定していることからも、板垣さんの断定は、学問的慎重さに欠けていると思われます。さらにその理由 を、「歴史研究の基本である史料批判抜きに,土井直美氏の金関の孫弟子としての思い込みや伝承にもとづいて記した結果であると言わざるを得ない」(板垣 2020b:162)と表現することは、私たちが守らなければならない、判断の妥当性への批判を超えた個人攻撃(ad hominem)にもなりかねないと、私(池田)は危惧しています。 その後、琉球人遺骨返還訴訟の控訴審の途中の2023年において、京都大側は、当該訴訟の返還請求の対象の遺骨26体の保管中の写真ならびに保管状況につ いての説明文書(=意見書?)を裁判所に提出している。 琉球遺骨の収集に関する裁判所の認定、より |
1924 27歳
1月解剖学教室の足立文太郎(1865-1945)教授門下となる。足立は金関を病理学教室教授、清野謙次(1885-1955)に引き合わせ、清野は京都帝國大学考古学教室の濱田耕作(1881-1938)教授にひきあわせたという(松田道雄「金関丈夫先
生のエッセイを身をすくめて読む」毎日新聞1980年12月2日)。金関は、人類学と考古学への興味が拓かれる。以降、濱田の「カフェ・アーケオロジア」
に出入りするようになる(金関恕 199:72)。
3月新潟県の小野鈴蔵四女、小野みどりと結婚。小 野鈴蔵は、古美術に造詣が深く、丈夫は彼の影響も受ける。また、柳宗 悦(Yanagi Sōetsu, 1889-1961)とも学部在学中より交流があった(国分 1988:246-247)。
4月9日柳宗悦「朝鮮民族美術館」を京城(ソウル)に設立する。
伊波普猷『琉球聖典 おもろさうし選釈』石塚書店.
9月「大正十三年九年友人桑田理学博士は植物研究
に同地に渡られた際のお土産として運天に於て壺中に発見せられた現代沖縄人骨(五百九十六号)を持ってこられた。支那人の骨とよほど似通った点がある上に
於て非常に面白いと感じた」(清野 1925:212)。
永井昌文(-2001)鹿児島で生まれる[→ページ内タグジャンプ]。(この情報は楢崎修一郎さん(1958-2019)のブログ「人類学のススメ」による)
岡茂雄[1894-1989]岡書院を創業する (→茂雄の弟は「岡正雄(1898-1982)」)。
また、清野謙次は、596号番号の百按司の遺骨 を、友人・桑田博士からの「お土産」にもらっている[板垣 2020:156-157]。
出典にリンクします:「琉球民族遺骨返還訴訟への 意見書」(『評論・社会科学』134, 2020, pp.141-177) https://researchmap.jp/read0201419/works/30077383
1925 28歳
伊波『校訂 おもろさうし』南島談話会.
4月、京都帝国大学解剖学教室助教授、骨学などを 大谷大 学や京都帝大の史学科等で教育する。
清野賢次『日本原人の研究』岡書院
11月ごろ小橋川朝重氏は嶽貝塚より大腿骨を発見
する(金関
1929:217)。
1926
丈 夫夫妻の、長 男・毅(たけし)が生まれる。後の調査地の百按司(むむじゃな・ももじゃな)に関する風葬の記述は、1929年に公刊される柳田國男「葬制の沿革について」人類学雑誌、 1929 年 44 巻 6 号 p. 295-318.が詳しい。
1927
清野謙次・金関丈夫『人類起源論』
11月27日次男・恕 (ひろし, 1927-2018)京都で生まれる。
この年、島袋源一郎、名護小学校校長に就任。国分直一、台北高等学校を卒業し、京都帝国大 学文学部史学科に入学(1930年卒業)。
1928-1929年当時:京都帝大 医学部足立文太郎(Buntaro Adachi, 1865-1945)教授は、金関丈夫に琉球人骨の採集を命ずる(財源は帝国学士院からの補助金)。金関は県庁学務課長の案内にて沖縄北部を巡回し、島袋 源一 郎の協力のもとに、百按司墓より人骨を収集。他に、瀬長島や中城城より人骨収集。あわせて女子師範学校や県立第一中学の生徒らの手掌紋(しゅしょうもん) を採集し、体臭の調査をおこなう(松島・木村 2019:320)(松島 2018:50)
「金関丈夫は1927年12月から1928年1月の間に手掌紋等の採集と同時に、頭髪及び 多数の骨格を沖縄本島で採集している」(が未発表である)と須田(1950:113)は報告している。——須田昭義(1950)「人 類学からみた琉球人」『民族学研究』15(2):109-116.
1928
1928-1944年における「足立文太郎の日本人種観」(サイト内リンク「足立文太郎」)
1929 金関32歳
1928年12月〜 1929年1月:金関丈夫による百按司、人骨調査(2回目)琉球滞在は1929年1月5日〜1月24日(→「琉球の旅」 『琉球民俗誌』1978)[板垣 2020:150]
百按司の遺骨収集に先立ち「現に東京帝国大学人類学教室には、鳥居竜蔵博士が中城城下で採
集した十
数個も保管されている」ことを知る(『琉球民俗誌』184ページ)
清野謙次・金関丈夫『人類起源論』岡書院
移川子之蔵(1884-1947)が、台北帝国大
学文政学部教授(兼・評議員)として赴任し、土俗学・人種学主任となる(人種学はEthnologyの翻訳として使われている)。
1月8日:大量の人骨を発見(運天・百按司;第4 号洞)数個の頭蓋。
1月9日?県庁に訪 問。
1月10日 沖縄師範学校と県立第一中学にて、頭
骨等を「借用」
1月11日島袋源一郎(1885-1942;当時 44歳)、仲宗根村駐在、運転手を助手にして人骨を採集する。第1,4,6,7,8号洞
1月12日(運天・百按司;第4号洞)さらに在郷 軍人(「本地方人 特有の嫌悪を示し、直接これに触れる ことを肯[うけが]わない)も加勢する(金関 1978:242)。
那覇の小橋川朝重の案内で那覇市外城嶽貝塚より石
器時代の大腿骨を得る(1月21日)「但し予としては之れらの報告に多大の興味を感じたのであはよくば完全人骨の数体と明刀銭とを同時に同遺跡中より発掘
する位の意気込みで準備を進めたが、此の発掘は失敗に終つた」(金関
1929:220)「滞琉中に沖縄県立図書館長真境名安興氏の談により本大腿骨の存在を知ったので」(金関
1929:219)「沖
縄縣那覇市外城嶽貝塚より発見せる人類大腿骨に就いて」人類学雑誌 44(6):217-230, 1929 https://doi.org/10.1537/ase1911.44.6_217
〜1月まで沖縄調査。1929-1932年金関は
雑誌に「琉球の旅」を連載。
人類学者・金関丈夫は、今帰仁村(なきじんそん)の百按司(むむじゃな)墓から遺骨(33 体)あるいは(26体:男性15体、女性11体)を研究目的で持ち出す。
沖縄滞在中に収集した「現代琉球人大腿骨」は 117側と記載。(金関 1929:225)「沖縄縣那覇市外城嶽貝塚より発見せる人類大腿骨に就いて」人類学雑誌 44(6):217-230, 1929 https://doi.org/10.1537/ase1911.44.6_217
出典にリンクします:「琉球民族遺骨返還訴訟への
意見書」(『評論・社会科学』134, 2020, pp.141-177) https://researchmap.jp/read0201419/works/30077383
宮本延人(前左起,臺北帝國大學教 官)、後藤武夫(巡查,臺東卑南族人)、小此木忠七郎(學者)、移川子之藏(臺 北帝國大學教授)、田中氏(後左起,巡查)、鹿野忠雄(東京帝國大學地理科動物學學生)、馬淵東一(臺北帝國大學學生)與眾達悟族人,紅頭社駐在所前 (1929年撮影と言われる)
1929年8月発刊の(清野研究室に属していたと
思われる金関とも共著論文もある)金高勘次「琉球國頭郡運天に於て得たる現代沖繩人人骨の人類學的研究」『人類学雑誌』44(8)399-
247,1929が報告した人骨は、金関丈夫のものではない。この人骨論文は1928年12月に脱稿しており、校正にて以下の文章が追記されている。「京
大の金關氏は昭和四年一月に沖縄へ探集旅行をされた。随分因難な事情を排してかなり多數の人骨を手に入れ収獲は多かつた様である。研究の結果は斯界に取つ
て多大の貢献である事は云ふまでもない。若し余の一編が此大軍の一尖兵とも蹴り得ば誠に望外の僥倖と云つてよい」(金高 1929:421)。
5月「完全なる紅頭嶼男子全身骨格の一例に就いて
(1)」人類学雑誌 45(3):95-117. https://doi.org/10.1537/ase1911.45.95
続報45(5):183-200,1930; 46(6):220-241., 1930.
9月金関丈夫は論文「琉球人の人類学的研究」(論文は1930年と1932年に公刊[第一報告][第二報告])で京都帝国大学より医学博士号を 取得。
【琉球人の人種的認定は遠ざけているが、その形質的独自性の有無を調べるために、それは仮想的に存在するという修辞法がみられる】
「初めに断って置きたいのは、本研究の題目に「琉 球人」と云ふ名称を使用した点である。之は固より所謂「日本人」「大和民族」等に対して、琉球人と云ふ一種の民族或いは人種が存在すると云ふ事実乃至は仮 定を表はしたものではない。否斯かる特殊な人種が存在するか否かを知り度(た)いという必要が吾人を此の研究に向かわしめた主たる動機の一つであって、そ の存在が当初より疑問であるからこそ、本研究が存在するのである。故に琉球人と称するよりは「沖縄県人」等の呼称を用ゐる方がより妥当と思われるし、現に 或る種の必要から後者の如き用例を奨められた事もあったが、吾人が本研究で取り扱わんとするのは、実は独り沖縄県下の住民のみならず、時によっては奄美大 島の如き、今日鹿児島県の管轄下にある地方の人々を同時に包容するのである」(金関丈夫 1930:附 513)。
【そして、それは日本人の位置付けを明らかにするために「琉球人」のカテゴリー的位置付けも必要になる】
「本研究は即ち斯かる意味に於ける「琉球人」の体 質的人類学的研究である。これは独り琉球人の人種的所属を知る上に必要不可欠なるのみならず、其の周圍民族、殊(こと)に吾が日本人の由来、成立を知る上 に重要なる手掛かりとなり得べき研究である」(金関丈夫 1930:附 514)。
【結論において、その人種的「位置」は原始的か、否かで測量できるように主張している】——この 表現が可能になるのは、当時の形質人類学が人種の種的差異の高低を前提にしていからで、金関が、この論文で冒頭に表現したような、本島の日本人との種的差異があることを明確に意識しているこ とである。
「……の性状においては、一般琉球人は比較的原始 的に遠ざかれる点に於いて、生蕃人、アイノ人、日本人、前印度人等、東亜諸人種に近き関係を示し、白人、黒人等とは異なってゐる。宮古、八重山地方人は一 般琉球人と大差なきも、特に甚だしく隔たる点があった。……に於いて、琉球人は、生蕃人、アイノ人に比較的遠いが、本三叉線の位置の諸型の頻度の点に於い ては、之れら三者は相似てゐる」(金関丈夫 1930:附 659)。
また、白人、黒人、猶太人は、原始的なもののグループにカテゴリー化されている。「之 れらの東亜諸人種は、比較的に原始性に乏しき点において、共通の性状を有し、白人、黒人、猶太人等は、この点において東亜人種よりも原始的である」(金関 丈夫 1930:附 660)。
「以上を約言すれば、琉球人は手掌部、足蹠(そく せき)部理紋に於いて一般モンゴーレンに比しより退行的であり、此の点において手掌部理紋は比較的白人系人種に近く足蹠部理紋は之に遠い。……因(もと) より以上の成績は、之を以って直ちに本(=琉球)人種の位置を決 定すべき底のものではないが、今後予自身の手によって表せられるべき、琉球人骨格其の他の 研究の成果と彼此(かれこれ)照応考究せば、必ずや或る程度の寄與を、本人種問題の上に為し得べきものであると信ずる」(金関丈夫 1930:附 661)
【コメント】以上をもって、金関が「人種の種的差
異」を前提に議論していることは、否定し難く、また、人種の優劣についても「全く言及せず、かつ主張しているわけではない」という主張は困難なように思え
る。このような私の所見は、金関の学問全体の業績を否定するものではなく、これらの部分に、いわゆる認識論的な「時代状況的制約」があり、金関のみなら
ず、あらゆる研究者が甘受せねばならない試練であることは言うまでもない。学問というものは論理実証的な「反証可能性」と科学社会学的な「科学者集団内部のコンセンサス」をもって健全な進歩をかろうじて達成する
にすぎない。
「1930年晩秋夕刻、神玉小学校(山口県下関市 豊北町大字神田上2704番地1→2019年3月閉校)教諭河 野英男に より、砂丘中に6体の人骨が入った石棺が露出しているのが確認された。翌1931年3月旧山口高等学校(山口大学文理学部)小川五郎・旧京都帝国大学(京 都大学)三宅宗悦らにより人骨収集と学会報告が行われ、「土井ヶ浜遺跡」 と命名」土 井ヶ浜遺跡)[→1953年に金関丈夫らの本格発掘がはじまる]
島袋源一郎『本部町瀬底島大底門中元祖由来記』。
「大底の祖先にあたる第一尚氏系統の今帰仁按司数代の墓も山北城下に在ったが、万暦
年間に至り間切の番所の所在地たる下運天背後の洞窟即ち『百按司墓』に
移葬したとの事である」。註書に「万暦五年は天正五年に当たり」「記事応氏家譜に見ゆ」と時代と出典」を示す(今帰仁村教育委員会
2004:5)
1931
金関1月7日海南島感恩県東方村墓地ジンタイの墓 より「熟年期」男性頭蓋骨を採集(盗骨か?)→「海 南島侾族頭蓋の一例」人類学雑誌 57(6):234-244, 1942. https://doi.org/10.1537/ase1911.57.234
「本例は昭和16年1月7日海南島感恩県東方村の 墓地ジンタイ(通訳者之に「應西」の字を充つ)の一墓中より得られた侾 族(Ha-loe)男性頭蓋骨である。その侾な ることは、同墓地が侾の 墓地として現今使用されてゐる事実、及び死体は同地方侾族 に限って用ひられる褌を着用していたことなどによつて明白である。またその男性たることは死体軟部の残存していたゐた関係上直接確かめることが出来たので ある」(p.234)金関丈夫「「海 南島侾族頭蓋の一例」人類学雑誌 57(6):234-244, 1942. https://doi.org/10.1537/ase1911.57.234」
金関丈夫「日本人の人種学」『岩波講座生物学・醫學其他』→「日本の人種学」
1932
3月(刊行は4月)雑誌『ドルメン』創刊(1巻1
号)金関は「人種秘誌」を寄稿。同号には三宅宗悦が「日本石器時代人は巨人
(小人)だったらうか」を寄稿。
1933
4月医学部講師・三宅宗悦(1905-1944)とともに遼東半島に渡り発掘調査。当時は、足立文 太郎の後を受けて、金関は京大で骨学、人類学を講じていたという。当時の大学院生?だった国分直一(こくぶ なおいち, 1908-2005)はその謦咳に触れたという(国分 1988:246)
「沖縄県中頭郡嘉手納町の野国総管の墓付近におい て、熊本医科大学学長・山崎正董(やまさき・まさただ 1872-1950)と沖縄研究者・島袋源一郎により」沖縄のロゼッタストーン(線刻石板)を発見。
12月三宅宗悦は、奄美大島(33年12月12日〜22日)笠利で人骨、掌紋、指紋 (332人分)ならび考古学遺物、沖 縄本島(12月23日〜29日)で70〜80体の人骨と考古学遺物を収集[板垣 2020:150]。
12月24日三宅宗悦は、「本島人種研究」のために「長浜崎樋川等の貝塚を視察して資料蒐集」の予定と報じ られる(『沖縄日報』1933. 12. 24)(板垣 2020b:159)。
この年、 Egon Freiherr
von Eickstedt (1892
-1965)は、『人種学および人種史(Rassenkunde und Rassengeschichte der Menschheit)』
を著し人類を皮膚の色によって白・黒・黄色の三大人種系株に分け、地域別にその下に 36の人種をおいた(1933)
出典にリンクします:「琉球民族遺骨返還訴訟への 意見書」(『評論・社会科学』134, 2020, pp.141-177) https://researchmap.jp/read0201419/works/30077383
「琉球関連の人骨が1042~1112 号の連番になっていること,それがおよそ70体分であること,三宅は京都に戻ってからではなく現地で「清野蒐集人骨」番号を振っていたことからしても (52),1042~1112 号が三宅収集によるものだと判断するのが至当」[板垣 2020:158]
1933年9月台北帝国大学土俗人種学研究室標本
室が起工され4月に完成する。
金関丈夫、台北医学専門学校[1922-1936]教授に就任。
(1934-1936)その後、9月から1936 年3月まで台湾総督府医学専門学 校・教授の資格で欧州に遊学。パリに一番長く滞在した(トロカデロで人骨計測もおこなう)。Kaiser-Wilhelm-Institut für Anthropologie, menschliche Erblehre und Eugenik, KWI-A すなわち「カイザー・ヴィルヘルム人類学・人類遺伝学・優生学研究所」(ベルリン)にも滞在、Friedrich-Wilhelms-Universität(旧Universität zu Berlin;現Humboldt-Universität zu Berlin)教授 Eugen Fischer(1874-1967:下記写真)に師事。オイゲン・フィッシャー(Eugen Fischer, 1874-1967)はヒトラーに人種学的かつ優生学的思想を提供したことで著名な人類学者であ る。
金 関の遊学(1934-1936)は「東南アジア・ヨーロッパ・アメリカ各地の解剖学教室・人類学教室・博物館を訪問」で「新設される台北帝国大学医学部に 就任する前に遊学すると いう当時の慣習」という(楢崎 修一郎1958-2019「人 類学のススメ」より)。
5
月、三宅宗悦は
トカラ列島で、掌紋100人分と考古学遺物を採集する。
Eugen Fischer during a ceremony at the University of Berlin 1934(Bundesarchiv,
Bild 183-1998-0817-502 / CC-BY-SA 3.0)
5月台北帝国大学土俗人種学研究室標本室が開館す る。ここには、霧社事件の指導者モーナ・ルダオの全身骨格標本が 陳列されていた(井出季和太 1937:794; 野上弥生子 1980:144)[山路 n.d.:75]。
1935
1 月、三宅宗悦は、 喜界島と徳之島において人骨や考古学遺物を採集(喜界島93人骨、徳之島92人骨)ほか掌紋や考古学遺物など。
1936
金関丈夫は、遊学からの帰国途中には、ニューヨー
クの自然史博物館、ワシントンのスミソニアン研究所などを訪問する。同年3月横浜港において帰国。
3月7日付、金関、台北帝国大学医学部第二解剖学 教室の教授に就任(1936年に台北 医学専門学校は台北帝国大学附属医学専門部に改組)。赴任は3月下旬と言われ る(→臺北帝國大學醫學部史) [解 剖学・森於菟[1890-1967]らと同僚になり、宮本延人や国分直一と研 究をおこなう]。家族は9月に転居(金関恕 199:102)。
同僚に、移川子之蔵[1884-1947]、国分直一[1908-2005]。
国分直一[1908-2005]による台湾時代の金関丈夫評
「金関丈夫が台北帝国大学医学部解剖学教室の教授 として台湾に着任したのは,ヨーロッ パ留学を了えて帰朝した直後の1936 (昭和11) 年3月のことであった。爾来戦後も中国政 府の要請によって留台,1949年夏の帰国に到るまで,形質人類学を中心として,考古学,民 族学の関係諸学にわたる研究を行っている。/ その間,台湾におけるのみでなく,戦時下,大陸において安陽出土人骨の調査を行い,海 南島においては野外調査を行っている。/ 日本時代,台北帝国大学文政学部の土俗人種学教室においては,若千の考古学的調査を 行った以外は台湾原住民族(以下当時の表現として高砂族を使う)の所属系統の研究に集 中的努力を傾注していたが,金関は高砂族のみでなく平浦族,漠系の福佳・客家の諸族,わ が南島(沖縄)の住民,海南島の諸族,東南アジアのアンボン人,ミナハッサ人などをふ くむ広汎な民族を対象とする身体計測を中心とする人類学的研究を進め,その上考古学的 発掘によってえられた資料をもとり上げている。その究極の目的は,台湾居住民族を東亜 諸民族との関係において究明しようとすることにあったと見てよかろう」(国分直一 2002:82)。
「筆者(=国分)は金関留台中の考古学的調査につ いては,恒春半島の調査と台湾西海岸中部の浦里 盆地の大馬滋の調査を除いては,すべてにわたって協力してきた。また人骨の調査におい ては,台南州(現台南県)烏山頭の先史人骨の調査,台南市北域に近接して発見された蔦 松貝塚出土人骨の調査,紅頭嶼(現蘭嶼)ヤミの崖葬人骨の調査をめぐって協力している。 金関による台湾原住民族を中心とした台湾居住民族の形質人類学的調査研究の成果につ いては,在台中に発表されたものも,1949年帰国後に研究を完成させて発表されたものも, すべて「形 質人類誌」(1978, 法政大学出版局)に収載されている」(国分直一 2002:83)。
金関丈夫の人骨収集は異様なほど「情熱的」で、時には埋葬後1、2ヶ月の若い自殺女性死体を、弟子た ちがその腐乱に躊躇する中で率先して、指導したことがあるようだ(森 2013:88)。
横川定(寄
生虫) |
富
田雅次(生化学) |
森
於菟(解剖学) |
金関丈夫(解剖学) |
細
谷省吾(細菌学) |
箕島嵩一(生理学) |
森
下薫(衛生学[寄生虫学]) |
細
谷雄二(生理学) |
和気巌(病理学) |
杜
聡明(と・そうめい:薬理学) |
武藤幸治(病理学) |
久保忠夫(法医学) |
三
田定則(学部長→総長) |
永
井潜(2代目学部長) |
「昭和11(1936)年11月三宅宗悦「奄美大 島北部住民の手掌理紋の研究」 『人類學雑誌』第51巻第11号東京人類學會三宅が薩南十島調査に参加した経緯は明らかではないが、当時京都帝国大学医学部の病理学教室に籍を置いてい た。本論考にも繫がる三宅の十島での調査目的は手掌紋の採集であった。すなわち、「従来2,3の體質的類似を持つて、アイヌの子孫の如く云はれ」ていた原 日本人論における「奄美大島人は、手掌理紋に於いてはアイヌに對するよりも、相隣りする琉球・琉球糸満・喜界島・大隅・薩摩の諸地方人と各項に於いて互に 類似の数値を示し、此等西南日本住民が同一體質を持つ事を明らかに した」のである。三宅はたびたび奄美大島や喜界島、徳之島などを訪れ手掌紋の採集をお こなっており、十島を調査することによって鹿児島と奄美をむすぶ資料を収集 しようとしていたのである。もっとも本論考の発表を待たずして、現地で設定された講演の中でアイヌとの関係を否定している。三宅は人類学の師匠にあたる 京大清野謙次の学説を支持する立場から自身の調査研究に臨んでおり、この講演は現地の人々から大変喜ばれ、その様子は後に紹介する薩南十島調査について の新聞記事にも見ることができる」(羽毛田 2015:182)
秋から冬に、エドマンド・リーチが蘭嶼
(らんしょ:紅頭嶼, Botel Tobago)のヤミの人たち(Yami or Tao people)の間で過ごし人類学転向を決意する(エドマンド・ロナルド・リーチ)。
11月19日 金関恕(ひろし)京都市で生まれる。その後、家族ごと台北に転居
1937
三浦恒祐(みうらつねすけ)「入学したのは昭和 12年で、ちょうど解剖学の実習で翁長さんと屏東(へいとう)へ骨を拾いに 行っている時に支那事変が始まったのが強く印象にのこっています」(東寧会 1978:25)。
「『無縁墓地の骨を測る』翁長弘『……大鶴先輩に ひっぱられて、無縁墓地の墓掘りに屏東へ行ったことがあります。帰ってきて、惣那(くつな?)助教授が僕に大腿骨の計測をやれと言われた。夏休み中かかっ て計測したら、それで論文を作れと言われる。作ったら、それをドイツ語で書け、です。ドイツ語で書いたら、このドイツ語はなんだとさんざん直された。それ を抄録にし、ちょうど台北で解剖学会の総会があった時、金関先生がまとめて発表されたように覚えています。その次の年にには与那国島に人体計測に行きまし た。』」(東寧会 1978:27)。
国分直一は、鹿野忠雄、御
園生暢哉(日本画家)らとともに、現地人シャーマン・カリヤルの助力により、蘭嶼で民族調査。
1938
清野謙次は経典古文書窃盗事件で、京都帝国大学を 辞職する。(「『日本考古学・人類学史』上・下巻で引用している所蔵の江戸時代文献の量、1,500体という人骨の蒐集から想像されるように、蒐集癖、所 有欲のきわめて強い人であったようだ」寺田和夫 1975)。3年後に清野が就任する、太平洋協会が設立される。
6月20日雄山閣より『人類学・先史学講座』第二 巻発刊。
[金関丈夫(1897-1983)):元台北帝
大・九大・鳥取大・山口県立医大・帝塚山大、忽那将愛(1908-1995):元熊本大]
7月25日京都帝国大学総長・濱田青陵(濱田耕作, 1881-1938)急逝。
1939
金関「南支の人種相」『南支那』 Pp.142-164, 毎日新聞社(→山口敏編『昭和前期の研究者』に収載)
金関は、山中源二郎名で「澳門の一夜(一)」『ど るめん』第5巻第6号に寄稿。
6月 金関、馬德里のたそがれ(金関丈夫)を寄稿
(『ドルメン』5(5), 1939)
1940
須田 昭義「琉球列島民の身體計測」人類学雑誌 55(2)39-63, 1940
11月〜1941年1月台北帝国大学の第一回海南 島総合調査(生物班、農学班、地学班)[臺北帝國大學海南島學術調査報告 1942]
1941
1945年ごろまで、柳田國男(当時66歳)と親 交。
『民俗台湾』 を創刊。(1998年南天書局より復刻)。国分直一も参与。実質的編集者は池田敏雄(1916-1981)を見ていた妻の池田鳳姿は(皇民化運動で在来の 習俗が禁止されて いた状況のもと)「皇民化で変化を余儀なくされている在来の習俗を一人の人間だけで細々と採集するのではなく、大勢の人が参加し、方々の習俗を記録、収集 することができるように、そのための雑誌を刊行したいという意向であった」(池田 1990:23)と述べている。敏雄は、金関丈夫を訪問し、創刊の相談をしたところ、金関は移川子之蔵の台北帝国大学土俗人種学教室で発刊しているる『南 方土俗』は、先住民(「高砂族」)文化中心なので、漢民族を対象にすればいいと快諾したようだ(池田 1990:26; 国分 1981:437)。そして、雑誌の形式を『ドルメン』のような肩のこらない雑誌にしようと敏雄に提案したという。『民俗台湾』 の評価については、1990年代に川村湊(1996)が「大東亜民族学」を志向した皇民化政策という流れにのるものだと批判した。その後に小熊英二 (2001)も金関の優生学志向の意図をとったと類似の批判をする。これに対してその数年後に三尾裕子(2004,2006)台湾研究者として川村や小熊 を批判して、皇民化政策に従わねば雑誌の発刊すらできない状況のなかでは、政治権力の歴史的文脈から逸脱した的外れな(超時間的な特権的意識にたった、批 判対象になっている)植民地主義的視点と変わらないと批判しているという(植野 2012:100-101)。引用した植野(2012:108)の主張も三尾のそれに重なり、むしろ「皇民化政策で変容を余儀なくされた台湾の民俗を書き 残そうとする」ところにあったと擁護している。植野のいうこの雑誌のジレンマは、日本の民俗研究の枠組みを台湾漢人社会に外挿することで、他ならぬ池田敏 雄が、その困難さ(=日本の研究尺度で台湾の民俗を明らかにすることの困難さ)を自覚していたことにあらわれるという。敏雄も1944年には招集され、そ れに応召した。敏雄は敗戦後は平凡社に勤務していた。『民俗台湾』は、これまでに3度復刻再販が試みられて、検閲による削除部分や未掲載原稿——「有 応公の霊験」収録(創刊號p.21-24)および第14號掲載予定原稿「性と台湾俚諺に就いて」収録(44號の後)——が復元されるにつれて、そ の編集方 針に、単純に大東亜民俗学やコロニアリズムを読み取ることは、困難になっている。しかし、これらのことは国分(1988:253-254)によりすでに指 摘されており、台湾民俗が、単純なオリエンタリスト言説を振りまいていたとすることはできまい。
清野謙次は上京し太平洋協会の嘱託に就任する。太
平洋協会の理事・鶴見祐輔[1897-1980]は清野の親族。
金関が編集・発刊した『民俗台湾』創刊号 (1941年7月)
移川子之藏、宮本延人、國分直一らと台南州の大湖遺跡を発掘調查。
2月〜3月台北帝国大学の第二回海南島総合調査 (経済および民族関係班、理農学班、農芸化学班)[臺北帝國大學海南島學術調査報告 1942]
3月に島袋源一郎死去(享年57歳)
1943
國分直一の台中州營埔遺跡に関与。国分は、この 年、(出身校の)台北高等学校教授に就任。
萬華有明町貝塚の発掘
10月17日金関と中村哲(なかむら・あきら 1912-2003、後の法政大学総長)は上京し、柳田国男宅を訪問し、『台湾民俗』のための座談会を開く。岡田謙・橋浦泰雄(ともに東京高等師範教授) とともに「大東亜民俗学の建設と『民俗台湾』の使命」と題され『台湾 民俗』の昭和18年12月号に掲載される(『全集』別巻1, 2019:297)。
父[喜三郎]死去。丈雄は、父の遺言「私の骨もお
まえにやる」どおり骨格標本とした(→台北帝国大学に寄贈。丈雄と喜三郎の人骨は土肥直美・琉球大学元助教授が1991年に調査)。
喜三郎の遺骨は、1948年夏の丈夫の帰国以降に、台湾大学から九州大学に移送された(金
関恕 1999:51)。
12月。清野謙次『増補版 日本原人の研究』荻原星文館
1944 池田敏雄、応召される。『台湾民俗』のス タッフたちは、記念写真をとる。
Rassendynamik von Ostasien : China und Japan, Tai und Kmer von der Urzeit bis heute (東アジアの人種的ダイナミクス:中国と日本、先史時代から現在までのタイとクメール)/ von Egon Freiherr von Eickstedt, Berlin : W. de Gruyter. 1944.
1928-1944年における「足立文太郎の日本人種観」(サイト内リンク)
1945
1月、金関と国分は台東市郊外の遺跡発掘中に米軍 のグラマン艦載機の機銃掃射を受ける(「国分直一博士年譜」1980:775)。
4月永井昌文、九州帝国大学医学部に入学(→中川米造と同学年にあたる)。
日本国敗戦、米国の占領統治下におかれる。金関は ひきつづき、国民政府の台湾大学教授を続ける。
二二八事件(2月28日、台北)後に、日本に一時的に?帰国?[→1949年8 月](森於菟 教授も同時に帰国し、森教授は東邦医科大学 (旧制大学)予科教授・東邦女子医学薬学専門学校校長に着任)。
3月3日に配布された台湾省警備総司令部のビラ
5月紅頭嶼での人骨収集「槍ぶすまに囲まれた話」 (『西日本新聞』1959.08.23/『南方文化誌』法政大学出版局、1977)——台湾先住民に遺骨収集を拒絶されたエピソード。
8月13日伊波普猷(いは・ふゆう, 1876-1947)比嘉春潮宅にて死去
沖縄県立図書館館長時代の伊波普猷
1948
許鴻樑(きょ・こうりょう)「琉球人骨の 人類学的研究」『国立台湾大学解剖学研究室論集』IIにより、33体分(男性19体、女性14体)の遺骨が保管されている(松島 2018:52)[板垣 2020:]
出典にリンクします:「琉球民族遺骨返還訴訟への 意見書」(『評論・社会科学』134, 2020, pp.141-177) https://researchmap.jp/read0201419/works/30077383
この年に帰国した?、國分直一の琉球調査に関わる。
清野謙次、厚生科学研究所の所長に就任(背後に、緒方知三郎[1883-1973]の尽力があると言われる。緒方は東京医科大学
の初代学長。2年後に清野は教授就任。清野の死後解剖したのも緒方)
1949
8月帰国(「人類学のススメ」ならびに国分(1988:249, 254))「昭和二十四年の夏に委嘱 が解かれて帰国」(金関 1999:51)
金関丈夫が、収集した骨資料は以下のとおり: 「集収された骨学的資料は、福建系台湾人、客家系台湾人、島牛欄平楠族、西螺平埔族、高砂族では、 タイヤル族、パイワン族、ブヌン族、ヤミ族、その他に、先史人骨としては、墾了寮石棺人骨、烏山頭 人骨に及んでいる。 台湾以外の南海においては、琉球島人、海南島の海口市郊外墳墓骨が収集されている。他に海外の骨 学的資料としては、南京博物館所蔵の江南省安陽股嘘、および山東省龍山鎮城子崖遺跡発掘人骨、南京 地方現代人骨、オランダのライデン市民族博物館所蔵の華南漢族について実測を行なっている」(国分 1988:249)。
他に生体計測などでは
「︎台湾原住の諸族としては、福老系、客家系の
台湾系人、平楠族としては、ケタガラ族、パゼッへ族、シライヤ族、蕃、高砂族としては、タイヤル族、サイシャット族、ツォー族、ブヌン族、パイワン族、ル
カイ族、ピュマ、アミ、紅頭興のイワギヌ社人、イモウロッド社人、イラタイ社人が含まれる。/中国大陸における生体調査は、湖南省、江西省、新江省、福建
省出蚤民が含まれる。海南島における生体調査は、漢族としては、瓊山市、文昌県、博■港の漢人、烈橉付の熟︎■、保定、東方、重合、水頭諸地方の豪族、■
族、美■族、三亜街の回教徒が含まれている。その他の地方における生体調査は、与那国島民、アンボン人、モルツカ族、セレベスのマカッサル付近住民などに
及んでいる」(国分 1988:249-250)。
「それらの骨学的資料の大部分は、金関自身が主催
した考古学的発掘調査によって収集されたものであった。したがって、金関の研究活動は、戦後におけるわが国の考古学研究における弥生時代の葬制、社会をめ
ぐる研究に大きく寄与すると同時に、金関自身による人類学的研究の基礎資料の蓄積を進めることになったのである」(国分 1988:254-255)
1950
3月 金関丈夫は、九州大学医学部解剖学教室第2講座教授(〜 1960)に就任[前任校は日本解剖学会(1995:333)によると台湾医学院教授]。助教授は山田英智(1922-:1956年に久留米大学医学部教 授、1969年に東京大学教授)
土井ヶ浜弥生遺跡を発掘。「渡来説」を提唱(〜 1955)。
九学会連合の対馬調査に参加(翌年まで)
清野謙次、東京医科大学教授に就任。
1953年ごろの金関丈夫(九州大学医学部解剖学
教室の研究室)出典:(金関恕 1999:49)
1951 「台湾居住の民族を中心にした東亜諸民族 の人類学」『人類学・民族学連合大会第六回記事』で、それまでに収集した骨学と生体研究を総合して次の3種の集団を分類する。
「その一はタカログ(フィリピン)、侾(黎)、ニアス(スマトラ)及び
ヤミ(紅頭嶼)の四群の作る集団である。この集団は、第二の集団中のタイヤル(台
滝)やケンヤ(北部ボルネオ)に比較的近い。ヤミ族がフィリピンの住民と文化を共にすることは、この図表中の両者の近接関係と併せて考うべきである。全図
表上の三個の集団のうちの第二の集団は、タイヤル、ケンヤ、平捕(台湾)及び福建省人(華南)の作る一団であり、それをやゝはなれて一方にアミ族(台湾)
他方に河南省人(華北)が位置する。前者は平捕族に、後者は福建省人に比較的近い。本集団中ではタイヤルとケンヤが最も近い。高砂族中では特殊体質を有す
るアミ族とヤミ族の二群以外の高砂族はフィリピンの諸族よりもむしろ北部ボルネオの住民と関係が深いのであろう。/平哺族はタイヤル、ケンヤ、アミ及び南
北漢族の諸群を周囲にして、その殆ど中央に位し、比較的南方漢族に近い。これは漢族化された結果であると考えられるか深い種族であったかも知れない。/全
表図中の第三の集団は与那国島民(琉球)、大隅国人(南九州)、五島々民(北九州)、慶南道民(朝鮮)及びパルガ族(蒙古)の五群が作っている。このうち
慶南とパルガの位置は他の四群に対してやゝ遠い。最も近いものは琉球と南九州の間であり、他の集団に対しては北九州人が中国の南北両群(福建、河南)に比
較的近く、第一の集団に対してはいずれも遠い関係をしめす」/は改行(出典は、国分 1988:250-251)。 |
1952
「琉球政府」の設置
(紅陵※大学教授)東恩納寛惇(1882-1963)「伊波君の遺骨を故山に迎えよ」琉球新報
1952年10月28日 ※伊波普猷死去の5年後 「……貴重な業績を積まれたのであったが、その間における私的生活は一介の寒書生にも等しいもので一生を郷里のせん明に捧げた彼れであった。わがものと名 の付く一軒の家すらなく殆ど間借同様のくらしぶりであったが、その乏しい生活すら、戦 災の為めに悉くふみ潰され「おもろさうし」の原本を枕にして、比嘉春潮君の家の一室で最後の息を引取り、冬子未亡人が遺骨を抱いて、生活にあえぎながら転 々してゐる。人生至る処青山はあっても、秋骨骨を埋むべき故山はひとつしかない。この偉大にして不幸なる愛郷者郷土は迎えては呉れないであらうか」 拓殖大学は米軍の占領終了まで紅陵大学と称していた。 |
1953
4月金関恕、京都大学文学部考古学専攻を卒業。
1956年奈良国立文化財研究所臨時筆生になるまで、「山口県土井ヶ浜遺跡、梶栗浜遺跡など弥生時代の遺跡や奈良県飛鳥寺、大阪市四天王寺の発掘調査に参
加」金関恕)
1953年10月:(金関の弟子)永井昌文、土
井ヶ浜遺跡の第1次発掘調査「戦後、神玉中学校教諭衛藤寿一が砂丘で収集した人骨や土器の破片を九州大学医学部に届けた事を契機に、1953年九州大学医
学部教授金関丈夫を中心とし、日本学術会議・日本考古学協会の協力の下で本格的な発掘調査が5年間に渡って行われた。その成果により、1962年に砂丘の
一部が国の史跡「史跡土井ヶ浜遺跡」に指定された。現在では遺跡のほぼ全域が「土井が浜弥生パーク」として整備され、「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージア
ム」が造られている」土井ヶ浜遺跡)
1954
南島総合調査団長として波照間下田原貝塚を、国分直一と発掘。出土土器から八重山文化に「オーストロネシア的 要素」があると主張。(参照→村井紀の「南島イデオロギー論」参照)。
1954年3月~4月:(金関の弟子)永井昌文、
琉球波照間島の調査
4月14日付『朝日新聞(西日本版)』で、八重山 文化に「オーストロネシア的要素」があることを披瀝する。
4月30日「琉球列島米国民政府(USCAR) は、軍用地代の「一括払い方式」を行うことで半永久的に使用する方針を示すが、立法院はこれに反対し、1954年4月30日に「土地を守る四原則(1.一 括払い反対, 2.適正補償, 3. 損害賠償, 4. 新規接収反対)」を決議する」島 ぐるみ闘争)Ryukyuan Legislature’s “Four Principles” Resolution, April 1954. 「四者協議会」(行政府・立法院・市町村会・土地連合会)の組織化。
9月:(金関の弟子)永井昌文、土井ヶ浜遺跡の第
2次発掘調査
10月米下院軍事委員会はM.プライスを委員長と する調査団を沖縄に派遣され調査活動(報告書は1956年に下院議会で報告)。
宮 良當壯(みやなが・まさもり, 1893-1964)が、4月14日付の朝日新聞の金関丈夫の記事に対して『民族学研究』18(4)で反論をおこなう。(宮良の反論は琉球における日本的 なるものの 擁護である).
金関丈夫が発行人だったと思われる人類学研究発行所 が発刊する『人類學研究』が創刊される(1卷 1〜2号 (1954)-7巻3〜4号 (1960))。
永井昌文(1954)「琉球波照間島々民の生体学 的研究」『人類学研究』1:304-322.
金関丈夫「台湾における体質人類学方面の研究の概
観」『民族学研究』18(1−2):105-107. https://doi.org/10.14890/minkennewseries.18.1-2_105
「1954年から翌年の『民族学研究』に掲載された金関丈夫と宮良当壮
の論争がある。金関は、南島文化総合調査の見聞を書き送った新聞連載で、パトロー(波照間)の語源がボテルトバコ(紅頭嶼)にあると推断し、波照間の言葉
のイントネーションが台湾原住民のそれに似ているという印象でこれを傍証しようとした。波照間の語源については、宮良が「果てのウルマ(珊瑚礁)」説を唱
えていた。宮良は、卓越した方言研究者であり、門外漢の金関が、宮良の郷土の言葉を傍証に自説に挑戦したことを痛烈に批判した。宮良によれば金関は「琉球
民族を台湾の蕃族と同じ血のつながりのあるもののようにほのめかし(中略)琉球諸島の言語は、恰も蕃語という地金の上に、日本語という金のメッキをしたも
のであるかのようにいいふらしている」のだという。金関は譲らず、長大な論文で再反論しているが、この論争には学問とは別の次元の対立があった。 『今や国際情勢は端侃し得ざるものがあり、琉球は鷲ににらまれた雀のよう
に打辣んでいる。たといウソでも言いがかりにならないとは限らない。かかる真実を把握していない憶説を軽々しく発表することはつつしむべきだろう
(20)』
宮良が反論の結びに記したこの一節は、その頃(54年春)深刻な事態を迎えた軍用地収用問題に言及したものである。宮良を憤らせたのは、このような状況を 顧みない金関の態度でもあったのである。しかし、この点についての金関の応答は、「宮良博士の、文末の、政治的顧慮を云々した言葉の如きは、学会の清潔さ を保持するために、眼にふれなかったことにしておきたい」(21)という噛み合わないものであった。/馬淵によれば、沖縄人による沖縄研究には、「沖縄人 が不当に軽視され閑却されている」ことを告発する「ひめられた一種の〈水平運動〉」が伏流していた。これに対し日本人の研究者は、この流れを感じとっても 「せいぜい或る種の感傷」とともに「折にふれ沖縄の恵まれぬ立場に言及する程度」であったという(22)。このような両者の距離感の違いが、金関の「清 潔」と、それに対する宮良の憤りを説明する。つまり、沖縄人研究者は、沖縄の現実に距離を置くことができなかった。仲原や沖縄文化協会員の「愉快」もこの 距離感から生じたものであろう」。 ——泉水英計「柳田国男・折口信夫と文化人類学:『民族学研究』沖縄研究特集を焦点に」『神奈川大学評論』94号:100-109、2019年 (20)宮良当壮「琉球民族とその言語」『民族学研究』第一八巻第四号、一九五四年、八三頁。 (21)金関丈夫「八重山群島の古代文化」『民族学研究』第一九巻第二号、一九五五年、三四頁。 (22)馬淵東一「沖縄研究における民俗学と民族学」『馬淵東一著作集』第一巻、社会思想社、一九七四年、五ニ七〜五二八頁。 |
【起源論争】
1954年4月「起源論争」(宮良當壯(みやな
が・まさもり,
1893-1964)が、4月14日付の朝日新聞の金関丈夫の記事に対して『民族学研究』18(4)で反論をおこなう)谷川健一編『起源論争』木耳社、
1971年に収載されている。「▶波照間 : 琉球通信4 / 金関丈夫▶琉球民族とその言語 : 金関教授の臆説批判 /
宮良当壮▶八重山群島の古代文化 : 宮良博士の批判に答う / 金関丈夫 ▶琉球の言語と民族の起源 / 服部四郎 ▶琉球の言語と民族の起源 :
服部教授の論考に答える / 金関丈夫 ▶服部教授の論考に答える : 追補と訂正 / 金関丈夫 ▶琉球の言語と民族の起源 (余論) / 服部四郎
▶日本語の琉球方言について / 服部四郎 ▶南島先史時代の技術と文化 / 国分直一 ▶南島の民族文化 :
特に日本祖語の形成の時期をめぐる問題によせて / 国分直一 」
1955
宮 良當壯からの批判(前年)に対してその反論を『民族学研究』19(2)でおこなう。
九学会連合奄美大島共同調査の人類学班長として参加。(→奄美のインフォーマン トは奄美文化と日本文化の通底性を期待していたと言われる)
7月~8月:(金関の弟子)永井昌文、九学会奄美 調査、9月土井ヶ浜遺跡の第3次発掘調査
12月27日清野謙次は心臓病にて死去(享年70
歳)、翌日,緒方知
三郎(1883-1973)等の執刀により病理解剖される。
1955年の鈴木尚(1912-2004)
1956
4月永井昌文「琉球波照間島々民の生体学的研究」
九州大学より医学博士号取得
「土地を守る四原則」に呼応したM.プライス調査 団の報告書が下院に提出。6月7日にモーア民政副長官は骨子を発表、四原則にそれぞれ呼応して「1.土地料の値上げを認める、2.不要の土地は返還する、 3.軍用地は絶対所有権を確保して土地代は一括払いとする、4.新規接収は最小限にとどめる」同日、立法院は緊急本会議を開催して「四原則貫徹」を決定、 日本国政府にも断固たる態度を要求。
6月20日プライス勧告全文が発表され、全沖縄 64市町村のうち56で市町村住民大会が開かれる。こうして土地をめぐる「島ぐるみ」の闘争がはじまる。
7月28日、那覇高校グラウンドで開催された「四 原則貫徹県民大会」には約15万人が結集」以上、島ぐるみ闘争)より
8月、金関丈夫「人種の問題」『日本考古学講座: 4弥生文化』Pp.238-252. 河出書房
※ここで金関は人種の定義をおこなわず、人間集団の形質的差異の集団的特性を
「人種」とみなしている。また、異なった人種集団が別の人種集団に置き換わることを「渡来」すなわち、人の移動による集団の置き換わりとして理解している
ようだ(以下の図表は、同論文より)。この「人種」観は、この時代の他の人類学者ならびに考古学者に共通しているように思える。
9月~10月:(金関の弟子)永井昌文、土井ヶ浜
遺跡の第4次発掘調査
10月永井昌文、九州大学医学部助教授に昇任。
1957
8月:(金関の弟子)永井昌文、土井ヶ浜遺跡の第 5次発掘調査
7月より広田遺跡の発掘が始まる(1次- 1957;2次-1958;3次-1959)
金関丈夫が記載したDⅢ地区2号人骨出土状況.『広田遺跡』(2003)より (文献:金関丈夫(1975)「種子島広田遺跡の文化」『発掘から推理する』、朝日選書、pp.94-115/ 金関丈夫(1976)「着色と変形を伴う弥生前期人の頭蓋」『日本民族の起源』、法政大学出版局、pp.299-306)
私と沖縄(42)——沖縄タイムス1957年12月18日(夕刊)琉球
学集説(天野鉄夫新聞切抜帳 8, 県立図書館K/07/43/8)「骨集めが沖縄との縁:月の夜に墓地あさり:貴重になったアルバム」 |
1958
4月12日、ジェームス・E・ムーア高等弁務官は 一括払い中止を公表」以上、島ぐるみ闘争)より
金関恕、天理大学に勤務(定年まで勤める)
8月~9月:(金関の弟子)永井昌文、の広
田遺跡(南種子町)発掘調査
1959
永井昌文との共著論文「奄美諸島住民の人類学的考 察」(『奄 美:自然・文化』に所収)
7月~8月:(金関の弟子)永井昌文、広田遺跡の 発掘調査
8月鳥取大学医学部解剖学教室、小片保(おがた・たもつ)教授が新潟大学に移動。小片保の甥である小片丘彦(1933-2018)は、解剖学教室に助手として4月より赴任している(竹中 2018:1-2)。
「史跡保存問題」は政府の責任:両者の言い分に正しい判断をせよ(金関
丈夫)琉球新報 1959年7月7日——琉球学集説15/16(天野鉄夫新聞切り抜き帳)——沖縄県立図書館蔵 「山里永吉様 お答えとお知らせ いつか円覚寺遺跡の問題について意見を求 められ、そのまま回答をしないでおります。……(略)……順序いいかげんにかいてゆきますが、まず琉球新報紙上に大学側の某氏の意見として「遺跡は調査さ えすればいん滅してもいいものだ」との意味の論旨がありました。/これに類したことは私はかつて琉球新報に書きましたので、ことによると私の考えがこの某 氏の考えに影響しているのではないかと(少しうぬぼれかもしれませんが)懸念せられますので、これに対する私の考えをのべます。/これは、私のいったのは 貝塚の如き考古学的遺跡のことで、国民の感情生活史とは遊離し、忘れられていたもので、単に学術的にのみ意味のあるもの、学術的調査が完全に終われば、都 合によっては埋没していいものを指したのです。史蹟とは明らかに区別すべきもので、史蹟はかりに学術的に意味少なくまた調査が完成しても、これは民族の感 情生活、精神活動の上に重要な力の源泉となるべきものでありますから、いん滅させるべきものではありません。……(略)……次に少し屁理屈めいてきます が、こういう風には考えられないでしょうか。文化財委員なるものは、その文化財を見わける能力をもって民衆にサービスしている。大学当局は大学教育に必要 な事業を遂行する能力によって同様に民衆にサービスしている。……(略:史蹟を潰して大学の運動場にすべきかどうかは、それぞれの主張を交換して国に判断 させればいいという論法を説明する)……どちらかをつぶさなければ、政府役人がより大きい苦労をしなければならない、ということではありませんか。政府役 人は当然その苦労をすべきです——たとえ何年かかっても。そのあいだ、文化財委は史蹟を護り、大学はたえず実現を督促する。結局はそれが本筋ではないで しょうか。XXX この問題はこのくらいにしておきたいと思います。それよりもついでながら一つ耳よりなニュースをお伝えします。先 日、長崎県大村市のTさんという、八十一翁のおやしきに参上、いろいろ見学しましたが、その屋敷の庭に、かつて鹿児島磯御殿の庭にあったという、琉球工人 の手になる大きな、見事な石塔が三基ありました。そのうち二基は五重です。いずれも精巧驚くべきもので、琉球工芸の乃至は建築の標本として十分保存する価 値のあるものと考えました。幸い田野翁は、これらを大切にしておられますから、当然滅びる恐れはありますまいが、しかし田野翁百年の後には、どうした運命 になるか予測はできますまい。私は例のおせっかいを出して同翁にこの際一つ沖縄の方へ返還(島津が石工を呼んで鹿児島で彫らせたのかもしれませんから、返 還はおかしいかと思いますが)していただけないかと申しましたら、いと気易く、それはいいよとのことでした。写真もとりましたから出来上がりましたら眼に かけますが、それをごらんなって、もし価値があるそうだとお考えになりましたら一度実物を見にきていただけませんでしょうか。その上で琉球政府からの懇願 があれば、あるいはこのことは実現するのではないかと思いますが。(九州大学教授)」 |
【コメント】金 関は、文化遺物や遺骨ですら、必要があれば返還請求する権利があると考えていたようだ。私は2020年7月7日の松島泰勝さんへの公開書簡で、こう述べた ことがある;
《金関丈夫の霊を召喚して法廷に立てば……》松島さん、金関丈夫関連で追加情報があります。一 つは、1952年10月に東恩納寛惇が伊波普猷 の遺骨を琉球に埋葬すべきという主張をしていること。もうひとつは、金関丈夫が1957年に「盗骨(sic)」28年後に回顧インタビューを沖縄タイムス の記者から受けていること。そして、1959年に島津に雇われた琉球工人の石塔を沖縄に返還するべきだという主張を寄稿していること。【もし金関丈夫が生 き返って今般の訴訟で法廷を証言すれば『私が盗骨(sic)し た百按司の骨は返還するに吝かではない』と、この記事から言えると思います】。
このことは、その後で、研究会で松島さんにあった際に直接いご意見を伺いま したが、訴訟の渦中で、さらに被告である京都大学側が態度を硬化させているなかだったのでしょうか、言外に「ない」とピシャリとおっしゃいました。私の「植民者する側 の眼」に大いに恥じた次第である。原告の 立場からみると、私のような、もし、「金関先生」——非常に多数の弟子があり慕われていた——が生きていたら、あるいは霊になって、法廷に立てば、どのよ うな調停をされるのか。鬼籍に入った「日本のダビンチ」の呟きが聞けないものだろうかと、私は思います。
1960
3月金関丈夫、九州大学医学部解剖学教室第2講座教 授を定年退官。これに伴い、金関丈夫の人類学研究発行所が発刊する『人類學研究』は廃刊される(1卷1〜2号 (1954)-7巻3〜4号 (1960))。
4月 鳥取大学解剖学教室教授(〜1964年3月)。前任者は小片保(おがた・たもつ)教授で、前年8月に新潟大学に移動(竹中 2018:2)。
6月九州大学医学部解剖学教室第2講座に(久留米大学より)山田英智教授が就任する。
1961
帝釈峡遺跡群が発見、翌年から発掘調査がはじまる
(金関も参加)。
1962
4月金関丈夫教授、鳥取大学を定年退職。
1963
松島泰勝氏、石垣市にて出生。
鈴木尚[1912-2004]『日 本人の骨』にて、金関の渡来混血説を批判。(当時、鈴木は変異が生じたと主張し、金関は渡来説を主張した。のちにDNA解析などにより土井ヶ浜の ものについては遺伝的多様性において朝鮮半島の同時期のものと同じであると言われている)(→「論集日本文化の起源5(日本人種論・言語学)」)[日 本人種論 / 池田次郎編 . 言語学 / 大野晋編]
講義中の金関丈夫(出典「土井ケ浜遺跡の弥生人たち」よ り)
KANASEKI, T., 1963: Note on the skeletal material collected
during the Ryukyu survey 1960. Asian Perspective, The Bulletin of
the Far-Eastern Prehistory Association, 6: 139-144.
1964
4月、金関丈夫、帝塚山学院大教授(1979年ま で精力的に研究を続ける)
永井昌文、九州大学第3次八重山群島学術調査隊隊
長として与那国島民の生体計測。
1965
「沖縄島民プンプン:遺骨散乱とはひどいデマ:収 骨団派遣の動きやめてほしい」毎日新聞1965年6月8日
1957年12月の沖縄タイムスの記事よ
り「人類学の金関丈夫(かなぜき[ママ]・たけお)氏
も、沖縄との関係はふるい。昭和四年の暮から五年にかけて「骨を集めにいった」のが琉球とのゆかりをつくった初めという。平和な時代だから、戦後の遺骨収
集とイミがちがう。運天のホラ穴や各地の無縁仏を七、八十体あつめ、帰って”琉球人の人類学的研究”という論文を書き、博士になった。氏が京大解剖学部助
手(ママ)のときで昭和五年のこと。(略)」沖縄タイムス
1957年12月18日(夕刊)琉球学集説)。
大山盛保(おおやま・せいほ, Seiho OOYAMA, 1912-1996)「上部港川人」の人骨を最初に掘り出す(松島 2018:101, 198)。
金関丈夫博士古稀記念委員会編『日 本民 族と南方文化』平凡社
『日 本民 族と南方文化』の扉写真として掲載されたもの(71歳ごろの写真か?)
1969 10月、九州大学医学部第二解剖学教室の 山田英智が東京大学医学部解剖学教室教授に転出。
1970
8月永井昌文、九州大学医学部第二解剖学教室の教 授に 就任(1988年定年まで勤める)
「弥生人を中心に縄文時代から近世に至る大量の古
人骨を調査収集し、金関の渡来説を補強…西日本の古墳人の研究から、渡来的形質が北部九州・山口では連続するものの、列島内では渡来的形質のひろがりの地
域差が大きことを明らかにした。また、弥生時代の貝輪の材料が、奄美以南の海に棲息するゴホウラであることを実験によってつきとめ、南西諸島との密接な交
流の実態を解明したことはひろく知られる」(九州大学の研究者たち「永
井昌文(1924-2001)」)
保守系「琉球独立党(現:かりゆしクラブ)」発足
大山盛保「港川人1号」の人骨を掘り出す(松島 2018:101)。
図像をクリックすると引用元にリンクします
1972 「沖縄返還」により、沖縄県の設置
1973 10月金関毅(岐阜大学教授)が、九州大
学医学部第三講座教授に就任。
1975 金関丈夫による百按司、人骨調査(3回 目)1月8日〜11日/屋我嗣良ほかによる百按司、木棺の抗蟻性に関する調査(屋我ほか 1976)
「最近、「解剖学雑誌」五十巻記念特集 (1975)に「お願い」と題する[金関]先生の文章が掲載された。ここにその後半の部分を紹介させていただきたいと思う。/[以下引用]一九四三年、私 の父が台北で死亡し、病理解剖をして貰ったあとの骨格を、私はそのままで持ち帰り、九大の解剖学教室に預けております。これは、この次に骨になる私の骨 格、また私の子どもたちの骨格などと共々、骨格の形質遺伝学の研究資料にするつもりでこうしているのです。この方面の研究は、皆無とはいえませんが、ほと んど無に近いからです。これをお読みになる解剖学者の諸先生は、私の子息がその実行 を怠らないように、これはお前の父、祖父、曽祖父(これは皆私のことで すが)の遺言だぞと言いたしなめて、実行させて下さい。子々孫々の骨格をできるだけ多く遺していただきたいと念願するのです。この機会にお 願いしておきま す。[引用終わり]/金関先生のこのお言葉は、まさに先生の、学問に対する厳しい姿 勢を如実に一部すものであり、拝見して身の引き締まるのを覚えるのは私 一人ではないであろう」小片丘彦[おがた・たかひこ](1978:338)。
1976 金関丈夫『日本民族の起源』法政大学出版 局(弥生人渡来説として1950年来の金関の主張がまとまる)
金関丈夫『日本民族の起源』法政大学出版局, p.106. and The skull of Kisaburou Kanaseki (upper) and Takeo Kanaseki from (Doi, 1991:492), https://doi.org/10.1537/ase1911.99.483
1977 金関丈夫『南方文化誌』法政大学出版局
1978 『東寧会四十年:台北帝大医学部とその 後』東寧会、p.294. 1978年
台湾の思い出——金関丈夫
(木村英一筆記)『東寧会四十年:台北帝大医学部とその後』東寧会、p.294. 1978年
「台湾は、人類学的研究資料の宝の島で、高砂族、 平埔、閩粤(ビンエツ?) の両漢族や古代発掘人骨の研究を行ないその結果は、昭和二十七年第五十七回、日本解剖学会総会(徳島)の特別講演で、 「台湾居住民族を中心とした東亜諸民族の人類学」と題して発表した。(福岡医学雑誌第四十三巻二号掲載) また、専門の人類学以外に、中国文化を肌で触れ勉強できた。 その反応として、昭和十六年七月、「民族台湾」という月刊雑 誌を創刊した。これは、東都書籍が創刊号以来、昭和二十年一月号まで、毎月発行していた。にある程度寄与したも のと誇りに思っている。戦後、台湾の本屋が翻刻本を売出していたので、今も役に立っているものと思う。 台北帝大には民族学の移川子之蔵教授、言語学の浅井恵倫教授、中国文学の神田喜一郎教授など、碩学者が居られたので、多く教えられ、また、台湾の民間学者 や文筆家とも交流ができたことは、まことに幸福であった。 医学部では解剖学教室の同僚に森於蒐教授がいた。高名な鴎 外の子息であったが、家柄を威張るような人ではなかった。いわゆるお坊ちゃんで、戦後も約三年、共に残留し、楽しく過した」(p.294)。『東寧会四十 年:台北帝大医学部とその後』
金関丈夫『形質人類誌』法政大学出版局/ 金関丈夫『琉球民俗誌』法政大学出版局
1979
琉球処分100年。
金関丈夫は、「南島の人類学的研究の開拓と弥生人 骨研究」の業績で朝日文化賞を受賞。
金関丈夫・国分直一『台 湾考古誌』法政大学出版局
晩年の丈夫の書斎には、足立文太郎、浜田耕作、柳
田國男、柳宗悦の写真が掲げられていたが、清野謙次のものはなかった(金関恕 1999:69)
1980
【北海道】アイヌ民族・海馬沢博 (Hiroshi KAIBAZAWA,)と北海道ウタリ協会が、北海道大学に遺骨の 返還(ならびに賠償)をもとめる。アイヌ遺骨は、構内の「アイヌ納骨堂」に納められる。ただし、この施設は大学の「標本室」の位置付けであった(2008 年当時までで返還 されたのは35体)。ウタリ協会は「返還要求のある地域には返し、残りは北大が納骨堂を建立(1984年)・収納、イチャルパをおこなう」(→「アイヌ文化略奪史入門」)
1983
2月27日金関丈夫、心筋梗塞にて86歳にて死去
(生前のエピソード)。
死体は九州大学医学部に献体され、その後は人骨標本となり、父・喜三郎と一緒に保管される。
荒川浩和、百按司木棺(1-3号)現地調査(荒川 1983)
1985
中橋孝博・土肥直美・永井昌文(1985)「金隈
遺跡出土の弥生時代人骨」『史跡・金隈遺跡』、pp.43-145、等に「立岩遺跡や金隈遺跡を発掘した際に、貝製の腕輪に興味をいだき、実験を繰り返し
てそれが定説であった日本に広く分布するテングニシ製ではなく、南方にしかみられないゴホウラ製であることも突きとめ」た。
1988
永井昌文教授退官記念論文集 / 永井昌文教授退官記念論文集刊行会編、六興出版(1. 永井昌文教授退官記念論文集. 2. 九州大学医学部解剖学第2講座所蔵古人骨資料集成)「この大著には、師の金関丈夫や永井昌文が長年収集した古人骨の詳細な計測値が部位毎に掲載されて」い る。
永井昌文(1924-2001)
5月金関毅(九州大学医学部第三講座教授)が、佐 賀医科大学副学長に就任(7月まで兼任)[日本解剖学会 1995:333]
1989
「佐賀県神崎郡の吉野ケ里遺跡のかめ棺墓から出土
した首のない弥生人骨一体が、長崎大医学部の松下孝幸助教授(解剖学)の十一日までの鑑定で、「死後に刃物のようなもので首を切断され、埋葬されたもの」
と分かった。同様の首なし人骨は昨年夏、福岡県筑紫野、小郡両市にまたがる隈・西小田遺跡で二体発見され、全国でもほとんど類例がなく「特異例」とも考え
られた。しかし、今回の首なし人骨の確認で「弥生時代に後世の戦国時代のような首実検があった可能性もある」との見解も出された。/松下助教授の鑑定の結
果、この首なし人骨は成人男子の人骨で、指先の骨など人体の細部までほぼ原型をとどめ、保存状態は極めてよかった。首は上部頚椎(けいつい)から切断さ
れ、頭がい骨は破片すら残っていなかった。/古代人骨の権威、永井昌文・
九大名誉教授(解剖学)は「日本に古代、首狩りの風習があった可能性も指摘できる」
としている」
1991 (九州大学医学部にあったと思われる)丈 雄と喜三郎の人骨は土肥直美・九州大学医学部第二解剖学教室助手(当時)が調査
1991 土肥 直美「金関家骨格の形態学的資料」人類学雑誌 99*4(;483-496, https://doi.org/10.1537/ase1911.99.483
frontal views and superior view of the skull of Dr. Takeo Kanaseki in 1991. p,492, https://doi.org/10.1537/ase1911.99.483
1996
5月27日「北大の古河記念講堂に保管されていた
北方少数民族など6体の頭がい骨のうち、李朝末期の甲午農民戦争(東学党の乱)の指導者とされる1体の返還を受けるため来日した韓国側の代表が27日午
前、北大文学部を訪れ、灰谷慶三・文学部長と面談した。/韓国で3月に結成された「東学農民革命軍指導者遺骸奉還委員会」の趙成湧・運営委員ら3人。韓勝
憲・常任代表は遅れて来日する。/遺骨は29日に韓・常任代表も出席して同大文学部で行われる奉還式で同会に返還され、31日に韓国全州市で行う「東学戦
勝記念式」で供養する。式には灰谷文学部長ら2人も出席する予定。」板垣博之署名記事『毎日新聞』1996年5月27日.
1999 琉球弧の先住民族会 (Association of Indigenous Peoples in the Ryukyus, AIPR)が市民外交センター(Citizens' Diplomatic Centre for the Rights of Indigenous Peoples)などの協力で設立される。
2000
浦添市文化課、百按司木棺漆膜片採集(立会い人: 宮城弘樹)(未報告)
冬、永井昌文「九州大学総合研究博物館の設立祝賀
会に車椅子と酸素ボンベという姿で会場に現れ、師の金関丈夫と自らが収集した古人骨が医学部から博物館に移管されることを見届けた」(中橋孝博)。その弟
子に、中橋のほかに「田中良之・土肥直美・船越公威」らがいる。——中橋孝博(2002)「永井昌文先生を偲ぶ」Anhropological Science: Japanese Series,
Vol.110・No.1, pp.5-7
2001
3月平野寛(杏林大学名誉教授)は台湾大学醫學中 心、形質人類学研究室を訪問(平野 2001:70)。
10月3日 九州大学名誉教授永井昌文(1924 -2001)、死去
第3回世界のウチナーンチュ大会(主催沖縄県)
今帰仁教育委員会、木棺(3号)取り上げ。教育委 員会調査では1号墓所から24体、2号墓所からは18体、合計42体分の遺骨を確認。
(平野 2001:70)より
2002 今帰仁教育委員会、木棺(1,2号)取り 上げ
2004
この年、『百按司墓木棺修理
報告書(pdf)』今帰仁村文化財調査報告書第18 集,今帰仁村教育委員会,2004,
p.47.(人骨に関する報告は土肥直美氏が担当[土肥 2018:179])
英国人体組織法(Human Tissue Act 2004)が、インフォームドコンセント抜きに採集保存された、遺体組織は研究目的での保管に適さないとする。以降、返還請求の権利を認める。The Alder Hey organs scandalなどが立法の経緯となる。M.Bell, The UK Human Tissue Act and consent: surrendering a fundamental principle to transplantation needs?, J Med Ethics. 2006 May; 32(5): 283–286. 2006.s
出典にリンクします:「琉球民族遺骨返還訴訟への 意見書」(『評論・社会科学』134, 2020, pp.141-177) https://researchmap.jp/read0201419/works/30077383
2005
森於菟・孫・千里氏(千葉大)は台湾大学の同、体 質人類学研究室を訪問した。
森(2008: )
2006
第4回世界のウチナーンチュ大会(主催沖縄県)
2007
松島泰勝氏「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」 (ブログ)を立ち上げ代表に就任。
琉球弧の先住民族会、NPO登録申請認可(浦添
市)
2008
2009
2010
6月23日石垣金星とともに松島泰勝「琉球自治共
和国連邦独立宣言」を表明
2011
第5回世界のウチナーンチュ大会(主催沖縄県)
2012
第1回世界若者ウチナンチュー大会(ブラジル)
琉球弧の先住民族会が、国連ECOSOC(国際連
合経済社会理事会)の特殊諮問資格 (Special Consultative Status)資格取得。
2013
5月15日松島泰勝(龍谷大学教授)らの主導によ
り、琉球民族独立総合研究学会(The Association of Comprehensive Studies for
Independence of the Lew Chewans: ACSILs)が設立。
2014
松島泰勝『琉球独立論』バジリコ(→講談社文庫)
2015
金関丈夫の長男・毅(たけし, 1926-2015)[元佐賀医科大学副学長]89歳で死去。毅の遺体は久留米大学医学部に献体される(事前に遺体の献体を国立大学に打診したが、久留米 大学が倫理委員会に諮り受け入れを決める「西日本新聞」2018.04.23)。
松島泰勝『実現可能な五つの方法
琉球独立宣言』講談社
2016
松島泰勝『琉球独立への経済学: 内発的発展と自己決定権による独立』法律文化社
第5回世界のウチナーンチュ大会(主催沖縄県)
2017
5月松島泰勝「百按司墓遺骨」の実見と質問をする が、回答得られず。
6月松島泰勝・冨山一郎・駒込武らの呼びかけで、
「琉球人骨問題を考える」を同志社大学で開催(松島 2018:90)。
8月松島、京大法人文書開示請求をおこなう(松島 2018:94, )。
11月松島「京大法人文書開示請求」による文書を 閲覧(松島 2018:90)。
11月、同月までに、「旧帝国大学の日本人学者が
収集した沖縄の人骨を返還すべきだと関係者が求めている問題で、県教育庁と今帰仁村教育委員会が国立台湾大学(台北市)で保管されている遺骨の返還を求め
る方針であることが」報道される:琉球新報)
2018
1月28日琉球大学シンポジウム「東アジア地域の 平和・共生を沖縄から問う!」開催。「琉球人・アイヌ遺骨返還問題にみる植民地主義に抗議する声明文[pdf]」の決議
2月照屋寛徳衆院議員「琉
球人遺骨の返還等に関す
る質問主意書」提出。
3月丈夫の次男・考古学者・金関恕(ひ ろし)は90歳 で死去。2018年3月に久留米大学医学部に献体。。
4月 琉球民族独立総合研究学会が、国連本部で開 催された「国連先住民問題常設フォーラム(Permanent Forum on Indigenous Issues)」にて、京大からの琉球遺骨返還を訴える(松島・木村 2019:317)[参考資料:Alternative report to CERD by the AIPR, CERD/C/JPN/10-11, 2018]
5月8日松島は、京都大学総合博物館に「今帰仁・ 百按司(なきじん・ももじゃな)」墓の標本利用申請をおこなう(松島 2018:88)。
「旧帝国大学の人類学者(→金関丈夫)が戦前、沖
縄県今帰仁村の百按司(むむじゃな)墓から遺骨を持ち出した問題で、今帰仁村教育委員会が[4月]3日までに、遺骨を保管している京都大学に返還に向けた
協議を要請したことが分かった。照屋寛徳(Kaitoku TERUYA, 1945-
)衆院議員が3月に送った公開質問状に対し、京都大が「今帰仁村教育委員会から同村運天人骨資料について協議の要請を受けたところであり、今後、対応につ
いて検討する予定」などと回答していた。/京都大にはこれまで研究者団体などが返還を求めてきたが、行政が働きかけるのは初めて。遺骨返還に向けた動きが
本格化する可能性がある。/京都大は回答で、返還の意思や保管状況については「総合博物館の所蔵品については現在、順次調査を進めている」「いまだ全体の
把握には至っていない」として回答しなかった。/照屋氏は[4月]3日、京都大に再び公開質問状を送った。返還する意思の有無や返還時期を、質問状到着後
10日以
内に答えるよう求めた。/旧帝国大学の人類学者によって持ち去られた琉球人遺骨を巡っては、台湾の国立台湾大学が保管している63体を返還することで県、
今帰仁村と合意している。京都大学はこれまで遺骨を保管していることは公表しているが、返還するかどうかは明らかにしていない」琉球新報、
2018.04.04)。
10月4日玉城康裕(デニー)・沖縄県知事就任
12月琉球民族遺骨返還研究会の松島泰勝代表(龍
谷大教授)らは、京都大学からの遺骨の返還を求めて京都地裁に提訴。
2019
3月8日第1回口頭弁論・京都地裁(増森珠美裁判 長):「同墓に埋葬されたとされる琉球王朝を開いた第一尚氏の子孫の亀谷正子さん(74)が意見陳述し、「先祖の遺骨は90年間、歴史も文化も言葉も異な る、異郷の地に置かれ続け、子孫との交流もできずにいる」と訴え」る。他方「京大側は答弁書で、収集した一部の遺骨の保管を認めた上で、金関丈夫[当時、 京都帝国大学医学部助教授]氏の収集は「沖縄県庁や県警察部長を通した手続きを行った」として違法性はないと主張。原告側に対し、遺骨と原告との具体的な つながりを示すよう求め」る(京都新聞)。
3月16日シンポジウム「奪われた骨・奪われた人 権―アイヌ民族~琉球民族」が柳原銀行記念資料館 - 京都市人権資料展示施設で開催される。
3月20日「昭和初期に旧帝国大学の人類学者らに よって沖縄から持ち出された遺骨63体が20日までに、保管されていた台湾の国立台湾大学から沖縄側に返還」。検収書によると、移管(=帰 国)した骨は63個体(これは、許鴻樑(きょ・こうりょう)「琉球人骨の 人類学的研究」『国立台湾大学解剖学研究室論集』IIによりが研究した、沖縄本島の盗骨88個、宮古・奄美・与那国をあわせて総計95ないしはそれ以上) よりも少ない。[板垣 2020:156]
西原町の県立埋蔵文化財セン ターに保管され る」琉球新報)松島泰勝代表らは「遺骨が遺族の了解を得ずに持ち出されたとして違法性を指摘しており、遺骨の尊厳を回復するためには風葬地に戻して「再風 葬」するよう求めている。ただ県教委は「現在のところ再風葬は考えていない」と」返答する:琉球新報)
3月22日京都新聞が「社説」の中で、京都大学に も金関丈夫が収集した遺骨等が保管されており、返還要求に対する京都大学の対応の「冷淡」さについて批判している(京都新聞)。
7月22日 日本人類学会会長の篠田謙一が京都大 学総長の山極壽一氏に「要望書」を提出する。京都大学はそれを受理する。
2019年7月22日 京都大学総長 山極壽一 殿 日本人類学会会長 篠田謙一 要望書 貴職におかれましては、ますますご清祥のことと存じます。 現在、京都大学を被告として沖縄県今帰仁村に所在する古墓、百按司墓より収録された古人骨の返還を求める民事訴訟が進行中であると報道されています。国内 の遺跡、古墓等から収集され保管されている古人骨は、その地域の先人の姿、生活の様子を明らかにする学術的価値を含んでいることから、日本人類学会は、将 来の人類学研究に影響する問題として、この訴訟に大きな関心を持ち、人類学という学問の継承と発展のために古人骨資料の管理はどうあるべきかを理事会で議 論し、以下の原則をとりまとめましたので、ご連絡いたします。京都大学におかれましては、長年にわたり研究資料の管理を行っていただきました事を感謝する と共に、今後も以下の原則に沿った対応をとることを要望するものであります。 日本人類学会は、古人骨の管理と継承について以下の三つの原則が欠かせないと考えています。なお、ここで述べる古人骨は、政府による特別な施策の対象と なっているアイヌの人たちの骨、ならびに民法において定義されている祭祀承継者が存在する人骨を含むものではありません。 ・国内の遺跡、古墓等から収集され保管されている古人骨は、その地域の先人の姿、生活の様子を明らかにするための学術的価値を持つ国民共有の文化財とし て、将来にわたり保存継承され研究に供与されるべきである。 ・古人骨資料を保管する機関は、必要に応じて、資料の由来地を代表する唯一の組織である地方公共団体との協議により、当該資料をより適切に管理する方法を 検討すべきである。 ・由来地に係わる地方公共団体との合意に基づき古人骨資料が当該地方公共団体へ移管される際は、研究資料としての保存継承と研究機会の継続的な提供を合意 内容に含めるべきである。 京都大学を対象としては、沖縄県以外の地域の古墓から収集された人骨に対しでも個人から返還要求があったと報道されております。上記の原則が守られない場 合、将来、国内古人骨を扱った研究が著しく阻害され、国内の各地において過去にどのような身体特徴・生活様式の変遷があり、地域多様性が形成されてきたか を明らかにすることができなくなることを憂慮します。また、上記の原則から外れ、当該地域を代表しない特定の団体などに人骨が移管された場合、人骨の所有 権をめぐる問題の複雑化や、さらには文化財全体の所有権に係わる問題へと波及する可能性がある点にも憂慮しています。古人骨資料の管理につきましては、今 後、様々な運動が発生するかもしれませんが、100年、200年先、あるいはさらに遠い将来を見据えながら、国民共有の文化財という認識に基づいて対応を とっていただきたいと考えます。 よろしくおねがいします。 以上 出典:https: //ryukyuhenkan.wordpress.com/2019/08/22/日本人類学会の要望書・抗議文/ |
7月30日第3回口頭弁論(京都地裁)
8月20日 琉球民族遺骨返還研究会代表の松島泰 勝・龍谷大学教授は、上掲の「要望書」に関して、日本人類学会に抗議文を送る。
「抗議文では(1)人類学会などが2017年にま とめた「これからのアイヌ人骨・副葬品に係る調査研究の在り方に関するラウンドテーブル」によると、アイヌ民族遺骨の慰霊と返還が研究より優先されるべき との判断が示されているが、琉球民族の遺骨には同様の対応をしない理由、(2)琉球遺骨返還訴訟の原告は祭祀承継者ではないと認識する根拠、(3)遺骨を 文化財として保管することができるとする法的根拠、などについて回答を要求」週刊金曜日オンライン http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2019/09/25/antena-554/
琉球民族遺骨返還研究会代表(松島泰勝氏)の抗議文 亀谷正子氏の抗議文 琉球人遺骨返還請求訴訟原告・玉城毅氏の抗議文 https: //ryukyuhenkan.wordpress.com/2019/08/22/日本人類学会の要望書・抗議文/ |
9月28日 在日本韓国YMCAアジア青少年セン
ター(1918年2月8日朝鮮独立宣言書を採択した「二・八宣言」がなされた場所)にて「琉球人骨返還請求訴訟を支える会・関東」が結成される。
**
2020
2021
2022
令和4年1月20日に、平成30年(ワ)第3979
号 琉球民族遺骨返還等請求事件の判決が京都地裁でおこなわれ、原告らの請求をいずれも棄却される。
2023
琉球民族遺骨返還等請求事件の控訴審判決が、大阪高 裁でおこなわれ、原告側の請求を棄却した一審判決を支持し、原告側の控訴を棄却される。
2024
■金関丈夫のペンネーム・変名:山中源二郎、林熊生
プロフィール「金関丈夫。大正十二年京都帝国大学医
学部卒業。医学博士。解剖学、人類学専攻。現在、国立台湾大学医学院教授。別号多く、林熊生、山中源二郎、蘇文石、草葉薫、蓬頭児、金鷄、金関(きんくわ
ん)等。未だある筈なるも調査間に合はず。年齡は五十に近からんも、本人それを云はれるを好まざる気風あり。すべからく三十代に云ふべし。音声低く抑揚す
くなく、妄りに喜怒の大声を発せず。但し、その口もとには、曽て甘き言の葉など囁ける痕跡をとゞめ、その未だ全く過去の痕跡に化し居らざるを見るを得べ
し。――女人にそれを見る能力、有りや無しや。(『花果』編輯子)」(出典:#榕樹
文化)#台湾留用日本人_の足跡を追って(4)#金関丈夫 先生の独り言 RT_@tiniasobu)
■金関丈夫書誌(共著、関連を含む)
■ 金関没後と沖縄(琉球)への遺骨返還について
(→「松島泰勝『琉球 奪われた骨:遺骨に刻まれた植民地主義』ノート」
につづく)
●古人骨の研究から何がわかるのか?(片山 2013:28)オリジナルは片山一道(2002)『古人骨は生きている』角 川書店にある。
■本源的紐帯の歴史的起源
「これまで那覇市山下洞窟で発見された最古の人骨は
32,000年前のものだといわれているが、本州で発掘された最古の人骨は18,000年前のものだといわれ、前者は後者より14,000年も古い。琉球
では貝器文化が発達した。貝や貝製品が「貝ロ-ド」を通って九州、四国、本州、北海道まで運ばれた。琉球は、1429年に巴志によって統一されたが、徳川
家康によって日本が統一されたのは1603年で、琉球より174年も後のことであった。1478年には尚真王の刀狩りによって文民統治が実施され、琉球
は、独立国として国内政治、経済政策、外交、海外貿易などにおいて自己決定権を自由に行使し、平和、繁栄、長寿を満喫していた」—仲村芳信「琉球国独立を取り戻そう」『琉球独立
学研究』2号
■永井昌文(Masafumi NAGAI)に関する情報「人 類学のススメ」より
「「永井昌文(Masafumi
NAGAI)[1924-2001][『日本民族・文化の生成』(1988)より改変して引用](以下、敬称略。) 永井昌文は、1924年5月1日に鹿
児島県で生まれました。父親の永井亀彦は、鹿児島県立第一中学校の博物学教師だったそうです。その後、鹿児島県立第一中学校・第七高等学校造士館理科乙類
を卒業後、1945年4月に九州帝国大学医学部に入学します。元々は、京都大学理学部を志望していたらしいのですが、兄弟の死去により徴兵されにくい医者
を選ぶよう親から懇願されてのことだったそうです。もし、生まれるのが1年遅ければあるいは終戦が1年早まっていれば別の人生を歩んだのかもしれません。
永井昌文の転機は、すぐに訪れました。九州帝国大学医学部卒業後の1950年に、母校の医学部解剖学教室第2講座で金関丈夫[1897-1983]の助
手に就任したのです。金関丈夫は、戦前から戦後にかけて台北帝国大学医学部解剖学教室教授に就任していましたが、1949年8月に内地に引き揚げ、
1950年1月に九州大学医学部解剖学教室第2講座教授に就任していました。元々医学部志望ではなく、生物学志望だった永井昌文にとって、人類学や解剖学
は魅力的に感じたのでしょう。この頃、永井昌文は師の金関丈夫と共に、発掘調査や生体計測を多く行っています。 永井昌文が調査した主な遺跡は、以下の通
りです。 1953年10月:土井ヶ浜遺跡の第1次発掘調査 1954年3月~4月:琉球波照間島の調査
1954年9月:土井ヶ浜遺跡の第2次発掘調査 1955年7月~8月:九学会奄美調査 1955年9月:土井ヶ浜遺跡の第3次発掘調査
1956年9月~10月:土井ヶ浜遺跡の第4次発掘調査 1957年8月:土井ヶ浜遺跡の第5次発掘調査 1958年8月~9月:広田遺跡の発掘調査
1959年7月~8月:広田遺跡の発掘調査 1961年12月~1962年1月:古浦遺跡の発掘調査 1962年7月:吉母浜遺跡の発掘調査
1962年8月:古浦遺跡の発掘調査 1963年7月~8月:古浦遺跡の発掘調査
1964年6月~7月:九州大学第3次八重山群島学術調査隊隊長として与那国島民の生体計測 1965年3月:立岩堀田遺跡の第3次発掘調査
1965年5月:山鹿貝塚の第2次発掘調査 1968年10月~11月:山鹿貝塚の第3次発掘調査 1970年8月:金隈遺跡の発掘調査
1971年3月:中ノ浜遺跡の発掘調査 1983年10月:土井ヶ浜遺跡の第8次発掘調査 1984年10月:土井ヶ浜遺跡の第9次発掘調査
1985年6月:土井ヶ浜遺跡の第10次発掘調査 永井昌文は、1956年4月に「琉球波照間島々民の生体学的研究」により、母校の九州大学より医学博士
号を取得しました。1956年10月には、金関丈夫の元で九州大学医学部助教授に昇任します。解剖学教室第2講座は、1960年4月に金関丈夫が鳥取大学
医学部解剖学教室教授に転出し、1960年6月には山田英智が教授に就任しました。その後、1969年10月に山田英智が東京大学医学部解剖学教室教授に
転出し、1970年8月に永井昌文が教授に昇任しています。 永井昌文の研究は、多くの発掘報告書に掲載されています。主な論文や報告書は、以下の通りで
す。永井昌文(1954)「琉球波照間島々民の生体学的研究」『人類学研究』、1:304-322
永井昌文(1961)「古代九州人の風習的抜歯」『福岡医学雑誌』、52(8):554-558
永井昌文(1970)「金隈人骨について」『金隈遺跡第一次調査概報』、pp.26-29
永井昌文(1972)「人骨とその埋蔵状態」『山鹿貝塚』、pp.55-63 永井昌文(1976)「人骨・貝輪」『スダレ遺跡』、pp.38-39
永井昌文(1977)「人骨」『立岩遺蹟』、pp.380-382
永井昌文(1984)「中ノ浜遺跡出土の人骨について」『史跡中ノ浜遺跡』、pp.43-48
金関丈夫・永井昌文・佐野 一(1960)「山口県豊浦郡豊浦町土井ヶ浜遺跡出土弥生式時代人頭骨について」『人類学研究』、7(附):1-36
Brace, C. L. & Nagai, M.(1982) Japanese tooth size: Past and
present, "American Journal of Physical Anthropology", 59: 399-411
中橋孝博・永井昌文(1985)「山口県下関市吉母浜遺跡出土人骨」『吉母浜遺跡』、pp.154-225
中橋孝博・永井昌文(1986)「保存不良骨の性判定(英文)」『人類学雑誌』、第105漢第3号、pp.289-305
中橋孝博・永井昌文(1987)「福岡県志摩町新町遺跡出土の縄文・弥生移行期の人骨」『新町遺跡』、pp.87-105
中橋孝博・土肥直美・永井昌文(1985)「金隈遺跡出土の弥生時代人骨」『史跡・金隈遺跡』、pp.43-145
人類学史にも残る、著名な遺跡の発掘報告書を記載していることが特筆されます。また、立岩遺跡や金隈遺跡を発掘した際に、貝製の腕輪に興味をいだき、実
験を繰り返してそれが定説であった日本に広く分布するテングニシ製ではなく、南方にしかみられないゴホウラ製であることも突きとめています。博物学の父親
の影響を受け、生物学者を目指した解剖学者兼人類学者の見せ所でした。 永井昌文は、1986年11月2日~3日にかけて開催された、第40回日本人類学
会・日本民族学会連合大会では、大会会長を務めました。1988年3月に、九州大学を定年退官すると同年4月には福岡県立看護学校校長に就任しています。
また、1993年から1996年にかけて福岡医科歯科技術専門学校校長(現・博多メディカル専門学校)も務めました。 永井昌文の定年退官時には、定年退
官の記念論文集と古人骨資料の集成が掲載された『日本民族・文化の生成』という大著が出版されています。この大著には、師の金関丈夫や永井昌文が長年収集
した古人骨の詳細な計測値が部位毎に掲載されており、人類学界に貴重なデータを提供しました。永井昌文は、2001
年10月3日に77年の生涯を閉じました。師の金関丈夫と出会い、古人骨の収集と分析に捧げた一生だと言えるでしょう。2000年の冬には九州大学総合研
究博物館の設立祝賀会に車椅子と酸素ボンベという姿で会場に現れ、師の金関丈夫と自らが収集した古人骨が医学部から博物館に移管されることを見届けたこと
が、弟子の中橋孝博により紹介されています。なお、在職中の弟子として、田中良之・土肥直美・中橋孝博・船越公威等(アイウエオ順)を育てています。*永
井昌文に関する資料として、以下の文献を参考にしました。中橋孝博(2002)「永井昌文先生を偲ぶ」『Anhropological
Science: Japanese Series』, Vol.110・No.1, pp.5-7
永井昌文教授退官記念論文集刊行会(1988)「Ⅲ.永井昌文教授略年譜・研究業績目録」『日本民族・文化の生成』, pp.845-855」
リンク(金関丈夫関係)
リンク(琉球関係)
リンク(遺骨返還関連:サイト内)
リンク(サイト外)
文献
その他の情報