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二重構造モデル

So called, the Dual Structure Model of the Origine of Japanese. 日本人起源論の 系譜仮説

池田光穂

●二重構造モデル

日本人の起源における 「二重構造モデル」とはざっと次のようなものである;「現代日本人の形成に関する埴原和郎・東京大学名誉教授の仮説。すなわち、東南アジア起源の縄文人と いう基層集団の上に、弥生時代以降、北東アジア起源の渡来系集団が覆いかぶさるように分布して混血することにより現代日本人が形成された。渡来系集団は、 北部九州及び山口県地方を中心として日本列島に拡散したので、混血の程度によって、アイヌ、本土人、琉球人の3集団の違いが生じた。この仮説は大筋では受 け入れられているが、基層集団の起源が北東アジアではないかとの意見も強い」馬場悠 男, 2007)。

二重構造を総合的に論じた専門論文は、Hanihara, Kazuro (1991) Dual structure model for the population history of the Japanese. Japan Review, 2:1-33.と、その翻訳改訂版である、埴原和郎(1994)「二重構造モデル:日本人集団の形成に関わる一仮説」Anthropol. Sci. 人類誌,102(5), 455-477, 1994である。それ以前にも、仮説的に提唱されてきたので、1980年代からだという指摘もあるが、パラダイム論的にもこれが提唱されたのは1991年 のJapan Review誌の論文とみてよいだろう。


「日本人集団の形成史については古くからさまざまな 学説が捉唱された。その多くは一面の真理を語ると思われるが、石器時代から現代に至る種々のデータを全体として説明するには説得力に欠ける面もある。同時 に、現在のデー夕や研究方法で再検討されるベき問題も少なくない。例えばBaelzが記載した、いわゆる薩摩タイプ・長州タイプの問題や、アイヌ・琉球人 の系統関係などは、当時とは異なる視点から再検討する必要がある。 また、一方では、きわめて限られたデータから、日本の文化や歴史を無視した短絡的発言が行われることもあり、しかもそれが国際的に通用するという危険性を はらんでいることは無視できない問題である。 本論文で提出する日本人集団の二重構造モデルは、従来の諸説を比較検討し、また最近の研究成果に基づく統計学的分析によって得られた一つの仮説である。こ のモデルは次の点を骨子とする。 (1)現代日本人の祖先集団は南東アジア系で、おそらく後期旧石器時代から日本列島に住み、縄文人を生じた。(2)弥生時代から7世紀ころにかけて北東ア ジア系の集団が日本列島に渡来し、大陸の高度な文化をもたらすとともに、在来の南東アジア系(縄文系)集団に強い遺伝的影響を与えた。(3)南東・北東ア ジア系の2集団は日本列島内で徐々に混血したが、その過程は現在も進行中で、日本人は今も heterogeneity、つまり二重構造を保っている。 以上の観点から、さらに次のことが導かれる。(1)日本人集団の二重構造性は、弥生時代以降とくに顕著になった。(2)弥生時代から現代に至るまでの日本 人集団の地域性は、上記2系統間の混血の割合、ならびに文化的影響の程度が地域によって異なることによって生じた。身体形質や文化にみられる東・西日本の 差、遺伝的勾配なども北東アジア系(渡来系)集団の影響の大小によるところが大きいであろう。(3)アイヌと琉球人の身体形質にみられる強い類似性は、両 者とも南東アジア系集団を祖先とし、しかも北東アジア系集団の影響が本土人に比べてきわめて少なかったという共通の要困による。換言すれば、弥生時代以降 大きい変化を示したのは本土の集団である。 以上の諸点は単に日本人集団のみならず、ヒ卜以外の動物、例えば日本犬や日本の野生マウスの分布にも当てはまる。また文化現象についても二重溝造モデルで 説明しうる場合が多く、さらに歴史との整合性も高い。 言うまでもなく、種々の研究領域のデータの中にはこのモデルに適合しないものもあり、また日本人集団の形成過程において、上記以外の複雑な要素が関与した ことも十分に考えられる。またこのモデルそのものも検討すべき多くの課題を含んでいる。しかし一方では、二重構造モデルに基づいて身体と文化に関わる諸現 象を合理的に説明し得ることから、さらに多くの点についてこのモデル自体の適合性を検討し、修正を加え、理論の精密化を計ることは無意味ではないと思われ る」Kazuro HANIHARA, 1991. Dual Structure Model for the Population History of the Japanese. No. 2 (1991), pp. 1-33.

●【反論】沖縄からみた「二重構造モデル」批判→「日本人の起源における二重構造モデルの攻防」を参照。

●ウィキペディア(日本語)にみる二重構造モデル

二重構造モデル(にじゅうこうぞうモデル、英語: dual structure model)と は、1991年に埴原和郎が発表した人類学における仮説(作業仮説)で、日本人起源論争のうち混血説のひとつ[1][2][3]。二重構造説ともいう [2][注釈 1]。

埴原は現代日本人に至るまでの形成過程を、石器時代に移動してきた東南アジア起源の縄文人(原アジア人)を基層集団とし、そこに弥生時代から古墳時代にか けて移動してきた北東アジア起源の渡来人が覆い被さるように分布した(二重構造)としたうえで、やがて2集団は混血していくがその進行度には地域差があ り、形質的な差異を生み出していったと推測した[1][3]。

二重構造モデルは大きな反響を呼び、それまで少数派であった混血説が有力視されるようになった[2]。二重構造モデルは後続する研究・検証により先祖集団 の起源地などに疑義が指摘されているものの、2017年現在でも日本人形成の近似的なモデルとして支持されている[5]。
The dual structure model is a working hypothesis in anthropology published by Kazuro Haniwara in 1991, and is one of the mixed-race theories in the Japanese origin controversy. This model is also called the dual structure theory.

Haniwara's model of the formation process leading to the modern Japanese consists of a base group of Jomon (Proto-Asiatic) people of Southeast Asian origin who migrated to Japan during the Stone Age. Then, the Jomon people of Northeast Asian origin, who migrated from the Yayoi period to the Kofun period, were distributed in such a way as to cover them. This is the origin of the dual structure. He then asserted that the two groups gradually interbred over time. However, there were regional differences in the degree of interbreeding, and this, he speculated, led to trait differences that have persisted to the present day.

The dual structure model was met with a great response, and the previously minority view of hybridization came to be seen as a strong argument. Although subsequent research and verification have cast doubt on the origin of ancestral groups, the dual structure model is still supported as an approximate model for the formation of the Japanese as of 2017.
人骨で確認できる最古の日本列島住民である港川人は、東南アジアを故郷 とする原アジア人の特徴をもち、縄文人の先祖集団と認められる。縄文人は北海道から沖縄に至る日本列島全体に分布し、縄文海進によって大陸と隔離された環 境で小進化を起こし、大陸集団と異なる形質を獲得するに至った[6]。

縄文時代は比較的小規模な社会であったが、やがて大陸・朝鮮半島での政治的混乱から逃れてきた渡来人が日本列島に移入してきて、日本列島の集団が二極化し た。そして渡来人が伝えた水田耕作によって弥生時代に移行する。渡来人は、蒙古・中国東北部・東シベリアなどの北アジア地域を原郷として寒冷適応を遂げた 集団で、中国北部や朝鮮半島を経由して日本列島に至ったと考えられる。渡来人はまず北部九州に移入し、比較的早く東日本まで到達するが、全体としては西日 本での影響が強い[7]。

渡来人の移入は古墳時代まで続き、日本列島の人口を増加させて7世紀末までには全体の70%から90%を渡来人が占めるようになったと推測される。継続し た渡来人の移入は政権中央と結びつきの強い西日本に集中し、混血が進行した[8]。いっぽうでエミシ・クマソ・ハヤト・ツチグモなどと記録された周辺地域 の住民は、朝廷に従属した時期が遅かったため渡来人からの影響が限定的であったと考えられる。なかでもアイヌと沖縄集団はほとんど影響を受けず、縄文人の 形質を濃く残すに至った[9]。

日本人起源論争への影響

前史

日本人を科学的な視点で観察したのはシーボルト(1854年)が最初とされている。大森貝塚を発掘したモース (1879年)は、新石器時代人(縄文人)と日本人の骨格と異なることから、両者を異なる人種と主張した。これ以降、日本人起源論争について多くの学説が 提唱されてきた[10]。それらの学説は1960年代に至ると「移行説(変形説)」「置換説(人種交替説)」「混血説(渡来説)」の3つに大別されるよう になっていた[11][12]。

移行説とは、混血をみとめず縄文人が小進化をすることで徐々に現代日本人になったとする説で、長谷部言人(1940年)や鈴木尚(1960年)らが提唱し た。置換説とは、日本列島の先住民族は現代日本人の祖先集団によって置換されたとする説で、小金井良精(1893年)やウィリアム・ホワイト・ハウエルズ (英語版)(1966年)らが提唱した。混血説とは、縄文人を基層集団とし近隣民族との混血によって形態を変化させたとする説で、清野謙次(1943年) や金関丈夫(1960年)が提唱した[10]。このうち日本では移行説、欧米では置換説が有力視され、混血説は少数派であった[11]。

二重構造モデルの視点
しかし移行説は日本人が単一民族であることを前提としているため、日本各地の形質的な差異(地域性)や渡来人の影響を過小評価あるいは意図的に無視してい た。例えば縄文人と弥生人の形質的な変化については、食料生産の変化による栄養・労働環境に起因すると考えられていた[13]。また鈴木尚(1983年) は地域性について、ある集団が狭い地域内で長期にわたって孤立した状態で通婚することで独特の形質を獲得した(生物学でいう隔離)と説明していた [14]。

これに対し埴原は、1979年から1981年にかけて男性711個体・女性537個体の頭骨の調査を行い、地域性が規則的な勾配をもって存在していること を明らかにした[注釈 2]。埴原はこの調査結果から地域性は隔離による偶発的・自然発生的なものでは説明できないとし、何らかの歴史的な経過を反映していると推測した [14]。

その上で埴原は現代日本人の形質的な地域差が、本州南西部に顕著な特徴が北アジア集団に近似し、本州北東部には東南アジア集団の特徴が多く現れる、いわゆ る南北逆転現象を起こしていることに着目した[16]。すでに混血説を唱える金関丈夫(1960年)によって北部九州と山口地方において渡来人による形質 的な変化は認められていたが、これらは局地的な特徴とされていたうえ、渡来人の故郷が中国中南部と推測されていたため南北逆転現象を説明できなかった [13][17]。しかし、1960年に縄文人の分析を行っていた埴原は、縄文人の故郷を東南アジアの広い地域と結論付けており[18]、現代日本人がも つ北アジア集団の特徴は弥生時代以降の渡来人が持ち込んだと推測した[17]。

そこで埴原は土居ヶ浜弥生人の頭骨を調査して北アジアの集団と近似することを確認し、西日本全体にみられる形質的な特徴を北アジアを故郷とする渡来人によ る影響と結論付けた[17][注釈 3]。さらに考古学者の藤本強(1988年)の研究[注釈 4]を援用し、形質的な特徴が近畿からの距離に応じて地域的勾配を持つことを縄文人と渡来人の混血の進行度で説明した[19]。

さらに埴原はアイヌと沖縄集団の形質的な近似についても検討を加えた。両集団の類似性はエルヴィン・フォン・ベルツ(1911年)のいわゆる「アイヌ・沖 縄同系論」によって指摘されていたが、単一民族に固執する人類学者はその妥当性について検討せず放置していた[10][19]。埴原は、アイヌ・沖縄集団 の形質的な特徴は本土集団に近いが、その中でも特に縄文人の特徴が強く表れている事を明らかにし、アイヌ・沖縄集団の類縁性は歴史的に渡来系集団の影響を ほとんど受けなかった結果と結論付けた[19]。

反響と影響

以上のように、先行する研究を踏まえつつ考察と仮定を重ねて二重構造モデルは構築された。二重構造モデルが1991年に発表されると、各方面に驚きをもっ て迎えられた。特に埴原は渡来人の影響を強く認め、その集団規模を100万人に及ぶ可能性があると指摘したため、考古学界から反発を呼んだ[2]。いっぽ うで埴原自身が「たたき台」と称したように、二重構造モデルは反証可能な作業仮説であり、各方面で研究・検証が活発に行われるようになった[4]。尾本惠 市は二重構造モデルが日本人起源論の新しい起点として受け入れられた理由について、研究者の直感に頼っていた人骨計測にコンピュータ解析による客観的な分 析を採り入れたこと、渡来人の流入人口についてシミュレーションを行ったこと、分子人類学をはじめ多分野の研究を踏まえていることの3点を挙げている [20]。また、溝口優司も統計学的な手法を日本人起源論争に持ち込んだ点を高く評価している[11]。

二重構造モデルの推定と後続する研究の比較
集団    二重構造モデルの推定    後続研究による考察    出典
縄文人    起源地は東南アジア
日本列島に均一に分布    南北両方から日本列島に移住    [21]
起源地は不明    [22]
渡来人    弥生時代から8世紀まで継続して流入    弥生時代と古墳時代では別の集団    [23]
北アジアで寒冷地適応    寒冷地適応した地域は不明    [2]
本土日本人の7割から9割は渡来人系統    本土日本人男性の4割は縄文人系統    [24]
アイヌ    渡来人の影響を受けず縄文人が小進化    縄文人とオホーツク人の混血    [25]
沖縄集団    渡来人の影響を受けず縄文人が小進化    11世紀から14世紀にかけて本土日本人と混血    [26]


後続した様々な研究のなかでも、2000年代以降に急激に発達したDNA分析技術は、日本人起源論に新しいデータを提供している。現代日本人に特有のミト コンドリアDNAハプログループのうち、N9bは北方系、M7aは南方系とされており、祖先集団は南北それぞれに起源をもつことが明らかになっている [27]。またN9bとM7aはいずれも縄文人からも確認されており、縄文人を均質な存在とした二重構造モデルの前提を否定する結果となっている [21]。いっぽうでY染色体ハプログループでは、現代日本人男性のおよそ4割が縄文人由来と考えられているD2やCを持っており、二重構造モデルの想定 よりも濃く縄文人の系統が存続していることを示唆している[24]。

DNAゲノムの研究では、神澤英明ほか(2016年)が行ったDNAゲノムの主成分分析によると、アイヌは第一主成分では縄文人と一致し、第二主成分では 北方中国人に近い結果が得られ、両集団の混血を支持する結果となった[25]。また縄文人・弥生人・古墳人のゲノムデータを比較したダブリン大学トリニ ティ・カレッジなどの研究チーム(2021年)は、弥生時代と古墳時代の渡来人が異なる集団であったとの結論を得ている[23]。

また海外では2014年に行われた調査ではバイカル湖周辺のマリタ遺跡で発見された2万4000年前の人骨からヨーロッパ系集団(ミトコンドリアDNAハ プログループ)と西ユーラシア系集団(Y染色体ハプログループ)の特徴をもつことが明らかになった[28]。この結果は二重構造モデルの渡来人の起源地を 北東アジアとする仮定と矛盾するため、渡来人が寒冷地適応した地域が不明となっている[2][注釈 5]。

このように後続した研究成果により二重構造モデルが描いたシナリオの一部は否定されている。しかし日本人に多層性を認め、その中でも弥生時代以降の渡来人 が日本人形成に大きな影響を与えた点は追認されている。篠田謙一は、日本列島に至る人類の移動は二重構造モデルの想定よりも複雑としつつ単純化したモデル としては2010年代でも定説であるとし、日本人起源論争を混血説へ転換した役割は大きいと評している[2][29]。

注釈
^ 埴原は、「説」ではなく「モデル」と命名した事について「今後の議論のたたき台として提供したもので、批判され修整される事を前提にしているため」と説明 している[4]。
^ 例えば、近畿・関東・東北・アイヌを比較すると、頭骨最大長は東へ行くほど大きくなり、鼻高は逆に低くなる傾向がある[15]。
^ 埴原はこの他の傍証として、人類と共生する生物の分布も無視できないとしたうえで、田名部雄一 (1985年,1989年,1990年)による日本犬の系統研究と森脇和郎(1983年)などによるハツカネズミの系統研究を挙げている[16]。
^ 藤本強は、日本文化を北の文化・中央の文化・南の文化の3つに分け、それらの中間地帯に「ぼかしの文化」を想定した[19]。
^ 北東アジア地域に東アジア系集団が進出したのは最終氷期最寒期以降で、東アジア系集団の進出によりヨーロッパ系集団・西ユーラシア系集団は同地域から消滅 したと考えられている[28]。

出典
1. a b 埴原和郎 1994, p. 455.
2. a b c d e f g 篠田謙一 2015, pp. 120–123.
3. a b コトバンク: 二重構造モデル.
4. a b 埴原和郎 2002, p. 47.
5. 斎藤成也 2017, pp. 76–78.
6. 埴原和郎 1994, pp. 458–460.
7. 埴原和郎 1994, pp. 460–462.
8. 埴原和郎 1994, pp. 462–463.
9. 埴原和郎 1994, pp. 463–466.
10. a b c 埴原和郎 1994, pp. 455–458.
11. a b c 溝口優司 1994, p. 489.
12. 埴原和郎 1996, pp. 105–112.
13. a b 埴原和郎 1996, pp. 142–149.
14. a b 埴原和郎 1996, pp. 167–172.
15. 埴原和郎 1996, p. 169.
16. a b 埴原和郎 1996, pp. 189–193.
17. a b c 埴原和郎 1996, pp. 152–156.
18. 埴原和郎 1996, pp. 134–137.
19. a b c d 埴原和郎 1996, pp. 196–198.
20. 尾本惠市 1996, pp. 201–203.
21. a b 篠田謙一 2015, pp. 190–192.
22. 斎藤成也 2017, pp. 106–109.
23. a b Niall Cooke et al. 2021.
24. a b 篠田謙一 2015, pp. 140–145.
25. a b 斎藤成也 2017, pp. 103–106.
26. 斎藤成也 2017, pp. 144–148.
27. 篠田謙一 2015, pp. 134–140.
28. a b 篠田謙一 2015, pp. 101–104.
29. 篠田謙一 2015, pp. 198–200.

注釈
-注釈1. 埴原は、「説」ではなく「モデル」と命名した事について「今後の議論のたたき台として提供したもので、批判され修整される事を前提にしているため」と説明している[4]。
-注釈2. 例えば、近畿・関東・東北・アイヌを比較すると、頭骨最大長は東へ行くほど大きくなり、鼻高は逆に低くなる傾向がある[15]。
-注釈3. 埴原はこの他の傍証として、人類と共生する生物の分布も無視できないとしたうえで、田名部雄一 (1985年,1989年,1990年)による日本犬の系統研究と森脇和郎(1983年)などによるハツカネズミの系統研究を挙げている[16]。
-注釈4. 藤本強は、日本文化を北の文化・中央の文化・南の文化の3つに分け、それらの中間地帯に「ぼかしの文化」を想定した[19]。
-注釈5. 北東アジア地域に東アジア系集団が進出したのは最終氷期最寒期以降で、東アジア系集団の進出によりヨーロッパ系集団・西ユーラシア系集団は同地域から消滅したと考えられている[28]。


●文献
斎藤成也『核DNA解析でたどる日本人の源流』河出書房新社、2017年。ISBN 978-4-309-25372-5。
篠田謙一『DNAで語る日本人起源論』岩波書店〈岩波現代全書〉、2015年。ISBN 978-4-00-029173-6。
埴原和郎『日本人の誕生-人類はるかなる旅』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、1996年。ISBN 4-642-05401-4。
埴原和郎『日本人の骨とルーツ』角川書店〈角川ソフィア文庫〉、2002年。ISBN 4-04-367001-X。

論文など
尾本惠市「アイヌの遺伝的起源」『日本研究:国際日本文化研究センター紀要』第142巻、国際日本文化研究センター、1996年、doi: 10.15055/00006218。
埴原和郎「二重構造モデル:日本人集団の形成に関わる一仮説」『Anthropological Science』第102巻第5号、日本人類学会、1994年、doi:10.1537/ase.102.455。
溝口優司「「混血説」と「二重構造モデル」, そして今後の日本人形成論」『Anthropological Science』第102巻第5号、日本人類学会、1994年、doi:10.1537/ase.102.489。
Niall Cooke et al. (2021). “Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations”. Science Advances (American Association for the Advancement of Science.) 7 (38). doi:10.1126/sciadv.abh2419.


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その他の情報

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