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清野謙次

 Kenji KIYONO, August 14, 1885 - December 27,1955

清野謙次(Kenji KIYONO, 1885-1955)年譜(ウィキペディア日本語等からの引用)ならびに「清野謙次とインドネ シアの民族医学(1943)について」より

1885 岡山生まれ

1900 藤浪鑑(Akira Fujinami, 1871-1934)は、[ベルリン、ストラスブール、フライブルグから]帰国すると同時に京都帝国大学医科大学の病理学教室初代教授に任ぜられる。彼は1930年(昭和 5年)までその任についた。

1909 京都帝国大学医学部を 卒業。藤浪鑑(ふじなみ・あきら;1871-1934)の病理学教室へ助手と して入り、生体染色の研究を始める。

藤浪鑑による日本住血吸虫感染経路実験。明治42年6月20日、深安郡中津原村字 下組(現福山市御幸町中津原)の牛舎前にて撮影(中村八太郎氏所蔵

1912-1914 ドイツのフライ ブルクにあるアルベルト-ルードヴィヒ大学(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)に留学し、ルートヴィヒ・アショフ (Ludwig Aschoff, 1866-1942) 教授の下で生体染色の研究する

1914 組織球性細胞 (histiocyte)を発見

1914 Die vitale Karminspeicherung : ein Beitrag zur Lehre von der vitalen Färbung mit besonderer Berücksichtigung der Zelldifferenzierungen im entzündeten Gewebe / von K. Kiyono, Jena : G. Fischer , 1914.

1916 京都帝国大学医学部助教 授、医学博士

1917 留学(独仏)

1918-1919 

1920 石井四郎:28歳、京 都帝国大学医学部を卒業。指導教官は清野謙次(1885-1955)

1921 京大医学部教授(微生 物学)[藤浪鑑は1930年の定年退官まで病理学教室教授]

1922 生体染色の研究に対して帝 国学士院賞を受賞

1923

1924 病理学教室を兼任。 「樺太島栄浜村魯礼」での発掘がはじまる(遺骨原簿より1924年7月17日付以降)

1925 4月『日 本原人の研究 』岡書院

1926 「津雲石器時代人はア イヌ人なりや」(小金井良精『人類学研究』のアイヌ説への反論)

1926 

1928 『日 本石器時代人研究』岡書院/清野謙次,金關丈夫共著『人 類起源論』岡書院

1929 

1930 

1931

1932 『生 體染色研究ノ現况及其檢査術式 : 特ニ生體色素攝取及組織球性細胞説』南江堂

1933-1935 

1934 

1935 

1936

1937 

1938 

1939 

1939- 

1940 清野研究室の解散。

1943 『イ ンドネシアの民族醫學』太平洋協会出版部/『太 平洋民族學』岩波書店/『ス マトラ研究』太平洋協會編、河出書房

1944 『太 平洋に於ける民族文化の交流』創元社

1945-ca.1952 戦災 で目黒の自邸が全焼し、茨城県の木原村に疎開し、6-7年隠棲す。

1945- 戦後、アメリカとの 密約に基づき戦犯追及を逃れ(→要確認「清野謙次」)、依然として医学と考古 学の分野で影響力を残し、厚生科学研究所・所長や東京医科大学教授を歴任。

1946 『日 本民族生成論』日本評論社

1949 『古 代人骨の研究に基づく日本人種論』岩波書店

1954-1955 

1955 12月27日に心臓麻 痺で急逝。

1969 『日 本貝塚の研究』岩波書店

1982 『清 野謙次集』江坂輝彌編 、築地書館

1985 『日本人種論変遷史』 『日本原人の研究』(復刻日本考古学文献集成 )第一書房

●「遺骨返還問題」清野謙次より

「清野が主に大日本帝国の植民地 (外地)であった地域からコレクションした人骨は、約1500体にのぼる。アイヌ民族の子供の遺骨を無断で墓から掘り出しているなど、倫理的な問題が指摘 されており、清野に祖先の人骨をコレクションされた沖縄やアイヌの人らが、京大に返還を求めている。/他人の古文書を勝手にコレクションするだけでなく、 墓を荒らして遺骨も勝手にコレクションするような清野が、当時の高名な学者でありえた背景として、清野は「外地」の人間と「内地」の日本人が同一の祖先で あるという「日本原人」説を唱えており、これが大日本帝国が「外地」にまで領土を拡張する理由付けに都合が良かったと考えられている。同じくアイヌ民族の 人骨をコレクションしていた北海道大は、2012年以降に遺骨を返還する動きを見せるなど和解の方向に進んでいるのに対し、京大の清野コレクションの遺骨 に関しては2018年現在も返還されておらず、むしろ京大側が証拠隠滅に動くなどの動きがあり、琉球新報などの沖縄のメディアや地元の京都新聞などからも 批判されている。遺骨は少なくとも2004年まで京都大学に保管されていたことが判明している。2018年3月、奄美地方の研究者らが京大に遺骨返還を求 める要望書を送ったが、回答は得られなかった。その後、2018年11月に「清野蒐集」と書かれた遺骨保管箱の蓋とみられるものが京大ごみ集積所に捨てら れているのを京都大学の学生が発見したが、遺骨のありかは不明となっている」清野謙次より

遺骨保管箱のふた か……琉球新報2018.11.17.(標本番号は1123号から1126号の4体分。「大隅國大島郡」は奄美群島(1879-)。「ダンムチノ 下」は喜界島の風葬地帯)

●清野コレクション

「自然人類学研究室は「清野コレ クション」と呼ばれる日本屈指の発掘人骨資料を所蔵しています。この資料は日本列島におけるヒト集団の変遷とその生活様式の研究に大きな役割を果たし、多 くの研究者が利用に訪れています。骨からわかる表現型の特徴や生活痕の分析、骨や歯の安定同位体分析などによって、行動上の特徴や食性の推定、集団ごとに 異なる身体形質の進化などの解明をめざした研究が行われています。その他に、2000年から1000年ほど前のイラクの遺跡から出土した人骨資料、関西の 江戸時代人骨資料、明治期以降の日本人人骨資料などの研究利用も可能です」京都大学大学院理学研究 科自然人類学研究室

◎ドイツ語ウィキペディア(https://de.wikipedia.org/wiki/Kiyono_Kenji)からの翻訳

Kiyono Kenji (japanisch 清野 謙次; * 14. August 1885 in der Präfektur Okayama; † 27. Dezember 1955 in Meguro, Tokio) war ein japanischer Arzt, Anthropologe und Archäologe.[1] Er ist in der Medizin für die Entdeckung der Vitalfärbung bekannt, in der Archäologie für seine Kontroverse über die Herkunft der Japaner. Er verursachte zudem einen Universitätsskandal durch ein Diebstahldelikt. Kiyono war verheiratet mit Fumi Yasuba, der Tochter des Geschäftsmanns und Politikers Yasuba Suenobu (1858–1930). Die Ehe blieb kinderlos.[2]
清野 謙次(きよの けんじ、1885年8月14日 - 1955年12月27日、東京都目黒区)は、日本の医師、人類学者、考古学者。 医学では生命染色の発見で、考古学では日本人の起源に関する論争で知られている[1]。また、窃盗罪を犯し、大学の不祥事を引き起こした。清野は、実業家 で政治家の安場季信(1858-1930)の娘、安場文と結婚した。この結婚には子供がいないままだった[2]。
Leben und Wirken
Kiyono wurde 1885 als ältester Sohn von Kiyono Yū, dem Leiter der Medizinschule in Okayama, geboren. Sein Vater war ein Experte in klinischer Medizin und als solcher Alumnus der Kaiserlichen Universität Tokio und Leiter der Medizinschule und des Krankenhauses Osaka.[3] Auch Kiyonos Großvater Ichigaku hatte bereits als Arzt im edozeitlichen Numazu-Han gewirkt.[3] Kiyono besuchte die Kitano Mittelschule und danach die 6. Oberschule. Er wollte Archäologe werden, doch sein Vater verbot es ihm, sodass er Medizin an der Universität Kyōto studierte.

Nachdem er 1909 sein Studium abschloss, wurde er Assistenzarzt beim Pathologen Fujinami Akira und begann zur Körperfärbung zu forschen.[2] Von 1912 bis 1914 studierte Kiyono bei Ludwig Aschoff an der Albert-Ludwigs-Universität Freiburg als Auslandsstudent.[1] 1914 entdeckte er die geschlechtlichen Histiozyten. Nach seiner Rückkehr nach Japan hielt er Vorlesungen an der Universität Kyōto, wo er 1916 promovierte und 1921 zum Professor berufen wurde. 1917 war er erneut zu Studienzwecken in Deutschland und Frankreich. 1922 wurde Kiyono für seine Forschung zur Körperfärbung mit dem Japan Academy Award (帝国学士院賞 Teikoku gakushiin-shō) geehrt.
生涯と業績
清乃は1885年、岡山の医学校長であった清乃融の長男として生まれた。父は東京帝国大学医学部出身で、大阪医学校・病院長を務めた臨床医学の専門家 [3]。 祖父の一学も江戸時代の沼津藩で医師として開業していた[3]。考古学者を目指したが、父親の反対で京大で医学を学んだ。

1909年に卒業後、病理学者の藤浪鑑の助手になり、身体染色の研究を始める[2]。1912年から1914年まで、清野は留学先としてフライブルクのア ルベルト・ルートヴィヒ大学でルードヴィヒ・アショフに学んだ[1]。 1914年に性組織球を発見した。帰国後、京東大学で講義をし、1916年に博士号を取得、1921年に教授に就任した。1917年、彼は再びドイツとフ ランスに留学していた。1922年、清野は身体染色の研究により日本学士院賞を受賞した。
1918 beteiligte er sich an den Ausgrabungen des „Provinzamtes“ (国府遺跡 Kō iseki) in Fujidera.[2] Zu jener Zeit fand und trug man in ganz Japan Menschenknochen aus der Altsteinzeit und menschliche Überreste aus Ainu-Gräbern zusammen. Mehr als 1000 Knochen bzw. Fragmente kremierter Menschen sammelte man von den Fundplätzen ein. Von 1924 an befasste Kiyono sich als Pathologe mit den Knochenfunden. Er stellte fest, dass sich die Knochen der Ainu von denen der Jōmon-Bevölkerung unterschieden. Seiner Auffassung nach gab es in Japan eine eigene, sich von den Ainu unterscheidende Spezies Mensch, den Steinzeitmenschen, der der Vorfahre sowohl des Jōmon-Menschen wie der Ainu war.[1] Seine Untersuchungen basierten auf Skelettfunden aus der Zeit 5000 bis 4200 BP des Fundplatzes Tsukumo, den Kiyono von 1920 bis 1922 ausgegraben hatte.[4] Diese Erkenntnisse publizierte er in einer „Abhandlung über den japanischen Urmenschen“ (日本原人論 Nihon genjin-ron), womit er der Jōmon-Ainu-Theorie (縄紋人アイヌ説) des Anatomen und Anthropologen Koganei Yoshikiyo (1859–1944), der an der Universität Tokio lehrte, widersprach. Durch die 1926 folgende Veröffentlichung des Artikels der „Steinzeitmensch von Tsukumo als Ausklang der Ainu“ (津雲石器時代人はアイヌ人なりや Tsukumo sekkijidainin wa Ainu nariya) brach ein wissenschaftlicher Disput aus,[3] in dem sich am Ende Kiyonos Theorie bestätigte. Im gleichen Jahr wurde er Nachfolger seines ehemaligen Lehrers Fujinami in Tokio und baute die durch einen Brand 1924 verlorengegange wissenschaftliche Sammlung des medizinischen Instituts wieder auf.[5]

1938 erschien eine deutschsprachige Zusammenfassung seiner Forschung zur Körperfärbung. Im gleichen Jahr wurde er wegen eines Diebstahldeliktes von seiner Professur entbunden. Kiyono besaß zeit seines Lebens eine ausgeprägte Sammelleidenschaft für volkskundliche Materialien, Bücher und Dokumente, die skurrile, manische Ausmaße annahm.[3] 1938 entdeckte man, dass er im Tempel Jingo-ji in Kyōto Schriften und alte Bücher entwendet hatte. Aufgrund seines Renommees war es Kiyono erlaubt, im Tempel ein und auszugehen. Als er am 30. Juni auf dem Weg nach Hause war, geriet er in eine Polizeikontrolle, bei der zehn Bücher des Tempels in seiner Aktentasche aufgefunden wurden, wodurch der Diebstahl aufgedeckt wurde.
1918年、藤寺の「国府遺跡講跡」の発掘調査に参加[2]。当時、旧 石器時代の人骨やアイヌ墓の人骨が全国で発見・収集された。この遺跡からは、1000体以上の火葬された人間の骨や破片が採取された。1924年以降、清 野は病理学者として骨の研究を行った。彼は、アイヌの骨と縄文人の骨が違うことを発見したのです。清野は、1920年から1922年にかけて発掘された津 久茂遺跡の5000年から4200年前の骨格をもとに、日本にはアイヌとは異なる石器時代の人間が存在し、それが縄文人とアイヌの祖先だと考えていた [1]。 [この成果は『日本原人論』として発表され、東京大学で教鞭をとっていた解剖学者・人類学者の小金井義清(1859-1944)の縄文人アイヌ説を否定す ることになった。1926年に「津雲石器時代人はアイヌなりや 津雲石器時代人はアイヌなりや」という論文が発表され、学術論争に発展し[3]、結局清野説が肯定されることになった。同年、東京で恩師藤波の後を継ぎ、 1924年の火災で失われた医学研究所の学術コレクションを再建した[5]。

1938年には、体色に関する研究の概要をドイツ語で発表している。同年、窃盗罪で教授職を解かれる。清野は生涯を通じて、民俗資料や書籍、文献の収集に 並々ならぬ情熱を傾け、その様子は異様なまでに躁状態だった[3]。 1938年、京東の神護寺から経典や古書などを盗んでいたことが発覚した。その評判を聞いて、清野は寺に出入りすることを許された。6月30日、帰宅途中 に警察に呼び止められ、カバンの中から寺の本10冊が見つかり、盗難の事実が判明した。
Daraufhin stellte man fest, dass Kiyono weitere 630 Dokumente aus 22 Tempeln in Kyōto und 1360 Bücher aus seinem Zimmer an der Universität unerlaubt mit nach Hause genommen hatte.[3] Im Gerichtsverfahren wurde er zu fünf Jahren Haft mit zwei Jahren auf Bewährung verurteilt. Dies führte zu seiner Entlassung und zu der Forderung, Hamada Kōsaku möge als Präsident der Universität zurücktreten. Vom 10. Juli 1938 an saß Kiyono für ein halbes Jahr im Gefängnis in Kyōto. Unmittelbar danach wurde eine Neuwahl des Universitätspräsidenten anberaumt. Noch bevor die Wahl stattfinden konnte, starb Hamada Kōsaku plötzlich und überraschend am 25. Juli, wodurch sich aus dem Vorfall ein Universitätsskandal entwickelte. Kiyono wurde schließlich am 8. Januar 1939 von seinen Aufgaben entbunden.[3]

Danach lebte er in der Nähe des Ryūsenji-Tempels in Meguro und arbeitete in Teilzeit für die Japan Pacific Islands Association (太平洋協会 Taiheiyō kyōkai), die 1938 gegründet worden war, und er setzte sich als Anthropologe für die Einrichtung einer Großostasiatischen Wohlstandssphäre ein. Er blieb Mentor seines Schülers Ishii Shirō, der mit der Einheit 731 in der Mandschurei Experimente an Menschen durchführte. Als sein Wohnhaus in Meguro zerstört wurde, zog er nach Kihara (heute: Miho) in der Präfektur Ibaraki, wo er sieben Jahre in Abgeschiedenheit verbrachte.
その後、清野が京 都の22の寺院から630点の資料、大学寮の自室から1360冊の書籍を無断で持ち出したことが発覚し、裁判では懲役5年、執行猶予2年の判決が下された [3]。その結果、罷免され、濱田耕筰は学長を辞任するように要求された。1938年7月10日から6ヶ月間、清野は東京の刑務所に収監された。その直 後、新たに学長選挙が行われることになった。選挙が行われる前に、浜田廣策は7月25日に急死し、事件は大学のスキャンダルに発展した。結局、清野は 1939年1月8日に任務を解かれることになった[3]。

その後、目黒の龍泉寺の近くに住み、1938年に設立された日本太平洋諸島協会(太平洋協)でアルバイトをしながら、人類学者として大東亜共栄圏の確立の ために運動を展開した。満州で731部隊の人体実験を行った弟子、石井四郎の師匠的存在だった。目黒の自宅が破壊されると、茨城県の木原(現・三保)に移 り、7年間の隠遁生活を送った。
Nach dem Krieg entging er aufgrund einer geheimen Vereinbarung mit Amerika einem Kriegsgerichtsverfahren und arbeitete als Leiter eines Forschungsinstituts im Gesundheitswesen. Noch während des Krieges schrieb er eine Abhandlung über die japanische Rasse auf der Basis seiner Erforschung menschlicher Knochen des Altertums (古代人骨の研究に基づく日本人種論, 1949 veröffentlicht). Es folgten 1955 das Buch „Geschichte der japanischen Archäologie und Anthropologie“ (日本考古学・人類学史 Nihon kōkogaku jinruigaku-shi) und 1969 posthum Forschung zu japanischen Muschelhaufen (日本貝塚の研究 Nihon kaizuka no kenkyū). 1953 zog er nach Meguro zurück. Zwei Jahre später starb er unerwartet an einem Herzinfarkt.
戦後はアメリカとの密約により軍法会議を逃れ、衛生研究所の所長として 働いていた。戦時中、古代人骨の研究に基づく日本人論(1949年刊)を執筆した。その後、1955年に『日本考古学・人類学史』、1969年に『日本貝 塚の研究』(遺作)が刊行され、現在に至る。1953年、再び目黒に移り住む。その2年後、彼は心臓発作で突然死した。
https://de.wikipedia.org/wiki/Kiyono_Kenji


●リンク

  • 足立文太郎三宅宗悦▶︎︎金関丈夫と琉球の人骨清野謙次の日本人種観︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎
  • (10) 遺骨87体未返還、尊厳無視 <医の倫理根源 京大の収集>軍学共同の道
  • 軍学共同の道(京都新 聞)
  • グローバル化する近代医療と民族医学の再検討
  • 京都大学と南西諸島の遺骨の収蔵ならびにそれらの返還について
  • ●文献

  • 反町茂雄「隠れた大蔵書家 清野謙次博士」『蒐書家・業界・業界人』八木書店, p96-102, 1979 年
  • 「満 洲国」博物館事業の研究 / 大出尚子著、 汲古書院 , 2014.
  • 羽毛田智幸「薩南十島調査とそ の後への影響」『国際常民文化研究叢書10』Pp.161-204, 2015年
  • 三宅宗悦「奄美大島北部住民の手掌理紋の研究」 『人類學雑誌』第51巻第11号、1936年
  • 三宅宗悦「薩南十島探訪挿話」 『ドルメン』7号、岡書院、1934年
  • 清野謙次「跋文」足立文太郎『日本人体質の研究』岡書院、Pp.1021-1038、1928年
  • ●その他の情報



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