清野謙次
Kenji KIYONO,
August 14, 1885 - December 27,1955
■清野謙次(Kenji KIYONO, 1885-1955)年譜(ウィキペディア日本語等からの引用)ならびに「清野謙次とインドネ シアの民族医学(1943)について」より
1885 岡山生まれ
1900 藤浪鑑(Akira Fujinami,
1871-1934)は、[ベルリン、ストラスブール、フライブルグから]帰国すると同時に京都帝国大学医科大学の病理学教室初代教授に任ぜられる。彼は1930年(昭和
5年)までその任についた。
1909 京都帝国大学医学部を 卒業。藤浪鑑(ふじなみ・あきら;1871-1934)の病理学教室へ助手と して入り、生体染色の研究を始める。
藤浪鑑による日本住血吸虫感染経路実験。明治42年6月20日、深安郡中津原村字
下組(現福山市御幸町中津原)の牛舎前にて撮影(中村八太郎氏所蔵)
1912-1914 ドイツのフライ ブルクにあるアルベルト-ルードヴィヒ大学(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)に留学し、ルートヴィヒ・アショフ (Ludwig Aschoff, 1866-1942) 教授の下で生体染色の研究する
1914 組織球性細胞 (histiocyte)を発見
1914 Die
vitale Karminspeicherung : ein Beitrag zur Lehre von der vitalen
Färbung mit besonderer Berücksichtigung der Zelldifferenzierungen im
entzündeten Gewebe / von K. Kiyono, Jena : G. Fischer , 1914.
1916 京都帝国大学医学部助教 授、医学博士
1917 留学(独仏)
1918-1919
「岡山県津雲遺跡で縄文人骨
46体を発掘したのを皮切りに、きわめて精密な計画のもとに異常な速さで日本各地の古人骨を入手」
石器時代人 骨の発掘・収集につとめ、さらに樺太のアイヌ人墓地から数多くの人骨を発掘・収集。京 都市田中関田町の広大な洋館に千余体の遺骨を保管し、夫婦は1200 坪ある敷地内に小さな日本家屋を建て、そこで暮らす。これを「清野謙次コレクション」 という。それを基に『日 本考古学・人類学史』などを戦後上梓し、収集 した考古学・人類学関係の資料の整理を始め、洋書は東大、南山大学へ譲渡し、 物品資料は天理教管長の中山正善へ引き渡し、写本・版本類は天理図書館へ売却 する。
1920 石井四郎:28歳、京
都帝国大学医学部を卒業。指導教官は清野謙次(1885-1955)
1921 京大医学部教授(微生 物学)[藤浪鑑は1930年の定年退官まで病理学教室教授]
1922 生体染色の研究に対して帝 国学士院賞を受賞
1923
この頃、京都医科大学に入学した三宅宗悦(1905-1944)は、濱田耕作の考古学教室に出入りする ようになる。濱田ならびに清野の薫陶をうける。
日 本の人類学者8.三宅宗悦(Muneyoshi MIYAKE)[1905-1944]より
「三宅宗悦は、京都府立医科大学の学生時代の1929年に、須玖岡本遺跡の発掘調査にも参加しています。1930年3月に京都府立医科
大学を卒業と同時に母校の副手となりますが、清野謙次の希望により、同年5月23日付けで京都帝国大学医学部病理学教室助手に就任しました。病理学教室で
は、清野謙次が発掘調査した遺跡出土人骨の整理や計測を行っています。1931年には、旧友小川五郎からの連絡を受け、土井ヶ浜遺跡出土人骨の鑑定も行い
ました。ただ、三宅宗悦は古墳時代人骨と鑑定しましたが、現在では箱石石棺から出土した弥生時代人骨だと考えられています。ただ、渡来系弥生時代人骨であ
る土井ヶ浜遺跡出土人骨が古墳時代人骨に近い形質を持っているという所見は、基本的に間違いではありません。当時は、保存状態が良い縄文時代人骨・古墳時
代人骨・現代人骨との比較が主であり、まだ、弥生時代人骨はあまり出土しておらず、研究は盛んではありませんでした。/1933年には、京都帝国大学病理
学教室講師に昇任し、出土人骨の整理及び計測を継続して行いました。1934年には、アチックミューゼアムによる調査に、渋沢敬三[1896-1963]
等と「薩南十島採訪調査」に参加しました。現在、当時撮影された写真の内、中之島のものは神奈川大学日本常民文化研究所によりインターネット上で公開され
ており、撮影者に、三宅宗悦の名前を確認することができます。この頃から、三宅宗悦の興味は南島に向かったと言われています」三
宅宗悦(Muneyoshi MIYAKE)サイトより)
1924 病理学教室を兼任。 「樺太島栄浜村魯礼」での発掘がはじまる(遺骨原簿より1924年7月17日付以降)
図は、田村将人「(覚え書)
樺太アイヌにおけるイヌの「供儀」」2001より
1925 4月『日 本原人の研究 』岡書院
ア イヌ人と縄紋人とは骨が異なることを指摘し、アイヌ人とは異なる均一人種が日本にいたとし、これを「日本原人」と呼び、『日 本原人の研究 』を出 版し、小 金井良精(1859-1944)の縄紋人アイヌ説に反論する。
清野謙次の父親は、小金井良精と学生時代より友人であった。足立文太郎と小金井はこの年の秋に、清野宅を訪問する(清野1928:1033)
1926 「津雲石器時代人はア イヌ人なりや」(小金井良精『人類学研究』のアイヌ説への反論)
1926
藤浪鑑(Akira FUJINAMI, 1871-1934)の後継者として 京大病理学教室の専任教授となり、2年前に放火により焼失した病理学教室の研究資料の再収集に当たる。予算申請書の金額の末尾に全項目0を一つ書き加えて 申請し、文部省がそのまま予算を執行したため、余るほどの金額を獲得した—杉山武敏「ビュフォンの博物誌」静脩 : 京都大学附属図書館報. 38 (1) (139) (京都大学, 2001-05-31)。
1928 『日
本石器時代人研究』岡書院/清野謙次,金關丈夫共著『人
類起源論』岡書院
1929
『生 體染色之研究』南江堂。39歳にして教授に昇進。
1930
『大 谷氏及び橘氏將來の中央亞細亞發掘のミイラに就いて』 關東廳博物館、岡書院
三宅宗悦は京都医科大学を卒 業し、医学部助手に採用される(清野の下で?)
城一郎「樺太島本斗町附近の遠節 より発掘せる現 代樺太アイヌ人骨に就いて」人類学雑誌、52 巻 5 号 p. 145-167(1937年)の冒頭に短い、アイヌ人骨研究のサマリーがあるので、記載する。「アイヌ人に關する人類學的研究報告は,1821年英國人類 學者 GEOROGE BUCKE の蝦夷アイヌ人、頭葢報告を嚆矢とす。爾來幾多の學徒により追加報告せられ、就中1893年小金井博士の北海道アイヌ人頭葢骨に就て、男性87例 女性64例の精密なる研究發表を見、越えて1928年平井氏により樺太島榮濱郡榮濱村魯禮出土の現代樺太アイヌ人、男女52例につき、頭葢骨、亞で 1930年關氏の同材料による四肢骨の精査報告ありて、アイヌ民族の入類學的研究は 殆んど完璧に近からんとすと雖も、余は今出土を異にする清野教授蒐集第 843號の現代樺太アイヌ人々骨につき、生物學的精査を遂げ一例を追加す。該人骨は1930年7月、樺太島本斗より約5.5粁を距る遠節より現代副葬品と 共に偶然發掘せられしものにて、計測方法は総て MARTIN, R., Lehrbuch der Anthropologie1928.に準據し、對比諸人種の數値は後綴の文獻に據るも、古墳人につきては余の後日發表の數値に據る」
1931
「清野のもとで旧石器時代人 の人骨の人類学的研究に携わり、1931年(昭和6年)、山口県下関市豊北町で旧制山口高等学校で同級生だった小川五郎とともに発掘調査を実施。学会報告 ののち、「土井ヶ浜遺跡」と命名」三宅宗悦)。土井ヶ浜遺跡は、戦後1953年以降5年間にわたり金関 丈夫(1897-1983)らが中心になり総合的な発掘調査がおこなわれる。
1932 『生 體染色研究ノ現况及其檢査術式 : 特ニ生體色素攝取及組織球性細胞説』南江堂
1933-1935
1933年、三宅宗悦、京 都帝国大学病理学教室講師に昇任。清 野は、三宅に奄美大島派遣を命じる(12月〜1934年)。これによ り、959体まで留まっていた人骨コレクションが、奄美大島と沖縄で収集した約150体が加わり、清野は満足する。
「南島」人類学実地調査(担当は講師の三宅宗悦[三宅宗悦 Muneyoshi MIYAKE,
1905-1944])
1934
『日 本民族 : 日本人種論の變遷』岩波書店
清野謙次研究室の三宅宗悦
は、渋沢敬三、那須皓、宇野円空、高橋文太郎らによる「薩南
十島採訪調査」に参加する。
1935
『藤
浪先生追悼録』人文書院。「満洲国」国立博物館開館。
1936
「昭 和11(1936)年11月三宅宗悦「奄美大島北部住民の手掌理紋の研究」 『人類學雑誌』第51巻第11号東京人類學會三宅が薩南十島調査に参加した経緯は明らかではないが、当時京都帝国大学医学部の病理学教室に籍を置いてい た。本論考にも繫がる三宅の十島での調査目的は手掌紋の採集であった。すなわち、「従来2,3の體質的類似を持つて、アイヌの子孫の如く云はれ」ていた原 日本人論における「奄美大島人は、手掌理紋に於いてはアイヌに對するよりも、相隣りする琉球・琉球糸満・喜界島・大隅・薩摩の諸地方人と各項に於いて互に 類似の数値を示し、此等西南日本住民が同一體質を持つ事を明らかに した」のである。三宅はたびたび奄 美大島や喜界島、徳之島などを訪れ手掌紋の採集をおこなっており、十島を調査することによって鹿児島と奄美をむすぶ資料を収集 しようとしていたのである。もっとも本論考の発表を待たずして、現地で設定された講演の中でアイヌとの関係を否定している。三宅は人類学の師匠にあたる京 大清野謙次の学説を支持する立場から自身の調査研究に臨んでおり、この講演は現地の人々から大変喜ばれ、その様子は後に紹介する薩南十島調査についての新 聞記事にも見ることができる」羽毛田智幸「薩南十島調査とその後への影響」『国際常民文化研究叢書10』p.182, Pp.161-204, 2015年
1937
清野事件。紺紙金泥の一切経(洛
西・神護寺)の調査で清野の訪問のたびに紛失していたために、住職が太秦署に届け出る。
三宅宗悦、12月18日「病 的体質の人類学的研究」により医学博士号。
1938
3月31日付けで三宅宗悦は京 都帝国大学を辞職し、満州に渡って満州国立中央博物館に籍を置く
6月30日清野は、神護寺からの 帰途に刑事にカバンの開封により、現行犯逮捕【清野事件】。
生体染色の研究総括を ドイツ語論文として刊行し、世界の研究所と研究者約1000名に対し頒布
【清野事件】6月30 日、疑いを持った神護寺側の通報から、帰宅途上刑事に尋問され、カバンの中から経典数十点が見つかり窃盗が発覚。教室と自宅からも京都市内の22寺社の経 典630巻、さらに教授室から1360点の無断帯出が発見される。清野は逮捕され、控訴審で懲役2年執行猶予5年の有罪判決を受ける。このため清野は京大 を免職になったばかりか、濱田耕作(Kōsaku Hamada, 1881-1938)京大総長も辞意を表明。浜田は7月25日に急逝。
1939
清野、8月1日付をもって京 都帝国大学を辞 職。三宅宗悦、年 度末に退職していた、三宅は満 州国立中央博物館奉天分館長に就任(本館は新京).
1939-
上京して目黒不動尊 近くの邸宅で暮らし、太平洋協会の嘱託となり、大東亜共栄圏建設に人類学者として参加。京都大学での愛弟子にあたる石井四郎(Shiro ISHI, 1892-1959)が部隊長だった731部隊に対しては病理解剖の最高顧問を務めた。清野の書籍収集(→「蔵書印」)については、反町茂雄『古書肆の思 い出(四)』(→「隠 れた大蔵書家 清野謙次博士」『蒐書家・業界・業界人』反町茂雄、八木書店, p96-102, 1979年)に記載がある。
1940 清野研究室の解散。
1943 『イ ンドネシアの民族醫學』太平洋協会出版部/『太 平洋民族學』岩波書店/『ス マトラ研究』太平洋協會編、河出書房
1944 『太
平洋に於ける民族文化の交流』創元社
1945-ca.1952 戦災 で目黒の自邸が全焼し、茨城県の木原村に疎開し、6-7年隠棲す。
1945- 戦後、アメリカとの 密約に基づき戦犯追及を逃れ(→要確認「清野謙次」)、依然として医学と考古 学の分野で影響力を残し、厚生科学研究所・所長や東京医科大学教授を歴任。
厚生科学研究所:前組織は、栄養研究所(1920)、体育研究所(1924)、公
衆衛生院(1938)、人口問題研究所(1939)、そして産業安全研究所(1942)の5つの研究所からなり、戦後に統合されたもの。「日中戦争の泥沼
化と日米緊張により、総力戦を念頭に置いた基本国策要綱が
決定され、国民の体力向上を図る一環として研究機関の拡充を行うことになった。既存機関の合併という措置を執ったのは、経済化と総合研究の促進という2つ
の要因があった。形式上はいわば新設合併であるが、実際には公衆衛生院を母体として栄養研究所と体育研究所を合流させており、所在地や所長は公衆衛生院の
ものを引き継いでいる。」
1946 『日
本民族生成論』日本評論社
1949 『古 代人骨の研究に基づく日本人種論』岩波書店
1954-1955
『日 本考古學・人類學史』岩波書店。再掲「『日本考古学・人類学史』などを戦後上梓し、収集 した考古学・人類学関係の資料の整理を始め、洋書は東大、南山大学へ譲渡し、 物品資料は天理教管長の中山正善へ引き渡し、写本・版本類は天理図書館へ売却」。「日本各地の遺蹟から出土した 人骨は京都大学自然人類学研究室に、考古・民俗資料は生前に天理大学附属天理考古館に納められ、没後に大阪府立近つ飛鳥博物館や埼玉県立博 物館に分散収蔵された。蔵書は東京大学や天理大学などに納められている」清野謙次)。
1955 12月27日に心臓麻 痺で急逝。
1969 『日 本貝塚の研究』岩波書店
1982 『清
野謙次集』江坂輝彌編 、築地書館
1985 『日本人種論変遷史』
『日本原人の研究』(復刻日本考古学文献集成 )第一書房
●「遺骨返還問題」清野謙次)より
「清野が主に大日本帝国の植民地 (外地)であった地域からコレクションした人骨は、約1500体にのぼる。アイヌ民族の子供の遺骨を無断で墓から掘り出しているなど、倫理的な問題が指摘 されており、清野に祖先の人骨をコレクションされた沖縄やアイヌの人らが、京大に返還を求めている。/他人の古文書を勝手にコレクションするだけでなく、 墓を荒らして遺骨も勝手にコレクションするような清野が、当時の高名な学者でありえた背景として、清野は「外地」の人間と「内地」の日本人が同一の祖先で あるという「日本原人」説を唱えており、これが大日本帝国が「外地」にまで領土を拡張する理由付けに都合が良かったと考えられている。同じくアイヌ民族の 人骨をコレクションしていた北海道大は、2012年以降に遺骨を返還する動きを見せるなど和解の方向に進んでいるのに対し、京大の清野コレクションの遺骨 に関しては2018年現在も返還されておらず、むしろ京大側が証拠隠滅に動くなどの動きがあり、琉球新報などの沖縄のメディアや地元の京都新聞などからも 批判されている。遺骨は少なくとも2004年まで京都大学に保管されていたことが判明している。2018年3月、奄美地方の研究者らが京大に遺骨返還を求 める要望書を送ったが、回答は得られなかった。その後、2018年11月に「清野蒐集」と書かれた遺骨保管箱の蓋とみられるものが京大ごみ集積所に捨てら れているのを京都大学の学生が発見したが、遺骨のありかは不明となっている」清野謙次)より
遺骨保管箱のふた
か……琉球新報2018.11.17.(標本番号は1123号から1126号の4体分。「大隅國大島郡」は奄美群島(1879-)。「ダンムチノ
下」は喜界島の風葬地帯)
●清野コレクション
「自然人類学研究室は「清野コレ
クション」と呼ばれる日本屈指の発掘人骨資料を所蔵しています。この資料は日本列島におけるヒト集団の変遷とその生活様式の研究に大きな役割を果たし、多
くの研究者が利用に訪れています。骨からわかる表現型の特徴や生活痕の分析、骨や歯の安定同位体分析などによって、行動上の特徴や食性の推定、集団ごとに
異なる身体形質の進化などの解明をめざした研究が行われています。その他に、2000年から1000年ほど前のイラクの遺跡から出土した人骨資料、関西の
江戸時代人骨資料、明治期以降の日本人人骨資料などの研究利用も可能です」京都大学大学院理学研究
科自然人類学研究室)
◎ドイツ語ウィキペディア(https://de.wikipedia.org/wiki/Kiyono_Kenji)からの翻訳
Kiyono Kenji
(japanisch 清野 謙次; * 14. August 1885 in der Präfektur Okayama; † 27.
Dezember 1955 in Meguro, Tokio) war ein japanischer Arzt, Anthropologe
und Archäologe.[1] Er ist in der Medizin für die Entdeckung der
Vitalfärbung bekannt, in der Archäologie für seine Kontroverse über die
Herkunft der Japaner. Er verursachte zudem einen Universitätsskandal
durch ein Diebstahldelikt. Kiyono war verheiratet mit Fumi Yasuba, der
Tochter des Geschäftsmanns und Politikers Yasuba Suenobu (1858–1930).
Die Ehe blieb kinderlos.[2] |
清野 謙次(きよの けんじ、1885年8月14日 -
1955年12月27日、東京都目黒区)は、日本の医師、人類学者、考古学者。
医学では生命染色の発見で、考古学では日本人の起源に関する論争で知られている[1]。また、窃盗罪を犯し、大学の不祥事を引き起こした。清野は、実業家
で政治家の安場季信(1858-1930)の娘、安場文と結婚した。この結婚には子供がいないままだった[2]。 |
Leben und Wirken Kiyono wurde 1885 als ältester Sohn von Kiyono Yū, dem Leiter der Medizinschule in Okayama, geboren. Sein Vater war ein Experte in klinischer Medizin und als solcher Alumnus der Kaiserlichen Universität Tokio und Leiter der Medizinschule und des Krankenhauses Osaka.[3] Auch Kiyonos Großvater Ichigaku hatte bereits als Arzt im edozeitlichen Numazu-Han gewirkt.[3] Kiyono besuchte die Kitano Mittelschule und danach die 6. Oberschule. Er wollte Archäologe werden, doch sein Vater verbot es ihm, sodass er Medizin an der Universität Kyōto studierte. Nachdem er 1909 sein Studium abschloss, wurde er Assistenzarzt beim Pathologen Fujinami Akira und begann zur Körperfärbung zu forschen.[2] Von 1912 bis 1914 studierte Kiyono bei Ludwig Aschoff an der Albert-Ludwigs-Universität Freiburg als Auslandsstudent.[1] 1914 entdeckte er die geschlechtlichen Histiozyten. Nach seiner Rückkehr nach Japan hielt er Vorlesungen an der Universität Kyōto, wo er 1916 promovierte und 1921 zum Professor berufen wurde. 1917 war er erneut zu Studienzwecken in Deutschland und Frankreich. 1922 wurde Kiyono für seine Forschung zur Körperfärbung mit dem Japan Academy Award (帝国学士院賞 Teikoku gakushiin-shō) geehrt. |
生涯と業績 清乃は1885年、岡山の医学校長であった清乃融の長男として生まれた。父は東京帝国大学医学部出身で、大阪医学校・病院長を務めた臨床医学の専門家 [3]。 祖父の一学も江戸時代の沼津藩で医師として開業していた[3]。考古学者を目指したが、父親の反対で京大で医学を学んだ。 1909年に卒業後、病理学者の藤浪鑑の助手になり、身体染色の研究を始める[2]。1912年から1914年まで、清野は留学先としてフライブルクのア ルベルト・ルートヴィヒ大学でルードヴィヒ・アショフに学んだ[1]。 1914年に性組織球を発見した。帰国後、京東大学で講義をし、1916年に博士号を取得、1921年に教授に就任した。1917年、彼は再びドイツとフ ランスに留学していた。1922年、清野は身体染色の研究により日本学士院賞を受賞した。 |
1918 beteiligte er sich an den
Ausgrabungen des „Provinzamtes“ (国府遺跡 Kō iseki) in Fujidera.[2] Zu
jener Zeit fand und trug man in ganz Japan Menschenknochen aus der
Altsteinzeit und menschliche Überreste aus Ainu-Gräbern zusammen. Mehr
als 1000 Knochen bzw. Fragmente kremierter Menschen sammelte man von
den Fundplätzen ein. Von 1924 an befasste Kiyono sich als Pathologe mit
den Knochenfunden. Er stellte fest, dass sich die Knochen der Ainu von
denen der Jōmon-Bevölkerung unterschieden. Seiner Auffassung nach gab
es in Japan eine eigene, sich von den Ainu unterscheidende Spezies
Mensch, den Steinzeitmenschen, der der Vorfahre sowohl des
Jōmon-Menschen wie der Ainu war.[1] Seine Untersuchungen basierten auf
Skelettfunden aus der Zeit 5000 bis 4200 BP des Fundplatzes Tsukumo,
den Kiyono von 1920 bis 1922 ausgegraben hatte.[4] Diese Erkenntnisse
publizierte er in einer „Abhandlung über den japanischen Urmenschen“
(日本原人論 Nihon genjin-ron), womit er der Jōmon-Ainu-Theorie (縄紋人アイヌ説) des
Anatomen und Anthropologen Koganei Yoshikiyo (1859–1944), der an der
Universität Tokio lehrte, widersprach. Durch die 1926 folgende
Veröffentlichung des Artikels der „Steinzeitmensch von Tsukumo als
Ausklang der Ainu“ (津雲石器時代人はアイヌ人なりや Tsukumo sekkijidainin wa Ainu
nariya) brach ein wissenschaftlicher Disput aus,[3] in dem sich am Ende
Kiyonos Theorie bestätigte. Im gleichen Jahr wurde er Nachfolger seines
ehemaligen Lehrers Fujinami in Tokio und baute die durch einen Brand
1924 verlorengegange wissenschaftliche Sammlung des medizinischen
Instituts wieder auf.[5] 1938 erschien eine deutschsprachige Zusammenfassung seiner Forschung zur Körperfärbung. Im gleichen Jahr wurde er wegen eines Diebstahldeliktes von seiner Professur entbunden. Kiyono besaß zeit seines Lebens eine ausgeprägte Sammelleidenschaft für volkskundliche Materialien, Bücher und Dokumente, die skurrile, manische Ausmaße annahm.[3] 1938 entdeckte man, dass er im Tempel Jingo-ji in Kyōto Schriften und alte Bücher entwendet hatte. Aufgrund seines Renommees war es Kiyono erlaubt, im Tempel ein und auszugehen. Als er am 30. Juni auf dem Weg nach Hause war, geriet er in eine Polizeikontrolle, bei der zehn Bücher des Tempels in seiner Aktentasche aufgefunden wurden, wodurch der Diebstahl aufgedeckt wurde. |
1918年、藤寺の「国府遺跡講跡」の発掘調査に参加[2]。当時、旧
石器時代の人骨やアイヌ墓の人骨が全国で発見・収集された。この遺跡からは、1000体以上の火葬された人間の骨や破片が採取された。1924年以降、清
野は病理学者として骨の研究を行った。彼は、アイヌの骨と縄文人の骨が違うことを発見したのです。清野は、1920年から1922年にかけて発掘された津
久茂遺跡の5000年から4200年前の骨格をもとに、日本にはアイヌとは異なる石器時代の人間が存在し、それが縄文人とアイヌの祖先だと考えていた
[1]。
[この成果は『日本原人論』として発表され、東京大学で教鞭をとっていた解剖学者・人類学者の小金井義清(1859-1944)の縄文人アイヌ説を否定す
ることになった。1926年に「津雲石器時代人はアイヌなりや
津雲石器時代人はアイヌなりや」という論文が発表され、学術論争に発展し[3]、結局清野説が肯定されることになった。同年、東京で恩師藤波の後を継ぎ、
1924年の火災で失われた医学研究所の学術コレクションを再建した[5]。 1938年には、体色に関する研究の概要をドイツ語で発表している。同年、窃盗罪で教授職を解かれる。清野は生涯を通じて、民俗資料や書籍、文献の収集に 並々ならぬ情熱を傾け、その様子は異様なまでに躁状態だった[3]。 1938年、京東の神護寺から経典や古書などを盗んでいたことが発覚した。その評判を聞いて、清野は寺に出入りすることを許された。6月30日、帰宅途中 に警察に呼び止められ、カバンの中から寺の本10冊が見つかり、盗難の事実が判明した。 |
Daraufhin stellte man fest, dass
Kiyono weitere 630 Dokumente aus 22 Tempeln in Kyōto und 1360 Bücher
aus seinem Zimmer an der Universität unerlaubt mit nach Hause genommen
hatte.[3] Im Gerichtsverfahren wurde er zu fünf Jahren Haft mit zwei
Jahren auf Bewährung verurteilt. Dies führte zu seiner Entlassung und
zu der Forderung, Hamada Kōsaku möge als Präsident der Universität
zurücktreten. Vom 10. Juli 1938 an saß Kiyono für ein halbes Jahr im
Gefängnis in Kyōto. Unmittelbar danach wurde eine Neuwahl des
Universitätspräsidenten anberaumt. Noch bevor die Wahl stattfinden
konnte, starb Hamada Kōsaku plötzlich und überraschend am 25. Juli,
wodurch sich aus dem Vorfall ein Universitätsskandal entwickelte.
Kiyono wurde schließlich am 8. Januar 1939 von seinen Aufgaben
entbunden.[3] Danach lebte er in der Nähe des Ryūsenji-Tempels in Meguro und arbeitete in Teilzeit für die Japan Pacific Islands Association (太平洋協会 Taiheiyō kyōkai), die 1938 gegründet worden war, und er setzte sich als Anthropologe für die Einrichtung einer Großostasiatischen Wohlstandssphäre ein. Er blieb Mentor seines Schülers Ishii Shirō, der mit der Einheit 731 in der Mandschurei Experimente an Menschen durchführte. Als sein Wohnhaus in Meguro zerstört wurde, zog er nach Kihara (heute: Miho) in der Präfektur Ibaraki, wo er sieben Jahre in Abgeschiedenheit verbrachte. |
その後、清野が京
都の22の寺院から630点の資料、大学寮の自室から1360冊の書籍を無断で持ち出したことが発覚し、裁判では懲役5年、執行猶予2年の判決が下された
[3]。その結果、罷免され、濱田耕筰は学長を辞任するように要求された。1938年7月10日から6ヶ月間、清野は東京の刑務所に収監された。その直
後、新たに学長選挙が行われることになった。選挙が行われる前に、浜田廣策は7月25日に急死し、事件は大学のスキャンダルに発展した。結局、清野は
1939年1月8日に任務を解かれることになった[3]。 その後、目黒の龍泉寺の近くに住み、1938年に設立された日本太平洋諸島協会(太平洋協)でアルバイトをしながら、人類学者として大東亜共栄圏の確立の ために運動を展開した。満州で731部隊の人体実験を行った弟子、石井四郎の師匠的存在だった。目黒の自宅が破壊されると、茨城県の木原(現・三保)に移 り、7年間の隠遁生活を送った。 |
Nach dem Krieg entging er
aufgrund einer geheimen Vereinbarung mit Amerika einem
Kriegsgerichtsverfahren und arbeitete als Leiter eines
Forschungsinstituts im Gesundheitswesen. Noch während des Krieges
schrieb er eine Abhandlung über die japanische Rasse auf der Basis
seiner Erforschung menschlicher Knochen des Altertums
(古代人骨の研究に基づく日本人種論, 1949 veröffentlicht). Es folgten 1955 das Buch
„Geschichte der japanischen Archäologie und Anthropologie“ (日本考古学・人類学史
Nihon kōkogaku jinruigaku-shi) und 1969 posthum Forschung zu
japanischen Muschelhaufen (日本貝塚の研究 Nihon kaizuka no kenkyū). 1953 zog
er nach Meguro zurück. Zwei Jahre später starb er unerwartet an einem
Herzinfarkt. |
戦後はアメリカとの密約により軍法会議を逃れ、衛生研究所の所長として
働いていた。戦時中、古代人骨の研究に基づく日本人論(1949年刊)を執筆した。その後、1955年に『日本考古学・人類学史』、1969年に『日本貝
塚の研究』(遺作)が刊行され、現在に至る。1953年、再び目黒に移り住む。その2年後、彼は心臓発作で突然死した。 |
https://de.wikipedia.org/wiki/Kiyono_Kenji |
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