かならずよんで ね!

足立文太郎

Buntaro ADACHI,

1935年の足立(Festschrift für Prof. Buntaro Adachi. Folia anatomica Japonica 13 Nr 3 (1935))

池田光穂

足立文太郎(あだち ぶんたろう、慶応元年6月15日(1865年8月1日) - 1945年(昭和20年)4月1日)は、日本の解剖学者、人類学者、京都帝国大学医学部教授。専門は軟部人類学。日本人と欧米人の解剖学的差異を解明した [2][3]。」

1865 静岡県田方郡市山村(現:伊豆市)出身。 父親が失踪したため、母方の伯父の元で育つ[4]——井上靖(娘婿)「桃李記」の「文左ェ門」モデルが文太郎の父長造※靖の妻ふみの祖母すがは井上靖の曾 祖父潔の妹であり、すがは足立長造(文太郎の出奔した父)と結婚3人の子どもを儲けるが井上家に戻る

1894 東京帝国大学医科大学卒業、

1895 第三高等学校専門部医学部(岡山)教授。

足立文太郎「琉 球與那國島岩洞中ノ一頭蓋」『東京人類学雑誌』10巻114号p.466-472, 1895. 足立は、笹森儀助から依頼された1個の頭蓋骨の鑑定をたのまれ、それを報告する。

いかなる種族に属するか、即日本人頭蓋か、琉球人頭蓋か、はた他より来たるか等の問に至ては。 余はこの一頭蓋によりては深く之に入るを好まず」Pp.471-472.(文章は現代風に書き換えた)。「沖縄群島に放棄せられたる数百千の頭蓋。一般にこの一頭蓋に近似したるものとせんか。啻(た だ)に本州人と異なるのみならず、長頭の一点においても、殆(ほと)んど従来既知の諸種族の最上に列するものならん。なお他日琉球人ならびにその群島に放 棄せられたる頭蓋について研究を得るの機に譲らんと欲するなり」p.472.(文章は現代風に書き換えた)。

1899 ストラスブルク大学に留学(アルザス=ロ レーヌ地域にあるために普仏戦争1870-1871以降はドイツ語で授業がおこなわれた。1918年以降フランス語に復帰)。解剖学者G・シュワルヴェに 学ぶ。

1900 留学中に京都帝国大学医科大学助教授に命 じられるが、そのまま4年間留学をつづける。

1904 帰国

1904 京都帝国大学医科大学教授、解剖学を担 当。

筋の異常の統計学的研究のほか、諸民族の体臭と耳垢 についての遺伝学的・組織学的研究などが知られ、「身体的特徴において人種的優劣はない」と唱えた[5]

1912 ロート『人種解剖学』の巻末で、筋肉血管の走行の人種差をしてきた足立の業績を紹介している(清野 1928:1036-37)

1921 京都帝国大学医科大学学長(「学部長?」1916-1921)


1925 

定年退職後、大阪高等医学専門学校(現: 大阪医科薬科大学)の初代校長.

清野謙次の父親は、小金井良精と学生時代より友人であった。足立文太郎と小金井はこの年の秋に、清野宅を訪問する(清野1928:1033)

1928 『日本人の動脈系(Das Arteriensystem der Japaner)』『日 本人の体質の研究(日本人體質之研究)』岡書院

清野謙次(「日本人體質之研究」所収)「十年一日の 如く着古された古洋服と古帽子に下駄履きで肩から小学校生徒の使用するズック製カバンを下げて、大学へ来られる姿は大学教授でなくて、正に小使であっ た」。

1930 帝国学士院恩賜賞

1933 『日本人の静脈系(Das Venensystem der Japaner)』

1945 4月1日脳溢血で死去

1953-1963 Das Lymphgefäßsystem der Japaner, Anatomie der Japaner / von Buntaro Adachi, Takusaburo Kihara ; 3

1981 Körpergeruch, Ohrenschmalz und Hautdrüsen : eine anthropologische Studie / Buntaro Adachi,     [Tokyo] : Anthropological Society of Nippon.

◎ 足立文太郎の日本人種観(リンク)

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