小金井良精
Yoshikiyo KOGANEI, 1859-1944
昭和10(1935)年ごろか?/Wada Eisaku 和田英作 (1874-1959)
Koganei Yoshikiyo (小金井 良精, January 17, 1859 [Gregorian calender/ Dec 14, 1858 - lunisolar calender]– October 16, 1944) was a Japanese early anthropologist, e.g. anatomy, physical anthropology, and ethnology in Japan before 1944.
Koganei Yoshikiyo
(japanisch 小金井 良精; geboren 17. Januar 1859 in Nagaoka, Provinz Echigo[A
2]; gestorben 16. Oktober 1944 in Tōkyō) war ein japanischer Mediziner
und Anthropologe. |
小金井良精(こがねいよしきよ、1859年 1月17日 越後国
長岡生まれ[A 2]、1944年 10月16日 東京都没)は、日本の医師、人類学者である。 |
Leben und Wirken Koganei Yoshikiyo wurde als Sohn des Koganei Yoshimichi (小金井 良達), Samurai des Nagaoka-Han, geboren. Er machte 1880 seinen Abschluss an der Medizinischen Fakultät der Universität Tōkyō, wo er von Wilhelm Schultze in Anatomie unterrichtet worden war. Anschließend ging er für fünf Jahre nach Deutschland, um sich an der Friedrich-Wilhelms-Universität weiter zu bilden. Einer seiner Lehrer war dort Wilhelm von Waldeyer-Hartz, der ihn zu seinem Assistenten machte. Nach seiner Rückkehr 1885 wurde er an seiner Alma Mater zunächst Lehrbeauftragter. 1886 wurde er der erste Anatomie-Professor in Japan. Koganei studierte die Anatomie und Knochenstruktur der Ainu und publizierte von 1904 bis 1905 seine Ergebnisse als „Forschung zu den Ainu“ (アイヌ族の研究, Ainu-zoku no kenkyū). Er war zu dem Schluss gekommen, dass die Ainu die steinzeitliche Bevölkerung Japans gewesen waren. Koganei vertrat eine Rassentheorie, die die Ainu Hokkaidōs als auf einer "Rasseinsel" sitzend beschrieb[1][2][3] und wandte sich somit gegen andere bestehende Strömungen jener Zeit, wie Tsuboi Shōgorōs Annahme, dass die Ainu wie die Japaner "mongoloid" seien oder Kodama Sakuzaemons Position einer "kaukasischen" Abstammung der Ainu, die auch von Wissenschaftlern wie Erwin Bälz getragen wurde. Koganei war Mitglied verschiedener Anthropologischen Gesellschaften im In- und Ausland. |
生涯と仕事 小金井嘉清は、長岡藩士小金井嘉通(小金井良達)の子として生まれた。1880年に東京大学医学部を卒業し、ヴィルヘルム・シュルツェに解剖学を教わる。 その後5年間ドイツに留学し、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学でさらに教育を受けた。そこでの教師のひとりがヴィルヘルム・フォン・ヴァルデイヤー・ハル ツで、彼は彼を助手とした。1885年に帰国すると、最初は母校の講師となった。1886年には日本初の解剖学教授となった。 小金井はアイヌの解剖学と骨の構造を研究し、1904年から1905年にかけて『アイヌ族の研究』として発表した。小金井は、アイヌは日本の石器時代の人 びとであると結論づけた。小金井は北海道のアイヌを「人種の島」とする人種論を唱え[1][2][3]、坪井鉦五郎のアイヌは日本人と同じ「モンゴロイ ド」であるという仮定や、児玉作左衛門のアイヌの祖先は「コーカソイド」であるという立場など、当時の他の潮流と対立した。 小金井は国内外の様々な人類学会の会員であった。 |
Schriften Beiträge zur physischen Anthropologie der Ai͏̈no (1893). Kurze Mittheilung über Untersuchungen an lebenden Aino (1897). Archiv für Anthropologie 24. 1–39. Das Becken der Aïno und der Japaner Geleitwort zum Katalog der Büchersammlung von Dr. Heinrich Wilhelm Gottfried von Waldeyer-Hartz Messungen an chinesischen Soldaten Über 4 Koreaner-Schädel Über die Urbewohner von Japan Untersuchungen am Skelet Zur Frage der Abstammung der Aino und ihre Verwandtschaft mit anderen Völkern (1927). Anthropologischer Anzeiger 4 (3). 201–207. Forschung zur Anthropologi (人類学研究, Jinruigaku kenkyū) Praktische Anatomie (実用解剖学, Jitsuyō kaibōgaku) Koganei Yoshikiyo Tagebuch (小金井良精日記Koganei Yoshikiyo nikki) Sammlung von Beiträgen zur Anthropologie Japans (日本の人類学文献選集, Nihon no jinrui bunken-shū) Die Steinzeitbewohner Japans (日本石器時代住民, Nihon sekki-jidai no jūmin) Über die Veränderungen der Zähne bei den Steinzeitbewohnern Japans (日本石器時代人の歯牙を変形する風習に就て, Nihon sekki-jidai-jin no shika o henkei suru fūshū ni tsuite) |
著作 アイノ族の身体人類学への貢献(1893年)。 生きているアイノに関する調査についての短報(1897年)。人類学アーカイブ 24. アイヌの盆地と日本人 ハインリヒ・ヴィルヘルム・ゴットフリート・フォン・ヴァルデイヤー・ハルツ博士蔵書目録への序文。 中国兵士の計測 朝鮮人の頭蓋骨4個について 日本の先史時代の住民について 骨格に関する研究 アイノ族の祖先の問題と他民族との関係について(1927年)。人類学雑誌 4 (3). 201-207. 人類学研究 (人類学研究) 実用解剖学(実業解剖学) 小金井良精日記(こがねいよしきよにっき) 日本の人類学文献選集(日本の人類学文選集) 日本の石器時代住民(日本石器時代人類学選集) 日本石器時代人の歯牙を変形する風習に就て」(日本石器時代人の歯牙を変型する風習に就て) |
Anmerkungen Portrait, gemalt von Wada Eisaku Heute Präfektur Niigata. Einzelnachweise Koganei, Yoshikiyo: Beiträge zur physischen Anthropologie der Aino. Verlag der Universität, Tōkyō, S. 95. Koganei, Yoshikiyo: Kurze Mittheilung über Untersuchungen an lebenden Aino. In: Archiv für Anthropologie. Band 24, S. 1–39. Koganei, Yoshikiyo: Zur Frage der Abstammung der Aino und ihre Verwandtschaft mit anderen Völkern. In: Anthropologischer Anzeiger. Band 4, Nr. 3, S. 201–207. Literatur S. Noma (Hrsg.): Koganei Yoshikiyo. In: Japan. An Illustrated Encyclopedia. Kodansha, 1993. ISBN 4-06-205938-X, S. 809. |
備考 肖像画・和田英作画 現在の新潟県 参考文献 小金井嘉清:アイヌの身体人類学への貢献。東 京大学発行、95頁。 小金井嘉清:アイヌの生活文化に関する研究報告。小金井嘉清:アイヌの生活人類学的研究についての短信。第24巻、1-39頁。 小金井嘉清:アイノ族の祖先の問題と他民族との関係について. In: Anthropologischer Anzeiger. 第4巻、第3号、201-207頁。 文献 S. 野間省吾編:小金井嘉清. 日本. 図説百科事典. 講談社, 1993. ISBN 4-06-205938-X, p. 809. |
https://de.wikipedia.org/wiki/Koganei_Yoshikiyo |
以下、出典はWikipedia「小金井良精」『小金井良精日記』などより
1859
1月17日(旧暦・安政5年12月14日) - 小金井儀兵衛と小林幸子の次男として誕生。
「越後長岡藩士で家老河井継之助に信任を得て郡奉行
などの長岡藩要職を歴任した小金井儀兵衛の次男として、越後国古志郡長岡(現新潟県長岡市)の今朝白町に生まれた。母は新潟奉行小林又兵衛の長女幸子。長
兄は自由民権運動家で衆議院議員を務めた小金井権三郎。母幸子の兄小林虎三郎は、吉田松陰と並び佐久間象山門下の二虎と称された」
1870(13歳)
10月20日 - 大学南校に入学。在学1年半
1872(15歳)
10月7日 -
第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)入学
1879
12月8日 - 父(小金井儀兵衛)死去。
1880(23歳)
5月30日 - 東京医学校雇医員に雇用
7月10日 - 東京医学校主席卒業、医学士となる
10月16日 - 解剖学及び組織学修業のためドイツ留学を命じられ、11月14日に日本を離れる
撮影年不詳
1881
1月7日 - ベルリン大学入学(ライヘルト(Karl Bogislaus Reichert, 1811-1883)教授の教室に入る; 1858年よりベルリン大学解剖学教室主任教授)
1882
4月1日 - ストラスブルク大学へ転籍(ワルダイヤー(Wilhelm von Waldeyer-Hartz)教授の教室)Wilhelm von Waldeyer-Hartz (1836-1921) ??
Heinrich Wilhelm Waldeyer, 1891
1883
11月1日 - ワルダイヤー教授のベルリン大学へ異動(ライヘルト教授の死後)に伴い良精も転籍、ベルリン大学助手を命じられる。
12月30日 - 公費留学期間満期となるが、更に私費にて留学を継続する
1885(28歳)
6月20日 -
帰国。東京大学医学部講師を命じられ、9月11日に日本人による初めての系統解剖学講義を行う(前任者 Disse)。
1886(29歳)
3月6日 - 医科大学教授に就任。
1887
小金井良精が、東京人類学会に入会「朝鮮人の頭骨」
を講演する。
1888(31歳)
5月、森林太郎の妹、喜美子を娶る。
6月7日 - 医学博士の学位を授ける。
夏 アイヌ人骨採集にでかける「アイノの人類学的調査の思ひ出:48年前の思ひ出」『どるめん』第4巻第7号
(通巻40号)pp.54-65 (pp.724-735)
1893(36歳)
9月11日 -
補医科大学長、解剖学第二講座担当を命じられる。
1896(39歳)
9月25日依願免医科大学長。
1900(43歳)
5月16日 - フランス・パリにおける万国医事会議開設委員として参列を命じられる。
6月2日出発。独、英、米をめぐり翌・明治34
(1901)年3月11日帰朝。
1901 (44歳)
『小金井良精日記 明治編 1900-1912』、
153頁、東京:クレス出版
Reference: “The Diary of KOGANEI Yoshikiyo, Meiji period 1900-1912”,
p.153, Tokyo: Kuresu Suppan Press.
明治34年(1901) 2月26日 火 晴 ホノ ルル着、発 未明五時前に着五時起く本船は尚港外にあり検痘を終りて港内に入る七時朝食本船はウォーフ(波止場)に横付けす……略…… 良精等は是より領事館に至り領事斉藤三木氏に面会す是より医師小林三三郎氏診療所に立寄るに時に十時なり 暫く待つ其内同氏来る伯林以来にて面会す是より 政庁の前を通り公園の脇を過ぎて市の東海岸ワイキキに至る……略…… 十時本船に帰る 小林三三郎及毛利氏来り訪ふ又小林氏より土人頭骨四個を得る夜 半十二時少しく過きて出帆す一時頃室へ入る……。
1904(47歳)
4月解剖学第一講座分担。
1906(49歳)
7月解剖学第一担任。
卒業式にて「帝国版図内の人種」を御前講義。
1910(53歳)
3月、ベルリン大学百年祭に招待あり、7月6日出
発、式典参列に先立ち英仏歴訪。パリでは万国博覧会開会式に列席、名誉会頭に推さる。ベルリン大学百年祭では東京大学を代表して祝辞を呈す。12月29日
帰朝。
1919(62歳)
2月27日、勲一等瑞宝章を賜う。翌年、正三位。
1920(63歳)
11月25日 - 学術研究会議会員に任命される。
撮影年不詳
1921(64歳)
12月にはじめて設けられた定年制の申し合わせによ
り依願免本官。
1922(65歳)
2月14日東京帝国大学名誉教授となる。医学部講師 嘱託
1924(67歳)
10月講師嘱託を解かる。
1925(68歳)
4月清野謙次(1885-1955)はアイヌ人と縄紋人とは骨が異なること を指摘し、アイヌ人とは異なる均一人種が日本にいたとし、これを「日本原人」と呼び、『日本原人の研究』を出版し、小金井良精(1859-1944)の縄 紋人アイヌ説に反論した。
良精の次女せいは、星一(ほし・はじめ:1973-1951)と結婚する。
1927(70歳)
6月20日「本邦先住民族の研究」について御前講
演。
1935(78歳)
昭和10(1935)年撮影/個人だけのものは同時 期の頃か?
小金井良精(1935)「アイノの人類学調査の思ひ
出:48年前の思ひ出」『ドルメン』4巻7号(昭和10(1935)年7月号)Pp.54-65=Pp.724-735.において、小金井は当時の日記を
転載することで、盗骨も含めてアイヌ人骨の入手方法について述べている。「アイノ小屋が2,3軒見えるから、なるべく見附られないようといひ合わせた。夕
刻までに5体掘り揚げた、ところへたうとうアイノが5、6人やってきた、……中に一人のバッコ(老婆)が居てナムアミダブツ、ナムアミダブツといふて泣い
てゐたのには弱った。……合計12箇許、石油箱6箇に詰めた……野には是所彼所アイノが仕事をしてゐる、この方を頻りに眺めてゐる、馬背の石油箱は骨だと
知りはせぬかなぞと思ひつつ小樽帰着」(小金井 1935:56)
1936(79歳)
4月2日東京人類学会・日本民族学会第一回聯合大会
第2日に「日本民族の南方要素の問題について」を講演。これが最後の学術講演。
1944(87歳)
10月16日死去(小金井良精墓所 - 泉岳寺・東京都港区高輪2丁目)
東京大学医学部内にある小金井良精の胸像(制作年不
詳)
小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政5年12月14日)
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1944年(昭和19年)10月16日)は、明治から昭和にかけて活躍した解剖学者・人類学者。森鷗外の妹婿であり、星新一の祖父にあたる。陸軍軍医総監
椰野巌は甥である。 |
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生涯 越後長岡藩士で家老河井継之助に信任を得て郡奉行などの長岡藩要職を歴任した小金井儀兵衛の次男として、越後国古志郡長岡(現新潟県長岡市)の今朝白町に 生まれた。母は新潟奉行小林又兵衛の長女幸子。長兄は自由民権運動家で衆議院議員を務めた小金井権三郎。母幸子の兄小林虎三郎は、吉田松陰と並び佐久間象 山門下の二虎と称された。[1] 1870年(明治3年)10月大学南校を経て、1872年(明治5年)10月第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)に入学、1880年(明治13年) 7月に東京医学校(同年5月第一大学区医学校から改称)を卒業した。卒業前の5月より東京医学校雇医員に採用され、同校外科学教室の助手として同教室シュ ルツ博士より解剖学の手解きを受け、その後同年11月に日本よりドイツへ留学した。1881年(明治14年)1月ベルリン大学、翌年3月留学期間を通じて 師事したワルダイヤー教授の下で1885年(明治18年)6月に帰国する迄解剖学と組織学の研究を続けた。この間1884年(明治17年)「網膜の発生に 関する論文」、翌年「人類及び脊椎動物の虹彩に関する論文」を発表、1883年(明治16年)にはワルダイヤーに認められベルリン大学の助手に採用され た。帰国後9月11日より当時の解剖学教授であったヂッセに替わり、解剖学講義を行った。翌1886年(明治19年)東京帝国大学医学部教授に任じられ た。[2] 1888年(明治21年)に坪井正五郎と、その翌年の夏には妻・小金井喜美子と、北海道でアイヌの墓地から166の頭骨と副葬品を持ち去り[3]、その骨 格を調査して以来、人類学を専攻。アイヌ研究に基づいて、日本石器時代人はアイヌであるとし、坪井正五郎の唱えたコロボックル説を激しく批判した(コロ ボックル論争)。また、アイヌと日本石器時代人の研究過程で上顎と下顎の位置が現代人と異なる事に気づき「人間の咬合についての論文」を発表した。小金井 の研究姿勢は「日本民族の人類学上の問題に専ら心を潜めて来ておられるけれども、その立場は飽くまでも解剖学者として立っておられた」と評され、あくまで も一解剖学者としての論理を貫いた。その後1893年(明治26年)から1896年(明治29年)には帝国大学医科大学学長を務め、1893年に日本解剖 学会を創設した。1902年(明治35年)東京学士会院会員。1921年(大正10年)に定年を迎え、その後は教授職を退いていたが精力的に研究活動を続 けた。 |
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年譜(→上掲) |
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エピソード 戊辰戦争 長岡城落城の日、当時9歳の良精は母兄弟と共に父儀兵衛の姿を発見したが、父は藩主護衛を理由に良精等を戦野に残し離ればなれとなった。その後良精等は東 北の山中を流浪しながら会津から仙台へと避難。戊辰戦後、小金井家は全てを失い、次男である良精は他家に養子に出された。養父死亡により実家に戻り、 1870年(明治3年)上京し母の弟である小林雄七郎宅より大学南校に入学した[5]。 喜美子との結婚 当時良精は駒込に住んでいたが、結婚当日もいつもと変わらず大学に出勤し定時に帰宅し、その後近所の仕出し屋から二人分の料理が届けられた。約束の時間に 媒酌人が新婦を連れてきたが祝いの膳は新郎新婦の二人分だけで媒酌人の膳はなく、また親戚知人すら招くことも無かった[6]。 星新一の母「せい」の命名 良精の妻喜美子は子供の時から長兄である森林太郎(鴎外)のことを大変尊敬していた。次兄は「お兄さん」だったが林太郎に対しては必ず「お兄様」と呼んで いた。そのため「せい」が生まれた時、喜美子は是非にと林太郎に名付けを頼んだ。林太郎は自分や肉親の子供に「於菟=おと、茉莉=まり、杏奴=あんぬ、類 =るい、不律=ふりっつ、爵=じゃっく等々」とドイツ名に漢字を当てて命名しており、林太郎は喜美子に「摩尼=まに」と言う名を示した。喜美子はおどろお どろしい名前に驚き、すぐに依頼を取り下げ夫良精の一字から「せい」と名付けた[7]。 舞姫事件への関与 1888年(明治21年)義兄・鴎外がドイツから帰国。ドイツ人女性が来日して滞在一月(1888年9月12日 - 10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなったが、小金井は、義兄・森篤次郎(筆名三木竹二。年齢は小金井より下)ととも に、女性への説得にあたった。 論文 良精の重要な論文は必ずドイツ語で書かれ、従ってドイツ文を解しない学者は論文に直接接することはできなかった。アイヌ(良精の論文上はアイノ)の研究で も、日本文での発表は極簡単なことに限られていた。これは決して日本文を軽視した訳ではない。当時日本では優秀な研究者はドイツに留学し勉強を行い、国内 でも多くの医学校の教官がドイツ人であった。ドイツ語を解しない日本人専門家はおらず、また論文自体もドイツ人教授等から批評されるのが当然であったこと から、ごく普通にドイツ語での論文発表を行っていた。[8] 無病短命一病長寿 良精はドイツ留学中に不明の尿出血を患った。それ以降酒は飲まず宴会等もできるだけ避け「自分は持病があるから普通の人の様な生活をしていたのでは学問も できず健康も続かない」と言い、寝食を正しくしいかに好物でも過食をしないことを徹底した。「朝は珈琲を入れた牛乳2合とバターをつけたパン、昼は何かを 挟んだパンと紅茶、夜は肉と野菜の汁を一碗に柔らかめの米飯一杯。ただ夜、おかずを多く食べた時はご飯を控え、間食はしない。」、ここに87歳の長寿を全 うした[9]。 香港でのペスト菌 香港に派遣された北里柴三郎がペスト菌を発見した際、香港に派遣する人選を行ったのが良精であった。東大の細菌衛生の正教授で良精の同期であった緒方正規 を外し、文部省から青山胤通、内務省から北里柴三郎を派遣決定した。この両人ならば異境の空の下つまらぬ縄張り争いをやったり、感情の衝突などをやって世 間に醜態をさらすようなことはないとの、良精の明快な洞察によるものであった[10]。 御前講演 昭和2年、良精は昭和天皇への御前講演を行った。公演内容概略は、孫の星新一によると「アイノ(アイヌ)こそ本邦の先住民族である。その理由は、石器時代 人の人骨の特徴が日本人よりアイノ人に近いことである。しかし、石器時代人の骨とアイノ人の骨は全く同一ではない。石器時代人の人骨には日本人的特徴が混 ざっているものもあり、現代日本人人骨の中にはアイノ的なものもある…」と言う内容で、天皇は大変興味を持たれ講義後も別室で詳しくご質問をされたとのこ とであった。講義内容からすれば、昭和2年当時は右翼・皇国史観は蔓延しておらず言論統制も行われていなかった最後の時代の御前講義であった[7]。 |
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栄典・授章・授賞 位階 1886年(明治19年)7月8日 - 従六位[11] 1897年(明治30年)10月30日 - 正五位[12] 1901年(明治34年)3月20日 - 従四位[13] 1911年(明治44年)6月20日 - 従三位[14] 勲章等 1898年(明治31年)12月28日 - 勲四等瑞宝章[15] 1901年(明治34年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[16] 1908年(明治41年)12月25日 - 勲二等瑞宝章[17] 1919年(大正8年)2月27日 - 勲一等瑞宝章[18] |
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主要論文・著作 「網膜の発生に関する論文」1884年 「人類及び脊椎動物の虹彩に関する論文」1885年 「解剖家の職分」1887年 「朝鮮人の頭骨個に就いての説」1888年 「アイノ頭骨の毀傷痕」1888年 「北海道石器時代の遺跡に就いて」1889年 東京人類學會雜誌 1889年 5巻 44号 p.2-7_1, doi:10.1537/ase1887.5.2 「アイノ衣食住及び運命に就いて」1889年 「後頭孔前縁に存する骨隆起及び關接面に就いて」1890年 「アイノ四肢骨に就いて」1890年 「本邦貝塚ヨリ出タル人骨ユ就テ」東京人類學會雜誌 1890年 6巻 56号 p.41-46, doi:10.1537/ase1887.6.41 「あいぬノ骨格標品の説明」東京人類學會雜誌 1892年 7巻 72号 p.207-211, 1891年 doi:10.1537/ase1887.7.207 「多毛症の一例」1892年 「一個のオロツコ人頭骨に就いて」1892年 「硬口蓋の解剖に就いて」1893年 東京医会誌 7, 17, 1893, NAID 10022097025 「アイノ人種ニ就テ」1894年 東京人類学会雑誌 94, 128-135, 1894, NAID 10006684818, doi:10.1537/ase1887.9.128 「日本石器時代の住民論」1904年 太陽 10(4), 363-380, 1904, NAID 10006705833 「外国の人類学に関する学会の目録」1904年 「下総国国分村堀内貝塚所出の人骨に就いて」1904年 「亜米利加インヂヤン種族の乾首デモンストラチオン」1905年 「腓骨と脛骨との関係に就いて」1914年 「人類學上から見たる日本民族」 人類學雜誌 1928年 43巻 4号 p.153-160, doi:10.1537/ase1911.43.153 「アイヌ民族、其の起源並に他民族との關係」 人類學雜誌 1927年 42巻 5号 p.159-162, doi:10.1537/ase1911.42.159 「大腿骨顆間窩の人種的差異に就て」 解剖学雑誌 6, 157-159, 1933, NAID 10003964603 「日本民族中の南方要素の問題に就て」 人類學雜誌 1936年 51巻 6号 p.233-238, doi:10.1537/ase1911.51.233 |
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家族 父・小金井儀兵衛 - 長岡藩寺社奉行・町奉行・郡奉行等を歴任。 母・小金井幸子 - 小林又兵衛の長女、兄は小林虎三郎、弟の小林雄七郎は英学者・衆議院議員。 兄・小金井権三郎 - 時事新報記者、衆議院議員。 弟・小金井寿衛造 - 陸軍少佐、日露戦争で戦死。 先妻 - 病気により死別。 後妻・小金井喜美子 - 1870年(明治3年)11月29日 - 1956年(昭和31年)1月26日。森鷗外の妹にして随筆家・歌人。著書としては『鴎外の思い出』『森鴎外の系族』岩波文庫、訳詩集「於母影」他。 子・小金井良一 - 海軍軍医少将、昭和医専(現昭和大学医学部)教授。妻の小金井素子は哲学者桑木厳翼の娘。 長女・柿内田鶴子(1893年生) - 東大教授柿内三郎の妻。 子・星せい(精子) - 星一(星製薬社長、参議院議員)の妻。星新一(SF作家)は子、星マリナ(翻訳家)は孫。 |
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https://x.gd/HWYmJ |
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小金井良精 / [小金井良精著] ; 山口敏編・解説, 東京 : クレス出版 , 2005.10. - (日本の人類学文献選集 ; 近代篇 ; 第2巻) 北海道石器時代の遺跡に就て 顴骨縫際に就て アイノ四肢骨に就て 本邦貝塚より出たる人骨に就て アイノ人種に就て 日本石器時代の住民 日本石器時代の住民論追加 原始人類の話 腓骨と脛骨との関係に就て 滑車上孔に就て ++++++++++++++++ 河内国南河内郡道明寺村大字国府字乾の石器時代遺跡より発掘せる人骨 日本石器時代人に上犬歯を抜き去る風習ありしことに就て 日本石器時代人の歯牙を変形する風習に就て 日本石器時代人の歯牙を変形する風習に就て追加 日本石器時代の埋葬状態 扁平尺骨と巨大腓骨 日本石器時代人骨の研究概要 アイノ民族、其起源、並に他民族との関係 安房神社洞窟人骨 大腿骨髁間窩の人種的差異に就て 人類の咬合形式及び其系統発生的意義 日本民族中の南方要素の問題に就て |
リンク
文献
その他の情報