小金井良精
Yoshikiyo KOGANEI, 1859-1944
Koganei Yoshikiyo (小金井 良精, January 17, 1859 [Gregorian calender/ Dec 14, 1858 - lunisolar calender]– October 16, 1944) was a Japanese early anthropologist, e.g. anatomy, physical anthropology, and ethnology in Japan before 1944.
以下、出典はWikipedia「小金井良精」『小金井良精日記』などより
1859
1月17日(旧暦・安政5年12月14日) - 小金井儀兵衛と小林幸子の次男として誕生。
「越後長岡藩士で家老河井継之助に信任を得て郡奉行
などの長岡藩要職を歴任した小金井儀兵衛の次男として、越後国古志郡長岡(現新潟県長岡市)の今朝白町に生まれた。母は新潟奉行小林又兵衛の長女幸子。長
兄は自由民権運動家で衆議院議員を務めた小金井権三郎。母幸子の兄小林虎三郎は、吉田松陰と並び佐久間象山門下の二虎と称された」
1870(13歳)
10月20日 - 大学南校に入学。在学1年半
1872(15歳)
10月7日 -
第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)入学
1879
12月8日 - 父(小金井儀兵衛)死去。
1880(23歳)
5月30日 - 東京医学校雇医員に雇用
7月10日 - 東京医学校主席卒業、医学士となる
10月16日 - 解剖学及び組織学修業のためドイツ留学を命じられ、11月14日に日本を離れる
撮影年不詳
1881
1月7日 - ベルリン大学入学(ライヘルト(Karl Bogislaus Reichert, 1811-1883)教授の教室に入る; 1858年よりベルリン大学解剖学教室主任教授)
1882
4月1日 - ストラスブルク大学へ転籍(ワルダイヤー(Wilhelm von Waldeyer-Hartz)教授の教室)Wilhelm von Waldeyer-Hartz (1836-1921) ??
Heinrich Wilhelm Waldeyer, 1891
1883
11月1日 - ワルダイヤー教授のベルリン大学へ異動(ライヘルト教授の死後)に伴い良精も転籍、ベルリン大学助手を命じられる。
12月30日 - 公費留学期間満期となるが、更に私費にて留学を継続する
1885(28歳)
6月20日 -
帰国。東京大学医学部講師を命じられ、9月11日に日本人による初めての系統解剖学講義を行う(前任者 Disse)。
1886(29歳)
3月6日 - 医科大学教授に就任。
1887
小金井良精が、東京人類学会に入会「朝鮮人の頭骨」
を講演する。
1888(31歳)
5月、森林太郎の妹、喜美子を娶る。
6月7日 - 医学博士の学位を授ける。
夏 アイヌ人骨採集にでかける「アイノの人類学的調査の思ひ出:48年前の思ひ出」『どるめん』第4巻第7号
(通巻40号)pp.54-65 (pp.724-735)
1893(36歳)
9月11日 -
補医科大学長、解剖学第二講座担当を命じられる。
1896(39歳)
9月25日依願免医科大学長。
1900(43歳)
5月16日 - フランス・パリにおける万国医事会議開設委員として参列を命じられる。
6月2日出発。独、英、米をめぐり翌・明治34
(1901)年3月11日帰朝。
1901 (44歳)
『小金井良精日記 明治編 1900-1912』、
153頁、東京:クレス出版
Reference: “The Diary of KOGANEI Yoshikiyo, Meiji period 1900-1912”,
p.153, Tokyo: Kuresu Suppan Press.
明治34年(1901) 2月26日 火 晴 ホノ ルル着、発 未明五時前に着五時起く本船は尚港外にあり検痘を終りて港内に入る七時朝食本船はウォーフ(波止場)に横付けす……略…… 良精等は是より領事館に至り領事斉藤三木氏に面会す是より医師小林三三郎氏診療所に立寄るに時に十時なり 暫く待つ其内同氏来る伯林以来にて面会す是より 政庁の前を通り公園の脇を過ぎて市の東海岸ワイキキに至る……略…… 十時本船に帰る 小林三三郎及毛利氏来り訪ふ又小林氏より土人頭骨四個を得る夜 半十二時少しく過きて出帆す一時頃室へ入る……。
1904(47歳)
4月解剖学第一講座分担。
1906(49歳)
7月解剖学第一担任。
卒業式にて「帝国版図内の人種」を御前講義。
1910(53歳)
3月、ベルリン大学百年祭に招待あり、7月6日出
発、式典参列に先立ち英仏歴訪。パリでは万国博覧会開会式に列席、名誉会頭に推さる。ベルリン大学百年祭では東京大学を代表して祝辞を呈す。12月29日
帰朝。
1919(62歳)
2月27日、勲一等瑞宝章を賜う。翌年、正三位。
1920(63歳)
11月25日 - 学術研究会議会員に任命される。
撮影年不詳
1921(64歳)
12月にはじめて設けられた定年制の申し合わせによ
り依願免本官。
1922(65歳)
2月14日東京帝国大学名誉教授となる。医学部講師 嘱託
1924(67歳)
10月講師嘱託を解かる。
1925(68歳)
4月清野謙次(1885-1955)はアイヌ人と縄紋人とは骨が異なること を指摘し、アイヌ人とは異なる均一人種が日本にいたとし、これを「日本原人」と呼び、『日本原人の研究』を出版し、小金井良精(1859-1944)の縄 紋人アイヌ説に反論した。
良精の次女せいは、星一(ほし・はじめ:1973-1951)と結婚する。
1927(70歳)
6月20日「本邦先住民族の研究」について御前講
演。
1935(78歳)
昭和10(1935)年撮影/個人だけのものは同時 期の頃か?
小金井良精(1935)「アイノの人類学調査の思ひ
出:48年前の思ひ出」『ドルメン』4巻7号(昭和10(1935)年7月号)Pp.54-65=Pp.724-735.において、小金井は当時の日記を
転載することで、盗骨も含めてアイヌ人骨の入手方法について述べている。「アイノ小屋が2,3軒見えるから、なるべく見附られないようといひ合わせた。夕
刻までに5体掘り揚げた、ところへたうとうアイノが5、6人やってきた、……中に一人のバッコ(老婆)が居てナムアミダブツ、ナムアミダブツといふて泣い
てゐたのには弱った。……合計12箇許、石油箱6箇に詰めた……野には是所彼所アイノが仕事をしてゐる、この方を頻りに眺めてゐる、馬背の石油箱は骨だと
知りはせぬかなぞと思ひつつ小樽帰着」(小金井 1935:56)
1936(79歳)
4月2日東京人類学会・日本民族学会第一回聯合大会
第2日に「日本民族の南方要素の問題について」を講演。これが最後の学術講演。
1944(87歳)
10月16日死去(小金井良精墓所 - 泉岳寺・東京都港区高輪2丁目)
東京大学医学部内にある小金井良精の胸像(制作年不
詳)
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文献
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