三宅宗悦
MIYAKE, Muneyoshi, 1905-1944; みやけ・むねよし
日本の人類学者(楢崎修一郎, 「日 本の人類学者8.三宅宗悦(Muneyoshi MIYAKE)[1905-1944]」, のサイトから再構成)
1905 3月26日、京都府京都市にて三宅宗淳・ 男依の4男として生まれる(実家は16代続いた医家)
n.d. 京都府立第2中学校及び山口高等学校を卒 業
1916 浜田耕作、京都帝国大学文科大学、考古学 講座担当、翌年、教授に就任。
1929 清野謙次は、39歳にして教授に昇進。
1925 東亜考古学会を、浜田耕作、島村孝三郎、
原田淑人らが設立。浜田の考古学教室は「カフェ・アーケオロジー」と呼ばれるようになる。
1926 京都府立医科大学に入学
n.d 京都帝国大学文学部の考古学者・濱田耕作[1881-1938]の知遇を得る。京都帝国大学医学部病理学教室の清 野謙次[1885-1955]や京都帝国大学医学部解剖学教室の金関丈 夫[1897-1983]とも顔見知りに
1929 須玖岡本遺跡の発掘調査に参加
1930
3月に京都府立医科大学を卒業と同時に 母校の副手となりますが、清野謙次の希望により、同年5月23日付けで京都帝国大学医学部病理学教室助手に就任。病理学教室では、清野謙次が発掘 調査した遺跡出土人骨の整理や計測を行う
1931 旧友小川五郎からの連絡を受け、土井ヶ浜 遺跡出土人骨の鑑定も行う。
1932 3月『どるめん』の創刊。三宅は「日本石
器時代人は巨人(小人)だったらうか」で寄稿している。金関丈夫は「人種秘誌」を寄稿。
1933
京都帝国大学病理学教室講師に昇任。清野よ り奄美大島派遣を命じられる。12月三宅宗悦は、奄美大島(33年12月12日〜22日)笠利で人骨、掌紋、指紋(332人分)ならび考古学遺物、沖 縄本島(12月23日〜29日)で70〜80体の人骨と考古学遺物を収集[板垣 2020:150]。12月24日三宅宗悦は、「本島人種研究」のために「長浜崎樋川等の貝塚を視察して資料蒐集」の予定と報じられる(『沖縄日報』 1933. 12. 24)(板垣 2020b:159)。
「三宅宗悦は1933年12月から1934年1月の 間に、奄美大島笠利村の各地で人骨約80体を採集し、1934年5月には大島郡竹島硫黄島中之島小宝島で手掌紋数百人分を採集している。更に中山英司と共 に、1935年1月2月の間で喜界島で人骨約70体、徳之島で約80体を得ている」(須田 1950113)——須田昭義(1950)「人 類学からみた琉球人」『民族学研究』15(2):109-116.
出典にリンクします:「琉球民族遺骨返還訴訟への意 見書」(『評論・社会科学』134, 2020, pp.141-177) https://researchmap.jp/read0201419/works/30077383
「琉球関連の人骨が1042~1112 号の連番になっていること,それがおよそ70体分であること,三宅は京都に戻ってからではなく現地で「清野蒐集人骨」番号を振っていたことからしても (52),1042~1112 号が三宅収集によるものだと判断するのが至当」[板垣 2020:158]
鳥居龍蔵は、1904年ごろに沖縄で人類学資料写真 を撮影する(→鳥居龍蔵写真資 料)。その結果、「鳥居は、沖縄本島の土器を日本本土と同一系統のものと見なし、言語・身体形質に関する知見と合わせて沖縄石器時代人=アイヌ説 を示唆する」沖縄調査 ギャラリー)。 安里によると、沖縄の人たちにとって、琉球の石器時代人がアイヌという主張は、相当なショックを受けたという(ただし出典不詳:推測するに鳥居龍蔵 (1905:243-244))。沖縄と奄美で人骨収集をする三宅はこのことを憂い、「こうし た(鳥居龍蔵の)旧説に禍いされて、南東住民自身、非常に精神的な苦杯をなめつづけていた。それあ恐らく他地方の者にとっては想像もつかない精神的な苦悩 であった」と記述している(出典不詳)。安里によると「三宅は、沖縄への渡島の度に、清野の混血説をひきあいに出して、日本の縄文人はアイヌではなく日本 人の祖先であり、アイヌと琉球人はその後の朝鮮半島からの移住者との混血が少なかったために体質を残しているのだと説いてまわっていたようです」(安里・ 土肥 2011:31)。
鳥居龍蔵「沖繩諸島に住せし居先住人民に就て」『東 京人類学会雑誌』第20巻227号、東京人類学会、1905.において、鳥居はチェンバレンの主張を継承。琉球人は九州より渡来した「日本人」と主張。他 方で、体毛の多さ、与那国、西表などの地名などから「余は昔日アイヌの沖縄に居住なし居りたることを想像、仮説せんと欲する者なり」と記載(鳥居 2005:244)。つまり、アイヌも日本人も来琉したものと主張している。
三宅による自分自身の弁明は『ドルメン』3巻5号 (昭和9年5月号)にある(三宅 1934:392-393)。
「人類學徒としての自分の最も驚いた事
は、体質人類学が今日程に発達しなかつ
た時代の学説「日本石器時代人即アイヌ
説」が島の人々を根強く苦めてゐた事で
ある。明治、大正時代に烏居龍蔵博士、松
村瞭博士、大山柏公爵等の沖縄石器時代
遺跡研究は沖縄にも縄紋士器文化の分布
を證明し、当時の學説としてアイヌが沖
縄迄広がつてゐた事を説かれた。それで
大島、沖縄の人々がアイヌに似てゐる事
は、アイヌが昔大和民族に逐はれて九州
から渡来した為であると一般に考へられ、
島の人々が白眼視されてゐたのである。
然し今日の人類學の定説、殊に我々の研
究室で行った数百体の日本石器時代人骨
の研究の結果、清野謙次教授の「日本石器
時代人種論」が確立せられ、日本石器時代
人を解明しつつある。量的な計測、その
統計的な取扱ひによって、日本石器時代
入が今日のアイヌと人類学的に随分差の
ある事が判つて来た。しかも日本石器時
代人はアイヌが似ると同程度に現代日本
人にも似てゐる事が明かになった。この
事は換言すれば、日本石器時代人から今
日の日本人もアイヌも生じたと見られる
のである。大島の人々がアイヌに似る事
は、体質的には外貌の二三特徴のみが云
々されてゐたのであって、骨格の方の材
料は今まで一例も知られてゐなかったの
である。大島の人々とアイヌとが似てゐ
る理由として自分は次の如く考へた。日
本石器時代人が或る時代に日本全國に搬
がり、今回の研究旅行でも新しく登見し
た如く、奄美大島にも石器時代遺跡を残
してゐる。当時島々に広がつた石器時代
人が島と云ふ特殊地理的環境から混血も
少く今日に至ったのである。アイヌも亦
現代日本人に較べて混血度は低い。大島
の人々もアイヌも自然現代日本人よりも
純粋度高く残つてゐる為、両者が古い体
質を持つてゐると云ふ点に於て似て来た
のではなからうか。風習、言語の類似も同
様の理由で解釈される。更に興味深きは
日本島集団の小島、沖糊、奄美大島、対馬、
佐渡等の島々の人々の体質か頭長幅示数、
身長等のごく簡箪な計測によっても非常
に似てゐる事である。この事も同じやう
に解釈し得るのではなからうか。島の人
から「夜などふと目が覺めて確に自分逹
は毛深く、容貌も異つてゐる。ほんとに鹿
兒島の人々が云ふ如くアイヌの子孫なの
ぢやなからうか、と淋しく思ふ」と聞かさ
れた時、日本石器時代人アイヌ説の根張
さに驚くと同時に、この純情な二十一萬
の島の人々を苦めてゐるのを知つて憤
りをすら感じた。その學説の誤謬を説明
して、君逹は立派な日本人なのだ、しか
も純粋度の高い罷質の所有者逹なのだと
思ふと云った時、島の人々がどれ程喜ん
で呉れたか、それは恐らく今迄の人類學
徒の感じた事のない感激であった。島の
或る人は「我々は今日迄この科學的な説
明をどれ程待ってゐたか知れない」と喜
んでゐたし、叉一人は「丁度大島振興計画
案が内務省で通つて予算が可決さるれ
ば、十年間毎年一一百萬円宛の補助を受け
島が救はれるが、貴君の今の設明はそれ
以上の喜びを我々に典へるものである」
と迄云つて喜んで呉れた。」
1934
アチックミューゼアムによる調査 に、渋沢敬三[1896-1963]等と「薩南十島採訪調査」に参加。『ドルメン』3巻5号(昭和9年5月号)より「南島の旅」の連載はじまる。この連載 は不定期に、第7回目の「完」(『ドルメン』4巻4号・1935年)まで続く。
1935
三宅宗悦「人類学界展望」『ドルメン』第4巻1号(昭和10年1月号)Pp.25-28.
三宅宗悦「南島の石器時代に就いて」『ドルメン』第4巻6号、岡書院。
1936 夫規と結婚。(長男:宗和、長女:清子、 次男:宗裕)
1937
9月13日、三宅宗悦は第16師団(京都)に軍医と して召集、即日、帰郷を命じられた。12月18日付けで、「病的体質の人類学的研究」により、京都帝国大学から医学博士号を取得。浜田耕作は、同年、京都 帝国大学総長に就任。
1938 清野事件。浜田 耕作は、1938年7月25日に死去。清野謙次も京都帝国大学を退職した。
【清野事件】6月30 日、疑いを持った神護寺側の通報から、帰宅途上刑事に尋問され、カバンの中から経典数十点が見つかり窃盗が発覚。教室と自宅からも京都市内の22寺社の経 典630巻、さらに教授室から1360点の無断帯出が発見される。清野は逮捕され、控訴審で懲役2年執行猶予5年の有罪判決を受ける。このため清野は京大 を免職になったばかりか、濱田耕作(Kōsaku Hamada, 1881-1938)京大総長も辞意を表明。浜田は7月25日に急逝。
1939
清野の免職にあわせて三宅は3月31日付で辞表を提 出した。満州に渡って満州国立 中央博物館奉天分館に赴任。単身赴任にて、所属は満州国民生部、国立中央博物館に籍があった。(これに遡る6年前の奄美調査時に、遺骨発掘に関わるために 山元憲兵に会いにいったところ山元は満洲在勤時代に奉天故宮博物館長内藤寛との懇意とのことで、三宅は当時の内藤の消息を伝えている)。
1940 「南島婦人の入墨」「日本石器時代の埋
葬」「南島の先史時代」(『人類学・先史学講座』第16巻)「日本人の生体計測学」
1941 満州国立中央博物館奉天分館を辞職(辞職 理由は不詳)。12月に、再び第16師団に陸軍軍医大尉として召集さ れ、フィリピンのレイテ島に赴任す。のち大尉。
1942 『人類学雑誌』第57巻第10号 (1942年10月発行)には、「フィリピン通 信」として、「軍務多忙にもかかわらず、時々バイヤー(ベイヤー)教授を訪問して考古学の収集品について研究している。」と紹介。
1943 「大隈国徳之島喜念原始墓出土貝製品及び 出土人骨の抜歯に就いて」『考古学雑誌』33(10)
1944 9月27日に夫人の三宅夫規が死去。11 月 6日に、夫人の後を追うかのように、39歳でレイテ島で戦死。次男・宗裕死亡。
1975 寺田和夫(1975)『日本の人類学』、 思索社
1994 「三宅宗悦博士」『考 古学京都学派』(角田文衛編)、雄山閣出版、pp.169-172
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日本の人類学者(楢崎修一郎, 「日 本の人類学者8.三宅宗悦(Muneyoshi MIYAKE)[1905-1944]」 のサイトから再引用)
「三宅宗悦(Muneyoshi MIYAKE)[1905-1944][角田文衛(1994)『考古学京都学派』、雄山閣出版・口絵1の集合写真より改変して引用](以下、敬称略。) 三宅宗悦は、1905年3月26日、京都府京都市にて三宅宗淳・男依の4男として生まれました。京都府立第2中学校及び山口高等学校を卒業後、1926 年に京都府立医科大学に入学します。山口高等学校で同級生だった、小川五郎[1902-1969]は京都帝国大学文学部史学科に入学し、考古学を専攻しま した。この小川五郎を通じて、京都帝国大学文学部の考古学者・濱田耕作[1881-1938]の知遇を得ます。同様に、京都帝国大学医学部病理学教室の清 野謙次[1885-1955]や京都帝国大学医学部解剖学教室の金関丈夫[1897-1983]とも顔見知りになりました。 三宅宗悦は、京都府立医科大学の学生時代の1929年に、須玖岡本遺跡の発掘調査にも参加しています。1930年3月に京都府立医科大学を卒業と同時に 母校の副手となりますが、清野謙次の希望により、同年5月23日付けで京都帝国大学医学部病理学教室助手に就任しました。病理学教室では、清野謙次が発掘 調査した遺跡出土人骨の整理や計測を行っています。1931年には、旧友小川五郎からの連絡を受け、土井ヶ浜遺跡出土人骨の鑑定も行いました。ただ、三宅 宗悦は古墳時代人骨と鑑定しましたが、現在では箱石石棺から出土した弥生時代人骨だと考えられています。ただ、渡来系弥生時代人骨である土井ヶ浜遺跡出土 人骨が古墳時代人骨に近い形質を持っているという所見は、基本的に間違いではありません。当時は、保存状態が良い縄文時代人骨・古墳時代人骨・現代人骨と の比較が主であり、まだ、弥生時代人骨はあまり出土しておらず、研究は盛んではありませんでした。 1933年には、京都帝国大学病理学教室講師に昇任し、出土人骨の整理及び計測を継続して行いました。1934年には、アチックミューゼアムによる調査 に、渋沢敬三[1896-1963]等と「薩南十島採訪調査」に参加しました。現在、当時撮影された写真の内、中之島のものは神奈川大学日本常民文化研究 所によりインターネット上で公開されており、撮影者に、三宅宗悦の名前を確認することができます。この頃から、三宅宗悦の興味は南島に向かったと言われて います。 この頃、戦争の陰が少しずつ忍び寄ってきました。1937年9月13日、三宅宗悦は第16師団(京都)に軍医として召集されてしまいます。しかし、当 時、京都帝国大学医学部講師であったためか、即日、帰郷を命じられたそうです。この1937年は、三宅宗悦が医学博士論文を準備していた年でした。やが て、同年12月18日付けで、「病的体質の人類学的研究」により、京都帝国大学から医学博士号を取得しています。 ところが、翌年の1938年に清野事件と呼ばれる事件が勃発しました。この事件で心労が重なったのか、1937年に京都帝国大学総長に就任していた浜田 耕作は、1938年7月25日に死去します。また、清野謙次も京都帝国大学を退職してしまいました。三宅宗悦は、この事件により後ろ盾を失い、1938年 3月31日付けで京都帝国大学を辞職し、満州に渡って満州国立中央博物館に籍を置きます。その後、満州国立博物館奉天分館長に就任しましたが、この職も 1941年夏に辞職し、京都に戻ります。ここで、悲劇が起きました。京都に帰ってすぐの1941年12月に、再び第16師団に陸軍軍医大尉として召集さ れ、フィリピンのレイテ島に赴任することになったのです。 このレイテ島赴任中に、東京帝国大学の長谷部言人[1882-1969]に手紙が届いており、『人類学雑誌』第57巻第6号(1942年6月発行)の 「雑報」に、”三宅博士比島よりの通信”として紹介されています。「未だネグリト、イゴロットには遭っていないが、所謂フィリピン人のみに接し、指紋を多 少集めています。フィリピン大学の人類学教室も見ずに前線にいます。大学には、アメリカ人のバイヤー(ベイヤー)がいて、大学予科では人類学が講義されて いるとのことで、この点で日本よりも羨ましく思います。私の兵達は人種を知らずに戦い駐留しているのを淋しく思います。(以上、意訳)」とあり、フィリピ ン島派遣垣第6569部隊三宅隊の隊長であると紹介されています。また、『人類学雑誌』第57巻第10号(1942年10月発行)には、「フィリピン通 信」として、「軍務多忙にもかかわらず、時々バイヤー(ベイヤー)教授を訪問して考古学の収集品について研究している。」と紹介されています。 ちなみに、ここに出てくるバイヤー(ベイヤー)とは、ヘンリー・バイヤー(ベイヤー)(Henry Otley BEYER)[1883-1966]のことです。バイヤー(ベイヤー)は、アメリカのアイオワ州出身で、デンヴァー大学にて化学専攻で卒業後、フィリピン のルソン島で教師として務めます。ハーヴァード大学大学院で人類学を専攻する内、フィリピン博物館の館長に就任しました。やがて、1914年にはフィリ ピン大学の人類学講師に就任し、1925年に人類学部長兼教授となります。/三宅宗悦に、悲劇が起きました。レイテ島に赴任中の、1944年9月27日に 夫人の三宅夫規が死去したのです。また、三宅宗悦自身も、1944年11月 6日に、夫人の後を追うかのように、39歳で戦死しました。奇しくも、興味を持っていた南島方面での戦死でした。このフィリピンでは、海外全戦没者数約 240万人の内、約50万人が戦死しています。 *三宅宗悦に関する文献として、以下のものを参考にしました。 角田文衛(1994)「三宅宗悦博士」『考古学京都学派』(角田文衛編)、雄山閣出版、pp.169-172 寺田和夫(1975)『日本の人類学』、思索社」 https://blog.goo.ne.jp/garfsn1958/e/3e81b03896dccbcc7d8701c56ecb72b8 |
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楢崎修一郎さんに関する情報(産経 新聞、2019.5.19)
「「遺骨鑑定人」として先の大戦の戦没者の遺骨収集
に携わってきた人類学者の楢崎修一郎さん(60)が3月、北マリアナ諸島・テニアン島で亡くなった。国の戦没者遺骨収集団の一員として、同島での活動中の
ことだった。「戦争の犠牲者に対して人道を尽くすことは、平和を願う者に課せられた義務」。こう誓いながら活動を続けてきた遺骨鑑定の第一人者の突然の悲
報に、関係者は「遺骨収集事業にとって大損失」と話している。楢崎さんは遺骨収集事業で1月にミャンマーを訪問。2月に急遽(きゅうきょ)マーシャル諸島
を訪れることになったが、3月下旬には当初の予定通りテニアン島での遺骨収集に参加していた。しかし同21日の活動中、体調不良を訴えて急逝した。戦没者
の遺骨は、現地で発見された際に日本人か否かを鑑定する必要がある。遺骨からは年齢や性別だけでなく、生活スタイルなども見分けられ、楢崎さんら遺骨鑑定
人がその役割を担う。各国で出土した古人骨(こじんこつ)の発掘調査・研究に携わってきた楢崎さん。人類学者として遺骨鑑定の第一人者といわれるようにな
り、平成4年に日本人兵士の遺骨収集活動への同行を依頼されたことから、戦没者の遺骨鑑定に携わるようになった。22年に、遺骨鑑定を行う厚生労働省人類
学専門員に就任。今年からは、国が遺骨収集を法的に「国の責務」と位置づけた「戦没者遺骨収集推進法」に伴い設立された、日本戦没者遺骨収集推進協会の専
従として活動に従事し、22年以降700人分以上の遺骨を鑑定してきた。その鑑定能力は、日本国内だけでなく現地の国から名指しで要請が来るなど、世界か
らも信頼が厚かった。「戦没者が顧みられなくなることで二度死なせてはならない」と活動に取り組み、収集団メンバーや現地住民と一緒になって穴に潜り泥だ
らけになって考察を進める姿は、周囲からの人望を集めた。1月のミャンマーでの活動では、同じ洞窟内から旧日本軍将兵と戦後に処刑されたというミャンマー
人計31人の遺骨を発見。楢崎さんは、細かいものも含め全ての遺骨を引き上げて精査するという途方もない労力をかけ、日本人29人分とミャンマー人2人分
の遺骨に分類した。また、軍人だけでなく一般人の遺骨も多くみつかるサイパン島で活動した際には、遺骨から子供の年齢だけでなく、母親のおなかにいた胎児
であることまで見分けていたという。日本人かどうかを見分ける遺骨鑑定人としての仕事の枠を超え、遺骨と向き合ってきた楢崎さん。これまで楢崎さんと一緒
に活動に参加し、亡くなったテニアン島での活動にも同行した同協会理事で、JYMA日本青年遺骨収集団理事長の赤木衛さん(54)は「戦没者への敬意や人
情味あふれる人柄だけでなく、遺骨について科学的に考察される方だった」と振り返る。昨年にはこれまでの活動をまとめた「骨が語る兵士の最期」を出版し、
活動への意欲も語っていたという。赤木さんは「今年から先生をお迎えして『さあこれから』というとき。心から残念に思う」と惜しんだ。」
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