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帝国主義的ノスタルジーと植民者側のロマンティシズム

Imperialist Nostalgia and Colonialism Romanticism

池田光穂

帝国主義的ノスタルジア(帝国主義的ノスタルジー) は、帝国主義あるいは植民地主義の文脈で、支配者や統治者が、現地の人たちや先住民に抱くノスタルジー感情のことを意味する。 ノスタルジア(英: nostalgia)またはノスタルジー(仏: nostalgie)は、過去の故郷のように時間的/地理的遠隔地への憧憬のきもちを意味するものである。この場合、支配者や統治者 は、彼らにとっての時間的/民族的(あるいは人種的)遠隔地であるかのように振る舞い、かつ、彼/彼女らに、自分たちが行使している植民地的暴力を粉飾し たり忘却することで、無条件に現地の人たちや先住民に、ノスタルジックな気持ちを抱き、また称賛する。その名も「帝国主義的ノスタルジア」というタイトル の論文を書いた、レーナート・ロサルド(1989)に由来する(「帝国主 義的ノスタルジー」)。

ここで紹介するのは、三宅宗悦(1905- 1944)が、1931(昭和6)年の『京都府立医科大学時報』13号(2月2日)に掲載した「滅び行く民族とモーナルウダオ」である。本文は15パラグラフ あるので、各パラグラフごとに引用しコメントを付す。台湾の先住民統治に関するほとんど知識のなかった、三宅が、ここまで正確に、植民地統治の失敗を告発 している点は特筆にあたいする。もちろん表題にみられるように、アイヌと同様「滅び行く民族」であり、先住民は文明化される運命は不可避であることを信じ ている点であるがこそ、三宅は、自分自身が加担者かもしれないという「連累」を忘却して、 先住民の不幸を嘆き悲しむことができると厳しめに弾劾することも可能である。そのような限界を踏まえて、三宅が、植民地統治者である日本政府について行 なっている「糾弾」に我々は耳を貸すべき箇所も多くあるように思える。

滅び行く民族とモーナルウダオ 三宅宗悦
[ ]内は引用者(池田)による。「モーナ・ルダオ」三宅の執筆時期は25-26歳
(p.247) (1)人の噂も七十五日。御多分に洩れず噂も事実も忘れられて行く。あれ程騒がれた台湾霧社 の事件でも、3カ月たった今日では遠い過去の出来事のように記憶から薄らいで行く。筆者は 今ここで再び惨劇の追憶を強いるものではない。夢々彼等への復讐を求めるものでもない。ほ んとに「何が彼等をそうさせたか」と思い及ぼすとき、我々の彼等未文化の民族に対する教導 に幾多の根本的な誤謬のあった事に気づく。
・三宅は「我々の彼等未文化の民族に対す る教導 に幾多の根本的な誤謬のあった事」を認めている。教導とは、別のパラグラフ(6)にある「治育方針」であり、先住民に対する統 治・植民地政策のことをさしている。
・これ=「根本的な誤謬」の指摘を、三宅による「植民地性住民政策批判」とみるか、本項で挙げているような「帝国主義的ノスタルジー」とみるかは、判断す る人間による。いずれにせよ、三宅の論説は、植民地統治する日本側から描かれており、少なくとも「統治される側の眼」ではない。
(2)霧社、タイヤル族中最も南に位する 霧社、その地理的の記述等は余 りにも多く書かれたか らここでは割愛する。3 千尺の高原、気候、温暖に1 月の中ごろ桜花咲く美しの士也、蕃人の頃朴(ママ) さ、哀調を帯びたロボの響き渡る谷々に、オツトフの語ふる伝承の数々を伝えていた彼等、彼 等台湾に住む13万の所謂蕃人こそは、我国の民俗学徒、人類学徒にとっては又なき研究の対 象だった。
・霧社事件については「モーナ・ルダオ」と「Seediq Bale(真の人)と医学倫理について」 を参照。
(3)余りにも治蕃方針の改革を叫んで台 湾を追われた、民族学界の先輩 K[小泉鉄?]氏から、又暴動の起 こる半月余り前、蕃人の生体計測に8 度目の渡台をした東大人類学教室のM[松村瞭(あきら)?]氏から蕃社につ いて色々と聞かされていただけに、[1930年]10 月29 日の号外には驚かされた。霧社へも行くと云って 別れたM 氏の安否も気遣われた。
小泉鉄(こいずみ・まがね, 1886-1954)白樺派離脱後に台湾原住民調査に従事した。小泉は、Henry Sumner Maine "Ancient Law" も翻訳し本邦に紹介している。台湾調査には1925-28年に従事した。兄は、動物学者の小泉丹(まこと, 1882-1952)
著作:『台湾土俗誌』(建設社、1933年);『古代法律』(小泉鉄訳。岡書院、1926年); 『性的解放時代』(小泉鉄訳。アルス、1930年);『蕃郷風物記』(建設社、1932年)(地理・地誌);『ノア・ノア』(小泉鉄訳。洛陽社、1913 年序);「彼の幼年時代」(『現代三十三人集』新潮社、1922年); 「往来にての出来事」(『白樺の林』聚英閣、1919年)

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・松村瞭(まつむら・あきら, 1880-1936)分類学者松村任三の長男。人類学者。著書に「人種名彙」研究報告に「琉球荻堂貝塚」「世界人類実観」
・霧社事件は、運動会襲撃の10月27日から日本軍と警察による霧社奪還の29日、モーナ・ルダオが戦闘の指揮を長男タダオに託し、山中に姿を眩まし、 12月8日にタダオが縊死し、その月の中旬に戦闘が鎮静したころの言う(第一霧社事件)。1931年4月に第二霧社事件がおこる。三宅の寄稿は第二霧社事 件以前のことである。
(4)11月の初め大毎での台湾講演に西 下したK 氏を鴨畔に迎えて、更にK 氏の杷憂が事実とな った事をしみじみ悲しく思った。

(5)暴動が起こると各新聞紙は一斉に原 因を書き並べた。けれどもいず れも端摩憶測にすぎ、ず、 某大新聞ですら、蕃人は世界最野蛮の人種であるとか、彼等に潜んでいた食人の血が呼び起こ (ここからp.248) された等の暴論を社説としてかかげるものすらあった。今になっても未だ確実な真相は発表さ れない。先ず強制的な出役、蕃婦問題等々が伝えられている。今回の暴動に参加したものは霧 社のガザ全12社ではない。パーラン社とトウガン社は参加しなかった。霧社蕃第一の 人物、 マヘボ社のブ、シュラン・パールたるモーナルーダオの死が伝えられたし、彼等の潜んでいるマ ヘボの山は余りにも浅いので近く全滅されよう。彼等の今回の暴動たるや全く出草(馘首)機 には数種の場合があるとは云え、決して今回の如く多人数を馘首する事はない。馘首としても それは決して凶暴性に基くものではない。我々の近い祖先が戦場で首級を獲たのに比して、は るかに敬虔であり真面目である。馘首は彼等のもつ原始宗教の信仰の一端であった。彼等は誠 首せられたものの生命は永久に続くものと信じている。
・蕃社(蕃人=ばんじん=野蛮人=先住民 のコミュニティのこと)における社会問題を指摘しており、国内におけるメディア各社と読者の日本人が、先住民を野蛮の極みと理解していることを指摘してい る。
・先住民への強制労働や先住民家政婦への虐待を含む不良待遇(=蕃婦問題)のことも指摘している。(坪田=中西 2009)
・先住民の抵抗は、鎮圧される見通しを提示。
・出草(馘首)は、文化的慣習であり、それはかつての日本での戦場で首級を獲得するのとは異なると明言する。
・信仰と、出草(馘首)について言及し、蕃社の文化を擁護する。
(6)台湾に於いても他植民地原住民に対 すると同様の治育方針[=統 治・植民地政策]がとられていた。北海道、千島 のアイヌに対し、又台湾13万の蕃人に今まで行なって来た政策が、全く無欠陥であったとは 云い得ない。いずれに時代にあっても当事者が最も良しと信じる所が行なわれていたに拘らず、 それ程の効果を挙げ得なかった原因が奈辺に存ずるかと云うに、先ず指を屈すべきは、彼等原 始民族の社会生活が全く顧られなかった事である。我々文明人から見れば、彼等の民間伝承 は迷信であり野蛮でもある。然しこの迷信も野蛮も彼等自身にとっては信仰であり、真面目な 行為である。
・北海道、千島 のアイヌに対し、又台湾13万の蕃人に今まで行なって来た政策に何らかの欠陥があることを示唆。
・先住民文化への敬意がないことを指摘=「彼等原 始民族の社会生活が全く顧られなかった事」
・蕃人と「我々文明人」の絶対的差異を確認し、その中で「文化の差異」、あるいは劣っている文化は、「原始民族」の「信仰」である、相対主義を主張。もち ろん、文明化の使命は統治する帝国の側にあることに変わりなし。
(7)彼等蕃社のものたちは非常に正直で柔順だった。この正直、柔順さ は彼等の祖先の霊オッ トフの命ずるものであり強(ママ)ふるものである。我々の治蕃方針は彼等から先ず信 仰を奪った。オ ットフを信ずるかわりに日本の神への信仰を強いた。しかも強(ママ)ふるものの家に神棚すらも祀ら れていない。彼等は狩猟の幸を粟の収穫を、タロ芋の増収をオットフのかわりに、より 全知全 能の日本の神に祈った。それにも拘わらず不作の年には粟は実らず、芋の収穫も少い。オット フに祈って不作の時には、信仰のたりなかったことと信じ諦めもしよう彼等の心の底に信仰の 破壊に対する憎悪が生まれて来る
・先住民が従順なのは「彼等の祖先の霊 オッ トフ」信仰によるもので、それを奪ったのは「我々」である。つまり、統治政策の問題 点を指摘している。
・「日本の神への信仰」を押し付けたことに、先住民の抵抗の原因を求める。また、「日本の神への信仰」が、彼らにとって役だたなかった「事実」を述べる。
・不作の原因が、先住民の信仰を奪った統治者側にあり、また彼らの信仰の破壊が、統治者への憎悪をッ惹起したという「文化的要因」論で説明する。
(8)山は焼かれる。木は伐られる。蕃社近の猟場には獲物が住まなく なった。粟の収穫が近づ いて来て多忙の時でも、指名で出役が強いられる。しかも僅な労銀で
・統治者のエコロジカルな収奪、ならびに 資本主義経済との節合という経済的搾取にも言及。
(9)我々の治蕃方針は蕃屋の改築を実行 した。地面を3 尺余も掘り下げた蕃屋は確かに日光の 入る事は少い。(けれども彼等の昼間の生活は殆んど戸外で行われる)蕃屋は海抜3 千尺の高 地にあって長い経験から、保温、防暑のために作られて居る。蕃屋にかわって建てられた日本 式バラック長屋は確に採光の点では成功した。然し冬期が来ると、この長屋の蕃人は移しく感 冒にかかった。死亡率は高まって、今迄人口増加を示していた蕃社が急に人口の減退をあらわ (ここからp.249) して来た。その上彼等の信仰上変死は非常に忌まれている。彼等の云う変死は最後の息をひき とるとき不幸(にも)誰も居わさない場合をも含んでいるのが時々にある。
・家屋の改造が、冬季の感冒感染を惹起し たことを指摘。
・感冒感染は、変死に分類され、また忌嫌われる。居住地のリロケーションを次のパラグラフで指摘。それも、社会不安の原因になる。
(10)変死があると必ず住居を捨てて新 しい土地へ移る。所がバラック でおまけに長屋と来てい るので、万事都合が悪い。全長屋の蕃人が家を捨てるわけにも行かない。ここに新しい長屋に 対する不便が生れ、不平が唱えられる。
(承前)
(11)近来の郡守は以前の如く長く蕃社 に巡査として務めた人が少く、 蕃社に対して蕃社に対し て未知である場合が多い。一体に郡守は年が若くなった。若くなっただけに自分の前途の為に も治蕃の功績を挙げる必要がある。治蕃上最も目に付くのは産業奨励であり、日本化せしめる 事である。前任地で繭を奨励して成功すると、その適不適を考えずに桑の育たない新任地で蚕 業をすすめる。柔順で正直な蕃人は神の如くにも敬う日本の官吏の命とあれば必ず行った。で も蚕は育たず折角作った繭は変動の劇しい相場の為欠損続きである。彼等は失望と同時に憤り をいだく。郡守の交迭(ママ:[更迭?])は以前よりは頻繁として行われる。郡守の変る毎に、たとえ前 任者の治蕃方針、産業奨励が治功あるものでも、直ちに全部を改めて新治蕃方針が行われる。 新らしい産業が半強制的に奨励される。裕富(ママ)でない彼等はこの朝令暮改的な治蕃方針のために、 経済的に動く(ママ:[働く?])疲弊しきってしまった
・日本人の若い官吏の赴任は、統治される 先住民に対する不当な統治競争を惹起する。
・「治蕃上最も目に付くのは産業奨励であり、日本化せしめる 事」であり、先住民優先でないことを指摘。
・養蚕の産業奨励の失敗
・また産業奨励が半強制であること。
・方針が「朝令暮改的」
(12)小学校で、国語が教えられる事は 当然であるが、手紙の文章とし て候文が教えられる。百 の数も不必要な彼等に、5桁も6桁もある算術が教えられる。結構な事ではあるが全く彼等に は不必要な事である。先生達は蕃童の成績の悪い事を罵る。けれども現在の如く文化程度の低 い(ママ)彼等に、候文も難しい算術も学校を出るといらなくなる。
・文化政策を批判。ここでの三宅は、先住 民の能力には人種的偏見が含まれており、日本から導入される「候文」や「5桁も6桁もある算 術」は、先住民の知的レベルにはオーバースペックである旨が語られる。
・この箇所は、現在の政治的公正性(politically correctness)からみて、イケていないので、承服しがたい文章ではある。
(13)病気と云えば、マラリヤと慈虫病 (ツツガムシ)の外大患を知ら なかった彼等の社会に誰 がSyphilis (梅毒)とTuberculos [ママ: Tuberculosis 結核]をもたらしたか。処女地に於ける伝染 力の強さは今筆者がここで解く迄もない。幕末和人(日本人)により伝染されたSyphilisはア イヌ民族を今日の没落に導いた淋しい最も大きな原因であった。
・マラリアやツツガムシの熱帯病の研究 は、宮島幹之助(1872-1944)、小泉丹(1882-1952)、森下薫(1896-1978)により、台湾を舞台にその基礎知識や制圧の研究が 行われた。
・梅毒と結核は、植民地政策のプロセスの中で、日本人が持ち込んだ流行病であること正しく認識している。これは、三宅の医師としての強みでもある。
(14)突如として起ったこの暴動の近因 はいずれにしても、遠因が当事 者の最良と信ずる治蕃方 針から醸された事は容易に判る。一言にして云えば未文化な原始民族に、急速に高等文 化を、 日本化を強いた点に大きな矛盾があった彼等が文明を求める迄、我々 は心長く待てば無難だ った彼等から自発的に求めて来れば、そこに矛盾もなければ不平も生 れない
・霧社事件は植民地統治機関による統治政 策(=治蕃方 針)によることを「遠因」と言うことばにより暗示する。
・また文化政策における失敗で、先住民に対する急速な「文明化」の失敗であることを名言。ただし、それは、先進的な文明人は「劣っている」先住民の開化政 策に性急であってはならない、というレベルに止まる。
・他方で、先住民の開化欲望は、「自発的」にやってくることも指摘している。
(15)台湾の治蕃方針は本読者に於ける 重大なる政治問題の一つとなっ ている。今回の暴動は、 タイヤル族の一蕃社の事件にすぎないとは云え、我々の周囲、我が統治下には未開の原始民族 が多い。彼等が未開である間はいいが、矛盾を自ら発見するようになった時の危険を、未然に (ここからp.250)防ぐためには、もっともっと彼等の社会制度なり、習慣なりに注目せなければならない。 不幸にも濁水渓畔に犠牲となって失われた百数十名の同胞諸氏の霊の冥福を祈ると共に、 急激なる文明の圧迫に完全と挑戦して、マヘボの谷に露と散って行ったモーナルーダオのひき いる霧社の蕃人の末路にも、滅び行く民族への一掬の涙を捧げる。
・今後、霧社事件のような「統治政策」の 失敗、つまり先住民側の反乱が起こりうる可能性を示唆。
・日本は、植民地国家であるという認識が三宅には明確にある。
・先住民への統治政策を失敗させないためには、彼らの社会制度や「習慣なり」を理解しなければならないことを示唆。文化政策への提言とも受け取れる。
・少なくとも反乱した先住民には「理由」があるわけだから、彼らの死にも理由(=先住民政策の瑕疵)があるというのが三宅の言い分である。
・それゆえに彼は、植民する側の良心を代弁して(=帝国主義的ノスタルジーを発揮しつつ)「 急激なる文明の圧迫に完全と挑戦して、マヘボの谷に露と散って行ったモーナルーダオのひき いる霧社の蕃人の末路にも、滅び行く民族への一掬の涙を捧げる」ことになるのである。
(註) この文章の典拠は、1931 (昭和6)年2 月2 日に発行された『京都府立医科大学時報』 13 号に掲載の「滅びゆく民族とモーナ・ルウダオ」である。原文の旧漢字削日仮名 づかいは、山本[芳美]の判断で新しいものに変えた。[オリジナルには〈 〉は、山本が補った部分があったが、テキストを再掲するに加筆分も含めて[ ] とした]。テキストは、『台湾原住民研究』7号、Pp.247-250, 2003年から採集した。なお同誌のPp.251-256には、山本芳美「解説——三宅宗悦博士とその生涯」という詳細で丁寧な解説が収載されている。
テキストは、『台湾原住民研究』7号、 Pp.247-250, 2003年から採集した。なお同誌のPp.251-256には、山本芳美「解説——三宅宗悦博士とその生涯」という詳細で丁寧な解説が収載されている。なおCiNiiによると『京都府立医科大学時報』の発行元は、京都府立医科大学雑誌部で、現在日本の大学図書館には1号〜4号までのバックナンバーしか収蔵されていない。

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