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モーナ・ルダオ

莫那・魯道, Mona Rudao, 1880-1930

池田光穂

モーナ・ルダオ(莫那・魯道, Mona Rudao, 1880-1930)略伝(ウィキペディア日本語を参照に加筆)

1880 セデック族マヘボ社で生まれる。父は、 ルーダオ・ルヘ。セデック族は著名な首刈り慣行をもち、襲撃事件(蕃害)をおこす。霧社とは、台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)。

1900頃 父ルーダオ・ルヘの死後にマヘボ社の頭 目を世襲。霧社セデック族は下関条約Treaty of Shimonoseki, 17 April 1895)ならびに乙未戦争(い つび;Japanese invasion of Taiwan, 1895:1895年11月樺山資紀台湾総督による台湾平定宣言)で台湾を領有した日本に対して遅くま で抵抗を続ける。

1910 霧社セデック族、日本に帰順する

1911 他の台湾原住民の頭目達とともに日本観光 に招かれる。台湾原住民側に「開化社会の様子」を教えるため(中川と和歌森 1987:95-96)。

1929 襲撃事件(蕃害)での死亡者が5名まで低 減。

1930以前 

モーナ・ルダオの妹はマヘボに赴任した日本人の警 察巡査に嫁いだが、この巡査は後に勤務中に崖から転落し行方不明になった。モーナ側は妹が捨てられたと感じ、これが後の霧社事件の一因となったという。部 族が日頃から日本側により徭役で酷使されたことや、モーナ・ルダオの長男タダオ・モーナが日本人巡査とトラブルを起こし、巡査側がモーナ側の謝罪を受け入 れなかったことや、過去の日本軍の討伐に対する恨みなどがあるといわれる。

1930 霧社事件

10月7日 日本人巡査による殴打事件。 「巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。巡査を宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(霧社セデック族村落の一つマ ヘボ社のリーダー)の長男、タダオ・モーナが巡査の手を取ったところ、巡査は宴会の不潔を嫌うあまりステッキでタダオを叩いた。侮辱を受けたと感じたタダ オは巡査を殴打」

10月27日霧社セデック族マヘボ社の頭目モー ナ・ルダオを中心とした6つの社(村)の壮丁[2]300人ほどが[3]、まず霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃。日本人132人と 和装の台湾人2人余りが惨殺。花岡一郎(セデック語:Dakis Nomin,1908年-1930年)と花岡二郎(セデック語:Dakis Nawi,?年-1930年)という、霧社セデック族の警察官も2名居たが、彼らは事件発生後にそれぞれ彼らの家族とともに自殺。

10月29日 日本軍ならびに警察は霧社を奪還。 セデック族は山岳戦にはいる。

10月30日 モーナ・ルダオは、タダオに戦闘の 指揮を託し、妻の他家族を殺害し、家屋に火を放ち、後にし失踪(モーナ・ルダオの遺体は1934年まで不明のまま)

11月1日 指揮を取っていたモーナの次男バッサ オが死亡

11月3日 台湾軍司令官が陸軍大臣宛に「兵器送 付ニ関スル件」として「叛徒ノ待避区域ハ断崖ヲ有スル森林地帯ナルニ鑑ミ、ビラン性投下弾及山砲弾ヲ使用シ度至急其交付ヲ希望ス」と打電。実際に は日本兵への影響を考えて使われず、催涙ガスのみといわれる。

11月4日 「味方蕃」を使って暴徒側部族の村落 を制圧。

12月8日 長男タダオが縊死。

12月 中旬。戦闘終結。敵蕃700人ほどの暴徒 が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降。モーナのマヘボ社では壮丁の妻が戦闘のなかで全員自殺する。鎮圧側の戦死者は日本軍兵士22人、警察官6人、味 方蕃21人。掃討戦で戦死した日本軍人・味方蕃兵士は靖国神社に合祀。

1930 1月台湾総督石塚英蔵、総務長官人見次 郎、警務局長石井保、台中州知事水越幸一が事件の責任を取り辞任。

1931 

4月25日蜂起に与した後に投降した霧社セデック 族生存者(保護蕃)をタウツア社(タウツア社はセデック族と対立して おり、味方蕃として日本に協力した)が襲撃し、216人が殺され、生存者は298人(第二霧社事件)

5月6日セデック族保護蕃は北港渓中流域の川中島 (現在の清流)と呼ばれる地域に強制移住。警察による事情聴取がすすみ、最終的に蜂起有責者として38名が逮捕投獄された。当初警察はこれらを毒殺により 処刑しようとしたが担当医師(井上伊之助)から毒薬注射の実施を拒絶 された。しかし、38名は留置処分となったが、逃亡を図り殺害された1名のほか全員が1932年(昭和7年)3月までに留置中に獄死。

6月(本土)帝国議会で、全国大衆党は当局の対応 を批判。当時の昭和天皇も「事件の根本には原住民に対する侮蔑がある」と憂慮(向山 1987: 1096-1101)。

1934 モーナ・ルダオの遺体が狩猟中の先住民 (高砂族)により発見され、(六尺の身長の)遺骨は標本として台北帝国大学土俗人種学研究室に保存された。戦後に、台湾大学考古人類学系で保存、陳列(中川と和 歌森 1980:102-103; 向山 1987:1090)。

※松 島(2018:41,60)は高金素梅らによる文献[2006:28−35]に依拠し、金関丈夫はモーナ・ルダオの遺骨回収に関与したと指摘するが、金関丈夫の台湾総督府医学校に赴任時期から考えると、ありえないように思われる(→臺北帝國大學醫學部史)。

1945 第二次世界大戦の敗戦による日本統治終了 後、国民党政権下の霧社で防空壕建設が行われたが、その際に旧駐在所霧社分室の跡地から30数体の白骨死体が発見。この死体は霧社事件の際、日本側の投降 呼びかけによって投降した蜂起部族が処刑されたものだといわれる。

1953 「霧社山胞抗日起義紀念碑」が設置され、 「無名英雄之墓」が建立。上記の白骨遺体が埋葬される。

1973 10月24日モーナ・ルダオの遺骨は霧社 山胞抗日起義紀念碑域内の「無名英雄之墓」の近くに「莫那魯道烈士之墓」 が建立され埋葬される(向山 1987:1090)。

++

■人物

■関連史

1930年10月27日にはじまる霧 社事件(むしゃ・じけん、:"Musha Incident" )における、医師(→井上伊之助; Inosuke INOUE, 1882-1966)の「決断」についての考察は「Seediq Bale(真の人)と医学倫理について」 を参照せよ。

ウィキペディア『霧社事件』の末尾の「第二霧社事件と川中島遷移」には以下のような記述がある。

リンク

文献

その他の情報

Mitzub'ixi Quq Ch'ij, 2019

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