かならず 読んでください

臺北帝國大學醫學部ならびに醫學專門部(臺灣總督府醫學校)

Short history of medical school of the Taipei Imperial University,Taiwan, 1899-1945

台湾総督府医学校校舎(近藤十郎設計、1907)

池田光穂

台北帝国大にあった医学校の歴史につい て、ウィキペディア「台北帝国大学」 「台湾総督府医学校」などを参照に記載する。

台北帝国大学(旧字体:臺北帝國大學 たいほくていこくだいがく)は、日本統治時代の台湾に設置された帝国大学。大学の略称は台大(たいだい)。1945年11月15日に中華民国が接収し国立 台湾大学(National Taiwan University國立臺灣大學)と改称、現在に 至る」台北帝国大学.

+++台大前史+++

1883

1895

1896 山口秀高(1866-1916)が渡台、台湾病院院長に 就任。

1897

1898

当 時の旧制医学専門 学校は「高等予備教育を経ず5年制 の旧制中学校・高等女学校卒業により入学し、4年若しくは5年の学修年限により臨床医」になれる制度であり、3月に創設される総督府医学校もこれに準用さ れていた。

3 月 第4代台湾総督児玉源太郎ならびに民政局長後藤新平による児玉・後藤政治下の、台湾総督府医学校が 設立(出典不詳)。付属の医院も台湾総督府台北医院に改称。就学年限 は4年であり、別に予科1年が設けられ、第一期は70名の学生が募集。

6 月「山口被任命為總 督府醫院醫長,後又任臺北醫院院長

1899 

1902(明治35)

台 湾総督府台北医院に 耳鼻咽喉科初代主任として岸一太 (1875-1937)が赴任し、台湾総督府医学校教授となる。その後、ほどなくして、台湾総督府医院医長。

こ の年に、台湾医学会が設立され、9月学会誌『臺灣醫學會雜誌』が創 刊。

1905 赤十字病院が、台湾総督府医学校の教学医院(= 実習病院)となる。

1906 岸一太は、南満州鉄道病院長 (満鉄理事)として赴任。

1912

1918 

1919 

医学講習所(1895-1898)→台湾総督府医学校/ 医学 専門部(1899-1919)→台湾総督府医学専門学校(1919-1922)→台北医学専門学校(1922-1936)→台 北帝国大学附属医学専門部(1936-1945?)/台北帝国大学医学部【新設】(1936-1945)→ 国立台湾大学医学部(1945-現在)

1922 台湾総督府医学専門学校(医学 専門部併設)は、台湾総督府台北 医学専門学校に改称。

+++台大史+++

1928 

1929

1930

1931

1932

1933

1934

1935

1936

1937

1938

1939

1940

1941

1942

1943

1944

1945

1946

1947 

1949 新憲法に基づく国家行政組織法 が施行され、台湾総督府の行政機能は完全に消滅する。

1950 国立台湾大学医学医学専修科が 廃止され、医師養成教育は一本化される。

1959 商学系を設置

1967 

1971 医学部は、国立台湾大学医学院 医学系として名称変更

1983 金関丈夫(86歳)死去

1987 商学系4系を統合し、管理学院 を設置

1993 公衆衛生学院を設置

1997 電資学院を設置

1999 法律学院を設置

2003 生命科学院を設置

++++++++++++

★児玉源太郎と後藤新平

「ワ イ マール期のドイツでは社会衛生学とは、医療の公衆衛生学的な統治術(arts of governability)を通して社会全体を良導する政策そのものであった。興味深い事に、それに先立つ20年前の台湾においても、後に満鉄総裁にな る後藤新平が、児玉源太郎総督の下で台湾総督府民政局長(就任後すぐに民政長官、任期:1898-1906)に就任し台湾統治を「生物学的原則」に基づく ものであることを述懐している。後藤の台湾での業績には、臨時台湾旧慣調査会、台湾総督府医学校および総督府研究所の創設、阿片漸禁策などがあるが、この 生物学的原則は、今日でいうところの社会ダーウィニズムの原理を行政的に制御しようとするものである。それだけではない、後藤の内務省衛生局長の前任者で 実質的に内務省の後見者であった初代衛生局長官の長与専斎は1872年にベルリンに留学し、医学的知見により社会を統治する科学、すなわち衛生 (Hygiene)という訳語を創案し、かつ内務省の部局名として命名し、その局長に就任した。在野の医師であった後藤を見出し長与に紹介したのは第3代 陸軍軍医総監の石黒忠直である。長与の後に衛生局長官に就任していた後藤を児玉に紹介したのも、石黒であった。医師でないのは児玉のみであるが、児玉もま た日清戦争後の帰還兵を受け入れる臨時陸軍検疫部長時代(1895)に、広島県似島検疫所で活躍していた後藤の能力を高く評価していた」(→出典:「1921-1932:ニューヨーク第2回国際優生学会議から第3回国際優生学会 議まで」)

++++++++++++

リンク

文献

  • 李 恒全「台 北帝国大学設立計画案に 関する一考察 ― 幣原担の設立構想を中心に ―」神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要第1巻第1号(2007年11月)45-64頁
  • 鍾 清漢 『日本植民地下における台湾教育史』 多賀出版、1993年
  • 日 本領時代に遺した台湾の医事衞生業績  / 丸山芳登編、私家版、1957
  • 王 敏東(2008)「台湾の 医学に影響を与えた日本人」『日本医史学雑誌』54(3)275-280.
  • 日治臺灣醫療公衛五十年  / 張秀蓉編註、國立臺灣大學出版中心 , 2015.
  • 勅令第30号(臺北帝國大學ニ關スル件)——ウィキソース
  • その他の情報

    Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

    Do not paste, but [Re]Think our message for all undergraduate students!!!owl

    ++

    Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099