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阿片と台湾統治・関連年表

Opium in Taiwan, 1895-1946

池田光穂

■阿片と台湾統治・関連年表

「1970年代の半ばごろのある日、星新一氏の「人 民は弱し官吏は強し』を買った。もともとSF小説を読むつもりであったが、しかし、問書はSF小説ではなく、小説家の手法で、台湾の阿片専売をめぐる政治 疑獄——台湾阿片事件——を扱ったものであり、私は全身が感電したかのように、一気に読み終えた。これが「日本阿片問題の研究」のそもそもの契機である」 (劉 1983:241)。

出典(劉 1983:245-249)

1573-1612 阿片吸食の悪習、台湾に伝わ る。

1624-1662 オランダ、台湾を領有。

1662-1683 鄭氏政権、台湾を支配。

1683 台湾中国領となる

1729 清朝政府、はじめて阿片吸食の禁令を公 布。

1779 イギリス東インド会社、インド阿片の独占 販売をはじめる。

1840-1842 第一次阿片戦争First Opium War)、 南京条約(Treaty of Nanking)締結。

1848 台湾道徐宗幹「請壽議備貯蓄」を上書、台 湾の阿片禍を痛論。

1856-1858 第二次阿片戦争Second Opium War)、 天津条約を締結、中国への阿片輸入合法化される。

1856 ハリス、老中堀田正陸に阿片の惨禍を響 告、1858年以後日本は諸外国との条約に、阿片輸入禁止の条項をもりこむ。

1858 中国、イギリス・フラシス・アメリカに台 湾を開港。/江戸幕府「安政5カ国条約」中に阿片輸入禁止項目。

1868 日本・太政官布告319号、阿片吸食禁制 の布告。

1870 日本「販売鴉片烟律」「生鴉片取扱規則」 を公布、同時に在留中国人にも阿片厳禁の沙汰。

1874 日本、台湾に出兵。

1877 横浜在留英商ハルトレー、第一次阿片密輸 入事件を起す。

1878 ハルトレー、第二次阿片密輸入事件を起 す。

1880 太政官布告36(旧刑法)により鴉片の輸 入売買吸飲を厳禁する。

1894 7月1日:日清戦争起る。/八月:中村純 九郎、台湾領有の意見書を提出。

1895 4月10日下関講和会議の席上、台湾の阿 片問題が提起され、伊藤首相、将来禁断することを公言、論文の反阿片協会から頌徳状を送られる。

1895 4月17日日清講和条約締結、日本、台湾 を領有。

1895 5月10日樺山資紀、台湾総督に任ぜられ る。

1895 6月2日基隆港外にて樺山、李経方と台湾 授受の手続。水野民政局長、台湾駐在の各国領事に、外国人を保護する旨声明。

1895 6月17日総督府、台北にて始政式を行 う。

1895 7月06日樺山総督、「台湾人民軍事処分 令」、「租税■免の諭示」を公布。

1895 7月19日西国寺外相代理、各国政府に台 湾領有を宣言。

1895 7月中 台湾人の抵抗する陣営が、阿片禁 断を含む「日本条例」を偽造し、各地に貼布した。

1895 7月25日内務省衛生局員加藤尚志、阿片 厳禁の意見書を提出。

1895 7月30日水野民政局長、阿片、弁髪、纏 足等、台湾人の民俗に関し、みだりに談話せぬよう関係官に内論。

1895 8月05日台湾各地に、抵抗する台湾人の 機密を探知する「保良局」を設置

1895 9月07日樺山総督、在台日本人に阿片吸 食厳禁の告諭を布告。

1895 11月17日「台湾住民刑罰令」公布。

1895 11月18日樺山総督、大本営に台湾平定 を報告。

1895 11月20日総督府参謀長、日本人に阿片 吸食の便を提供した台湾人の阿片犯罪を、当分の間不問にするよう関係官に内諜。

1895 11月14日l後藤新平、阿片吸食の漸禁 を内容とする「台湾島阿片制度二関スル意見」を提出。

1895 12月30日台湾人の武装ゲリラ(「匪 徒」)、各地に蜂起。

1896 1月19日現行条約の台湾適用を各国に宣 言。

1896 2月03日台湾事務局、阿片漸禁政策を決 定。

1896 2月22日台湾駐在各国領事に対し、翌日 より現行条約の台湾適用を通告。

1896 2月26日台湾総督、将来阿片を薬用とし て政府より専売する旨、台湾人に告示。

1896 3月23日後藤新平、「台湾島阿片制度施 行ニ関スル意見書」を提出、阿片漸禁政策と阿片専売制度を具体化。

1896 3月30日後藤新平、台湾総督府衛生顧問 に任ぜられる。「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」(「六三法」)公布。

1896 4月01日阿片煙膏を製造する製薬所を設 置。加藤尚志向所長に任ぜられる。

1896 10月01日製薬所、阿片煙膏製造閲始。

1897 1月21日「台湾阿片令」公布

1897 2月26日「台湾総督府特別会計法」公 布。

1897 4月01日台湾阿片令(阿片専売制度)台 北市街より実施、同年末に全団施行。

1897 5月08日台湾入国籍選択最終日。

1897 5月27日在台外国商人の阿片、すべて買 上げられる。

1897 6月01日保良局を廃止。

1898 2月26日児玉源太郎、台湾総督に任命さ れる。

1898 3月02日後藤新平、民政局長(のち長 官)に任命される。

1898 3月12日阿片煙菅販売人の要件を「従来 の営業者に限る」から「身元■ナル者」に変更。

1898 8月17日阿片令第一次改正。

1899 4月食塩の専売はじまる。

1899 7月樟脳の専売はじまる。

1900 4月阿片煙膏のモルヒネ抽出はじまる。

1900 9月阿片吸食特許者第一回網羅完了。

1902 2月阿片令第二次改正。阿片吸食特許者第 二回網羅完了。阿片■者名簿完成。

1902 12月後藤新平、阿片専売制度の功績によ り、勲二等旭日章を授与される。

1904 2月日露戦争はじまる。

1905 

1906 10月清朝「禁煙章程十条」——10年以 内に輸入と国産阿片の害を徹底的に根絶することを目的とする。

1907 

1908 

1909 

1911

1912 1月23日「ハーグ国際阿片条約」/1月 1日孫文を臨時大総統(臨時大統領)として中国大陸を中心とする中国を代表する国家として成立。同年2月12日清朝の皇帝である愛新覚羅溥儀が退位するこ とによって、その後袁世凱が大総統(大統領)に就任。3月「阿片厳禁令」

ハーグ国際阿片条約」とは、中国および極東諸国を 禁輸国として阿片とモルヒネの製造取り締まりに関する国際条約。日本も批准。

1913

1914

1915

1916

1917

1918 1月パリ講和会議

1918 6月 ベルサイユ平和条約調印 第295 条にハーグ国際阿片条約への加入を規定した。

1918 12月 天津ノース・チャイナ・ヘラルド 紙「日本人の阿片密輸に対する非難」を掲載

1919 2月ニューヨークタイムズ紙は(天津ノー ス・チャイナ・ヘラルド紙の)「日本人の阿片密輸に対する非難」を転載。

1919 2月中野有光、大連民政所長に就任

1919 6月 国際連名に阿片諮問委員会を設置

1919 7月 中国人阿片吸食者の台湾への入国を 禁止

1920

1921

1922

1923

1924

1925 

第一次阿片会議条約、第二次阿片会議条約で、阿片貿 易の制限——日本の条約を批准。しかし大陸での鴉片栽培や輸入・販売などを続けていたために、後の東京国際軍事裁判で問題視され、興亜院の組織的関与が裁 かれる。

1926

1927

1928 中華民国刑法(南京国民政府)阿片に関す る罪(19章第271-277条)同年9月禁煙運動の本格化。

1929

1930

1931 「麻薬の製造制限及び分配取締に関する条 約」で阿片貿易の完全禁止。

1932

1933

1934

1935

1936 12月阿片令第四次改正。

1937 

里見甫(さとみ・はじめ)「1937年11月、上海に移り、参謀本部第8課(謀略 課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国 語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を依頼される。1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主 導で設置された宏済善堂[→「昭和通商」]の副董事長(事実上の社長)に就任 する。ここで、三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して設立された商社であり実態は陸 軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し、1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切るいわゆる「里見機関」を設立。ペ ルシャ 産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の傀儡であった汪兆銘(汪精衛)政権に回した。また、里見機関は、関東軍が極秘に生 産していた満州産阿片や、日本軍が生産していた海南島産阿片も取り扱っている。この活動を通じて、青幇の杜月笙・盛文頤や、笹川良一、児玉誉士夫、吉田裕 彦、岩田幸雄、許斐氏利、阪田誠盛、清水行之助らとの地下人脈が形成された」(ウィキ日本語「里見甫」より)

1938

1939

1940 10月大政翼賛会発足。台湾で皇民化運動 推進。

1940 12月 杜聡明「阿片吸食特許矯正治療建 議書」を提出./大政翼賛会成立(日本、10月12日)

1941

1942 8月興亜院「支那阿片需給会議」

1943 阿片令第五次改正

1944 9月阿片煙膏製造停止、残存阿片吸食特許 者、全員更生院に収容

1945 8月日本敗戦。台湾を放棄

1945 10月 国府軍、台湾進駐。更生院を「戒 煙所」に解明、杜聡明(と・そうめい, 1893-1986)、所長となる。

1946 6月 最後の矯正息者退院、第三期矯正事 業終る。「戒煙所」閉鎖。

★後藤新平と星一


後藤 新平(ごとう しんぺい、1857年7月24日(安政4年6月4日) - 1929年(昭和4年)4月13日)


星 一(ほし はじめ、1873年(明治6年)12月25日 - 1951年(昭和26年)1月19日)

1857 仙台藩水沢城下に、仙台藩一門留守家の家臣・後藤実崇と利恵の長男として生まれる


1858



1859



1860



1861



1862



1863



1864



1865



1866



1867
11歳で留守邦寧の奥小姓となる


1869



1870
廃藩置県後、胆沢県大参事であった安場保和に認められ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ、県庁に勤務した。


1871



1872
15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三の下で門番兼雑用役になる。


1873
安場が岩倉使節団に随行後に福島県令となり、その縁で16歳で福島洋学校に入った。
1873
現在の福島県いわき市出身。子供の頃、いたずらで放たれた矢が右目に突き刺さり失明。それ以後は義眼を入れていた[
1874
後藤本人も最初から政治家を志していたとされるが、恩師・安場や岡田 (阿川)光裕の勧めもあって、17歳で須賀川医学校に入学。同校では成績は優秀で、卒業後は山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが、安場が愛知県令を務め ることになり、それについていくことにして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)の医者となる。


1875



1876



1877



1878



1879



1880



1881
・愛知県医学校で彼は目覚ましく昇進して24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。
・明治14年(1881年)、愛知県千鳥ヶ浜に海水浴場が開かれ、これは後藤の指導によると伝えられている。この前年に開設された日本最古の医療目的の海 水浴施設沙美海岸(岡山県倉敷市)に次ぎ、同じ年に開設された富岡海岸(横浜市金沢区)、兵庫県須磨海岸に並ぶもので、医療としての海水浴に先見の明を 持っていた。


1882
・明治15年(1882年)2月、愛知県医学校での実績や才能を見出され、軍医の石黒忠悳に認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなった。
・明治15年(1882年)4月6日に岐阜の神道中教院で開催された板垣退助の政論演説会で、板垣が暴漢に刺され負傷する事件が発生。後藤が板垣退助を診 察している。この際、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と言ったという。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にし たという。またこの時期に安場の次女・和子を妻にもらう


1882



1884



1885



1886



1887



1888



1889



1890
明治23年(1890年)、ドイツに留学。西洋文明の優れた部分を強く認める一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。


1891



1892
帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、明治25年(1892年)12月には長與專齋の推薦で内務省衛生局長に就任した。


1893
明治26年(1893年)、相馬事件に連座して5ヶ月間にわたって収監された。最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり失脚し、長與專齋にも見捨てられる破目となった。


1894

1894
(明治27年)東京商業学校(現東京学園高等学校)を卒業[2]。高橋健三らの知遇を得る。同年10月、横浜からアメリカのサンフランシスコへ渡る。
1895
内務省衛生局員時代に局次長として上司だった陸軍省医務局長兼大本営野 戦衛生長官の石黒忠悳が、陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に後藤を推薦したことによって、明治28年(1895年)4月1日、日清戦争の帰還兵に対する検 疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰し、広島・宇品港似島(似島検疫所)で検疫業務に従事して、その行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫 部長として上司だった児玉の目にとまる。


1896

1896
(明治29年)コロンビア大学に入学。在学中に新聞事業を始め『ジャパン・アンド・アメリカ』を創刊
1897



1898
明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である民政局長(1898年6月20日に民政長官)とした。


1899



1900
明治33年(1900年)には16万9千人いた阿片常習者


1901
臨時台湾旧慣調査会(りんじたいわんきゅうかんちょうさかい)とは、日 本統治下の台湾における法制および農工商経済に関する旧慣習を調査するために1901年(明治34年)台湾総督府内に置かれた特別機関を設置。京都帝国大 学教授で民法学者の岡松参太郎を招聘し、自らは同会の会長に就任した。また同じく京都帝大教授で行政法学者の織田萬をリーダーとして、当時まだ研究生で あった中国哲学研究者の狩野直喜、中国史家の加藤繁などを加えて、清朝の法制度の研究をさせた。これらの研究の成果が『清国行政法』であり、その網羅的な 研究内容は近世・近代中国史研究に欠かせない資料となっている。
1901
(明治34年)コロンビア大学政治経済科を卒業[3]。修士号取得。
1902



1903
明治36年(1903年)11月20日、貴族院勅選議員となり、終生在籍した。


1904



1905

1905
(明治38年)上手くいっていなかった新聞事業を譲渡、所持金400円を携えて日本に帰国
1906
明治39年(1906年)、南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍
1906
(明治39年)湿布薬「イヒチオール」の事業化に成功。
1907
明治40年(1907年)4月の東三省建置に当たっては、後藤の腹心である人物が多く要職に配置された。


1908
第2次桂内閣で逓信大臣・初代鉄道院総裁(在職:明治41年(1908年)7月14日 - 明治44年(1911年)8月30日)
1908
(明治41年)第10回衆議院議員総選挙に福島県郡部区から立候補し、当選。無所属で独自の活動を行う。
1909
伊東博文暗殺。


1910



1911

1911
(明治44年)星製薬を設立。五反田に当時としては画期的な近代的製薬工場を建設。ホシ胃腸薬のヒットや日本で初めてキニーネの製造をするなど発展し東洋一の製薬会社と言われるほどになる。
1912

1912
第一次国際アヘン条約がハーグで調印された
1913



1914



1915



1916
寺内内閣で内務大臣(在職:大正5年(1916年)10月9日 - 大正7年(1918年)4月23日)


1917
大正6年(1917年)には台湾の阿片常習者は6万2千人


1918
外務大臣(大正7年(1918年)4月23日 - 9月28日)
1918
(大正7年)SF小説『三十年後』発表(アイディアは星、文章化は江見水蔭)
1919
大正8年(1919年)、拓殖大学第3代学長(前身は桂太郎が創立した台湾協会学校)に就任(在職:大正8年(1919年)2月24日[8]-昭和4年(1929年)4月13日)。


1920
・大正9年(1920年)5月12日には、早稲田大学の科外講師として「吾が国大学生の覚悟」と題する講義を行っている
・東京市長(大正9年(1920年)12月17日 - 大正12年(1923年)4月20日)


1921



1922
大正11年(1922年)6月5日、拓殖大学は大学に昇格。
1922
(大正11年)星製薬商業学校を設立。
1923
第2次山本内閣で再び内務大臣(大正12年(1923年)9月2日 - 大正13年(1924年)1月7日)
1923
(大正12年)戦友共済生命保険を買収し、社長に就任。
1924
・(大正13年)後藤新平へ政治資金提供を行った縁で台湾阿片払い下げを独占していたが1924年に後藤が失脚。
・社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。試験放送を経て翌
1924
(大正13年)フリッツ・ハーバーを日本へ招待する。以後、生涯に渡って物心両面で彼を援助する。後藤新平へ政治資金提供を行った縁で台湾阿片払い下げを独占していたが1924年に後藤が失脚。
1925
・大正14年(1925年)3月22日、日本で初めてのラジオ仮放送を開始。総裁として初日挨拶を行った 1925
(大正14年)阿片令違反で起訴される(その後無罪判決)。解剖学者小金井良精の次女、せい と結婚。
第二次国際アヘン条約がジュネーブで調印される。
1926
・大正15年(1926年)、東京放送局は大阪放送局、名古屋放送局と合併し、社団法人日本放送協会に発展的解消する)
1926
(大正15年)太平洋製薬設立
1927



1928
・昭和3年(1928年)には阿片常習者2万6千人
・昭和3年(1928年)、後藤はソ連を訪問してスターリンと会見


1929
・昭和4年(1929年)4月13日拓殖大学学長を離任。
・昭和4年(1929年)4月4日午前7時過ぎ、岡山で開かれる日本性病予防協会総会に向かう途中、米原駅付近を走行中の急行列車内で、一等寝台のコン パートメントから起き上がり窓際へ出ようとしたところを、後ろによろめいた。口から泡を吹き、呼んでも意識がなかった。後藤にとっては3度目となる脳溢血 だった。たまたま同じ列車に乗り合わせた財部彪(元海軍大臣)らが駆け付け、次の大津駅で降ろすことも検討されたが、病院が充実した京都駅へ向かった。京 都駅では列車を停めたまま、医学博士の松浦武雄が乗り込んで強心剤を数回注射するなど治療に当たった。松浦はさらに、京都駅長の許可を得て列車の窓ガラス を破って後藤の身体をホームに用意した担架に寝かせて駅貴賓室に移したが意識は戻らず、京都府立医科大学医院に入院したまま4月13日に死去した
1929
(昭和4年)次男・協一が誕生。名の由来は、モットーとしていた「協力一致」から。
1930

1930
(昭和5年)破産申し立てを受け、翌年に宣告を受ける(後に取り消しが認められ、強制和議になる)。
1931



1932



1933



1934



1935



1935



1936



1937

1937
(昭和12年)第20回衆議院議員総選挙で2回目の衆議院議員当選。
1938



1939



1940



1941



1942



1943



1944



1945
昭和20年(1945年)に阿片吸引免許の発行を全面停止
1945
(昭和20年)星製薬は空襲で主力工場を破壊され、敗戦で海外拠点を失うが、再建に努める。
1946

1946
(昭和21年)第22回衆議院議員総選挙に3回目の衆議院議員当選。
1947

1947
(昭和22年)第1回参議院議員通常選挙全国区に民主党から立候補して最多得票で当選。
1948



1949



1950



1951

1951
(昭和26年)1月19日、ペルーへの日本人移民計画のために訪れてい たアメリカカリフォルニア州ロサンゼルスで肺炎により客死、77歳[6]。死没日をもって勲三等瑞宝章追贈(勲四等からの昇叙)、従五位に叙される [7]。星製薬は息子の親一が継いだが既に経営は傾いており、親一は会社を手放して、後にSF作家星新一となる。
-2002


星一が設立した星製薬はその死の前後から急激に経営が悪化し、大谷米太郎のもとで再建が行われた。その後「株式会社テーオーシー」(略称TOC)と改称し、販売部門を分離独立して新たな子会社として「星製薬株式会社」が設立された。
2003


TOCの製薬部門とその販売部門である上記「星製薬株式会社」が統合され、製造ラインを持つ新・新「星製薬株式会社」が誕生した。ただし、収益の大半は不動産事業によるものであり、製薬事業部門の寄与度は小さい。


■劉明修(伊藤潔 1937-2006)『台湾統治 と阿片問題』1983年 with password

1.台湾あへん問題の歴史的背景:01-Ryu_Meishu_Opium_taiwan_1983.pdf

2.過渡的措置と漸禁政策(1895-1897 年):02-Ryu_Meishu_Opium_taiwan_1983-2.pdf

3.前期漸禁政策の展開(1897-1930年):03-Ryu_Meishu_Opium_taiwan_1983-3.pdf

4.国際あへん問題と日本:4&5- Ryu_Meishu_Opium_taiwan_1983-4.pdf

5.国際あへん問題と台湾:(上に同じ)

6.後期漸禁政策の展開(1930-1942年):6&7-Ryu_Meishu_Opium_taiwan_1983-5.pdf

7.台湾阿片問題の終焉:(上に同じ)

8.結語、年表、索引等:8-Ryu_Meishu_Opium_taiwan_1983-6.pdf

リンク

文献

その他の情報


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