かならずよんで ね!

琉球コロニアリズム年表

A History of Colonialism on Ryukyuans.

池田光穂

琉球の定義というのはむつかしい。古くは琉球王国だが、これは沖縄本島と先島 (宮古・八重山)を含んだ王国の領土区分だが、沖縄やウチナーに先島が含まれるのかというのは、歴史的にはアイデンティティ問題も含めて複雑な歴史的事情 がある。島津藩は、江戸幕府の琉球征服の過程のなかで奄美を侵略併合したという経緯がある。明治政府の琉球処分は、沖縄、先島を含めて南北の大東島と尖閣 諸島をすべて包摂して沖縄県とした。そのため、ここでの琉球の定義は、歴史的かつ広域的に[ユニークで独自なものとしての]言語圏・文化圏(Kulturkreis)としてみなしてよい、奄美から八重山までを含む領域を緩やかに「琉球」と呼ぶこととする」(「琉球コロニアリズム(沖縄コロニアリズム)」より再掲)

沖縄コロニアリ ズムあるいは琉球コロニアリズムと は、沖縄列島に対する植民地支配の形態の総称のことをいう。琉球コロニアリズ ムという術語は松島(2012)の著作の第1章に登場する。

年 表(→日 本文化人類学史

3万2千年前〜1万8千年前、山下町第一洞穴人、港 川人(現在では原人とは呼ばない);この時代からグスク時代(12世紀)までに、少なくとも2度沖縄諸島に移民・入植した形跡がある(高宮広土 2005:31)

636 『隋書』「東夷伝」に流求.

779 『唐大和上東征伝』「阿児奈波(おきな は)」の文字(松島によると「日本国への帰属性を示す名称: 2018:ix)

ca.656 『隋書 流求國』(『隋書』卷81 列傳第46 東夷 流求國條)——以降、流求、琉求、瑠求、大琉球(「小琉球」の台湾と対比され)の呼称でよばれる(p.viii)。

ca.1100 

源為朝(鎮西八郎)が琉球に流浪、その子が琉球王 家の始祖舜天Shunten, 1166-1237)になる伝承(『中山世鑑Chūzan Seikan, 1650)』『おもろさうし』)——日琉同祖論の原型

1260 英祖王統治はじまる

ca.1300 中山王・察度(さっと)が明朝の皇 帝に入貢(にゅうこう)に「琉球」の文字。

 

北山(山北)
中山
南山(山南)
帕尼芝王統(1322年? - 1416年)
英祖王統(1259年? - 1349年)
察度王統(1350年 - 1405年)
第一尚氏王統(1406年 - 1469年)
大里王統(1337年? - 1429年)

★現在の編年(出典:沖縄県庁)かつて、日本本土中心の縄文や弥生という編年は使われなくなった

  

※左:沖縄本島を中心とした編年。右:先島諸島の編年

1422 琉球國を統一した尚巴志(しょうはし)の 第二子尚忠を北山監守として、今帰仁城に派遣。

「1406年、佐敷の按司(あんじ)であった尚巴志(しょう・はしおう)は中山王「武寧(ぶねい)」を攻め滅ぼし、父・尚思紹(しょ う・ししょう;1354-1421)を中山王位に即ける。これが第一尚氏の始まりである。第一尚氏は1416年、尚思紹在位中に北山王国を、2代尚巴志即位後の1429年に南山王国を滅ぼし、沖縄本島を初めて統一して、滅亡 までに先島諸島を除く沖縄諸島や奄美群島を制圧した。5代尚金福(しょう・ きんぷく)王の時代に首里と那覇を結ぶ長虹堤を築造。6代尚泰久王の時代に護佐丸・阿麻和利の乱が起きた。7代尚徳(しょうとく)王の時に金丸(後の尚円 王)の即位により王朝は滅亡した」wiki)

1429 琉球國:第一尚氏王統の尚巴志王の三山統 一によって琉球國が成立する(三山統一)(→「三山時代」)。

 

1469 

尚徳王の薨去後、尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)が王位を継承し、第二尚氏王統が成立(第二尚氏王統)。第一監守(北 山)時代の終焉。第一尚氏は、そのまま現代まで門中により墓所が守られている(松島 2018:53)。


1565 謝名利山(じゃな・りざん)16歳のとき官生に選ばれて明に留学し、翌1566年、南京の国子監へ入学する。

1609【琉球侵攻】薩摩軍により今帰仁城が焼き討ち。今帰仁 按司五世の向克址(しょうかつし)が戦死しウツリタマヒに埋葬。

1611 9月19日、薩摩藩から尚寧及び三司官に起請文が提示されたが、独り謝名利山は屈服せず署名しなかった。そこで島津家久は所司を遣わしたが、謝名はこれに対しても抗弁に及んだため、斬首された(「南聘紀考」)

17-18世紀 レキオ、レキオス(ポルトガルによ る呼称)、Loochoo, Lewchew 等の記載

1719 新井白石『南島誌』(1719)総序で 『山海経』に見える「北倭」「南倭」の南倭とは沖縄のことであると述べる。

1787 乾隆52年(1787)環海全圖之東半球


1790


中嶋中良——寛政2年(1790年)9月 『琉球談』(りゅうきゅうばなし) - 須原屋市兵衛の依頼で執筆。11月の琉球使節の江戸参府に合わせたもの。須原屋市兵衛板 寛政二年刊 原装 琉球国王、板舞、女市、琉球楽毬舞、米廩、 扇、烟架他絵(大阪の黒崎書店:大阪市阿倍野区長池町のカタログより)

ca.1850 琉球國との修好(米、蘭、英)

1854 7月11日(咸豊4年6月17日)琉米修 好条約(亜米利加合衆国琉球王国政府トノ定約)

1871 11月(新暦10月) 宮古島 島民遭難事件が発生。鎮西鎮台設置(1873年に熊本鎮台に改称)。

7月廃藩置県(沖縄県は1979年)——琉球は大 日本帝国の属国になるが、その処遇は論争になる。1872年10月琉球藩となる。

「1871年(明治7年)11月、台湾に漂着した 69名[3名の溺死者を含む]の宮古島島民 のうち山中を彷徨う54人が[先住民パイワン族と誤認され]殺害される事件(宮古島 島民遭難事件)が発生した。生存者は翌年6月那覇に帰着。この事件に対して、清政府が「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が 実効支配してない管轄地域外での事 件)」としたことが責任回避であるとして、犯罪捜査などを名目に軍を1874年5月(明治政府は初めて海外に)台湾南東岸に派兵・侵攻した」→ 「宮古島 島民遭難事件」「台湾出兵」)

撮影者不明、靖国神社蔵(先住民兵 士も見える)1874年(→ 「宮古島 島民遭難事件」)

中華民國屏東縣車城鄉統埔村的「大 日本琉球藩民五十四名墓」,為同治十年(1871年),統埔、保力庄客家人劉天保、楊友旺、林阿九等人合力將遺留在此事件現場的琉球族無頭遺體以此塚合葬 在雙溪口(今車城鄉統埔村),頭顱則用排灣族舊慣帶到部落的頭骨架中擺祀。(「八瑤灣事件」)

1872 (明治5)

5月中旬、清国を訪問した日本公使がはじめて宮古 島 島民遭難事件(前年11月)を知り日本政府に報告。

夏。鹿児島県に琉球人船員遭難について噂がひろが り不穏に。県令大山綱良は中央政府に報告(大山は薩摩士族の不満を訴えるよい口実に。琉球が旧薩摩藩から帝国帰属になったという不満。)。

10月琉球藩の設置(琉球処分の はじまり)。琉球処分(= 明治政府が強制的に沖縄 (琉球)に対しておこなった琉球藩の設置から廃藩置県(1879)までの7年間の植民化政策): 明治5 (1872) 年に琉球国を廃して琉球藩とし,中央政府の管 轄とする。国王尚泰は琉球藩王に封じて華族され東京に藩邸が与えられる。鹿児島県参事大山綱良(1825-1877)らの台湾征伐論が台頭、自ら「征伐」 を宣言(→琉球処分に派生する植民地領有覇権思想のはじまり)

この年、北海道では、「地所規制」・「北海道土地 売貸規 則」。北海道の土地の私有制度の導入。ただし、アイヌが申請に必要な戸籍の制度が整備される1876(明治9)年までは法的にアイヌが土地所有するチャン ス は阻まれていた。またアイヌに識字者がほとんどおらず、実質的にアイヌは土地所有のチャンスから完全に排除されていた(→「文化略奪史入門」)。

1873 

3月小田県(現在の岡山県西部)の船が台湾に漂 着、船員が原住民に略奪、虐待される。副島種臣3月から7月まで清国に滞在、外交問題を協議。その過程のなかで、清国側は台湾は「未開」地域(→化外の 民、発言)にて(原住民による犯罪行為を)同国は責任を負わないことを回答。副島たちは、それを出兵の根拠とする。

征韓論争がおこり、李氏朝鮮(-1897)への派 兵論争が日本国内でおこる。しかし遣韓は中 止になり、征韓派は下野する(明治六年政変)。鎮西鎮台は熊本鎮台に 改称、1883年に第六師団になるまで続く。

10月下旬 大久保利通(1830-1878)実権掌握

1874 

サン・デニーが『文献通考』の一部を翻訳 し、その琉球条により流求は台湾であるとする説を主張。

2月大隈重信「台湾蕃地事務局」の責任者に就任。 4月大隈と大久保は西郷従道を司令官(蕃地事務都督)に命じる

5月3日第一派遣隊、廈門に到着。4日出兵の承 認。6-7日には台湾南部には到達か?台湾出兵(→「日本文化人類学史」。5月22日前後、西郷従道台湾に到着「石門の戦い」に参戦。

10月末。台湾問題の決着。清国は宮古島民の遺族 に賠償金を支払う。

1875 松田道之は内務大丞に任命され 同時に、琉球処分官としての任につく。

1879 4月4日沖縄県の設置、すなわち廃藩置県 (1879)琉球併合(いわゆる「琉球処分」の完了)

1879-1896年頃(撮影者不明)写真(『琉球 新報』2014年7月11日記事より)は琉球処分のときに空け渡された首里城に駐屯した熊本鎮台沖縄分遣隊の可能性。また「首里 城正殿前の龍柱」破損事件は、上 間常道氏情報を参照(→「沖縄大百科事典」)。

1872-1879 廃藩置県(1879)琉球併合 (いわゆる「琉球処分」の完了)、琉球が日 本の植民地統治下に入る。以降「沖縄」と呼ばれる。

1879 琉球処分断行(=実力で首里城を尚泰王 [1843-1901]から明け渡させた)琉球処分官の松田道之の3度目の派遣

1880 2月会話伝習所がおかれる(後の沖縄県師 範学校・沖縄県女子師範学校の起源→「沖縄師範学校」)6月には会話伝習 所・師範学校事務取調所を廃止し、那覇西村14番地官舎内に「沖縄師範学校」 を設置.

1888 志賀重昴(しげたか)、三宅雪嶺、杉浦重 剛、井上円了らと政教社をつくり雑 誌『日本人』を創刊

1890 Minik Wallace(1890 -1918)が、Greenlandで生まれる

1893 5月〜10月南島探検。百按司墓の遺骨の 持ち出しを画策するが失敗(松島 2018:53-54)

1893 笹森儀助による百按司木棺の図面作成

1894 7月23日日本軍朝鮮王宮武力占拠事件よ り日清戦争始まる。

1895 

グスタフ・シュレーゲルが、「元」以前の「琉 球」は台湾のことを指し、「明」以降は沖縄県周辺のことを指すようになったとする説を主張。

4月17日(光緒21年3月23日)に日本と清の間 に締結された日清戦争(1894年-1895年)の講和条約(「下関条約」)におい て「清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与」した(〜1945年)。

日本、台湾領有/日本に留学していた大朝鮮人留学 生親睦会発足し『会報』に人類学の研究 の嚆矢の論文「事物変遷の研究に対する人類学的方法」を高羲駿が寄稿する(全京秀「韓国人類学の黎明」『韓国人類学の百年』風響社、48ページ、2004 年)。

Basil Hall Chamberlain, 1895. Essay in aid of a grammar and dictionary of the Luchuan language. Yokohama : Kelly & Walsh.(チェンバレンは、琉球は言語的にも人種的にも「日本人」だと主張)

1896 1896年の郡制施行により国頭郡・中頭 郡・島尻郡の3郡

1897 ルートヴィヒ・リース(帝国大学文科大 学・史学科・教授)は『台湾島史』(吉国藤吉訳、1898年)において「流求」は台湾を指すと主張。

1897 金関丈夫、香川県仲多度郡榎井村で生まれ る。

1901 最後の琉球王尚泰、元沖縄藩主の葬儀 (1901)東京で亡くなり帰琉し玉陵(たまうどぅん)に埋葬される

『写真集沖縄 : 失なわれた文化財と風俗』那覇出版社、1984年より

1903 沖縄県土地整理事業の完成

沖縄では地割制と呼ばれる旧慣土地制度が残っていて、耕地の大部分を村落共有地とし、 定期的に村落民に割替えと配分を行なう沖縄独自の制度である。

1904 鳥居龍蔵、沖縄で人類学資料写真を撮影す る(→鳥居 龍蔵写真資料)あわせて、伊波貝塚(現、うるま市)および川平貝塚 (石垣島)の発掘調査をおこなう。

「鳥居は、沖縄本島の土器を日本本土と同一系統の ものと見なし、言語・身体形質に関する知見と合わせて沖縄石器時代人=アイヌ説を示唆する一方で、八重山諸島に関しては、出土した外耳土器が沖縄本島以 北、日本本土には見られない別系統の土器であることを指摘し、むしろ台湾との関連性を推定した。そうした論旨の中にはアイヌ説など今日では支持を失ってし まった部分もある」沖縄調査 ギャラリー

伊波普猷(左)と鳥居龍蔵(右)——伊波貝塚, ca.1904.

「川平貝塚は、1904(明治37)年に鳥居龍蔵 氏によって調査されました。 鳥居氏の発掘は、東京帝国大学人類学教室の坪井正五郎氏博士の命により実 施されて、この一連の調査は、沖縄県において初めての発掘調査となりました。 彼が八重山を訪れた1904年は、その年の2月には翌年まで続く日露戦争が勃発 し、不安定な社会情勢の最中でした。鳥居氏の残した功績や投げかけた問題点 からは意外なようにも思えますが、台湾からの帰途に本島に立ち寄ったのを除 けば、本格的な沖縄調査は後にも先にもこの時だけだったと言います。しかし ながら、日露戦争下において2ヵ月(6月~7月)もの時間を費やし、沖縄本島か ら宮古・八重山、与那国島まで出向いた調査は、研究史的にもとても重要なも のであり、彼が発掘した獅子岡と隣接する仲間岡は、1972(昭和47)年5月15 日に、国指定の史跡となりました」石垣市「国 指定史跡;川平貝塚(pdf)」より)

1905 鳥居龍蔵「沖 繩諸島に住せし居先住人民に就て」『東京人類学会雑誌』第20巻227号、東京人類学会、1905.においても、鳥居はチェンバレンの主張を継 承。琉球人は九州より渡来した「日本人」と主張。

1905 島袋源一郎、運天百按司墓より木棺調査、木棺は首里博物館へ

1907 菊池幽芳、運天百按司墓現地調査

1907 琉球人では、向象賢(鳥居は「向」を白と 誤記)は、琉球人は日本より渡来すると主張(→伊波普猷「琉球史 の趨勢」1907)

1909 伊波普猷「沖縄人 の最大欠点

1911 伊波普猷『琉球人種論』

1914 Edmund Simon, 運天百按司墓調査:

Edmund M.H. Simon (1882-?) はドレスデン生まれ。Tübingen, Berlin, and Greifswaldで法律を勉強するとともにベルリンで日本語を勉強。1904外交官試験に合格。Greifswald大学で法学博士。1908- 1910に日本滞在。1910年に沖縄訪問。"His detailed field research led to another inaugural dissertation for a PhD from the philosophical faculty of the Royal University of Leipzig in 1912, which was published in 1913. On a scope of 182 pages, it is divided in two parts: geographical contributions (chapter I.-VII.) and ethnological contributions (chapter VIII.-XIV.). It includes 159 maps, plans, illustrations, and photos" - Edmund M. H. Simon and the photo of Ufuchiku.

1916 金 関丈夫(Takeo KANASEKI, 1897-1983)による百按 司、人骨調査(1回目)

1918 Minik Wallace(1890 -1918)が、Pittsburg, New Hampshire, United Statesでインフルエンザにて死す(28歳)

1920 大山柏(1889-1969)が伊波貝塚で発掘調査をおこなう[うるま市の伝統文化]。

1924 伊波普猷『琉球聖典 おもろさうし選釈』石塚書店.

1925 伊波『校訂 おもろさうし』南島談話会.

1925 鳥居龍蔵『有史以前の日本(改訂版)』 で、それまでの琉球人=アイヌ説の主張を和らげ、八重山遺跡は弥生文化すなわち日本文化に属すると主張を変更する(1953年の自伝では再度、南方説を主 張)。

「1925(大正14)年に発刊された『有史以前 の日本』(改訂版)で、鳥居氏は先の主張を大きく変えることとなります。 「…八重山の遺跡は同島民、すなわち吾人祖先のものであって、弥生式派(固有日本 人)に属する」と記し、沖縄 本島の遺跡と八重山の遺跡は全く別物で、アイヌの石器時代遺跡と直接の祖先である弥生時代の人々(固有日本人)の弥 生式土器使用石器時代遺跡と相違しているのと同じであり、八重山の土器の形式はまさしく弥生式系であるという主旨の 内容を発表しました。主張が大きく変化した背景には、弥生土器の発見があります。縄文土器と比べ、無文化が進んだ弥 生土器に、彼は、八重山諸島出土土器との共通点を見出したのでしょう。しかし、晩年、鳥居氏が発表した『ある老学徒 の手記』(1953年刊)という著書には、「この土器の製作形式が、かの台湾東海岸 花蓮港附近阿眉族(ami)紅頭嶼ヤミ族 (Yami)の現今製作土器と類似している」と、改めて南の島々との文化的な関係に思いをはせています。 なお、現在の研究では、14世紀~15世紀頃の遺跡であることがわ かっています」石垣市「国 指定史跡;川平貝塚(pdf)」より)

1928  金関丈夫による百按司、人骨調査(2回目)

1928-1929  

京都帝大 医学部足立文太郎教授は、金関丈夫に琉球人骨の採集を命ずる(財源は帝国学士院からの補助金)。金関は県庁学務課長の案内にて沖縄北部を巡回し、島袋源一 郎の協力のもとに、百按司墓より人骨を収集。他に、瀬長島や中城城より人骨収集。あわせて女子師範学校や県立第一中学の生徒らの手掌紋(しゅしょ うもん) を採集し、体臭の調査をおこなう(松島・木村 2019:320)(松島 2018:50)

1928 清野謙次・金関丈夫『人類起源論』岡書院

1929 

人類学者・金関丈夫は、今帰仁村(なきじんそん)の百按司(むむじゃな)墓から遺骨(33 体)あるいは(26体:男性15体、女性11体)を研究目的で持ち出す

1930 金関丈夫は論文「琉球人の人類学的研究」で京都帝国大学より医学博士号を取得(松 島 2018:59)

1931 金関丈夫「日本人の人種学」『岩波講座生物学・醫學其他

1934 金関丈夫、台北医学専門学校[1922-1936]教授に就任(1936年に台北 医学専門学校は台北帝国大学附属医学専門部に改組)教授(→臺北帝國大學醫學部史

1936 金関、台北帝国大学医学部教授。

1939 伊波普猷:方言を撲滅するには、教員に他 県人を増やすべし、放送局をつくることを提言。翌40年には「沖縄方言はいずれ滅びる」と主張。

1943 安東丸事件 あんとうまるじけん

「安東丸事件 あんとうまるじけん:第二次大戦中の1943年 (昭和18) 西表島祖納部落前方の内離島に朝鮮籍の安東丸が機関故障のため漂着し、 日本軍によって積み荷の大豆類をすべて没収されたあげく、 乗組員4人が同島の炭坑に強制労働させられた事件。 当時, *西表炭坑の坑夫は非人間的扱いを受けていたが、4人の食事はさらに悪く、<箸にかかるものは何もない>といわれるほどであった。そのため二人は死亡。 衰弱して働けなくなったほかの二人は日本軍の命によって, 西表島崎山半島の鹿川村(廃村)の洞穴 (ウラバンイリヤ)へ置き捨てられた。 だれ一人として助ける者もなく、まもなく二人も死亡した。 2体の遺骨は今なお洞穴の前の砂浜に人知れず眠っている」。<石垣金星>(沖縄タイムス社『沖縄大百科事典』1983年)

1945 沖縄戦、日本国敗戦、米国の占領統治下に おかれる

「アメリカ軍は第二次世界大戦末期の1945年 (昭和20年)3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島に上陸し、沖縄諸島各地に侵攻を開始し、沖縄本島の防衛にあたっていた日本軍と地上戦を繰り広 げた(沖縄戦)。4月5日、アメリカ海軍元帥チェスター・ニミッツは「米国海軍軍政府布告第一号(いわゆるニミッツ布告)」を公布し、奄美群島以南の南西諸島地域における日本政府の行政権を停止して軍政府が統治すると宣言し、読谷村に琉球列島米国軍政府(以下軍政府と略す)を設立した[9][10]。/6月に入ると日本軍は組織的抵抗が不可能となり、沖縄本島と幾つかの島嶼はアメ リカ軍によって占領された。8月14日にポツダム宣言の受諾が予告された後、8月20日には解体した沖縄県庁に代わる沖縄本島の統治機関として、アメリカ 軍によって「沖縄諮詢会」が設置され、後に権限が沖縄諸島全体までに拡大された。また宮古支庁、八重山支庁は戦火を免れ存続していたため、それぞれ宮古列 島、八重山列島の行政をアメリカ軍直属で行うこととなった。」アメリカ合衆国による 沖縄統治

出典:ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になった わけ。 : サトウキビの島は戦場だった  / 具志堅隆松著、合同出版 , 2012年

台湾統治の終焉:1945 年「10月25日、中華民国戦区台湾省の降伏式典が午前10時に台北公会堂で行われ、日本側は台湾総督安藤利吉が、中華民国側は陳儀がそれぞれ全権として 出席し降伏文書に署名され、台湾省行政長官公署が正式に台湾統治に着手した。公署は旧台北市役所(現在の行政院)に設置され、国民政府代表の陳儀、葛敬 恩、柯遠芬、黄朝琴、游弥堅、宋斐如、李万居の他、台湾住民代表として林献堂、陳 炘、林茂生、日本側代表として安藤利吉及び諫山春樹が参加し、ここに日本による台湾統治は終焉を迎え」る。

1946 

「1946年(昭和21年)1月29日、GHQよ りSCAPIN - 677が指令され、このSCAPIN - 677によって北緯30度以南の南西諸島全域における日本の施政権が停止され、鹿児島県大島郡(奄美群島やトカラ列島)も鹿児島県から分離されて軍政当局 下に置かれ、大島支庁から本土出身者が追放された。1946年(昭和21年)1月29日、連合国軍総司令部 (GHQ) はSCAPIN - 677を発令して日本本土と北緯30度以南の南西諸島の行政分離を行うと発表。/ア メリカは当初、琉球人は日本 帝国主義に支配された異民族であると認識し、日本本土の一部でなく、日本が武力で制圧した島だと考えた。また沖縄人は自ら政治、経済を行えないという先入 観から、沖縄人の自治能力を過小に評価していた為、沖縄における民主化に対して消極的であった。そのためにまず、民主主義の基礎を築くことにし、市町村 長、市町村議会の選挙を実施した[11:宮里政玄ア メリカの沖縄統治』 岩波書店、1966]。1945年(昭和20年)9月20日、沖縄本島の収容所で行われた市会議員選挙で、女 性に参政権が認められ選挙が行われた。[12]/沖縄諮詢会設立においては、大日本帝国軍と帝国主義者と関係にあった人物は諮詢会員の選考から除外された [13]」アメリカ合衆国による沖縄統治

沖縄本島における住民の収容所

1947 

「幾つかの政党が結成されたが、軍政府は「政党の 行動制限」を設け、軍政府の政策に批判・阻止する政党には厳しい罰則が加えられた[14]。」アメリカ合衆国による沖縄統治

1948 

許鴻樑(きょ・こうりょう)「琉球人骨の 人類学的研究」『国立台湾大学解剖学研究室論集』IIにより、33体分(男性19体、女性14体)の遺骨が保管されている(松島 2018:52)

「10月にはそれまで沖縄の長期保有について反対 意見を持っていた米国務省も沖縄の保有を認めたため、「米国の対日政策に関する勧告に対する国家安全保障会議の諸勧告 (NSC/2, 3)」により米軍の沖縄恒久保持、基地の開発の方針がトルーマン大統領により承認された[20]」アメリカ合衆国による沖縄統治

1949 

「東西冷戦が激化すると、朝鮮半島の軍事的緊張が 高まった。アメリカによる極東地域戦略のため、沖縄に大規模な軍事基地や施設を建設した。軍道1号線(現在の国道58号Japan National Route 58))の拡張、那覇軍港Naha Military Port)の整備、弾薬倉庫、米兵用住宅などの軍用地開発が推進された。そのため沖縄本島は極東最大の米軍基地へと変わり、米軍からは「太平洋の 要石 (Keystone of the Pacific)」とも言われた[15]。この工事と並行して、ジョセフ・R・シーツJosef R. Sheetz, 1895-1992)軍政長官は復興支援を行った。ガリオア資金Government Aid and Relief in Occupied Areas, GARIOA)を増額し、群島知事と群島議員選挙の実施、不必要な軍用地に対する土地所有権を認定するな ど、住民からは「シーツ善政」と評された[16][17]。」アメリカ合衆国による沖縄統治

Government Highway 1 in 1954

1950 金関丈夫・九州大学医学部教授(〜 1960)

11月4日に奄美群島、沖縄諸島、宮古諸島、八重 山諸島を四分割しそれぞれ群島政府を設置した。しかし同年9月に住民により選出された知事と議員らが日本復帰を公言する。軍政府は1950年(昭和25 年)12月15日に琉球列島米国民政府(USCAR:ユースカー、以下民政府と略す)と改称した。

沖縄社会大衆党(社大党)が沖縄群島知事の平良辰雄と兼次佐一らによって結党さ れた。社大党の目標の第一は、本土復帰返還。

1951 サンフランシスコ講和条約

前年の知事と議員らが日本復帰を公言したが、その 結果に不快感を示した軍政府は、翌年の1951年(昭和26年)4月1日に琉球臨時中央政府を設立し[23]、群島政府の権限は大幅に削減された。

「9月8日に調印され、翌1952年(昭和27 年)4月28日に発効された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の第3条には、アメリカ合衆国から国際連合への提案があった場合、北緯29度 線以南の南西諸島をアメリカ合衆国の信託統治下に置くことに日本国が同意することが規定された[21]が、その後国連への提案はなされなかったため、日本 は奄美諸島および琉球列島に対する主権(潜在的主権)を保持し続けることができた[22]。」

1952 

4月28日サンフランシスコ講和条約発効 日。沖縄では「屈辱の日」と呼ばれる。7月那覇日本政府南方連絡事務所(南連)を設置。「琉球政府」の設置。1952年(昭和27年)4月1日に群島政府が廃止され琉球政府が創設された。琉球政府は、立法院と裁判所と共に三権の一つとなった が、琉球政府により制定された法令の執行の停止、琉球政府の長である行政主席は民政府により任命されるなど常に民政府は絶対的な権力を持っていた。 [25][26]

トカラ列島は1952年(昭和27年)2月10日 に日本に返還。

琉球政府の行政システム】「琉球列島高等弁務官のもとに琉球列島米国民政府が置か れ、琉球政府の上部組織として間接的(場合によっては直接的)に統治した。司法権を行使するために独自の裁判所(米国民政府裁判所)を設けていた。 琉球政府の長は行政主席(Chief Executive of the Government of the Ryukyu Islands)で、初期の頃は米国民政府が直接任命していたが、後に立法院の意向を反映した任命に変わり、最終的には直接選挙制に移行した。任期は特に 定められていなかったが、公選制導入時に3年となった。 立法院(議会)は一院制で、約30議席を20歳以上の琉球住民による直接選挙で選出した。任期は2年(後に3年)であった」アメリカ合衆国による沖縄統治)。

1953

「奄美群島は1953年(昭和28年)12月25 日に日本に返還された。奄美群島返還時、朝鮮戦争終結交渉から帰途日本に立ち寄ったダレス国務長官は「少しはやいクリスマスプレゼント」と称し奄美群島返 還を発表した。この発表を受けダレスが羽田空港から出発しようとしたとき、群集から感謝の声が上がり、また、奄美群島の再統合に関する法案が12月24日 に衆参両院を通過し、その際参議院が「感謝」の、衆議院が「祝辞」の決議を為し、時の総理吉田茂が「クリスマスプレゼントありがとう」との私信をダレスに 送った。しかし、奄美群島から沖縄本島へ労働に来ていた人々は「日本人」と言うこととなり、パスポートの所持が必要となった上、公職からの追放が行われる など、いくつかの副作用がもたらされた」アメリカ合衆国による沖縄統治)。

1954

「土地接収問題を解決すべく1954年(昭和29 年)4月30日に立法院は、「軍用地処理に関する請願」を全会一致で可決し、軍用地の一括支払い(土地の買い上げ)の反対等を盛り込んだ「土地を守る四原 則」を掲げた[31][32]」アメリカ合衆国による沖縄統治)。

1955年ごろのコザ市交差点

金関丈夫、それまでの沖縄=日本文化系統という定 説に対して、「南方起源説」を主張。「起 源論争」がはじまる。金関丈夫は、波照間島の下田原(しもたばる)貝塚を発掘し、遺跡異物からインドネシア系文化であることを主張する(安里・土 肥 2011:32-34)。

1956

「6月9日にアメリカ側から「プライス勧告」が発 表され、極東地域の重要な軍事拠点であるとして、土地買上げと土地の接収は正しいと結論づけた[32][33]。この勧告に住民は反対し、同月20日にほ とんどの市町村で住民大会が一斉に行われ、島ぐるみ闘争へと発展した[32][34]。こうした反対運動の結果、軍用地の賃上げ等の民政府から妥協案が提 示され、島ぐるみ闘争は終結した[35]。」アメリカ合衆国による沖縄統治)。

1960

サンフランシスコ平和条約が発効されてちょうど8 年、1960年(昭和35年)4月28日に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成し、以降毎年4月28日にはデモ行進が行われ、また沖縄本島の辺戸岬沖で 海上集会を行った[36][37]アメリカ合衆国による沖縄統治)。

1962 沖縄立法院「2.1決議」(施政権返還に 関する要請決議)

「施政権返還に関する要請決議」は、日米および国 連加盟国にあてた決議で、国連総会決議「植民地独立付与宣言」を引用しながら、米軍統治は植民地主義であると批判したもの。

「1962年(昭和37年)3月19日、アメリカ 合衆国大統領ジョン・F・ケネディは 沖縄が日本国の一部であることを認め、日本の対沖縄援助について継続的に協議する沖縄新政策を発表した。ところが、米国の軍部は、この協調路線で日本政府 の関与が深まり沖縄における米軍の軍事的利益が侵害されることを懸念した。第3代琉 球列島高等弁務官(High Commissioner of the Ryukyu Islands)に就任したポール・W・キャラウェイ(Paul Wyatt Caraway, 1905-1985)陸軍中将は絶対的な権力を利用して、議会が採決した法案を次々と拒否し、また経済界にまで介入し、日本と沖縄の分離策を進めた(キャラウェイ旋風)[38]。日米協力に混乱をき たすとして、ケネディ大統領はキャラウェイを更迭した[38]」アメリカ合衆国による沖縄統治)。

1963 松島泰勝氏、石垣市にて出生。

1965

「1965年(昭和40年)8月19日に当時の佐藤栄作Eisaku Satō, 1901-1975)首相が訪問し、「沖縄が日本に復帰しない限り、戦後は終わらない」と述べた。来沖した背景としてはベトナム戦争に対する反戦運動と復 帰運動があった。戦争が激化すると沖縄は米軍にとって非常に重要な存在となり、連日飛行場から頻繁に爆撃機の離着陸が行われた。反戦復帰運動が高まり、戦 争に支障をきたす恐れがあり、住民の反米・反戦感情を抑える為、民政府は佐藤に目を付けた[39]。」アメリカ合衆国による沖縄統治)。

ca. 1967 日本人起源説における琉球人の位置に関する「小進化説」(鈴木尚)と「渡来混血説」(金関丈夫)の論争が続いていた(安里・土肥 2011:16)

1967 

10月8日第一次羽田闘争事件で、中核派の山崎博昭(当時19歳)が死亡する。支援者たちはこれを当局による「虐殺」と主張。この 事件とは別に、沖縄学生が(大学当局?により)処分に抗議して、「与那覇君を守る会」が結成された。これが沖縄闘争委員会準備会(沖闘委)の組織化のはじ まりと言われている。同年11月には海邦研究会(かいほうけんきゅうかい)が組織される。これは1970年沖縄青年委員会に継承される(出典:http://www.arsvi.com/d/ok.htm

1968 

大山盛保(おおやま・せいほ, Seiho OOYAMA, 1912-1996)「上部港川人」の人骨を最初に掘り出す(松島 2018:101, 198)。

8月「渡航制限に抗議して、自分のパスポート(沖 縄と本土を往来する際に米軍が発行した渡航証明書)を学生たちが焼く」11月「沖縄青年同盟の前身である海邦研究会」ができる[小熊の発言 http://www.arsvi.com/d/ok.htm] 小熊英二・仲里効「対談 沖縄 視線と自画像の相克」『InterCommunication』46 (2003 Autumn), NTT出版, 18-49.

 金関丈夫博士古稀記念委員会『日本民 族と南方文化』平凡社.

嘉手納飛行場でB-52爆撃機の墜落事故。

1968年(昭和43年)2月1日に立法院の定例 会議に出席したフェルディナンド・T・アンガーFerdinand Thomas Unger, 1913-1999)高等弁務官は、行政主席を選出すべく住民による直接選挙を実施すると発表した。選挙当日は立法院議員選挙と那覇市長選挙も行われた。 結果、革新派の屋 良朝苗Chōbyō Yara, 1902-1997)が当選した(第1回行政主席通常選挙)[43][44][45]。

1969

嘉手納基地内で、VXガスが漏れる事故。

1969年(昭和44年)11月19日から21日 にかけて佐藤首相とリチャード・ニクソン大統領はワシントンD.C.で会談を開き、日米共同声明を発表.(返還後も米軍基地は沖縄に残ることが明らかにな る)

琉球弧の視点から  / 島尾敏雄著, 講談社 , 1969

1970 

7月 富村順一が東京タワー占拠事件をおこす。「富村順一裁判闘争支援運動。沖青委が中核派と海邦派へ分裂」。富村順一は獄中生活を経て伝道師になる(富村順一 『底辺伝道の記録:獄中より牧師への道』JCA 出版, 1979)

http://www.arsvi.com/d/ok.htm

保守系「琉球独立党(現:かりゆしクラブ)」発足

大山盛保「港川人1号」の人骨を掘り出す(松島 2018:101)。

図像をクリックすると引用元にリンクします

12月20日に本島中部の旧コザ市(現在の沖縄市 の一地域)で数千人の住民が暴徒化し、米軍車両数十台を焼き払う事件が発生した(コ ザ暴動Koza Riot)[40] [41][42]。

A U.S. military serviceman stands near a burned car in Koza, now Okinawa City, Okinawa hours after the Koza Riot.

1971 

10月 沖縄青年同盟が結成される[http://www.arsvi.com/d/ok.htm] 「1971年10月19日、佐藤栄作首相が所信表明演説中の衆院本会議場で、傍聴席から爆竹がさく裂」させた。沖縄青年同盟の実行者は、宮古島出身の本村 紀夫ほか2名。「沖縄青年同盟は、日本人とは違うという意味を込め、自らを「沖縄人」と呼んだ。「沖縄人民権力の樹立」と、沖縄の独立を示唆するスローガ ンも掲げ」る。1972年2月に沖縄国会爆竹事件の公判はじまる。公判でウチナーグチが使われる。[仲 里効オーラル・ヒストリー 1回目(2021.09.21)]

出典:https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1514332.html

1972 「沖縄返還」により、沖縄県の設置(→「沖縄返還」「若泉敬の人生と沖縄「核抜」返還について」)

5月13日沖縄青年同盟編『沖縄解放への道:沖縄 青年同盟論文集』ニライ社、より公刊。

1972年(昭和47年)5月15日に日本国に 「返 還」された。しかし、本土復帰後も沖縄県は、基地の整理・縮小、兵力の削減、日米地位協定の見直しを求めている

1975 金関丈夫による百按司、人骨調査(3回 目)/屋我嗣良ほかによる百按司、木棺の抗蟻性に関する調査

1976 金関丈夫『日本民族の起源』法政大学出版 局

金関丈夫『日本民族の起源』法政大学出版局, p.106.

1977 金関丈夫『南方文化誌』法政大学出版局

1978 金関丈夫『形質人類誌』法政大学出版局/ 金関丈夫『琉球民俗誌』法政大学出版局

1979 

琉球処分100年

金関丈夫は、「南島の人類学的研究の開拓と弥生人 骨研究」の業績で朝日文化賞を受賞。

金関丈夫・国分直一『台湾考古誌』法政大学出版局

1980【北海道】アイヌ民族・海馬沢博 (Hiroshi KAIBAZAWA,)と北海道ウタリ協会が、北海道大学に遺骨の 返還(ならびに賠償)をもとめる。アイヌ遺骨は、構内の「アイヌ納骨堂」に納められる。ただし、この施設は大学の「標本室」の位置付けであった(2008 年当時までで返還 されたのは35体)。ウタリ協会は「返還要求のある地域には返し、残りは北大が納骨堂を建立(1984年)・収納、イチャルパをおこなう」(→「アイヌ文化略奪史入門」)

1983

2月27日金関丈夫死去(生前のエピソード

荒川浩和、百按司木棺(1-3号)現地調査

1985 渡邊欣雄『沖縄の社会組織と世界観』新泉 社が発刊される。下図は、p.395より(→「フィールドワークにおける知識と全体性」)。


1990 第1回世界のウチナーンチュ大会(主催沖縄県)

1992

村井紀『南島イデオロギーの発生 : 柳田国男と植民地主義』,福武書店 1992.4

1994 

安里進と土肥直美は、日本人類学会大会遺 伝分科会で、グスク時代(12-16世紀)の人口爆発と沖縄人の形質についての発表をおこない、埴原和郎「二重構造説」に異論を唱える(安里・土肥 2011:13-14)(→「二重構造モデル」)。

1995 

9月沖縄米兵少女暴行事件、その後の沖縄県民の抗議が高揚し「日米地位協定」に対する不満と米軍基地に縮小廃止運動が盛んに。

11月第2回世界のウチナーンチュ大会(主催沖縄 県)

1997 

松島泰勝氏、グアム日本総領事館専門調査員(〜 2000)。松島泰勝が国際連合先住民作業部会(Working Group on Indigenous Populations, WGIP) にウチナーンチュとして参加する。これが契機になり、1999年琉球弧の先住民族会が 設立される。

大山朝常(1901-1999)『沖縄独立宣言』 現代書林。

1999 

松島泰勝氏、パラオ日本総領事館専門調査員(〜1999)

琉球弧の先住民族会(Association of Indigenous Peoples in the Ryukyus, AIPR)が市民外交センター(Citizens' Diplomatic Centre for the Rights of Indigenous Peoples)などの協力で設立される。

2000 浦添市文化課、百按司木棺漆膜片採集

2001 

第3回世界のウチナーンチュ大会(主催沖縄県)

今帰仁教育委員会、木棺(3号)取り上げ。教育委 員会調査では1号墓所から24体、2号墓所からは18体、合計42体分の遺骨を確認。

2002 

松島泰勝氏、東海大学海洋学部助教授(〜 2007)

2002 今帰仁教育委員会、木棺(1,2号)取 り上げ

2004 

英国人体組織法(Human Tissue Act 2004)が、インフォームドコンセント抜きに採集保存された、遺体組織は研究目的での保管に適さないとする。以降、返還 請求の権利を認める。The Alder Hey organs scandalなどが立法の経緯となる。M.Bell, The UK Human Tissue Act and consent: surrendering a fundamental principle to transplantation needs?, J Med Ethics. 2006 May; 32(5): 283–286. 2006.

2006 第4回世界のウチナーンチュ大会(主催沖 縄県)

2008 松島泰勝氏、龍谷大学経済学部教授(〜 現在)

2007 

松島泰勝氏「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」(ブログ)を立ち上げ代表に就任。

琉球弧の先住民族会、NPO登録申請認可(浦添市)

2008

10月国連自由権規約委員会は「沖縄は先住民族」 勧告のなかで沖縄の人々を「先住民族」と初めて認定し、「彼らの文化遺産および伝統的生活様式を保護し、保存し、促進し、彼らの土地の権利を認めるべき だ」と勧告する(『産経新聞』2016年6月21日)

2010 6月23日石垣金星とともに「琉球自治共和国連邦 独立宣言」を表明

2011 第5回世界のウチナーンチュ大会(主催沖 縄県)

2012 

第1回世界若者ウチナンチュー大会(ブラジル)

琉球弧の先住民族会が、国連ECOSOC(国際連合経済社会理事会)の特殊諮問資格 (Special Consultative Status)資格取得。

2013 

『ナガラ原東貝塚の研究:5世紀から7世紀前半の 沖縄伊江島』(熊本大学文学部考古学教室、3月29日)所収の「南島中部圏先史時代遺跡出土の植物遺体」論文にて、高宮広土は5世紀から7世紀前半に沖縄 本当に稲作が日本本土から齎された(これまで獲れていた狩猟動物が枯渇して集団に食糧調達への淘汰圧がかかるという「フード・ストレス説」を使って)こと を明らかにし、これまでの柳田國 男(1961)、佐藤洋一郎(1992)、佐々木高明(2003)らの南方からの「海上の道」仮説が否定されることを示した。

4月28日安倍晋三首相が主権回復の日式典を催し たが、沖縄からは強い反発の声が上がる。

5月15日松島泰勝(龍谷大学教授)らの主導によ り、琉球民族独立総合研究学会(The Association of Comprehensive Studies for Independence of the Lew Chewans: ACSILs)が設 立。

2014 松島泰勝『琉球独立論』バジリコ(→講談 社文庫)

2015 

松島泰勝『実現可能な五つの方法 琉球独立宣言』講談社

12月22日豊見城市議会は2008年10月の国 連勧告を撤回すべき意見書を採択する。

2016 

松島泰勝『琉球独立への経済学: 内発的発展と自己決定権による独立』法律文化社

第5回世界のウチナーンチュ大会(主催沖縄県)

6月20日ジュネーブの国連人権委員会で沖縄県豊 見城市議(当時)宜保安孝が「沖縄県民は日本人としての誇りと自己認識を持っており、先住民族としての自己認識は持っていない」と訴え、2008年の勧告 撤回を求める。『産経新聞』の記事(2016.06.21)によると撤回要 求をしたのは「沖縄県人としては初めて」とのこと。

10月「沖縄の高江ヘリコプター着陸帯(通称ヘリ パッド)建設予定地を警備する大阪府警の巡査部長(29)と巡査長(26)が反対運動をされている方たちに対し、「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」 「黙れ、こら、シナ人」と発言」ITmedia

2017 

2月 松島泰勝、胃に悪性腫瘍見つかる(松島 2018:v)

4月 松島泰勝、最初の胃の手術(松島 2018:v)

5月松島泰勝「百按司墓遺骨」の実見と質問をする が、回答得られず。

6月

松島泰勝、二度目の胃全摘の手術(松島 2018:v):「6月23日の「慰霊の日」になると、「平和の礎」に刻印された先祖の名前 の前で重箱を開き、泡盛を注ぎ、線香を手向けて、ご先祖のマブイ(霊魂)の平安を祈る姿を見ること ができる。亀甲(かめこう)墓、破風(はふ)墓等でも、ご先祖の遺骨に手を合わせ、そのマブイとともに琉球料理を共食 する。しかし、京都大学の研究室や博物館にモノとして保管されている琉球人遺骨は、薄暗く、冷た い部屋の中で「プラスチック製の直方体の箱」に隔離され、琉球の人や社会とのつながりが拒絶され ている。そのようなことを私は病院のベッドの上で想像し、身震いを覚え、この問題を自分の問題と して理解し、遺骨返還のための行動をするようになった」(松島 2018:vii)

松島泰勝・冨山一郎・駒込武らの呼びかけで、「琉 球人骨問題を考える」を同志社大学で開催(松島 2018:90)。

8月

松島、京大法人文書開示請求をおこなう(松島 2018:94, )。

松島、アイヌの遺骨再埋葬式に参加(松島 2018:vi)。小川隆吉氏より「励ましの言葉」をもらう。

11月

松島「京大法人文書開示請求」による文書を閲覧 (松島 2018:90)。

同月までに、「旧帝国大学の日本人学者が収集した 沖縄の人骨を返還すべきだと関係者が求めている問題で、県教育庁今帰仁村教育委員会が国立台湾大学(台北市)で保管されている遺骨の返還を求め る方針であることが」報道される:琉球新報

2018

1月28日琉球大学シンポジウム「東アジア地域の 平和・共生を沖縄から問う!」開催。「琉 球人・アイヌ遺骨返還問題にみる植民地主義に抗議する声明文[pdf]」の決議

2月照屋寛徳衆院議員「琉球人遺骨の返還等に関す る質問主意書」提出。

4月 琉球民族独立総合研究学会が、国連本部で開 催された「国連先住民問題常設フォーラム(Permanent Forum on Indigenous Issues)」にて、京大からの琉球遺骨返還を訴える(松島・木村 2019:317)[参考資料:Alternative report to CERD by the AIPR, CERD/C/JPN/10-11, 2018

5月8日松島は、京都大学総合博物館に「今帰仁・百按司(なきじん・ももじゃな)」墓の標本利用申請をおこなう(松島 2018:88)。

「旧帝国大学の人類学者(→金関丈夫)が戦前、沖縄県今帰仁村の百按司(むむじゃな)墓から遺骨を持ち出した 問題で、今帰仁村教育委員会が[4月]3日までに、遺骨を保管している京都大学に返還に向けた協議を要請したことが分かった。照屋寛徳Kaitoku TERUYA, 1945- )衆院議員が3月に送った公開質問状に対し、京都大が「今帰仁村教育委員会から同村運天人骨資料について協議の要請を受けたところであり、今後、対応につ いて検討する予定」などと回答していた。/京都大にはこれまで研究者団体などが返還を求めてきたが、行政が働きかけるのは初めて。遺骨返還に向けた動きが 本格化する可能性がある。/京都大は回答で、返還の意思や保管状況については「総合博物館の所蔵品については現在、順次調査を進めている」「いまだ全体の 把握には至っていない」として回答しなかった。/照屋氏は[4月]3日、京都大に再び公開質問状を送った。返還する意思の有無や返還時期を、質問状到着後 10日以 内に答えるよう求めた。/旧帝国大学の人類学者によって持ち去られた琉球人遺骨を巡っては、台湾の国立台湾大学が保管している63体を返還することで県、 今帰仁村と合意している。京都大学はこれまで遺骨を保管していることは公表しているが、返還するかどうかは明らかにしていない」琉球新報、2018.04.04)。

10月4日玉城康裕(デニー)・沖縄県知事就任

12月琉球民族遺骨返還研究会の松島泰勝代表(龍 谷大教授)らは、京都大学からの遺骨の返還を求めて京都地裁に提訴。

2019

3月8日第1回口頭弁論・京都地裁(増森珠美裁判 長):「同墓に埋葬されたとされる琉球王朝を開いた第一尚氏の子孫の亀谷正子さん(74)が意見陳述し、「先祖の遺骨は90年間、歴史も文化も言葉も異な る、異郷の地に置かれ続け、子孫との交流もできずにいる」と訴え」る。他方「京大側は答弁書で、収集した一部の遺骨の保管を認めた上で、金関丈夫[当時、 京都帝国大学医学部助教授]氏の収集は「沖縄県庁や県警察部長を通した手続きを行った」として違法性はないと主張。原告側に対し、遺骨と原告との具体的な つながりを示すよう求め」る(京都新聞)。

3月16日シンポジウム「奪われた骨・奪われた人 権―アイヌ民族~琉球民族」が柳原銀行記念 資料館 - 京都市人権資料展示施設で開催される。

3月20日「昭和初期に旧帝国大学の人類学者らによって沖縄から持ち出された遺骨63体が20日までに、保 管されていた台湾の国立台湾大学から沖縄側に返還」。西原町の県立埋蔵文化財センターに保管される」琉球新報)松島泰勝代表らは 「遺骨が遺族の了解を得ずに持ち出されたとして違法性を指摘しており、遺骨の尊厳を回復するためには風葬地に戻して「再風葬」するよう求めている。ただ県 教委は「現在のところ再風葬は考えていない」と」返答する:琉球新 報

3月22日京都新聞が「社説」 の中で、京都大学にも金関丈夫が収集した遺骨等が保管されており、返還要求に 対する京都大学の対応の「冷淡」さについて批判している(京都新聞)。

2020

2021 

2022 

4月21日京都地方裁判所は「平成30年 (ワ)第3979号 琉球民族遺骨返還等請求事件」裁判において、「原告らの請求をいずれも棄却する」(敗訴)の判決をくだす。「判 決文(pdf)」「琉球コ ロニアリズム(遺骨返還に関する所感)

2023

2024

本源的紐帯の歴史的起源

「これまで那覇市山下洞窟で発見された最古の人骨は 32,000年前のものだといわれているが、本州で発掘された最古の人骨は18,000年前のものだといわれ、前者は後者より14,000年も古い。琉球 では貝器文化が発達した。貝や貝製品が「貝ロ-ド」を通って九州、四国、本州、北海道まで運ばれた。琉球は、1429年に巴志によって統一されたが、徳川 家康によって日本が統一されたのは1603年で、琉球より174年も後のことであった。1478年には尚真王の刀狩りによって文民統治が実施され、琉球 は、独立国として国内政治、経済政策、外交、海外貿易などにおいて自己決定権を自由に行使し、平和、繁栄、長寿を満喫していた」—仲村芳信「琉球国独立を取り戻そう」『琉球独立 学研究』2号

リンク(琉球独立関係)

リンク(遺骨返還関連:サイト内)

リンク(サイト外)

リンク(文化人類学批判)

文献

その他の情報

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