かならずよんでね!

遺骨は自らの帰還を訴えることができるのか?

Can human remains claim for their return and reburial from the University Collection Room to their land of origin?

池田光穂

【審問】次のことをみんなで考えてみよう。(→「人文社会系のための研究倫理入門(リテラシーG)」)

1.遺骨は、自らの意思で故郷に帰還することができ ないが、遺族(祭祀継承者)は、その故人の意思を汲んで、遺骨保管者である北海道大学に「帰還」の要請をすることが可能であるか? またそれを可能にする 社会的条件(法、政治、文化)について検証してください。

2.長編叙事詩『痛みのペンリウク』を読み、土橋芳 美さんは、「ペンリウクさんの声」を曽祖父の「意思」として、どのように北海道大学と交渉してきたのか? そして、北海道大学はどのような対応をしたの か、表(ルーブリック)にまとめて、時系列で整理してみよう。

3.土橋芳美さんのアクションを契機として、アイヌ 民族の人たちが、北海道大学を含めて全国の大学にある「研究資料」としての遺骨を、どのようにして故郷に「帰還」することができ、どのようにして遺骨じし んが「埋葬される権利」を行使することができるのか?また、それは代理人やアドボケート(権利擁護者)を通しておこなわれるが、彼/彼女らは、どのように して、遺骨の気持ちを忖度することができるのか?

4.そのような先住民族の「遺骨」を研究材料として 利用するためには、遺骨の「意思」を代弁する代理人やアドボケート(権利擁護者)への承諾が「研究倫理上」必要であると思われるが、そのような手続きを得ない科学論文 が「研究倫理的に無効」であることを、どのように証明すればよいか、 考えてみよう。

■現実世界での問題としての琉球からの研究用の遺骨 返還の論理

The author, Mitsuho Ikeda, discusses the ethical, legal, and social aspects of the debates regarding the Rykyuan human remains between scholars, lawyers, and civil activists (so called "plaintiff") and Japanese mainland universities officials ("defendant"). These disputes come to a deadlock. The plaintiffs want to establish the collective entitlement of indigenous rights for the repatriation that has not been enacted on. The defendants reject their demands legal conformity of "successors to the rituals of the family" according to present Japanese civil laws.

●ペンリウクさんのクロノロジー(→「平村ペンリウクさんのこと」からの再掲)

1832 平村ペンリウク生まれる。後に弟のイマウトカン、イコヌテック。

1854 ジョン・バチェラー[ジョン・バチラーとも表現](ウィキペディアの記載は小松哲 郎訳[1999:364-365]に依存しているようだ)、英国サセックス州アクフィールドに生まれる。(青年時代、園丁として働いていたが、インド宣教 をしていた宣教師の説教を通して、東洋伝道の志を抱く)

1866 バチェラーの祖母は、彼が2つの民族の間 で働くと予言(安田編 1995:511)

1875 (明 治8)樺太千島交換条約:樺太(サハ リン)アイヌ、占守島(しゅむしゅとう)等の北千島の千島アイヌは、北海道本島や色丹島に移住を余儀なくされる。樺太アイヌ841名が日本国籍を取得後 に、対雁(ついしかり、現在の江別市)に移住したが、コレラ、天然痘で多数死亡(→「日本文化人 類学史」1875年の項目参照)。

1876 バチェラーさん、香港のセント・ポール学 院(聖パウロカレッジ)に給費生として入学(神学と中国語を学ぶ)。

1877 

バチェラーさん体をこわして(マラリア罹患)、生 まれ故郷の英国と似た函館に静養する。すぐにアイヌ伝道を決意する。対雁(ついしかり)にてテンべ・エカシからアイヌ語の初歩を学ぶ。

1878 イザベラ・バード訪問。"If the God who made you made us, how is it that you are so different—you so rich, we so poor?"とデニングとの邂逅時のことを話す

1879 

ジョン・バチェラー(John Batchelor, 1854-1944)さん、平信徒伝道者としてChurch Mission Society, CMSに入会。ウォルター・デニング司 祭(Walter Dening, 1846-1913)と共に平取を訪れて、ペンリウクさんと出会う。アイヌ語をペンリウクさんから学ぶ。

左はデニング:右はペンリさんとバチェラーさんこの オリジナルの写真はバチェラーさんのThe Ainu and their Folk-lore, 1892, に収載されたもので、"The author and Chief Penri in 1879"(ペンリさん47歳、バチェラーさん25歳)の解説がついている。カリフォルニア大学図書館蔵書より

1881 

バチェラーさんイギリスに帰国し、神学を学ぶ。こ の帰国の背景には、デニングが「条件付霊魂不滅説(conditional immortality/ Christian conditionalism)」を唱えはじめて、本国のCMS本部に召喚され、最終的に解任(1883年1月)された事件とも関係しているようだ。

1983 バチェラーさん函館に帰任。

1884 バチェラーさん、ルイザ・アンデレス(ア ンデレス司祭の妹)と結婚。有珠にて、向井八重子=フチ(1884 -1962)生まれる(向井富蔵の娘として)。『蝦夷今昔物語』出版

1885 

日本政府より英国のスパイ容疑として春頃に訴追さ れる(夏に無罪判決)

バチェラーさん、活動の場を平取から幌別村(現在 の登別市)に移す。アイヌへキリスト教教育のほか、アイヌ語教育をはじめる。金成太郎受洗(12月25日)

1887 『東京帝国大学紀要』1号に、B.H. チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850-1935)の論文にあわせて「アイヌ語文法」を発表。

1888 金成太郎を校主としてキリスト教教育を行 なうアイヌ学校設立構想の下、金成喜蔵が息子の太郎をアイヌに教育を行うアイヌ教師とするために私塾の相愛学校を設立。

1889 バチェラーさん、『蝦和英三対辞書』(北 海道庁)を出版

1891 

バチェラーさんは、伊藤一隆を中心とする北海道禁 酒会の招聘に応え1月1日函館を離れ、翌日札幌に移転。その後、札幌に自宅を持ち、自宅で聖公会の日本人信徒のためにバイブルクラスと日曜礼拝を始める。 平取で伝道を再開。

1892 アイヌが無料で施療できるように、「アイ ヌ施療病室」を開設。札幌聖公会が正式に組織。『日本のアイヌ』刊行。バチェラーさんは、アルコール依存だった金成太郎を解任し、ネットルシップを任命す る。

1894 『アイヌ・生、死、婚の習俗』

1895 バチェラーさん教会(平取)を献堂する。

1896 バチェラーさん教会(有珠)を献堂する

1897 

バチェラーさん、Chikoro utarapa ne Yesu Kiristo ashiri aeuitaknup oma kambi [The New Testament of our lord and saviour Jesus Christ in Ain]the Bible Society's Committee for Japan by the Yokohama Bunsha、を出版。

1899 北海道旧土人保護法。アイヌの植民政策の 徹底化。教会でのアイヌ語の説教を日本語に変える(小柳はそれを「転向」と紹介している)。

1901 バチェラーさん、The Ainu and their Folk-Lore、を出版。

1902 『海に囲まれた蝦夷地』

1903 平村ペンリウクさん11月28日死去(71歳)。北海道の聖公会信徒2895人中アイヌ人が 2595人(中村敏『プロテスタント海外宣教史』新教出版社、p.82、2011年)

1905 バチェラーさん、八重子を養女にする。

1910 4月25日バチェラーさん皇居での観桜会 に招待され明治大帝と握手。「不思議な力」を得るという。

1923 宣教師退職。北海道庁社会課嘱託。バチェ ラー保育園を創立。

1925 バチェラーさん、『アイヌ人と其説話』と 『アイヌの炉辺物語』(富貴堂書房)を出版。『北海道穴居住民とアイヌ地名考』

1926

徳川義親は「1926年(大正15年/昭和元年)頃から、ジョン・バチェラー博 士によるアイヌ語の辞書の改訂とアイヌ保護学園の財団法人化の活動を支援し、1926年11月に東京で開催された第3回の汎太平洋学術会議の際には、バ チェラー博士を会員に推薦し、同年10月に会員20名を帯同してウサックマイや白老のアイヌの部落を視察旅行し、博士は大会で「アイヌ民族、その起源なら びに他民族との関係」について講演を行なった」

1927 バチェラーさん、Ainu life and loreを出版

1928 バチェラーさん、『我が記憶をたどりて』 を出版

「世界の文化の進歩はすべての人がみな生存権を有している ように、あらゆる民族もまた民族としての生存権[を有する こと]があきらかに認められてまいりました。これは当然の ことであります。日本人が米国やその他で、差別的待遇を受 けていることを聞くとき本当にいやな気がいたします。日本 は大いにその非を責め、また世界に向かって人類平等主義を 主張せねばならないと思います。それをなすまえに、同国民 であるアイヌ族がもって生まれたその生存権まで奪われ、山 から山へ追い込められて、予防し得る病気のために、地上か ら滅びゆかんとしていることに[日本人が]注目され、その 向上策に誠意を示されることを希望いたします

1931 バチェラー八重子『若きウタリに』(歌 集)出版。養母のルイザ・バチェラー(バチェラーさんの奥さん)が死去し、札幌 円山墓地に葬る。

1933 

10月20日平取のアイヌ墓地より「遺骨」が北海 道帝国大学の山崎春雄教 授、岡田正雄(夫)助教授らの指導のもとで「発掘」=持ち出される(→「ア イヌとシサムための文化略奪史入門」)。

1934 8月平村ペンリウク頌徳碑(しょうとくひ)が義経神社に建立——佐藤昌介題。北海道庁 令第83号10月19日「人骨発掘発見ニ関スル規程」

1940 第二次大戦がはじまり、バチェラーさんは 姪のフローレンス・アンデレスと共にカナダに渡る(英国にはすぐに戻れず)。

1943 バチェラーさんは姪のフローレンス・アン デレスと共に、ようやく英国に帰郷。

1944 4月2日バチェラーさん、英国で死去 (90歳)。

1949 土橋芳美生まれる(土橋 2017:119)。

1959 児玉作左衛門、3月16日「北海道新聞」 に八雲町遊楽部における発掘で取り調べを受ける(北海道大学 2013:35)

1965 バチェラーさんの『ジョン・バチェラーの 手紙』死後出版される

1972 アイヌ解放同盟、日本人類学会・日本民族 学会連合大会シンポジウム壇上占拠行動(→日本文化人類学史

1973-1976 土橋芳美『アヌタリアイヌ』誌 (1-20号)を創刊し76年まで続ける。

1980 

11月27日アイヌ民族・海馬沢博 (Hiroshi KAIBAZAWA,)は北海道大学学長・今村成和に書簡をしたため、アイヌ遺骨の無断「収集」を非難し、個体ごとに調査の上、返還をすること等を要求 (三木 2017:41)。

1982 ウタリ協会が、遺骨返還の一本化を表明

1984 7月25日「アイヌ納骨堂(資料保存 庫)」の竣工。8月11日イチャルパ敢行。

1993 バチェラーさんの残されたタイプ手稿の複 写が日本にわたり『わが人生の軌跡』が出版される(内容は『我が記憶をたどりて』と重複するところ多し)

1995 「ウタリ対策のあり方に関する 有識者懇談会」設置

1997 旧土人保護法廃止。旭川市旧土 人保護地処分法廃止。アイヌ文化振興法の制定(5月制定、7月施行)(→「文化略奪史入門」)。

2007 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」

2008 小川隆吉(1935- )、情報公開法にもとづき「北海道大学医学 部、児玉作左衛門収集のアイヌ人骨の台帳とそれに関連する文書」の開示請求する。

2010 「民族共生の象徴となる空間」「北海道外 アイヌの生活実態調査」両作業部会設置。

2012 

2月17日 小川隆吉と城野口ユリは北海道大学を 訪 れ、同大学佐伯浩総長との面会を求めるが、大学側は拒否。3月に大学側は「第 一解剖移管」文書を小川宛に送付し59体の遺骨リストを示す(植木 2017:277)

9月14日 城野口と小川は、札幌地方裁判所に慰 謝料請求の民事訴訟を北海道大学に提訴(北海道文書開 示研究会 2016:192)(→「アイヌ遺骨等返還 の研究倫理」)。北海道大学側は、祭祀継承者かどうか「不明」の者に遺骨を返還できず、裁判所に判断を求めるものとした。

2013 北大『北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書[pdf]』を 発行。1014体の遺骨を報告(→「アイヌ遺骨等返還 の研究倫理」)

2014 モベツコタン(紋別市)や浦幌アイヌ協会 で返還提訴がはじまる(→「文化略奪史入門」)

2016 

1月 土橋芳美・道新文化センターの文章教室に通 いはじめる

2月 土橋芳美に「ペンリウクが声をかけてきた」(土橋 2017:123)

2月25日 土橋、小樽の花崎皋平を訪問(土橋 2017:150)

3月23日土橋芳美は北大の常本照樹・岡田真弓 (事務・吉田年克)らと面談(敬称略)(土橋 2017:125)

4月6日イマウトカンの孫、土橋(平村)芳美と 娘、札幌円山墓地のルイザ・バチラー の墓を訪問(土橋 2017:44)。

6月 芳美、姉を亡くす(土橋 2017:116)。

7月11日 土橋芳美、北海道大学で「690番ピ ラトリ一号男平村ペンリウク」と出会う。副葬品はないと告げられる(土橋 2017:64-72, 126-127)。

7月15日 標本庫より12体遺骨が浦河・杵臼コ タンに85年ぶりに返還、「帰郷」する。土橋も参加。

9月6日 アイヌ遺骨返還委員会、常本ら、遺骨が 土橋に面談しペンリウクではない旨の「発言」(三木 2017:14;土橋 2017:83-86)

9月28日 北海道大学は、690番ピラトリ一号 がペンリウクではない文書を土橋に送付。

10月10日 土橋、北大総長・山口佳三に抗議書 簡

10月25日 北大側返答(土橋 2017:136-140)。ピラトリ一号がペンリウクではない故、個人返還ではなく地域返還で対応すると回答。

11月15日 土橋は、山口佳三総長と三上隆アイ ヌ遺骨返還室長に抗議書簡(三木 2017:17)

2017 

3月『痛みのペンリウク』公刊

8月ベルリン人類学民族学先史学協会より返還、ア イヌ納骨堂に保管された。

8月「大学からの返還遺骨を慰霊するイチャㇽパ (浦幌アイヌ協会)」

平村ペンリウク(日本語ウィキペディアの記載)

「平取コタンにシュロクの長男として生まれ[1]、 松浦武四郎『左留日誌』のなかに名前が記されている。幼年から勇敢で、成長してからは同胞の苦難を救うためにしばしば北蝦夷地・樺太に渡る[1]。 1876年(明治9年)、イギリス人宣教師のウォルター・デニングWalter Dening, 1846-1913)はペンリウクの家に来てアイヌ語を学んだという[2]。1880年(明治13年)、現在の平取町立平取小学校の前身である佐瑠太学 校・平取分校の設置に尽力し、アイヌの子弟を就学させた[3]。1887年(明治20年)[54歳]には当時の北海道庁長官・岩村通俊Michitoshi IWAMURA, 1840-1915)に呼ばれて、アイヌの現状を語っている[1]。1878年(明治11年)、イギリス人の旅行者イザベラ・バードIsabella Lucy Bird, 1831-1904)を迎え、バードはその滞在の思い出を紀行文に残した[4]。1879年(明治12年)、平取コタンを訪問したイギリス人宣教師ジョ ン・バチェラー(John Batchelor, 1854-1944)にアイヌ語を教えている[5]。71歳で亡くなったとき、その遺産は土地や馬を合わせて千円もあったという[1]。平取町の義経神社 の境内には「頌徳碑」が建立されている。- [1]河野常吉 『北海道史人名字彙』 、p.306, 北海道出版企画センター、1979年; [2]仁多見巌 『アイヌの父ジョン・バチェラー』 pp.28-29, 楡書房、1963年; [3] 橘文七 『北海道史人名辞典 第4巻』 p.5, 北海道文化資料保存協会、1957年; [4]イザベラ・バード 『イ ザベラ・バードの日本紀行』 Pp.80-146, 講談社学術文庫、2008年; [5] ジョン・バチェラー 『我が記憶をたどりて : ジョン・バチラー自叙伝』 北海道出版企画センター、2008年」(土橋芳美『痛 みのペンリウク』草風館、2017年)

平取義経神社:零細系統保護協会 - 『開道五十年記念神社仏閣名勝写真帖』(1919)

「寛政10年(1798年)、北方調査のため蝦夷地 に来た近藤重蔵が、アイヌが崇敬していたオキクルミ(→「アイヌ・ラッ・クル(Okikurumi, )」アエ・オイナ・カムイ(Ae-oyna-kamuy)) という英雄を源義経と同一視し、翌寛政11年(1799年)、仏師に作らせた源義経の神像をアイヌに与 えて祀らせたのに始まる。……平村ペンリウクによって義経像は現在地に遷宮」

■アイヌの遺体への毀損行為

イザベラ・バード『完訳・日本奥地紀行3』(平凡 社、2012)の翻訳者である金坂清則氏の解説( 訳注より)

「英国とアイヌの間にはアイヌにとって許し難い人骨 (頭蓋骨)盗掘事件をめぐる問題があり、[英国公使ハリー・]パークス(Sir Harry Smith Parkes, 1828-1885)が最終的な処理に当たったこと、クライトナー[中尉]自らも札幌に入る前に鵡川(むかわ)の付近でアイヌ頭骨を購入するという行為に 及び、持ち帰っている事実、9月10日頃に横浜に戻った翌朝にはパークス卿に別れの挨拶にいってる事実(『東洋紀行3』平凡社東洋文庫、1999)は注目 されねばならない。なお、バチェラーの自叙伝(『ジョン、バチラー 自叙伝——わが記憶をたどりて』文録社、1928)には、バチェラーが平取に入った明治12(1879)年の「数年以前誰方か解剖学の為にアイヌの屍を掘 り出して盗んで行つたと言ふ事を聞きました」※とあり、依然としてこのような出来事がおこっていたことがわかる」(金坂 2012:285)。

※「しかし数年以前どなたか解剖学のためにアイヌの 屍を掘り出してぬすんで持って行ったということを聞きました。無残なことだと思います」(北海道企画出版センター版 2008:146)

※「(墓に)お参りを済ませて帰ってまいりますと、 家へ入る前にヨモギで少々叩いて水をかけて清めの礼をしてからやっと家へ入ることを(ペンリさんは)許しました。家へ入ってから私はペンリさんにどういう 訳でお墓に案内するのを嫌がったか、またお墓のそばへどうして近寄らなかったのですかと聞きました。ペンリさんは答えて「それには三つの訳があるのです。 第一は、昔からの言い伝えで死人の墓の上を歩けば神から罰を受けますと。また第二には、死人の屍から魂はすぐ天に登るものではない、もし一本の髪の毛で何 でも残っているなら、そこにも少しの魂は残されてあると信じています。もう一つは、以前ある人が学問研究のためだといってアイヌ人の許しのないのに勝手に 墓を掘って屍を持ってまいりましたのです。それから後はなお他の人を墓へ連れて行くことを拒むのです」と申しました(北海道企画出版センター版 2008:173-174)。

●人間の「自然に湧き出る慰霊」の感情から遺体を 「正しく埋葬」したいという遺族の気持ちについて(ソフォクレス『アンティゴネー』を参照

「テーバイでもアンティゴネの兄たちが王位を巡って 争いを始めて、アルゴス人の援助を受けてテーバイに攻め寄せたポリュネイケスとテーバイの王位にあったエテオクレスが刺し違えて死に、クレオンがテーバイ の統治者となった。/クレオンは国家に対する反逆者であるポリュネイケスの埋葬や一 切の葬礼を禁止し、見張りを立ててポリュネイケスの遺骸を監視させる。アンティゴネはこの禁令を犯し、見張りに捕らえられてクレオンの前に 引き立てられる。人間の自然に基づく法を主張するアンティゴネ国家の法の厳正さを主張するクレオンは互いに譲らず、イスメネやハイモンの取り 成しの甲斐もなくて、クレオンは実質の死刑宣告として、一日分の食料を持たせてアンティゴネを地下に幽閉することを決定する。/その後、クレオンはテイレシアースの占いと長老たちの進言を受けてアンティゴネへの処分を撤回し、ポ リュネイケスの遺体の埋葬を決める。しかし時既に遅く、アンティゴネは首を吊り、父(クレオン)を恨んだハイモンも剣に伏して自殺」する。   #Wiki. (→アンティゴネーとヘーゲル

リンク

文献

その他の情報


ペンリウクさんと、バチェラーさん(土橋芳美『痛み のペンリウク』草風館、2017年、表紙カバーと背表紙)

1930年頃の平取アイヌコタン(改造社「日本地理大系 第10巻」1930)ペンリウク氏が「発掘」さ れた頃

ペンリウクさん(中央)と平取コタンの男性たち(金 田一京助『アイヌ文學』1933年、扉絵)撮影時期:不詳:/別記出典:John Batchelor., Sea girt Yezo: glimpses at missionary work in north Japan. London : Church Missionary Society. 1902.

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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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