Sakuzaemon
KODAMA, 1895-1970
1895 児玉作左衛門(こだま・さくざえもん)は1895年12月3日東京で生まれる。その後、父は秋田県鹿角郡柴平村(鹿角市)転居し眼科医を開業。以下の情報は、大矢(2017:30- 31)を中心に、まとめた(論文著作はアイヌ関係のみ)。
1900 父が眼科医院開業とクリスチャンとしての宗教教育を目的として、一家で函館市内に移住
1906 長谷部言人(1882-1969)が東京大学医科大学
を卒業。長谷部は小金井良精(1859-1944)の指
導をうける。翌年京都大学医科大学解剖学教室の足立文太郎教授の助手となる。
1913 函館中学を卒業。第二高等学校に入学。
1916 7月東北帝国大学医科大学に進学。布施現之助(1880- 1946)・教授と長谷部言人(1882-1969)・助教授 (1915年に赴任)について解剖学を学ぶ。
1919 医科大学は医学
部になる。
1920 長谷部言人・東北帝国大学医学部解剖学教室の教授に昇進する。児玉は、医学士学位取得。同大学助手に採用される。熊本県轟貝 塚(縄文前期)を発掘する。
1921 鴨原とみと結婚。東北帝国大学医学部助教授に昇進。
1922 12月25日〜1926年3月31日チューリッヒ大学脳解剖学研究所に留学。Constantin von Monakow, 1953-1930.に師事。留学は私費に切り替えられ、6月27日に帰国。
1928 東北帝国大学医学部は医学博士号を授与。
1929 5月北海道帝国大学医学部教授。
1934 5月八雲町で発掘。6月長万部超で発掘。勲四等瑞宝章受章。10月浦幌村で発掘。
1935 4月「北海道八雲アイヌ人頭骨に於ける虫歯について」大阪帝国大学医学部第四回学術大会。7月森村で発掘。9月落部村で発掘。
1936 7月樺太東海岸栄浜・内淵・魯礼で発掘調査。9月陸軍大演習昭和天皇御前講演「アイヌ頭蓋について」。論文「八雲ユーラップに於ける アイヌ墳墓遺跡の発掘において」
1937 1月「アイヌ頭蓋骨について」東京帝国大学医学部。4月「アイヌの頭蓋骨に就いて」東京人類学会・日本民族学会第三回連合大会第二回 記事。7月北千島シュムシュ島で発掘調査。8月北海道帝国大学北方文化研究室開設、委員に就任。
1938
4月研究発表「占守島出土の千島アイヌ頭蓋骨の人類学的研究」人類学民族学会第三回連合大会。8月勲三等瑞宝章受章。9月講演「アイノ」民 族に就いて(第28回関東北医師大会特別講演別冊)。10月札幌ハリストス正教会で千島アイヌのパニヒダ執行される。論文「アイヌ民族に於ける妊婦屍体解剖の奇習」『北海警 友』
1939 3月論文「アイヌの頭蓋骨に於ける人為的損傷の研究」『北方文化研究報告』1。10月余市で発掘調査。論文「アイヌ文身の研究」(伊 藤昌一との共著)『北方文化研究報告』2。札幌ハリストス正教会で千島アイヌのパニ ヒダ執行。
1940
5月。論文「アイヌ文身の研究」(伊藤昌一との共著)『北方文化研究報告』3。論文「千島アイヌ」『南千島色丹島誌』。7月網走市モヨロ貝 塚で発掘。10月札幌ハリストス正教会で千島アイヌのパニヒダ執行。論文 「アイヌの頭蓋骨及骨学」『人類学・先史学講座』
1941
2月論文「デ・アンジェリスの蝦夷国報告書に就て」『北方文化研究報告』4。7月論文「アイヌ髪容の研究」(伊藤昌一共著)
『北方文化研究報告』5。8月大曲洞窟遺跡発掘。(時期不詳)網走市モヨロ貝塚で発掘調査(米村喜男衛・伊藤昌一共同調査)。
1942
1月北海道帝国大学学生主事兼任 発令。2月論文「外国文獻に現はれたる初期の北海道」『北海道文化史考』。9月論文「アイヌ髪容の研究捕 遺」(伊藤昌一共著) 『北方文化研究報告』6。11月論文「Über die Körnerinseln des Tuberculum olfactorium im Großhirn」『Arbeiten aus dem Anatomischen Institut der Kaiserlich-Japanischen Universität zu Sendai』25
1943 1月講演「アイヌ民族に就て」桑田講演第1号。2月北海道帝国大学 評議員。(時期不詳)論文「占守島に於ける人類学的発掘」『北の
会報』1(1)
1944 1月依願免任官(学生主事)。2月学術研究会議 会員。3月論文「アイヌ」『東亞民族要誌資料』2。
1945 12月依願免北海道帝国大学医学部長並付属医学専門部長。(時期不詳)北海道立女子医学専門学校 講師
1946 (時期不詳)北海道大学医学部 経理委員。北海道大学医学部 渉外委員。
1947 12月論文「モヨロ貝塚の民族に就て」『新臨床』2(3)。
1948 3月北海道大学北方文化研究室 主任。4月『モヨロ貝塚』。(時期不詳)網走市モヨロ貝塚で発掘。10月北海道大学医学部付属病院厚
生女学部 講師。11月市立函館博物館 事務。第二回北海道新聞文化賞 受賞。
1949 6月講演「アイヌ民族の食生活」第25回北海道医学会。5月桔梗村サイベ沢遺跡で発掘。7月礼文島船泊砂丘遺跡で発掘。11月論文
「北海道の先住民族」『北海道先史学』12。12月北海道立博物館設置準備審議会 委員。
1950
7月講演「アイヌ民族の脳の形態学的研究 第1 大脳半球外側面の脳溝」(松野正彦・橋本秀夫共著)
第55回解剖学会。函館市住吉町遺跡で発掘。函館市春日町遺跡で発掘。論文「モヨロ貝塚人の埋葬法」『考古学雑誌』36(4)。国立科学博物館設置委員会
委員。医師国家試験 委員。
1951 (解剖学論文3本)
1952
3月論文「礼文島船泊砂丘遺跡の発掘に就て」『北方文化研究報告』7
(大場利夫共著)。4月発表「日高東部アイヌ生体の人類学的調査」第57回解剖学会誌上発表。発表「日高アイヌ頭蓋骨に於ける歯牙の人類学的研究」第57
回解剖学会誌上発表。
1953
3月。論文「A collaborative genetical survey in Ainu: Hidaka, Island
of
Hokkaido.」(R.T.Simmons, N.M.Semple, J.J.Graydon共著) 『American Journal of
physical Anthoropology』11(1)。論文「函館市住吉町遺跡の発掘に就て」『北方文化研究報告』8。
8月第8回日本人類学会・日本民族学協会連合大会大会 委員長。研究発表「アイヌの形質学的問題」第8回日本人類学会・日本民族学協会連合大会アイヌ問題
シンポジウム。発行月不明論文「色丹アイヌとパニヒダの思い出」『北大季刊』4。
1954
3月論文「函館市春日町出土の遺物に就て」(大場利夫共著)
『北方文化研究報告』9。論文「蝦夷に関する耶蘇会士の報告」(高倉・工藤共著)
『北方文化研究報告』9。5月講演「アイヌ民族の脳の形態学的研究 第2 大脳半球側面の脳溝」(松野正彦・中林一郎共著)
第59回解剖学会。論文「The Okhotsk Culture -A protohistoric culture of the
northeastern Asiatic littoral.」(H.A.Maccord共著) 『19thAnnual Meeting of
Society for American Archaeology』。7月札幌市北大遺跡で発掘。根室市温根沼遺跡で発掘。
1955 3月論文「北大遺跡について」『北方文化研究報告』10。論文「網走市大曲洞窟出土の遺物について」『北方文化研究報告』10。7月
遠軽町下社名淵遺跡で発掘。論文「アイヌ民族の生態」『日本農村医学会雑誌』3(4)。
1956 3月論文「根室国温根沼遺跡の発掘について」『北方文化研究報告』11。7月論文「アイヌの体質」『日本文化財』15。道静内町で発
掘。8月白滝村白滝遺跡で発掘。
1957 3月論文「遠軽町下社名淵(家庭学校)遺跡の発掘について」『北方文化研究報告』12
1958 3月論文「ラブレットについて」『北方文化研究報告』13、※ラブレットはピアス様装身具。3月論文「湧別遺跡の発掘について」『北 方文化研究報告』13。9月静内町で発掘。
1959 3月「ドクロとともに-アイヌ研究の三十年」1959.03.16付北海道新聞。4月北海道大学定年退官 北海道大学名誉教授。論文
「アイヌと日本人の大脳脳溝の形態学的比較」『日本の医学の1959年』Ⅰ
1960 11月紫綬褒章 受章
1961 論文「アイヌ民族について」『日本薬剤師協会雑誌』13(8)。論文「アイヌ民族について」『日本数学教育学会誌 臨時増刊
総会特集号』43。
1962 (空欄)
1963 3月論文「アイヌと東日本」『国文学解釈と鑑賞』28(5)。11月帯広市伏古で発掘。
1964 (空欄)
1965 3月医師免許証交付。11月北海道文化賞 受賞。
1966 3月論文「江戸時代初期のアイヌ服飾の研究」『北方文化研究報告』20。4月「消えゆくアイヌの姿」『話』135。5月第二回北海道
観光大会北海道観光功労賞 受賞。8月北海道江別市対雁で発掘調査。11月勲二等旭日重光章 受章。
1967 (空欄)
1968 論文「阿倍臣比羅夫の渡島遠征に関する諸問題-1-渡島蝦夷と陸奥蝦夷」『北方文化研究』3
1969 北海道教育委員会アイヌ文化保存対策協議会委員。「緊急を要したアイヌ研究-私のあゆんだ道」『からだの科学』26.
1970 論文「阿倍臣比羅夫の遠島遠征に関する諸問題-2-」『北方文化研究』4。論文「アイヌ頭蓋に見られる損傷問題」『北海道医学雑誌』
45(2)。"Ainu : historical and anthropological studies." 12月26日死亡
1971 学術書『明治前日本人類学・先史学史-アイヌ民族史の研究(黎明期)』/北海道の開道100年を記念して北海道開拓記念館が開設。
1980 3月北方民族資料7千点が函館市に寄託される。
1994 北海道立アイヌ民族文化研究センター開設。
2015 2013年(平成25年)11月4日から北海道開拓記念館は休館し、北海道が策定する「北海道博物館基本計画[3]」に基づき大幅改 装され[4]、北海道立アイヌ民族文化研究センターを統合し、名称を「北海道博物館」と改称し、2015年にオープン。
児玉 作左衛門(こだま さくざえもん、1895年(明治28年)12月3日 - 1970年(昭和45年)12月26日)は、日本の解剖学者・人類学者。北海道大学名誉教授。アイヌ研究で知られる。秋田県鹿角郡生まれ。 |
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経歴 1895年、秋田県鹿角郡柴平村(現鹿角市)に生まれる[1]。1900年、父が眼科医院開業とクリスチャンとしての宗教教育を目的として、一家で函館に 移住[2]。函館中学校、第二高等学校を経て東北帝国大学医学部に進学[2]。解剖学を専攻し、スイス留学後の1928年に「中枢神経の解剖学的研究」で 博士学位を取得[2]。翌年、北海道帝国大学医学部解剖学第二教室教授に任じられる[2]。在任中には脳医学研究の傍ら、アイヌ民族の人類学的研究に関心 を持ち、和人とアイヌの脳髄比較研究、頭骨の比較研究などを行う、その後もアイヌ文化を巡る民俗学、アイヌの起源を探る考古学へと研究対象を広げ、学者生 活の大半をアイヌ研究に費やした。私財を投じて蒐集したアイヌに関する膨大な史料群は「児玉コレクション」と呼ばれる[2]。 児玉自身の広範な関心により、児玉研究室の業績は数百テーマにも及び、医学部生以外に理学部や文学部などの学生も薫陶を受けたといわれ、100名を越す弟 子を研究者として輩出している[1]。また、日本解剖学会、日本人類学会の重鎮として役員を歴任。1948年に北海道新聞文化賞、1965年に北海道文化 賞、1966年には勲二等旭日重光章を受章している[1]。 |
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児玉とアイヌ人骨問題 かつて、北海道大学医学部の標本陳列棚には、動物標本と並んで1000体以上のアイヌ人骨が陳列されていた。これら人骨の大半は、児玉が1933年頃から北海道大学医学部解剖教室の長として、その教室員とともに蒐集したものである[3]。 アイヌ民族は明治以来、国内外の人類学者の注目を集めてきた。児玉はアイヌの人類学的特徴に着目し、純粋な学術的関心からアイヌ研究を出発させた。その中 で、近代化によってアイヌと和人の混血がすすみ、純粋なアイヌがその数を減じつつあることに危機感を抱いた児玉は、「純粋なアイヌの骨格蒐集」を急務の課 題とすることとなった[4][5]。 純粋なアイヌ人骨を入手するために児玉が目をつけたのは、アイヌの墓地を掘り起こすことであった[6]。1930年代、北海道の森、八雲で大規模な墓地発 掘が行われ[注釈 1]、戦後も静内などでアイヌ墓地を掘り返す「調査」が行われている[8]。1934年(昭和9年)の八雲での発掘を皮切りに、1939年(昭和14年) までの間に、北海道・樺太・千島でアイヌの墓の発掘を行い、500以上のアイヌの人骨を収集した[8]。児玉自身は発掘数以外の「調査」の内容を明らかに しておらず[2]、僅かの金品を渡し形ばかりの慰霊を行って強行した事例[注釈 2]も存在する。だが、当時のマスコミや研究機関からの批判は為されていない[10]。 その後も、北海道新聞が当初から児玉の業績を讃える報道を行ったため、児玉の動向を報ずる記事は「偉大な児玉教授のその後」を広報する性格のものになって いる[11]。新聞報道においては児玉とアイヌ人骨を並べた写真が多く見られ、児玉にとって、頭蓋骨を手にした姿は敬遠するどころか、わざわざ好んで撮っ てもらいたかった構図だったと推測される[11]。 その後、アイヌや市民団体からの再三の指摘により、1982年になって北海道大学医学部は標本庫に保管されているアイヌ人骨1004体の存在を公表した [注釈 3]。ウタリ協会は人骨の慰霊と追悼を行うことを求め、世間の批判にも晒された北大医学部は、1984年に医学部構内に「アイヌ納骨堂」を建立し、以来毎 年、北大関係者も参列してアイヌ慰霊祭(イチャルパ)が行われている。しかし、北大医学部は現在も「人骨標本」の学術的成果を楯に、その蒐集過程で倫理的 な問題があったことを認めていない。 |
Kodama and the Ainu Human Bone Issue In the past, more than 1,000 Ainu human skeletons were displayed alongside animal specimens on the specimen display shelves of the Hokkaido University School of Medicine. The majority of these human remains were collected by Kodama as head of the Department of Anatomy at the Hokkaido University School of Medicine from around 1933, together with his colleagues. The Ainu people have attracted the attention of anthropologists in Japan and abroad since the Meiji era. Kodama focused on the anthropological characteristics of the Ainu people and started Ainu studies from a purely academic interest. In the process, Kodama became aware of the crisis that the number of pure Ainu was declining due to the increasing admixture of Ainu and Japanese people as a result of modernization, and he decided to make the "collection of pure Ainu skeletons" an urgent task. In order to obtain pure Ainu skeletons, Kodama turned his attention to excavating Ainu cemeteries, By 1939, he had excavated Ainu graves in Hokkaido, Sakhalin, and the Kuril Islands, and collected more than 500 Ainu human remains. Kodama himself did not disclose the details of his "research" other than the number of graves he excavated, and there are instances where he was forced to do so by handing over a small amount of money or goods and holding a token memorial service. However, there was no criticism from the mass media or research institutions at the time. Since then, the Hokkaido Shimbun has been praising Kodama's achievements from the very beginning, and articles reporting on Kodama's movements have been characterized as publicity for "what happened to the great Professor Kodama. In the newspaper reports, there were many photographs of Kodama and Ainu human bones side by side, and it is assumed that for Kodama, the figure with the skull in his hands was a composition that he not only shunned, but went out of his way to have it photographed as a favorite. Subsequently, after repeated requests from Ainu and civil society groups, in 1982 the Hokkaido University Faculty of Medicine announced the existence of 1,004 Ainu human bones stored in its herbarium. The Utari Association demanded that the human remains be memorialized and the Hokkaido University School of Medicine, which was subjected to public criticism, built an "Ainu ossuary" on the School of Medicine campus in 1984, and since then an annual Ainu memorial service (Ichalpa) has been held, attended by members of the Hokkaido University community. However, to this day, the Hokkaido University School of Medicine still does not admit that there were any ethical problems in the collection process of the "human bone specimens" by challenging their academic achievements. |
児玉コレクション 児玉コレクションの全容は『児玉資料目録 1・2』(アイヌ民族博物館 1991年)『児玉コレクション目録』(市立函館博物館 1987年)等の目録で知ることができ、考古資料7157件、民族資料5105件の合計12262 件、児玉教授収集資料については1014体分の人骨が知られている[2]。 しかし、目録未掲載の資料もあり、その全体像はいまだ不明瞭である[2]。コレクションの大半は、1998年(平成10年)に市立函館博物館と一般財団法人アイヌ民族博物館に寄託・寄贈されている[2]。 前述の人骨問題に絡み、コレクション自体が人骨の副葬品であったり、盗掘や強引な収奪によって集められたものではないかとの疑念があり[注釈 4]、その学術的評価とは別に批判にも晒されている[注釈 5]。 |
The Kodama Collection The entire Kodama Collection can be found in "Kodama Materials Catalog 1 & 2" (Ainu Folk Museum, 1991) and "Kodama Collection Catalog" (Hakodate Museum, 1987), etc. A total of 12262 items (7157 archaeological and 5105 ethnographic materials) and 1014 human bones from the collection of Professor Kodama are known. However, there are still some materials that have not been catalogued yet. However, some materials have not yet been cataloged, and the overall picture is still unclear. The majority of the collection was deposited and donated to the Hakodate Museum and the Ainu National Museum in 1998. The collection itself has come under criticism, apart from its academic reputation, due to the aforementioned human remains issue, as there are suspicions that the collection itself is a by-product of human remains, or that it was collected through pilferage or forced seizure. |
『中枢神経系』小川鼎三共著 金原書店 1942 人体解剖図譜 『人体解剖図譜 第5巻 (中樞神経系)』西成甫,小川鼎三共編 日本医書出版 1948 『モヨロ貝塚』北海道原始文化研究会出版部 1948 『明治前日本人類学・先史学史 アイヌ民族史の研究(黎明期)』明治前日本科学史刊行会編 日本学術振興会 1971 |
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^ アイヌ民族運動家の結城庄司は八雲町の郷土資料館の学芸員から、児玉が落部のアイヌ墓地を発掘して得た「研究資料」をイギリスに「輸出」し、それに対し落部アイヌの弁開凧次郎が抗議をした、という話を1982年に聞いている[7]。 ^ 椎久堅市は『北海道新聞』1982年10月10日において、児玉は発掘後に慰霊碑を建てる約束をしていたが木の墓標を立てただけですまし、亡くなったばかりの遺体も持って行ってしまったと語っている[9]。 ^ 2013年3月に公表された『北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書』の巻末資料3『北海道帝国大学・北海道大学医学部第1講座・解剖学 第2講座収蔵アイヌ人骨一覧(2012年12月4日現在)』によれば、1049体のうち35体は地域が引き取り、1004体となる。これには頭骨と一体化 できなかった体部骨484体分はふくまれていない[12]。 ^ 『北海道新聞』1969年7月30日において、児玉は八雲町から1936年に「アイヌ名を刻んだ石碑」を持ち出して私蔵していたために、返還要求を受けたことが報道されている[13]。 ^ その死後にさえ、児玉がある女性に分娩をアイヌ式にやらせてその様子をフィルムに収めた、という証言も残っていた[14]。 |
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脚注 ^ a b c “児玉 作左衛門〜函館ゆかりの人物伝 - 函館市文化・スポーツ振興財団”. www.zaidan-hakodate.com. 2020年7月11日閲覧。 ^ a b c d e f g h i 大矢京右「児玉コレクションの収集経過とその周辺」『市立函館博物館研究紀要』第27巻、市立函館博物館、2017年3月、1-40頁。 ^ 伊藤昌一『日本人類学会・日本民族学協会連合大会 第8回紀事』日本人類学会・日本民族学協会連合大会事務所、1955年、P.89頁。 ^ 植木哲也『学問の暴力』春風社、2008年、P.96頁。 ^ 児玉作左衛門「アイヌ民族の生態」『日本農村医学会雑誌』第3巻第4号、日本農村医学会、1955年、1-6頁、doi:10.2185/jjrm.3.4_1。 ^ 小笠原信之『アイヌ近現代史読本』緑風出版、2001年、P.220頁。 ^ 結城庄司『遺稿チャランケ』草風館、1997年、P.130頁。 ^ a b 渡辺左武郎『北海道の文化21』北海道文化財保護協会、1971年、P.3頁。 ^ 三木ひかる『アイヌ民族の遺骨は告発する』4大学合同全国集会実行委員会、2019年、P.22-23頁。 ^ 植木哲也『学問の暴力』春風社、2008年、P.200頁。 ^ a b 東村岳史「アイヌの頭蓋骨写真報道が意味するもの : 過去の「露頭」の発見と発掘」『国際開発研究フォーラム』第43巻、名古屋大学大学院国際開発研究科、2013年3月、1-16頁、doi:10.18999/forids.43.1。 ^ 三木ひかる『アイヌ民族の遺骨は告発する』4大学合同全国集会実行委員会、2019年、P.6頁。 ^ 三木ひかる『アイヌ民族の遺骨は告発する』4大学合同全国集会実行委員会、2019年、P.25頁。 ^ 新谷行『コタンに生きる人びと』三一書房、1979年、P.63頁。 |
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関連文献 植木哲也『学問の暴力 アイヌの墓はなぜあばかれたか』春風社、2008年 |
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