かならずよんで ね!

バチェラー八重子

Bachelor, Yaeko. 1884-1962

池田光穂

「カントオッタ アイヌカラカンチ ありといふ うちなほしてよ 痛めるウタリを」——バチェラー八重子(カントオッタ=天上の神の國に、アイヌカラカンチ=人間をつくる鍛冶の神)

「ウタシパノ ウコイキプウタリ レンカプアニ アイヌピリカプ モシリアエケシケ」※—— バチェラー八重子(※〈ウタリ〉=同胞;〈ウタシパノ〉=お互いに;〈ウコイキプウタリ〉=相争う人々;〈レンカプアニ〉=〜のために;〈アイヌピリカ プ〉=人々の善良なる者;〈モシリ〉=國・國土;〈アエケシケ〉=〜に尽く)《互いに争う人のために 善良なる人々が國土の上に後を絶つか!》

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略歴は、ウィキペディア「バチェラー八重子Yaeko BACHELOR)」 による

1884年(明治17年)6月13日、北海道伊達町 有珠に、戸籍名は「向井八重子」、幼名は「フチ」として生まれる。

「父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッ チャロであった[2]。母は、フッチセであった[2]。なお、弟に向井山雄がいる[2]。父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラー を信頼し、娘の八重子の受洗を承認するまでになる」

1895 八重子が、11歳の時、父の富蔵が亡くな る

1897 ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、 バチェラーが運営する「アイヌガールズスクール」に通う

n.d. 東京の香蘭聖書学校に通う

1906 明治39年八重子は、ジョン・バチェラー の養女となる(22歳)

1908 (明治41年)、バチェラー夫妻について (シベリア鉄道経由で)イギリスに行き、カンタベリー大主教から伝道師として任命される

n.d. 平取や幌別の聖公会で伝道活動を展開

1912 (明治45年)には、ジョン・バチェラー と共に、樺太に行き、伝道活動を行う

1931 (昭和6年)に、バチェラー八重子による 短歌の歌集『若きウタリに』が出版

1931 養母のルイザ・バチェラーが死去し、札幌 円山墓地に葬る

1944 養父のジョン・バチェラーが死去。ジョ ン・バチェラーの蔵書250冊ほどとその他の遺品を、自宅に保管

1962 4月29日、関西旅行中に、京都にて客 死。77歳

掛川源一郎(1913-2007)Gen-ichirou KAKEGAWA

「室蘭町生まれ。中学在学中にカメラを始める。室蘭 中学校(現北海道室蘭栄高等学校)、千葉高等園芸学校(現千葉大学園芸学部)卒業。誠文堂新光社『実際園芸』編集所に勤務。編集記者兼カメラマンとして活 躍。/50年代に土門拳が提唱したリアリズム写真(絶対非演出の絶対スナップ)の影響を受ける。戦後は伊達高校に教員として勤務するかたわら、北海道にお ける社会派カメラマンとして、貧しい漁村や開拓農家の暮らし、アイヌ民族、伊達発電所建設反対運動、ポリオ(小児マヒ)の子どもたち、有珠山噴火などを長 期にわたって撮影。1961年には雑誌「世界」の口絵で第2回講談社写真賞を受賞した。/主な著書に『アイヌの神話』『アイヌの四季』(更科源蔵との共 著)『若きウタリに』『大地に生きる』『バチラー八重子の生涯』など。1991年、第7回東川賞特別賞受賞。2000年から札幌市在住。2004年4月、 約70年間の集大成として写真集『gen 掛川源一郎が見た戦後北海道』を出版。文化人類学者の山口昌男や写真家の吉田ルイ子らが写真集に言葉を寄せている。同年4月、北海道立文学館で写真展「写 真家 掛川源一郎の20世紀」開催。掛川源一郎写真委員会が、全著作権の管理する」掛 川源一郎・ウィキペディア)

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