かならずよんで ね!

平村ペンリウクさんのこと

Can human remains claim for their return and reburial from the University Collection Room to their land of origin?


池田光穂

平村ペンリウク氏(Penriuku Hiramura, 1832-1903) は平取(ビラトリ)のアイヌ共同体(コタン)の首長(コタンコロクル)であっ た。そして、彼は、1876年イギリス人宣教師ウォルター・デニング(Walter Dening, 1846-1913)、1879年以降は同ジョン・バチェラー(John Batchelor, 1854-1944)にアイヌ語を教え、また初期の人類学や民俗学の調査のインフォーマントとして、アイヌ研究に多大な貢献をしたことでも知られるべき (バチラー 2008)で あるが、残念ながら2017年3月の曾孫の土橋芳美(Yoshimi Dobashi, )氏の長編叙事詩『痛みのペンリウク』が発表されるまでは、バチェラー、金田一京助(1882-1971)、知里幸恵(1903-1922)、知里真志保 (1909-1961)に比べてアイヌ研究の重要な功労者として光が当てられることはなかった。このページは、ペンリウク氏の遺骨の故郷への「帰還」をめ ぐる物語と、それに関わる研究倫理についての審問の研究のために構築 された。

『北海道史人名字彙』1979年によると、ペンリウ クは、天保三年正月(グレゴリオ暦1832年2月)生まれということになる。

さて、彼は1903年11月28日に亡くなった時 に、たしかに、平取のアイヌの墓地に埋葬されたが、その後の経緯で、発掘(ないしは盗掘)された後、長く北海道大学の研究用の「人骨標本」として保管され てきた。日本の戦前期の人類学の研究者にとって、アイヌ民族は「優勝劣敗(優れたものが勝ち残り、劣ったものは滅びる)」の運命にあると和人たちの政治家 と価値観を共有しており、滅びる前に、彼らの民族的かつ人種的記録を残しておくことが急務とされていた。そのため、生前のペンリウク氏もまた、亡くなる前 に人類学の「研究目的」のために自らの身体計測に協力していた——当時はインフォームドコンセントの概念も、身体に関するデータはプライバシーに属すると いう考え方も共有されていなかったために、調査が「アイヌ支配の権力状況」においてペンリウク氏が断りきれなかったことも現在では十分忖度可能である。

イザベラ・バードIsabella Lucy Bird, 1831-1904)"Unbeaten Tracks in Japan; LETTER XXXVII-III"の記述。ペンリウクはBenri と書かれている。

"Benri is, for an Aino, intelligent. Two years ago Mr. Dening of Hakodate came up here and told him that there was but one God who made us all, to which the shrewd old man replied, "If the God who made you made us, how is it that you are so different—you so rich, we so poor?" On asking him about the magnificent pieces of lacquer and inlaying which adorn his curio shelf, he said that they were his father's, grandfather's, and great-grandfather's at least, and he thinks they were gifts from the daimiyo of Matsumae soon after the conquest of Yezo. He is a grand-looking man, in spite of the havoc wrought by his intemperate habits. There is plenty of room in the house, and this morning, when I asked him to show me the use of the spear, he looked a truly magnificent savage, stepping well back with the spear in rest, and then springing forward for the attack, his arms and legs turning into iron, the big muscles standing out in knots, his frame quivering with excitement, the thick hair falling back in masses from his brow, and the fire of the chase in his eye. I trembled for my boy, who was the object of the imaginary onslaught, the passion of sport was so admirably acted." -Unbeaten Tracks in Japan; LETTER XXXVII-III.

ペンリウク氏の遺骨は、亡くなったおよそ30年後の 1933年10月20日に北海道帝国大学医学部解剖学教室・山崎春雄(Haruo YAMAZAKI, 1886-1961)初代教授[在任1921-1948/札医 1948-1958]、岡田正雄(夫)助教授らの指導のもとで「発掘」された(北海道大学 2013:17)。「標本」名は「ピラトリ一号」。

【異説】バチェラー(バチラー )が1940年12月出国し、カナダ・バンクーバー経由で1943年に失意の帰国、1944年に亡くなるまでに、Steps by the way という自伝のタイプ手稿を認めていた。この手稿のコピーが、1985年元駐日英国大使ヒューズ・コルタッツイ卿(Sir Hugh Cortazzi)が日本にもたらされ、仁多見巌・飯田洋右により編訳された。同翻訳書『ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡』北海道出版企画センター(1993)によると、遺骨の真偽については、バチェラーは疑問を呈している。なお、同書ではペンリウクの「ク」 は小文字。

「(ペンリウク)首長が埋葬されてから、三十年後 に、彼のであると、目されている骨が発掘され、札幌の帝国大学の博物館に持っていかれたのでありました。しかしながら、アイヌの人たちが私に語ったところ によると、墓についての間違いがあり、首長とともに埋葬された品物は、何一つとしてその遺体の傍から発見されなかった、というのです。その上、頭蓋骨は首 長の存命中のように、円型ではなかった、ということでした。彼の家はアイヌの習慣にしたがって、葬儀のあとで焼かれてしまったのでした」(バチラー 1993:141)。

土橋芳美さんの長編叙事詩『痛みのペンリウク』による と、土橋氏が曽祖父の遺骨が北大に存在することを知り、返還にいたるまでの紆余曲折——北大はさまざまな法令や「物的証拠」を根拠に素直に返却をしなかっ た——を経て、「ペンリウクさんの声が聞こえるようになった」と述懐する。

●ペンリウクさんのクロノロジー

1832 平村ペンリウク生まれる。後に弟のイマウトカン、イコヌテック。

1854 ジョン・バチェラー[ジョン・バチラーとも表現](ウィキペディアの記載は小松哲 郎訳[1999:364-365]に依存しているようだ)、英国サセックス州アクフィールドに生まれる。(青年時代、園丁として働いていたが、インド宣教 をしていた宣教師の説教を通して、東洋伝道の志を抱く)

1866 バチェラーの祖母は、彼が2 つの民族の間 で働くと予言(安田編 1995:511)

1875 (明 治8)樺太千島交換条約:樺太(サハ リン)アイヌ、占守島(しゅむしゅとう)等の北千島の千島アイヌは、北海道本島や色丹島に移住を余儀なくされる。樺太アイヌ841名が日本国籍を取得後 に、対雁(ついしかり、現在の江別市)に移住したが、コレラ、天然痘で多数死亡(→「日本文化人 類学史」1875年の項目参照)。

1876 バチェラーさん、香港のセン ト・ポール学 院(聖パウロカレッジ)に給費生として入学(神学と中国語を学ぶ)。

1877 

バチェラーさん体をこわして(マラリ ア罹患)、生 まれ故郷の英国と似た函館に静養する。すぐにアイヌ伝道を決意する。対雁(ついしかり)にてテンべ・エカシからアイヌ語の初歩を学ぶ。

1878 イザベラ・バード訪問。"If the God who made you made us, how is it that you are so different—you so rich, we so poor?"とデニングとの邂逅時のことを話す

1879 

ジョン・バチェラー(John Batchelor, 1854-1944)さん、平信徒伝道者としてChurch Mission Society, CMSに入会。ウォルター・デニング司 祭(Walter Dening, 1846-1913)と共に平取を訪れて、ペンリウクさんと出会う。アイヌ語をペンリウクさんから学ぶ。

左はデニング:右はペンリさんとバチェ ラーさんこの オリジナルの写真はバチェラーさんのThe Ainu and their Folk-lore, 1892, に収載されたもので、"The author and Choef Penri in 1879"(ペンリさん47歳、バチェラーさん25歳)の解説がついている。カリフォルニア大学図書館蔵書より

1881 

バチェラーさんイギリスに帰国し、神 学を学ぶ。こ の帰国の背景には、デニングが「条件付霊魂不滅説(conditional immortality/ Christian conditionalism)」を唱えはじめて、本国のCMS本部に召喚され、最終的に解任(1883年1月)された事件とも関係しているようだ。

1983 バチェラーさん函館に帰任。

1884 バチェラーさん、ルイザ・ア ンデレス(ア ンデレス司祭の妹)と結婚。有珠にて、向井八重子=フチ(1884 -1962)生まれる(向井富蔵の娘として)。『蝦夷今昔物語』出版

1885 

日本政府より英国のスパイ容疑として 春頃に訴追さ れる(夏に無罪判決)

バチェラーさん、活動の場を平取から 幌別村(現在 の登別市)に移す。アイヌへキリスト教教育のほか、アイヌ語教育をはじめる。金成太郎受洗(12月25日)

1887 『東京帝国大学紀要』1号 に、B.H. チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850-1935)の論文にあわせて「アイヌ語文法」を発表。

1888 金成太郎を校主としてキリス ト教教育を行 なうアイヌ学校設立構想の下、金成喜蔵が息子の太郎をアイヌに教育を行うアイヌ教師とするために私塾の相愛学校を設立。

1889 バチェラーさん、『蝦和英三 対辞書』(北 海道庁)を出版

1891 

バチェラーさんは、伊藤一隆を中心と する北海道禁 酒会の招聘に応え1月1日函館を離れ、翌日札幌に移転。その後、札幌に自宅を持ち、自宅で聖公会の日本人信徒のためにバイブルクラスと日曜礼拝を始める。 平取で伝道を再開。

1892 アイヌが無料で施療できるよ うに、「アイ ヌ施療病室」を開設。札幌聖公会が正式に組織。『日本のアイヌ』刊行。バチェラーさんは、アルコール依存だった金成太郎を解任し、ネットルシップを任命す る。

1894 『アイヌ・生、死、婚の習 俗』

1895 バチェラーさん教会(平取) を献堂する。

1896 バチェラーさん教会(有珠) を献堂する

1897 

バチェラーさん、Chikoro utarapa ne Yesu Kiristo ashiri aeuitaknup oma kambi [The New Testament of our lord and saviour Jesus Christ in Ain]the Bible Society's Committee for Japan by the Yokohama Bunsha、を出版。

1899 北海道旧土人保護法。アイヌ の植民政策の 徹底化。教会でのアイヌ語の説教を日本語に変える(小柳はそれを「転向」と紹介している)。

1901 バチェラーさん、The Ainu and their Folk-Lore、を出版。

1902 『海に囲まれた蝦夷地』

1903 平村ペンリウクさん11月28日死去(71歳)。北海道の聖公会信徒2895人中アイヌ人が 2595人(中村敏『プロテスタント海外宣教史』新教出版社、p.82、2011年)

1905 バチェラーさん、八重子を養 女にする。

1910 4月25日バチェラーさん皇 居での観桜会 に招待され明治大帝と握手。「不思議な力」を得るという。

1923 宣教師退職。北海道庁社会課 嘱託。バチェ ラー保育園を創立。

1925 バチェラーさん、『アイヌ人 と其説話』と 『アイヌの炉辺物語』(富貴堂書房)を出版。『北海道穴居住民とアイヌ地名考』

1926

徳川義親は「1926年(大正15年/昭和元年)頃から、ジョン・バチェラー博 士によるアイヌ語の辞書の改訂とアイヌ保護学園の財団法人化の活動を支援し、1926年11月に東京で開催された第3回の汎太平洋学術会議の際には、バ チェラー博士を会員に推薦し、同年10月に会員20名を帯同してウサックマイや白老のアイヌの部落を視察旅行し、博士は大会で「アイヌ民族、その起源なら びに他民族との関係」について講演を行なった」

1927 バチェラーさん、Ainu life and loreを出版

1928 バチェラーさん、『我が記憶 をたどりて』 を出版

「世界の文化の進歩はすべての人がみ な生存権を有している ように、あらゆる民族もまた民族としての生存権[を有する こと]があきらかに認められてまいりました。これは当然の ことであります。日本人が米国やその他で、差別的待遇を受 けていることを聞くとき本当にいやな気がいたします。日本 は大いにその非を責め、また世界に向かって人類平等主義を 主張せねばならないと思います。それをなすまえに、同国民 であるアイヌ族がもって生まれたその生存権まで奪われ、山 から山へ追い込められて、予防し得る病気のために、地上か ら滅びゆかんとしていることに[日本人が]注目され、その 向上策に誠意を示されることを希望いたします

1931 バチェラー八重子『若きウタ リに』(歌 集)出版。養母のルイザ・バチェラー(バチェラーさんの奥さん)が死去し、札幌 円山墓地に葬る。

1933 

10月20日平取のアイヌ墓地より 「遺骨」が北海 道帝国大学の山崎春雄教 授、岡田正雄(夫)助教授らの指導のもとで「発掘」=持ち出される(→「ア イヌとシサムための文化略奪史入門」)。

1934 8月平村ペンリウク頌徳碑(しょうとくひ)が義経神社に建立——佐藤昌介題。北海道庁 令第83号10月19日「人骨発掘発見ニ関スル規程」

1940 第二次大戦がはじまり、バ チェラーさんは 姪のフローレンス・アンデレスと共にカナダに渡る(英国にはすぐに戻れず)。

1943 バチェラーさんは姪のフロー レンス・アン デレスと共に、ようやく英国に帰郷。

1944 4月2日バチェラーさん、英 国で死去 (90歳)。

1949 土橋芳美生まれる(土橋 2017:119)。

1959 児玉作左衛門、3月16日 「北海道新聞」 に八雲町遊楽部における発掘で取り調べを受ける(北海道大学 2013:35)

1965 バチェラーさんの『ジョン・ バチェラーの 手紙』死後出版される

1972 アイヌ解放同盟、日本人類学 会・日本民族 学会連合大会シンポジウム壇上占拠行動(→日本文化人類学史

1973-1976 土橋芳美『アヌタ リアイヌ』誌 (1-20号)を創刊し76年まで続ける。

1980 

11月27日アイヌ民族・海馬沢博 (Hiroshi KAIBAZAWA,)は北海道大学学長・今村成和に書簡をしたため、アイヌ遺骨の無断「収集」を非難し、個体ごとに調査の上、返還をすること等を要求 (三木 2017:41)。

1982 ウタリ協会が、遺骨返還の一 本化を表明

1984 7月25日「アイヌ納骨堂 (資料保存 庫)」の竣工。8月11日イチャルパ敢行。

1993 バチェラーさんの残されたタ イプ手稿の複 写が日本にわたり『わが人生の軌跡』が出版される(内容は『我が記憶をたどりて』と重複するところ多し)

1995 「ウタリ対策のあり方に関す る 有識者懇談会」設置

1997 旧土人保護法廃止。旭川市旧 土 人保護地処分法廃止。アイヌ文化振興法の制定(5月制定、7月施行)(→「文化略奪史入門」)。

2007 「先住民族の権利に関する国 際連合宣言」

2008 小川隆吉(1935- )、情報公開法にもとづき「北海道大学医学 部、児玉作左衛門収集のアイヌ人骨の台帳とそれに関連する文書」の開示請求する。

2010 「民族共生の象徴となる空 間」「北海道外 アイヌの生活実態調査」両作業部会設置。

2012 

2月17日 小川隆吉と城野口ユリは 北海道大学を 訪 れ、同大学佐伯浩総長との面会を求めるが、大学側は拒否。3月に大学側は「第 一解剖移管」文書を小川宛に送付し59体の遺骨リストを示す(植木 2017:277)

9月14日 城野口と小川は、札幌地 方裁判所に慰 謝料請求の民事訴訟を北海道大学に提訴(北海道文書開 示研究会 2016:192)(→「アイヌ遺骨等返還 の研究倫理」)。北海道大学側は、祭祀継承者かどうか「不明」の者に遺骨を返還できず、裁判所に判断を求めるものとした。

2013 北大『北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書[pdf]』を 発行。1014体の遺骨を報告(→「アイヌ遺骨等返還 の研究倫理」)

2014 モベツコタン(紋別市)や浦 幌アイヌ協会 で返還提訴がはじまる(→「文化略奪史入門」)

2016 

1月 土橋芳美・道新文化センターの 文章教室に通 いはじめる

2月 土橋芳美に「ペンリウクが声をかけてきた」(土橋 2017:123)

2月25日 土橋、小樽の花崎皋平を 訪問(土橋 2017:150)

3月23日土橋芳美は北大の常本照 樹・岡田真弓 (事務・吉田年克)らと面談(敬称略)(土橋 2017:125)

4月6日イマウトカンの孫、土橋(平 村)芳美と 娘、札幌円山墓地のルイザ・バチラー の墓を訪問(土橋 2017:44)。

6月 芳美、姉を亡くす(土橋 2017:116)。

7月11日 土橋芳美、北海道大学で 「690番ピ ラトリ一号男平村ペンリウク」と出会う。副葬品はないと告げられる(土橋 2017:64-72, 126-127)。

7月15日 標本庫より12体遺骨が 浦河・杵臼コ タンに85年ぶりに返還、「帰郷」する。土橋も参加。

9月6日 アイヌ遺骨返還委員会、常 本ら、遺骨が 土橋に面談しペンリウクではない旨の「発言」(三木 2017:14;土橋 2017:83-86)

9月28日 北海道大学は、690番 ピラトリ一号 がペンリウクではない文書を土橋に送付。

10月10日 土橋、北大総長・山口 佳三に抗議書 簡

10月25日 北大側返答(土橋 2017:136-140)。ピラトリ一号がペンリウクではない故、個人返還ではなく地域返還で対応すると回答。

11月15日 土橋は、山口佳三総長 と三上隆アイ ヌ遺骨返還室長に抗議書簡(三木 2017:17)

2017 

3月『痛みのペンリウク』公刊

8月ベルリン人類学民族学先史学協会 より返還、ア イヌ納骨堂に保管された。

8月「大学からの返還遺骨を慰霊するイチャㇽパ (浦幌アイヌ協会)」

***
ペンリさんとバチェラーさんこの オリジナルの写真はバチェラーさんのThe Ainu and their Folk-lore, 1892, に収載されたもので、"The author and Chief Penri in 1879"(ペンリさん47歳、バチェラーさん25歳)の解説がついている。カリフォルニア大学図書館蔵書より

ペンリウクさんと、バチェラーさん(土橋芳美『痛み のペンリウク』草風館、2017年、表紙カバーと背表紙)

1930年頃の平取アイヌコタン(改造社「日本地理大系 第10巻」1930)ペンリウク氏が「発掘」さ れた頃

ペンリウクさん(中央)と平取コタンの男 性たち(金 田一京助『アイヌ文學』1933年、扉絵)撮影時期:不詳:/別記出典:John Batchelor., Sea girt Yezo: glimpses at missionary work in north Japan. London : Church Missionary Society. 1902.


リンク

文献

その他の情報

ペンリウクさんと、バチェラーさん(土橋芳美『痛み のペンリウク』草風館、2017年、表紙カバーと背表紙)

1930年頃の平取アイヌコタン(改造社「日本地理大系 第10巻」1930)ペンリウク氏が「発掘」さ れた頃

ペンリウクさん(中央)と平取コタンの男性たち(金 田一京助『アイヌ文學』1933年、扉絵)撮影時期:不詳:/別記出典:John Batchelor., Sea girt Yezo: glimpses at missionary work in north Japan. London : Church Missionary Society. 1902.

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