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坪井正五郎

Shōgorō Tsuboi, 1863-1913

池田光穂

☆坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、1863年2月22日江戸(武蔵国)生まれ、1913年5月26日サンクトペテルブルグ没)は考古学者であり、日本民族学・人類学・考古学の創始者とも言える人。

Tsuboi Shōgorō (japanisch 坪井 正五郎; geboren 22. Februar 1863 in Edo (Provinz Musashi); gestorben 26. Mai 1913 in Sankt Petersburg) war Archäologe und Begründer der japanischen Ethnologie.
坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、1863年2月22日江戸(武蔵国)生まれ、1913年5月26日サンクトペテルブルグ没)は考古学者であり、日本民族学の創始者である。
Leben und Wirken
Tsuboi Shōgorō wurde im Stadtteil Ryōgoku von Edo, dem heutigen Tokio, geboren. Sein Vater Shinryō (信良; 1825–1904) war Adoptivsohn des Arztes und Rangaku-Gelehrten Tsuboi Shindō (坪井信道), seine Mutter war Shindōs Tochter Makiko (万喜子). 1884, während er das Institut für Biologie, Fakultät für Naturwissenschaften, der Universität Tokio besuchte, gründete er mit seinen Studienfreunden die „Jinruigaku no Tomo“ (じんるいがくのとも) – „Freunde der Anthropologie“. 1886 veröffentlichte er die „Anthropologischen Berichte“ (人類学報告, Jinrui hōkoku) und änderte sich gleichzeitig der Name der Gesellschaft zu „Anthropologische Gesellschaft Tōkyō“ (東京人類学会, Tōkyō jinrui gakkai)[A 1].

Nach Auslandsaufenthalten in England und Frankreich im Jahr 1889 wurde er nach seiner Rückkehr 1892 Professor an die „University of Science“ (理科大学, Rika daigaku), der heutigen „Faculty of Science“ der Universität Tokio und leitete dort ab 1893 die neu eingerichteten Anthropologie-Kurse. Er führte eine breite Palette von Forschungen in Anthropologie, Archäologie und Ethnologie durch und veröffentlichte mehr als 1.100 Artikel. Dazu gehören die Entdeckung einer neuen Keramikart aus vorchristlicher Zeit, die im „Mukougaoka-Muschelhüge“ (向ヶ丘古墳) gefunden wurde und die nach ihrem ersten Fundort Yayoi, einem Stadtteil im Bezirk Hongō von Tokio, der „Yayoi-Zeit“ ihren Namen erhielt. Mit der Beschäftigung mit dem Ashikaga-Grabhügel ((足利)古墳, Ashikaga Kofun) in der Präfektur Tochigi eröffnete er die Grabhügelforschung. Berühmt ist seine Feststellung, dass es sich bei den Ureinwohnern Japans nicht um die „Koropokuru“ handelt, die in den Ainu-Legenden überliefert sind.

Tsuboi ist auch bekannt für seine Bemühungen, die Wissenschaft durch zahlreiche Vorträge in leicht verständlicher Sprache zu lehren. 1918 starb er während der Teilnahme an einer internationalen Konferenz in Sankt Petersburg.
https://de.wikipedia.org/wiki/Tsuboi_Sh%C5%8Dgor%C5%8D
生涯と作品
坪井章五郎は江戸両国生まれ。父は医師で蘭学者であった坪井信道で、坪井信道の養子。母は信道の娘牧子であった。1884年、東京大学理学部生物学科在学中に「人類学の友」を仲間と結成。1886年には『人類学報』を刊行し、同時に「東京人類学会」と改称した[A 1]。

1889年にイギリスとフランスに留学した後、1892年に帰国して理科大学(現在の東京大学理学部)の教授となり、1893年から新設された人類学講座 を担当した。人類学、考古学、民族学など幅広い研究を行い、1,100以上の論文を発表した。その中には、最初の遺跡である東京本郷の弥生にちなんで「弥 生時代」と命名された「向ヶ丘貝塚」(向ヶ丘古墳)から発見された、キリスト教以前の新しいタイプの土器も含まれる。栃木県の足利古墳の研究で、古墳研究 の分野を切り開いた。日本の先住民族がアイヌの伝説に伝わる「コロポックル」ではないことを立証したのは有名な話だ。

坪井はまた、わかりやすい言葉で数多くの講演を行い、科学の教育に尽力したことでも知られている。1918年、サンクトペテルブルクでの国際会議に出席中に死去。
坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(1863年2月22日) - 大正2年(1913年)5月26日[1])は、日本の自然人類学者。日本初の人類学者として、日本における考古学・人類学の普及と確立に尽力した。坪井信道の孫で、坪井信良の子。

経歴
蘭方医・坪井信道の孫として江戸の両国矢之倉(現・東日本橋)に生まれた[2](父は信道の女婿、幕府奥医師坪井信良である)。1877年大学予備門に入 り、1886年帝国大学理科大学動物学科卒業[3]。同年、東京人類学会を結成[4]。帝国大学大学院に進学し人類学を専攻、修了後の1888年帝国大学 理科大学助手[5]。翌年より3年間イギリスに留学し、1892年10月帰国し帝国大学理科大学教授[5]。遠縁にあたる民間の研究家・林若樹がこの頃か ら助手として出入りする[6]。同年蘭学者箕作秋坪の長女・直子と結婚。1899年理学博士の学位を授与された[7]。

日本の人類学の先駆者であり、アイヌ民族の伝承に出てくるコロボックルに関する論争に加わり実在説を擁護[8]、日本石器時代人=コロポックル説を主張したことで知られている。

1903年の第5回内国勧業博覧会では学術人類館に協力した(詳しくは人類館事件を参照)。1913年、第5回万国学士院大会出席のため滞在していたロシア・サンクトペテルブルクで、急性穿孔性腹膜炎のため客死[9]。墓所は染井霊園。

人類学の創始者として鳥居龍蔵などを育てる。柳田国男と南方熊楠を結びつけ、また、三越のブレーン「流行会」メンバーとして玩具の開発でも功績を残した。
「人類学者、考古学者の坪井正五郎」 坪井正五郎(1863 - 1913)は東京帝国大学理科大学教授で、人類学教室を主宰。民俗学、考古学までを含むイギリス流の幅広い人類学を提唱し、草創期考古学の指導者として活 躍。日本石器時代人について、コロボックル説を唱えた。趣味人としても知られ、玩具の研究、蒐集に関心を持ち、清水晴風(1851 - 1913)、巌谷小波 (1870 - 1933)ら玩具愛好家たちと交遊し大供会に参加。玩具を中心とする児童文化運動を推進した。 狂歌や戯文などにも長じ、「遺跡にてよき物獲んとあせるとき心は石器胸は土器土器」などの句を残した。土偶や石器の絵あり。「坪井正五郎本郷駒込西片町十 番地ほ十三」と書かれた名刺が書き写されている。
— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「人類学者、考古学者の坪井正五郎」より抜粋[10]

【父親】
坪井信良(つぼい しんりょう)
解説 [1825~1904]幕末から明治時代の蘭方医。文政8年8月28日生まれ。小石元瑞、坪井信道、緒方洪庵にまなび、信道の養子となる。嘉永6年越前福 井藩主の侍医、安政5年幕府奥医師。維新後は東京府病院長をつとめた。明治37年11月9日死去。80歳。越中(富山県)出身。
単著
『工商技芸看板考』哲学書院、1887年10月。 NCID BN13918876。全国書誌番号:55008659。
『日本旧土人コロボックル石斧ヲ研キ獣肉ヲ煮ル図』真誠堂、1893年10月。全国書誌番号:40011241。
『重ね撮り写真の術を利用したる観相法』東洋学芸社、1894年11月。全国書誌番号:40005073。
『埴輪考 附・土偶土馬模型説明』東洋社、1901年7月。全国書誌番号:40013037。
『人類談 学芸叢話』開成館、1902年10月。 NCID BA34000719。全国書誌番号:40055907。
『人類学講義』東筑摩交詢会筆記、小松甲子太郎、1902年12月。 NCID BA79332041。全国書誌番号:58008754。
東京高等師範学校地理歴史会 編『人類学講義』国光社、1905年9月。 NCID BA43831855。全国書誌番号:40055903。
『人類学講話』早稲田大学出版部〈早稲田通俗講話 第11編〉、1907年6月。 NCID BN03517879。全国書誌番号:40055904。
『婦人と小児』隆文館〈人類学的攻究叢書 第1編〉、1907年4月。 NCID BA5710923X。全国書誌番号:40055920。
『婦人と小児・婦人と小児』久山社〈日本〈子どもの歴史〉叢書 13〉、1997年9月。ISBN 9784906563425。 NCID BA3245476X。全国書誌番号:98053941。
『人類学叢話』博文館〈学芸叢書 1〉、1907年2月。 NCID BN08859086。全国書誌番号:58008041。
『うしのよだれ 自然滑稽』三教書院、1909年11月。 NCID BA52982148。全国書誌番号:41017303。
『うしのよだれ』国書刊行会〈知の自由人叢書〉、2005年9月。ISBN 9784336047144。 NCID BA73684997。全国書誌番号:20901864。
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