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学術人類館への長い旅

Journey to The Human Exposition, the JINRUIKAN, 1903

A group of Igorot displayed at a human zoo during the St. Louis World's Fair, 1904

Mitzub'ixi Qu'q Ch'ij

今からちょうど120年ちかく前の1903年3月に第五回 内国勧業博覧会の開催にあわせて開館した学術人類館(館主:西田正俊[せいしゅん], 1867-1930)の「異邦の人たち」を生きたまま展示したことついて、私が大学教員として長年学生を教育してきた経験から、人権と学術研究と興行 (entertainment)の関係について論じてみたいと思います。なお私の意見は、これまで私の文化人類学者としての経験と反省にもとづく現在の偽 らざる見解であり、私の所属する大学や学会の立場を表明するものではありません。

さて学術人類館の人権問題については、様々な識者が 様々な観点からこれまで論じており、とりわけ琉球人への差別については、松田京子『帝国の視線』2003年、また、松田さんの講演も収載されている、演劇 「人類館」上演を実現させる会編『人類館:封印された扉』2005年などに詳細にまとめられており、私はそれらの資料に完全に依拠しています。

学術人類館事件が今日の私たちにもたらすものは次の3点に集約できると思います。すなわち1.「異邦の人たち」をモノ化すること、2.「異邦の人たち」とは誰か、3.研究者とスポンサーの倫理的な関係、の3点です。

まず第1点:「異邦の人たち」をモノ化すること。今 日の倫理観に照らし合わせれば、人間を生きたまま展示することの非人道性は言うまでもありません。しかしながら、文化人類学者がコミュニティに住み込み相 手の社会を描写するエスノグラフィーという科学的手法も「人類文化の理解のためになる」ということで、このような「ありのままの記述」と、それを「人類学 者の肩越し」にのぞいてみたいという同業者や学生という読者の欲望充足に貢献している点では変わりません。ただ、エスノグラフィーが人間博物館と倫理的に 異なる点は、プライバシーに配慮した匿名化やインフォームドコンセントという手続きを通して、その成果を調査対象となる人と共有しようとするという違いで しかありません。すなわち、後者は手続きにより倫理性が担保されているだけで、他者のイメージを売り渡す(=ブローケージする)ということで「モノ化」にまつわる倫理性はともに永久に問われ続けられます。

第2点目:「異邦の人たち」とは誰か。学術人類館事 件では太田朝敷(ちょうふ)による雄弁な抗議の中で、アイヌや生蕃と同列にしたということに怒ったという、沖縄人のヤマトへの同化主義的主張(=日琉同祖 的なナショナリズム的言説)は、琉球の先住性の尊重とともに他の先住民族と連帯する運動にとっては結果的に有害で障がいになる主張になったということ。こ の発話の冒頭で私が「異邦の人を生きたまま展示」したという「異邦」に琉球が含まれていることへの抗議です。また同時に、琉球文化の代表として「手踊り」 をする「娼妓」という女性であったことが、職業や性差別を前提にした沖縄の自文化を代表するものではないという怒りに繋がったこと。これは今日でも国際的 に問題になっている戦争な内戦状況におけるジェンダー差別や性虐待の議論に繋がっていきます。この両方の問題は19年後に作家・久志芙沙子(くし・ふさ こ、1903-1986;久志富沙子)の小説「滅びゆく琉球女の手記」『婦人公論』昭和7年6月号での沖縄県学生会からの(ここでの他者はアイヌと朝鮮人) 抗議と連載中止事件と、久志の「釈明文」不運な終焉を迎えます*。そこで「妾のような無教養な女」である久志は、民 族 的マイノリティを差別し同化主義を貫く朝敷的な立場を批判しつつ、琉球の女性に対する差別を表面させまいとする「社会的地位を獲得」した学生会の権力に抵 抗しない「卑屈な態度」を静かに批判します。つまり少数民族も女性も、同じ邦にいながらも「異邦の人たち」と認定されたり、いや同胞なんだと勝手に「権力 をもった人たち」から包摂されたり排除されたりします。言い換えると「異邦の人たち」とは自己決定権や自律性(autonomy)を持たない人のことをさ します。

*先行する類似の筆禍事件としては「さまよへる琉球 人」事件がある。これは広津和郎「さまよへる琉球人」『中央公論』大正15(1926)年3月発刊後に「沖縄青年同盟」が報知新聞上において沖縄県人への 差別を助長すると抗議し、広津はそれを二次媒体として公表することなく1968年に死去したことである。広津没後2年に、この小説は沖縄タイムス (1970.08.16)は山里景春編集『新沖縄文学』17号(1970年8月)に再掲される。広津の小説では主人公が沖縄出身の行商人と仲良くなり、そ の私的な交流の中で騙されつつも行商人の口から語られる沖縄の悲惨さのためにそれを赦し、また騙されるという物語が展開する。僕はこのエピソードを聞くた びに、John Richard Schlesinger監督の映画Midnight Cowboy (1969)の物語や、グアテマラ高地でフィールドワークの最中に知り合った気さくな先住民の行商人たち(ambulantes)との出会いを思い起こ す。僕たちは「理想的な言語共同体」の中ではなく、いろいろなタイプの社会的不平等の中でしか出会うことができないし、対話的理性が社会問題の万能薬 (panacea)でもないことも知っている。

そして最後の第3点目:研究者とスポンサーの倫理的 な関係。それは興行としての人類館を成功させようとする大阪の企業家の西田正俊(にしだ・せいしゅん, 1867-1930)と、そのプロジェクトに相乗り(タダ乗り?)して学術としての人類学のプレゼンスを高めようとすると坪井正五郎(1863- 1913)と松村暸(1880-1936)の思惑についてです。人間展示は、多くの研究者が発起人である西田の独自のアイディアではなく、パリ万博 (1889)で「野蛮未開人種」の展示に興味を惹かれた坪井が持ちかけたのではないかと言われています。開設趣意書はその年の1月に出ているために前年の 1902年末には具体的な構想はすでにできあがっていたのでしょう。3月には坪井の世界人種地図が掲載され、東大の人類学教室から関連する展示品が搬入さ れます。開始前から展示される民族などが発表されていたために、さまざまな抗議の火があがります。その矢面に立ったのが西田ですが、回顧録にもその多くを 語りません。他方、坪井は往時を振り返り、抗議があったのは展示の規模が小さく体系的に示すことができなかったからだ、つまり、啓蒙が不十分だからだと説 明します。坪井は、この問題の本質を問うことなく逃げているのではないか、否認しているのではないかと推察されます。このような否認行為は、自己反省を失った学問がもつ、構造的暴力の一種であると、私は考えます。

生前の西田はこのことについて書き残しをしているわ けではない。西田の没後に養子の2代目正 俊が編纂した初代の伝記に人類館(ママ)のことが、甚だ不正確ではあるが次のように記載してある:「【博覧会と人類館】明治35年2月(ママ)、第五回内 国勧業博覧会が大阪で開催された。場所は今の天王寺公園と新世界を取り込んだもので、其の時分としては古今未曾有な大規模なもので、全国的に大きなセンセ イションを捲き起こした。/西俊も博覧会の委員に任命されて居る関係から、何か此の機会に貢献し度いものだと、思ひ立つたのが人類の紹介である。と云つて も世界の人種を一手に聚めることは至難の業で、夫れは望んでも絶対にできないことである。そこで其の当時の斯界の権威者であった。坪井博士の指導の下に、 人種と国情を図示と表示の方法によつて紹介し、一方には山田仁三郎(不詳、俳諧の著作あり)を夫れ夫れ地に派遣して、朝鮮の妓生き(きいさん)・印度人・ アフリカ土人・アイヌ人・台湾人・琉球人を連れ戻って、夫々其の国の物産を商はすこととし、其の名を人類館と命名した。これには随分大きな犠牲を払ったも のだが、幸に其の当時の催物としては各階級を通じて大層歓迎された」(西田 1931: 33-34)

残念ながら坪井正五郎の説明は、今の私たち研究者に とっても何ら驚くべきことでありません。現在でも、研究の危険性について批判を浴びるとき、学者たちの言い訳でもっとも多いのが、市井の人たちは研究に対 する理解が浅いから反発するのだと、常套句のように言挙げします。ここで学者たちにかけていることは、なぜ市井の人たちが自分たちの研究に声をあげるの か?その理由は何かと深く考える習慣がありません。ただし、そのような悪弊の横溢を極度に一般化して「学問の暴力」性だというまとめ方は、私は感心しませ ん。もし、ある学者が同業者にそのようなことを決めつけるのであれば、その先生もまた学問をしているわけですから自分の「学問の暴力」性に自覚しないとタ コが自分の脚を食べるような虚しさを感じます。構造的な暴力性をいかに軽減するのかという対案を出さないかぎり、私はその同業の批判者の主張を簡単には信 じないでしょう。

学術人類館事件は、琉球の人たちには、まず琉球人を展示するという暴力性に気づかされることでしょう。しかしながら、その怒りは太田朝敷流のヤマトナ ショナリズムの変奏に回収されるという落とし穴があるでしょう。久志芙沙子は上掲の筆禍事件で筆を折ったそうで没後に、さまざまな女性たちよりその記憶呼 び起こされ、ようやく再評価されるに至りました。学問の暴力性を体現している坪井は久志とは異なり反面教師のほうになりますが、もし「学術は無傷でプロ デュサーの西田に責任があるのだ」という言い訳が、現在のどこかしこでも見つけられるのであれば、襟を正すどころか、根源的に反省しなければなりません。 すなわち私たち大学人にも、大先達=大先輩である坪井正五郎の過失を見つめなおし、有効な対案をみなさんに提示する時が熟したようです。

学術人類館事件は、琉球の人たちには、まず琉球人を 展示するという暴力性に気づかされることでしょう。しかしながら、その怒りは太田朝敷流のヤマトナショナリズムの変奏に回収されるという落とし穴があるで しょう。久志芙沙子は上掲の筆禍事件で筆を折ったそうで没後に、さまざまな女性たちよりその記憶呼び起こされ、ようやく再評価されるに至りました。学問の 暴力性を体現している坪井は久志とは異なり反面教師のほうになりますが、もし「学術は無傷でプロデュサーの西田に責任があるのだ」という言い訳が、現在の どこかしこでも見つけられるのであれば、襟を正すどころか、根源的に反省しなければなりません。すなわち私たち大学人にも、大先達の坪井の過失を見つめな おし、有効な対案をみなさんに提示する時が熟したようです。

ご静聴ありがとうございました。

(コメント:第二回琉球人骨返還問題に関する「対 話」シンポジウム「チャースガ!『学術人類館事件』いま、その意味を改めて問う」於:沖縄県立博物館・美術館講堂、2021年3月21日)

この年表は、金城勇氏作成による「人類館事件『沖縄 —大阪』関連年表」を中心にまとめた。スキャナーで文字をOCR認識させたので誤字がある(→「琉球コロニアリズム年表」)。

2021
3月21日チャースガ!「学術人類館事 件」いま、その意味を改めて問う
2010s
2013

2013年9月25日に知念正真は肝臓がんのため死去。享年71歳。
2000s
2009年1月知念正真(作)津嘉山正種(朗読)『人類館』CDがリリースされる。

2004
5 月16 日沖縄復帰32年「日本への憧れ沖縄への憧れードーカシチャッタワタシ タチ」演劇「人類館」と1978年の沖縄を交差させたテレビ・ドキュメンタ リー上映(大阪市大正区にて)沖縄に基地を押しつけない市民の会主催
2003
1 月『消えていく李宝玉. 1903年「人類館」事件にみる新旧女性像の同時形 成j 須藤瑞代 中国女性史研究第12号中国女性史研究会 1 月26 日演劇「人類館」作者知念正真氏を囲んで座談会(関西沖縄文庫にて) 3 月10 日人類館開館100周年 5 月18 日沖縄復帰31年の集会「沖縄、奄美、朝鮮半島、イラクそして日本世界が 壊れる音がする」に「人類館事件」関係の資料を展示(大阪市大正区にて) 沖縄に基地を押しつけない市民の会主催 8月16/17 日人類館事件100年を問う連続企画「場所の記憶に耳をすます」 16 日人類館跡地フィルドワーク17 日人類館事件シンポジュウム 演劇「人類館」上演を実現させたい会主催 11 月1 日「帝国の視線・博覧会と異文化表象」松田京子吉川弘文堂 11 月15/16 日人類館事件100年を問う連続企画第2弾「ぬーがぬーやらぬーんわからん 一沖縄の虚像と実像」 15 日ライブ佐渡山豊「人類館事件」を唄う 16 日パネルデイスカッション「表現者から見た沖縄の虚像と実像」 演劇「人類館」上演を実現させたい会主催 12月617 日劇団創造「人類館」大阪公演作・演出知念正真リバティーホール 主催大阪人権博物館・演劇「人類館」上演を実現させたい会
2002
3 月『文化事象としての中国』「第五回内国勧業博覧会と清国留学生」北岡正 子関西大学出版部
2000
『ちねんせいしん「人類館論」他者化を めぐる言葉の闘争』新城郁夫琉球大学法文学部紀要日本東洋文化論集第6 号 『言語的葛藤としての沖縄一知念正真「人類館」の射程」新城郁夫 昭和文学研究第40集昭和文学会
1999
琉球新報『沖縄20世紀の光を』 「沖縄女性を陳列人類館事件」
1996
「パピリオン学術人類館一世紀転換期に おける『他者』表象をめぐる知一」松田京子日本学報第15号大阪大学文学部日本学科
1995

1994

1991

1985

1983
沖縄大百科事典発刊沖縄タイムス社人類 館事件「沖縄人差別とし て県民感情をつよく刺激した事件。1903年(明治36) 3 月から7月まで大 阪の天王寺今宮で政府主催第五回勧業博覧会が関かれたとき、会場周辺 には営利目的の見せ物小屋が立ち並んだ。そのなかに〈学術人類館〉と 称する茅葺小屋があって、学術研究資料の名目で朝鮮・北海道アイヌ・台 湾高山族・インドキリン族・ジャワ人・トルコ人・アフリカ人などといっ しょに、甘言にのせられて沖縄から連れてこられたジュリ(遊女)二人 を(琉球の貴婦人〉と銘打って見せ物にした。これにたいして沖縄から 激しい非難と抗議あり、奥行主らは間もなく二人を沖縄に帰したため事 件は一応おさまった。人類館は博覧会とは直接の関係がなく、興行許可 のときには地元警察も疑問視し、奥行内容について地元大阪の新聞で不 評を買っていた。沖縄人の立場としては氷解しない感情的しこりが長く 残った」〈太田良博〉
1979

1978
戯曲「人類館」第22回岸田戯曲賞受賞
1976
人類館」初演ー劇団創造第11 固定期公演作・演出は知念正真(→『オキナワ終わらぬ戦争 : 闘』に収載)
1972
5月15日沖縄が日本に復帰
1971
6月17日沖縄返還協定調印
1970

1969

1967
沖縄の民衆意識」大田昌秀(弘文堂)人類 館事件を戦後初めて差別事件として論じる
1960

1957
大阪に戦後初の集団就職(少年122人 が製パン、製麺工場へ)
1956
プライス勧告反対闘争(島ぐるみ闘争) 始まる
1953
奄美群島、日本へ復帰
1952

1951

1945

1932
「滅びゆく琉球女の手記」筆禍事件「滅 びゆく琉球女の手記」久志芙 沙子婦人公論6月号東京の沖縄県学生会と沖縄県人会が久志芙沙子と 婦人公論に抗議し謝罪文の掲載を要求。 「滅びゆく琉球女の手記」釈明文。久志芙沙子婦人公論7 月号釈明文は 抗議をはねつけ学生会を批判した。久志芙沙子は釈明文を最後に筆を折った。
1931

1926
「さまよえる琉球人」筆禍事件「さまよ える琉球人」広津和郎中央 公論3 月号 沖縄青年同盟が差別を助長するとして広津和郎に抗議した事件 沖縄青年同盟抗議文広津和郎釈明文中央公論5 月号 広津和郎は謝罪し以後「さまよえる琉球人」を絶版にした。 東洋紡三軒家工場労働争議(大阪市大正区)女工は殆ど沖縄人
1924

1911

1910
韓国併合・朝鮮総督府設置
1906
西田正俊白露戦争戦捷記念博覧会審査委 員任命一以後、数々の博覧会で役職に就く
1905

1904
ロシアに宣戦布告
1903.12.21-25
琉球新報「琉球新報は何を為したる乎全 国に向かつて沖縄県民の勢力を発展する事」
1903.11.10
第五回内国勧業博覧会協賛会報告書「第 二章封助事業(九)学術人類館ト世界一周館」
1903.07.31
第五回内国勧業博覧会閉会
1903.06.21
琉球新報「女手踊大坂を出発す」
1903.06.08
南方熊楠「近時比較宗教学とかなんとか 博覧会の人類館ごとき皮相の学起こり~」
1903.05.21
琉球新報「人類館の不都合」~大阪朝日 新聞5 月12 日付「時事雑感 (ー) 人類館の不都合」の転載。 「本県婦人の撤去に就きー先日薩摩丸より蹄豚したる本豚婦人二名が人 類館を撤去したるに就いては吉田店の番頭より再三電報を以て館主と交 渉を重ねたるの結果なること既報の如し聞く所に擦れば賓店の渡久地政 瑚及び、首時上阪中の嘉数詠顕上運天憲直その他本際商人等大いに蓋力す る所ありしという右二名の婦人等の語る所によれば館主は神戸米穀商西 国某というものなり~」
1903.05.20
東京人類学会雑誌第18巻206号坪井正 五郎「第五回内国勧業博覧会に於ける人類学
1903.05.19
琉球新報「人類館陳列婦人の帰県」
1903.05.17
人類館に陳列された婦人2 名、薩摩丸にて沖縄に帰着。
1903.05.15
大阪朝日新聞「博覧会付録/教育概観~ 沖縄県」
1903.05.13
琉球新報「山口瑞雨氏の栄誉ー師範学校 助教諭山口瑞雨氏の風俗画(博覧会出品物)は去る10 日宮内省より御買上」
1903.05.12
大阪朝日新聞「時事雑感(一) 人類館の不都合~人類館の琉球婦人に対する沖縄人の憤慨は尤もの事である、一体彼の人類館なるものが学 術の二字を冠する如きは倦越の至りにして、事実は活きた人聞を観せ物 にするものである。今の世の中には動物に対しでさえ夫々保護の方法あ るに仮合智識及び生活の最低度に在る者にもせよ~」
1903.05.11
大阪朝日新聞博覧会附録「博覧会画報」 人類館の挿絵
1903.05.08
大阪朝日新聞博覧会附録「人類館の琉球 人」沖縄婦人の撤去について人類館に直接取材の記事人類館はこの日以後、薩摩丸の乗船日までの間に沖縄婦人2 名を解放した。
1903.05.07
大阪朝日新聞「琉球人の憤慨」琉球新報 4 月27 日付「我が同胞の敵」を転載
1903.05.03 琉球新報「人類館事件の結末本豚婦人撤 去す~人類館は去月三十日 本豚婦人を撤去したりという~終わりに臨んで本県民に勧告す。本県民 は一般の体面に関して無頓着がちなれども県民にして県の体面を重んじ るの精神なき時は到底は本県が全国に向かつて其の勢力を発展するの時 なかるべし」
1903.05.01 琉球新報「人類館事件彙報~人類館事件 の火の手はいよいよ熾んに相成~」
1903.04.30 琉球新報はこの臼に人類館が沖縄婦人2 名を撤去したとしている。( 5 月3 日付人類館事件の結末)
1903.04.29 琉球新報「我が同胞の救助に尽力せよ無 神経にあらさる琉球人! 」県 治に忠実なる当該官吏! (四月十九日大阪発)本懸婦人二名か営利の外 に人道を顧みさる詐欺手投に依り遠く大阪まで誘拐せられ野蛮人種の見 世物小屋なる博覧会館外の人類館の魔窟に監禁の身となりて~」
1903.04.28 大阪毎日新聞「琉球踊り」挿絵
1903.04.27 琉球新報「我が同胞の敵一目下当大阪博覧曾外なる人類館内に於いて 台湾の生蕃や北海道のアイヌと同列に下等動物同様に見世物として陳列 せられ公衆の観覧に供へられて自己の恥を曝らし県化同胞の体面を汚し つつ ある本際婦人二名は共に辻の下等娼妓なるが ~」
1903.04.25 東洋学芸雑誌第20巻259号坪井正五 郎「人類館と人種地図一仕掛けは小さ いが斯の如き事の我が邦に於いて企てられたのは今回が始めてで有りま す。何卒単に見せ物視せず学事上の参考に供する考へを以て之を見る人 の多い様に致しが度いもので有ります」
1903.04.21 琉球新報「琉球美人手躍会」
1903.04.20 第 五回内国勧業博覧会開会式。東京人類学雑誌第18巻205号松村瞭 「大阪の人類館」


1903.04.17
第五回内国勧業博覧会協賛会、常議委員会にて「学術人類館」を学術的と 認め補助事業に認定。大阪朝日新聞「余興評判記人類館」
1903.04.15
琉球新報「本県芸妓の手踊」
1903.04.11
琉球新報「人類館を中止せしめよ一人類館が同胞に封して侮辱の所為 たるは今更多言を要せざるべし人類学研究云人身の美名に幻惑せられて 其の漁利の手段となり同胞に対する侮辱となるを悟らず漫に之を許可し たるは当局者の責亦辞するを得ざるなり~彼らが他府県に於ける異様の 風俗を展陳せずして特に台湾の生蕃北海のアイヌ等と共に本県人を撰み たるは是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり」「博覧会見物人の旅宿 所」 「本県星雲妓の手踊(博覧曾)」 「人類館■△新来人種△人類館と許可証」
1903.04.10
那覇の島袋加那(嘉辰)、尚順の後援で博覧会で「琉球美人手踊り会」を 上演
1903.04.09
琉球新報「人類館に於る同胞」
1903.04.07
琉球新報「同胞に対する侮辱(人類館)一今回の博覧会に就き吾々沖 縄人が賓に憤慨に堪へざるの一事これあり候即ち人類館に沖縄の婦人を 陳列したること是なり~我が沖縄県民の頭上に大いなる侮辱を加えたる ものなり人類館最初の計画は支那婦人までも陳列する筈なりしが支那公 使の異議に依り中止し既に陳列されたる朝鮮婦人に就いては目下韓国志 士其の撤回を運動しつつあり而してその理由とする所は何れも隣国の体 面を辱しむると云うにあり此挙外国に対して侮辱なれば同胞に対しでも 矢張り侮辱なり」「人類館に就き」
1903.04.05
大阪府より外務省に人類館内の纏足女性は台湾籍であり撤去に及ばずと 回答「外務省外交資料一大阪府発第1075号」 インド人7 名(女2 名)ジャワ人2 名、ザンジパル人1 名、アフリカ人 I 名人類館に到着
1903.04.03
人類館が周宏業に回答書を手渡す 東洋董報第一巻第二号挿絵「台湾館一台湾の風俗」「人類館正門、アイヌ 男女、同倉庫、同熊祭り」「人類館における於ける朝鮮官妓」
1903.04.02
中国人留学生周宏業が人類館内の纏足女性の調査で、人類館と交渉
1903.04.01
土佐堀青年会館にて人類学演説会開催(人類館主催)「日本に於ける人類 学・アイヌの現状武岡豊太、台湾の人種寸鴫嘉矩、博覧会と人類学」 坪井博士大阪滞在中に人類学会会員16名来阪 琉球新報「博覧会に於ける本県反布の好況」「博覧会と伊勢大神宮」
1903.03.31
外務省より大阪府知事に台湾「生蕃」と同列の纏足女性を撤去するよう指 示「外務省外交資料機密送第20号人類館内ニ展列セル清国婦人除去ノ件」
1903.03.30
大阪毎日新聞「琉球舞楽会一一昨夜午後5 時より大阪市内の紳士数十名を大阪ホテルに招き上り口説(6人)、鼓犠(8人)、花風( 4 人)、高歳 ( 2 人)、獅子舞( 2 人)、貫花踊( 4 人)、こたりことち踊( 4 人)、そん どう踊( 4 人)、越菜節( 5 人)、両面踊( 1 人)などを演じる」
1903.03.末
この頃朝鮮人の展示中止
1903.03.28
大阪毎日新聞「坪井博士と世界人種地図」「博覧会と人類学(坪井博士の 談)」
1903.03.27
坪井正五郎博士来阪人類館に「世界人種地図」を出品
1903.03.25
琉球新報「那覇区会議員・山城正択、大湾政義、石川正延の諸氏は第五回 勧業博覧会見物のため薩摩丸で出発」
1903.03.21
外務省より博覧会事務局に人類館内の纏足女性について中国人留学生が 清国公使に具申の情報「外務省外交資料機密送第4 号」 大阪毎日新聞「正門前余興物並に各売店(博覧会画報)」挿絵
1903.03.20
大阪朝日新聞博覧会附録「人類館と認可証」 東京人類学雑誌第18巻204号「雑報、人類館へ出陳の人種地図土俗品の 貸与と人種地図作成の報告」
1903.03.19
外務省より大阪府知事に中国人の展示中止の確認と韓国人撤去の要請 「外務省外交資料—人類館ヨリ清韓両国人を除去セシムベキ内訓」 大阪朝日新聞博覧会附録「人類館と韓客」学術人類館に韓国女性を加え たことに韓国人の越義淵、李車参鏑、崖廷徳、が池上四郎大阪府警部長に抗 議の書簡 琉球新報「本県芸妓大坂へ行く」
1903.03.18
「琉球手続」一行13名、球揚丸にて大阪へ出発
1903.03.14
大阪毎日新聞「人類館(琉球婦人余興)」挿絵
1903.03.11
大阪朝日新聞博覧会附録「学術人類館の開館」
1903.03.10
学 術人類館が開館(館主は西田正俊)
1903.03.09
人類館から学術人類館へ改称大阪朝日新聞博覧会付録「学術人類館と改 称」
1903.03.08
大阪朝日新聞「博覧会彙報人類館の設備珠て記せる館外余興人類館は昨七 日までに生蕃、熟蕃、琉球、朝鮮、アイヌの五族到着しなほ爪哇、印度其他は未着なるが~」
1903.03.07
大阪朝日新聞博覧会附録「第五回内国勧業博覧会案内改訂版」人類館の位 置を明記。琉球新報広告「博覧会御案内/大阪高麗橋・三井呉服店」
1903.03.06
大阪毎日新聞「アイヌ土人の気焔」
1903.03.04
大阪府が人類館に中国人の展示中止を指示「外務省外交資料一大阪府発第 670号」この後、人類館は中国人の展示計画を中止
1903.03.03 柳田国男、博覧会見学
1903.03.01 大阪で第五回内国勧業博覧会開会(~ 7 -31 5 ヶ月で530万人が入場) 大阪朝日新聞「場外余興」 大阪朝日新聞「支那人風俗の縦覧差止」 大阪朝日新聞博覧会附録「人類館の設備」 大阪朝日新聞博覧会附録「第五回内国勧業博覧会案内」
1903.02.27
坪井博士の命により東京帝国大学人類学科研究生松村瞭が人類学教室所蔵 の土俗品を陳列一以後3 週間滞在
1903.02.26 人類館の管轄は大阪府で、あり博覧会事務局より大阪府知事へ中国人の展 示中止を要請と博覧会事務局より外務省へ返答「外務省外交資料一博覧 会事務局庶第38号」
1903.02.25 琉球新報「大阪博覧会と琉球手踊一博覧会の如き晴場に持ち出してー 寸と目先の異なりたる風俗を示すに至りては、最も多数なる浅識の観者 の眼に映するはただ異様と云うに他ならず即ち我沖縄は元来大和民族以 外の民族と云う観念を確かめしむるに過ぎざるべし」 琉球新報「廃業娼妓大坂へ行く」 湖北学生界前2期留学記録「鳴呼支那人!鳴呼支那人! 吾先に其地 位を知らずして今より知るようになる。~印度と琉球は滅びた国で、イ ギリスと日本の奴隷に過ぎない。朝鮮は我が旧藩属で、あるがロシアと日 本の保護国になっている。ジャヮ、アイヌ、台湾の生蕃は世界の最も卑 しい人種で鹿や豚に近い。しかし、中国はたとえいま国勢が衰えていて も、どうしてこの六種族と同列に扱わなければならないか」
1903.02.24 外務省より博覧会当局へ人類館の中国人の展示に関して問い合わせ「外務 省外交資料一博覧会支那人風俗陳列ニ関スル件」。人類館に陳列された沖縄婦人2 名(仲村カメ、上原ウシ)大阪へ出発
1903.02.20 東京人類学雑誌第18巻203号「人類館設立趣意書」「雑報、人類館一 人類館開設の報告」
1903.02.17 琉球新報西海漁夫「大阪通信一那覇より大阪まで船賃僅かに七園二十 銭、二等は十一周二十銭位に過ぎず鹿児島より陸行しでも昼夜兼行なれ ば船と同じぐらいの日数を要すべし費用も少し我慢すればそれ程多くの 費用も要せず却って船酔いの心配なきのみならず途中九州地の風景を眺 めなお中園地の地形を視るを得て大いに益する」
1903.02.11 国民新聞「人類館設立」の報道。新聞報道で中国人の陳列を知った中国人 留学生より神戸領事を経て清国公使が外務省に抗議
1903.02.10 日本「博覧会最報・人類館設立一坪井博士協賛」の報道。その後、新聞報 道で中国人の陳列を知った中国人留学生より神戸領事を経て清国公使が外務省に抗議。
1903.02.03 台湾日日新報「人類館設立西田正俊が設計書を添えて博覧会協賛会へ申し 込み」の報道
1903.01.14 西田正俊が人類館発起人として東京帝国大学人類学科教授坪井正五郎博 士に「人類館開設趣意書内地に最近の異種人即ち北海道アイヌ、台湾 の生蕃、琉球、朝鮮、支那、印度、爪陸、等の七種の土人を傭聴し観覧 せしむる」を送り、人類学の資料出品を依頼(東京人類館雑誌第18巻203 号1903 ・2 キ20
1902.02.
博覧会協賛会が組織、規則を改正会長住友吉左衛門、副会長土居通夫大阪 商業会議所会頭、鶴原定吉大阪市長
1902.01.01
『大阪朝日新聞」「博覧会」連載
1901.12.
西田正俊博覧会委員(第五回内国勧業博覧会出品協会増築委員嘱託)任 命。田山花袋『日本名勝地誌(第拾査編)琉球之部』刊
1901.11.
大林組(大林芳五郎, 1864-1916)、第五回内国勧業博覧会の会場施設のほとんどを一 手に落札。
1901.10.13-15.
博覧会協賛会が会場敷地の地鎮祭を催す
1901.10.
博覧会誘致期成会が第五回内国勧業博覧会協賛会へ改編(会長土居通夫大 阪商業会議所会頭)
1901.08.24
尚泰候遺骸、午後5 時半に梅田駅通過迎送に宮井悦之助、下図良之助、野里朝義ら参加。同夜、遺骸は球陽丸で神戸を出港
1901.08.19
尚泰候、急性胃腸カタルで東京にて死去
1901.07.
大阪鉄工所で沖縄出身職工24名無断退職、9 名は残る
1901.05
謝花昇(じゃはな のぼる, 1865-1908)、山口県へ赴任途中の神戸で発症、大阪の下園良之助に引き取られ 帰沖。
1900.07.15
琉球新報「紙面改良の辞一偏僻の随習を打破して国民的特質を発揮し地 方的島根性を去りて国家的同化を計るものなり国民的同化とは何ぞ由来 沖縄は地理的の関係よりして此地特種の発達を為し別けて中古以来は日 支両属てふ変態の地位に起ちて異種異様の習俗は両国より混入し来り為めに国民的同化に大なる障害を遺したり所謂この異種異様の習俗 を去り て国民普通の習俗を養成するは是我輩が沖縄をして健全なる日本国土と 化せむ唯一方策と信する所なり」 この年、日本は総人口4 千万人、東京市15区は150万人
1900.05.15
第五回内国勧業博覧会開催の勅令

●Human zoo(出典は「人間動物園」)

Human zoos, also known as ethnological expositions, were public displays of people, usually in a so-called "natural" or "primitive" state.[4] They were most prominent during the 19th and 20th centuries.[4] These displays sometimes emphasized the supposed inferiority of the exhibits' culture, and implied the superiority of "Western society", through tropes that purported marginalized groups as "savage".[5][6] The idea of a "savage" derives from Columbus's voyages that deemed European culture remained pure, while other cultures were titled impure or "wild", and this stereotype relies heavily on the idea that different ways of living were "cast out by God", as other cultures do not recognize Christianity in relation to Creation.[6] Throughout their existence such exhibitions garnered controversy over their demeaning, derogatory, and dehumanizing nature.[7] They began as a part of circuses and "freak shows" which displayed exotic humans in a manner akin to a caricature which exaggerated their differences.[4] They then developed into independent displays emphasizing the exhibits' inferiority to western culture and providing further justification for their subjugation.[8] Such displays featured in multiple colonial exhibitionss and at temporary exhibitions in animal zoos.[9]

One imperialist view of the whole non-Western world portrayed it as a vast animal park in which Whites could function as zookeepers—managers of the indigenous human and non-human inhabitants.[10]

Animal zoos provide many controversies spanning to the modern day, as human expositions diminished in prominence in the 20th century.[7]
これらの展示は時に展示物の文化の劣等性を強調し、疎外されたグループ を「野蛮人」と称する表現を通して「西洋社会」の優越性を暗示した[4][5][6]。 [5][6]「野蛮人」という考えは、コロンブスの航海によってヨーロッパ文化が純粋なままであると見なされたことに由来し、他の文化は不純物や「野生」 と称され、このステレオタイプは、他の文化が創造との関係でキリスト教を認めていないことから、異なる生活様式は「神によって追い出された」という考えに 大きく依存している。 [6] このような展示はその存在を通して、その屈辱的、軽蔑的、非人間的な性質について論争を巻き起こした[7] 異国の人間をその違いを誇張する戯画に似た方法で展示するサーカスや「フリークショー」の一部として始まった[4] その後、西洋文化に対する展示者の劣等性を強調し彼らの支配をさらに正当化する独立した展示へと発展した[8] その展示は複数の植民地の展示や動物園での臨時展示で特集されていた[9]。

非西洋世界全体に対するある帝国主義的な見方は、それを広大な動物公園として描き、そこでは白人が動物園の飼育係として、先住民の人間や非人間の住民の管理者として機能することができるとした[10]。

動物園は、20世紀に人間の博覧会の重要性が低下するにつれて、現代に至るまで多くの論争を提供している[7]。
Circuses and freak shows

The notion of the human curiosity has a history at least as long as colonialism[citation needed]. In the Western Hemisphere, one of the earliest-known zoos, that of Moctezuma in Mexico, consisted not only of a vast collection of animals, but also exhibited humans, for example, dwarves, albinos and hunchbacks.[11]

During the Renaissance, the Medici developed a large menagerie in the Vatican. In the 16th century, Cardinal Hippolytus Medici had a collection of people of different races as well as exotic animals. He is reported as having a troupe of so-called Savages, speaking over twenty languages; there were also Moors, Tartars, Indians, Turks and Africans.[12] In 1691, Englishman William Dampier exhibited a tattooed native of Miangas whom he bought when he was in Mindanao. He also intended to exhibit the man's mother to earn more profit, but the mother died at sea. The man was named Jeoly, falsely branded as "Prince Giolo" to attract more audience, and was exhibited for three months straight until he died of smallpox in London.[13]


Ad for a Carl Hagenbeck show (1886)
One of the first modern public human exhibitions was P.T. Barnum's exhibition of Joice Heth on 25 February 1835[14] and, subsequently, the Siamese twins Chang and Eng Bunker. These exhibitions were common in freak shows.[15] Another famous example was that of Saartjie Baartman of the Namaqua, often referred to as the Hottentot Venus, who was displayed in London and France until her death in 1815.

During the 1850s, Maximo and Bartola, two microcephalic children from El Salvador, were exhibited in the US and Europe under the names Aztec Children and Aztec Lilliputians.[16] However, human zoos would become common only in the 1870s in the midst of the New Imperialism period.
サーカスと見世物小屋

人間の好奇心という概念は、少なくとも植民地支配と同じくらい長い歴史を持っている[要出典]。西半球では、最も古くから知られている動物園の1つである メキシコのモクテスマの動物園は、膨大な動物のコレクションで構成されていただけでなく、例えば小人、アルビノ、せむし男など、人間も展示されていた [11]。

ルネサンス期には、メディチ家がバチカンに大規模な動物園を展開した。16世紀、ヒッポリュトス・メディチ枢機卿は、エキゾチックな動物だけでなく、さま ざまな人種の人々を集めていた。1691年、イギリス人のウィリアム・ダンピアはミンダナオ島で購入した刺青のあるミアンガスの原住民を展示した。彼はさ らに利益を得るためにその男の母親も出品するつもりだったが、母親は海で死んでしまった。この男はジェオリーと名付けられ、より多くの観客を集めるために 「プリンス・ジョロ」と偽の烙印を押され、ロンドンで天然痘で死亡するまで3ヶ月間連続で展示された[13]。

カール・ハーゲンベック展の広告(1886年)最初の近代的な人体公開のひとつは、1835年2月25日のP・T・バーナムのジョイス・ヘス展[14]、 その後、シャムの双子チャンとエン・バンカー展であった。このような展示は見世物小屋ではよくあることだった[15]。もう一つの有名な例は、しばしば ホッテントットのヴィーナスと呼ばれたナマクアのサールジエ・バートマンのもので、彼女は1815年に死ぬまでロンドンとフランスで展示されていた。

1850年代には、エルサルバドルの小頭症児マキシモとバルトラも「アステカの子ども」「アステカのリリプーチン」という名前でアメリカやヨーロッパで展示された[16]。 しかし、人間動物園が一般化するのは新帝国主義の時代となった1870年代に入ってからである。
Start of human exhibits

In the 1870s, exhibitions of so-called "exotic populations" became popular throughout the western world.[7] Human zoos could be seen in many of Europe's largest cities, such as Paris, Hamburg, London, Milan as well as American cities such as New York City and Chicago.[7] Carl Hagenbeck, an animal trader, was one of the early proponents of this trend, when in 1874, at the suggestion of Heinrich Leutemann, he decided to exhibit Sami people with the 'Laplander Exhibition'.[9] What differentiated Hagenbeck's exhibit from others, was the fact that he showed these people, with animals and plants, to "re-create", their "natural environment."[9] He sold people the feeling of having travelled to these areas by witnessing his exhibits.[17] These exhibits were a massive success, and only became larger and more elaborate.[17] From this point forward human exhibitions would lean towards stereotyping, and projecting western superiority.[9] Greater feeding into the Imperialist narrative, that these people's culture merited subjugation.[18] It also promoted scientific racism, where they were classified as more or less 'civilized' on a scale, from great apes to western Europeans.[19]

Hagenbeck would go on to launch a Nubian Exhibit in 1876, and an Inuit exhibit in 1880.[20] These were also massively successful.

Aside from Hagenbeck, the Jardin d'Acclimatation was also a hotspot of ethnological exhibits. Geoffroy de Saint-Hilaire, director of the Jardin d'Acclimatation, decided in 1877 to organize two ethnological exhibits that also presented Nubians and Inuit. That year, the audience of the Jardin d'acclimatation' doubled to one million. Between 1877 and 1912, approximately thirty ethnological exhibitions were presented at the Jardin zoologique d'acclimatation.[21]

These displays were so successful they were incorporated into both the 1878 and the 1889 Parisian World's Fair, which presented a 'Negro Village'. Visited by 28 million people, the 1889 World's Fair displayed 400 indigenous people as the major attraction.

In Amsterdam the International Colonial and Export Exhibition had a display of people native to Suriname, in 1883.

In 1886, the Spanish displayed natives of the Philippines in an exhibition, as people whom they "civilized". This event added flame to the 1896 Philippine revolution.[22] Queen Consort of Spain, Maria Cristina of Austria, afterwards institutionalized the business of human zoos. By 1887, indigenous Igorot people & animals were sent to Madrid and were exhibited in a human zoo at the newly constructed Palacio de Cristal del Retiro.[23]

At both the 1893 World's Columbian Exposition and the 1901 Pan-American Exposition[24] Little Egypt a bellydancer, was photographed as a catalogued "type" by Charles Dudley Arnold and Harlow Higginbotha.[25]

At the 1895 African Exhibition in The Crystal Palace, around eighty people from Somalia were displayed in an "exotic" setting.[26]

German ethnographs

Ethnology studies in Germany took a new approach in the 1870s as human displays were incorporated into zoos. These exhibits were lauded as 'educational' to the general population by the scientific community. Very quickly, the exhibits were used as a way to show that Europeans had "evolved" into a 'superior', 'cosmopolitan' life.[27]

In the late 19th century, German ethnographic museums were seen as an empirical study of human culture. They contained artifacts from cultures around the world organized by continent allowing visitors to see the similarities and differences between the groups and "form their own ideas".[27]

Objectification in human zoos

Within the history of human zoos, there are patterns of overt sexual representation of displayed peoples, most frequently women. These objectifications often lead to treatment that reflect a lack of privacy and respect, including the dissection and display of bodies after death without consent.

An example of the sexualization of ethnically diverse women in Europe is Saartje Baartman, often referred to as her anglicized name Sarah Bartmann. Bartmann was displayed both when she was alive throughout England and Ireland and after her death in The Musée de l'Homme.[28] While alive, she participated in a traveling show depicting her as a "savage female" with a large focus on her body. The clothes she was put in were tight and close to her skin color, and spectators were encouraged to "see for themselves" if Bartmann's body, particularly her buttocks, were real through "poking and pushing".[28] Her living display was financially compensated but there is no record of her consenting to be examined and displayed after death.

Dominika Czarnecka theorizes of the relationship between the radicalization and sexualization of black female bodies in her journal article, "Black Female Bodies and the 'White' View."[29] Czarnecka focuses on ethnographic shows that were prominent in Polish territory in the late 19th century. She argues that an essential part of why these shows were so popular is the display of the black female body. Although the women in the shows were meant to be depicting Amazon warriors, their wardrobe was not similar to amazonian dress, and there are several documentations of comments from spectators about their revealing clothes and their bodies.[29]

Although women were most frequently objectified, there are a few instances of "exotic" men being displayed due to their favorable appearance. Angelo Solimann was brought to Italy as a slave from Central Africa in the 18th century, but ended up gaining a reputation in Viennese society for his fighting skills and vast knowledge about language and history. Upon his death in 1796, this positive association did not prevent his body being "stuffed and exhibited in the Viennese Natural History Museum" for almost a decade.[30]
人体展示の開始

1870年代、いわゆる「外来種」の展示が西欧諸国で盛んになった[7]。パリ、ハンブルク、ロンドン、ミラノといったヨーロッパの大都市や、ニューヨー ク、シカゴといったアメリカの都市で、人間動物園が見られるようになった[7]...。 [1874年、ハインリッヒ・ロイテマンの提案で、サーミの人々を「ラップランド人展」として展示することを決めた。 ハゲンベックの展示が他と異なっていたのは、動物や植物を使って、彼らの「自然環境を再現」して見せたことであった[9]。 「これらの展示は大成功を収め、より大きく、より精巧になった[17]。この時点から、人間の展示はステレオタイプ化し、西洋の優越性を投影する方向に傾 いた[17]。 [また、科学的な人種差別を推進し、類人猿から西ヨーロッパ人までのスケールで、多かれ少なかれ「文明人」として分類された[18]。

ハーゲンベックはその後、1876年にヌビア展、1880年にイヌイット展を立ち上げることになる。 これらも大成功を収めた[20]。

ハーゲンベック以外にも、順化の庭は民族学的展示のホットスポットであった。1877年、順化庭園館長のジェフロワ・ド・サン=ヒレールは、ヌビア人とイ ヌイットを紹介する2つの民族学的展示を企画することを決定した。その年、「順化の庭」の観客は2倍の100万人に達した。1877年から1912年の間 に、約30の民族学的展示が順化植物園で行われた[21]。

これらの展示は非常に成功し、1878年と1889年のパリ万国博覧会に組み込まれ、「ニグロ村」が紹介された。1889年の万国博覧会では、2,800万人が訪れ、400人の先住民が主要なアトラクションとして展示されました。

アムステルダムの国際植民地・輸出博覧会では、1883年にスリナムの先住民が展示された。

1886年、スペインはフィリピンの先住民を「文明化」した人々として展示した。この出来事は1896年のフィリピン革命に火をつけた[22]。その後、 スペイン王妃マリア・クリスティーナが人間動物園の事業を制度化した。1887年には、先住民であるイゴロット族の人々と動物がマドリードに送られ、新し く建設されたパラシオ・デ・クリスタル・デル・レティロの人間動物園に展示された[23]。

1893年の世界コロンビア博覧会と1901年のパンアメリカン博覧会の両方で[24]ベリーダンサーのリトル・エジプトは、チャールズ・ダドリー・アーノルドとハーロウ・ヒギンボタによってカタログの「タイプ」として写真に撮られた[25]。

1895年のクリスタルパレスでのアフリカ展では、ソマリアから来た約80人の人々が「エキゾチックな」設定で展示された[26]。

ドイツの民族誌

1870年代、ドイツの民族学研究は、人間展示が動物園に取り入れられるという新しいアプローチをとった。これらの展示は、科学界から一般人に対する「教 育的」なものとして称賛された。非常に迅速に、展示物はヨーロッパ人が「優れた」「国際的な」生活へと「進化」したことを示す方法として使われるように なった[27]。

19世紀後半、ドイツの民族誌学博物館は、人間文化の実証的な研究として捉えられていた。それらは大陸によって整理された世界中の文化からの芸術品を含んでおり、訪問者が集団間の類似点と相違点を見て「自分自身の考えを形成する」ことを可能にしていた[27]。

動物園におけるオブジェクト化

人間動物園の歴史には、展示された民族、特に女性があからさまに性的な対象とされるパターンがある。これらの対象化は、死後の遺体を同意なしに解剖・展示するなど、プライバシーと尊重の欠如を反映した扱いにつながることが多い。

ヨーロッパで多様な民族の女性が性的に表現された例として、Saartje Baartman(英語名Sarah Bartmann)が挙げられる。バートマンは、生前はイギリスとアイルランド全土で、死後はフランス国立美術館で展示された[28]。着せられた服はタ イトで肌の色に近く、観客は「突いたり押したり」することでバルトマンの身体、特に臀部が本物かどうか「自分の目で確かめる」よう促された[28]。 生前の展示は金銭的に補償されていたが、死後に検査・展示を承諾した記録はない。

ドミニカ・チャルネッカは、雑誌論文「黒人女性の身体と『白人』観」[29]において、黒人女性の身体の過激化と性的化の関係を理論化している。チャル ネッカは、19世紀末にポーランド領で顕著だった民族誌のショーに焦点を当てている。彼女は、これらのショーが人気を博した理由の本質的な部分は、黒人の 女性の身体の展示にあると主張する。ショーの女性たちはアマゾンの戦士を描いているつもりだったが、彼女たちの衣装はアマゾンの服装とは似て非なるもので あり、観客から彼女たちの露出度の高い服や身体についてコメントされた文書がいくつか残っている[29]。

女性が最も頻繁に対象化されたが、好ましい外見のために「エキゾチックな」男性が展示された例もいくつかある。アンジェロ・ソリマンは、18世紀に中央ア フリカから奴隷としてイタリアに連れてこられたが、結局、戦闘能力と言語や歴史に関する膨大な知識でウィーンの社会で評判となった。1796年に死亡した 後も、彼の遺体は「剥製にされてウィーン自然史博物館に展示される」のを10年近く阻止できなかった[30]。
Around the turn of the century

In 1896, to increase the number of visitors, the Cincinnati Zoo invited one hundred Sioux Native Americans to establish a village at the site. The Sioux lived at the zoo for three months.[31]

The 1900 World's Fair presented the famous diorama living in Madagascar, while the Colonial exhibitions in Marseilles (1906 and 1922) and in Paris (1907 and 1931) also displayed humans in cages, often nude or semi-nude. The 1931 exhibition in Paris was so successful that 34 million people attended it in six months, while a smaller counter-exhibition entitled The Truth on the Colonies, organized by the Communist Party, attracted very few visitors—in the first room, it recalled Albert Londres and André Gide's critiques of forced labour in the colonies. Nomadic Senegalese Villages were also presented.[citation needed]

In 1906, Madison Grant—socialite, eugenicist, amateur anthropologist, and head of the New York Zoological Society—had Congolese pygmy Ota Benga put on display at the Bronx Zoo in New York City alongside apes and other animals. At the behest of Grant, the zoo director William Hornaday placed Benga displayed in a cage with the chimpanzees, then with an orangutan named Dohong, and a parrot, and labeled him The Missing Link, suggesting that in evolutionary terms Africans like Benga were closer to apes than were Europeans. It triggered protests from the city's clergymen, but the public reportedly flocked to see it.[32][33]

On Monday, 8 September 1906, after just two days, Hornaday decided to close the exhibition, and Benga could be found walking the zoo grounds, often followed by a crowd "howling, jeering and yelling."[34]

First organized backlash

According to The New York Times, although "few expressed audible objection to the sight of a human being in a cage with monkeys as companions", controversy erupted as black clergymen in the city took great offense. "Our race, we think, is depressed enough, without exhibiting one of us with the apes", said the Reverend James H. Gordon, superintendent of the Howard Colored Orphan Asylum in Brooklyn. "We think we are worthy of being considered human beings, with souls."[34]

New York City Mayor George B. McClellan Jr. refused to meet with the clergymen, drawing the praise of Hornaday, who wrote to him: "When the history of the Zoological Park is written, this incident will form its most amusing passage."[34]

As the controversy continued, Hornaday remained unapologetic, insisting that his only intention was to put on an ethnological exhibition. In another letter, he said that he and Grant—who ten years later would publish the racist tract The Passing of the Great Race—considered it "imperative that the society should not even seem to be dictated to" by the black clergymen.[34]

1903 saw one of the first widespread protests against human zoos, at the "Human Pavilion" of an exposition in Osaka, Japan. The exhibition of Koreans and Okinawans in "primitive" housing incurred protests from the governments of Korea and Okinawa, and a Formosan woman wearing Chinese dress angered a group of Chinese students studying abroad in Tokyo. An Ainu schoolteacher was made to exhibit himself in the zoo to raise money for his schoolhouse, as the Japanese government refused to pay. The fact that the schoolteacher made eloquent speeches and fundraised for his school while wearing traditional dress confused the spectators. An anonymous front-page column in a Japanese magazine condemned these examples and the "Human Pavilion" in total, calling it inhumane to exhibit people as spectacles.[35]
世紀末の頃

1896年、シンシナティ動物園は、来園者を増やすために、100人のスー族のネイティブアメリカンを招き、この地に村を作りました。スー族は3ヶ月間、動物園に住みました[31]。

1900年の万国博覧会ではマダガスカルに住む有名なジオラマが展示され、マルセイユ(1906年と1922年)とパリ(1907年と1931年)の植民 地時代の展示でも檻の中の人間が、しばしばヌードまたはセミヌードで展示された。1931年のパリ展は半年間で3,400万人を動員するほどの成功を収め たが、共産党が企画した「植民地の真実」と題する小規模な反対展にはほとんど人が集まらず、第1展示室ではアルベール・ロンドルやアンドレ・ジドの植民地 での強制労働に関する批判が想起される。セネガルの遊牧民の村も紹介された[citation needed]。

1906年、マディソン・グラント(社交家、優生学者、アマチュア人類学者、ニューヨーク動物学会の会長)は、コンゴのピグミーであるオタ・ベンガを ニューヨークのブロンクス動物園で猿や他の動物と一緒に展示するように指示した。動物園の園長であるウィリアム・ホーナデーは、グラントの指示でベンガを チンパンジー、オランウータンのドホン、オウムと一緒に檻に入れ、「ミッシングリンク」と名付け、進化の観点からベンガのようなアフリカ人はヨーロッパ人 よりも類人猿に近いと示唆したのである。それは、市の聖職者からの抗議を引き起こしたが、一般市民はそれを見るために群がったと伝えられている[32] [33]。

1906年9月8日(月)、わずか2日でホーナデーは展示を終了することを決め、ベンガは動物園の敷地を歩き、しばしば「吠え、嫉妬し、叫ぶ」群衆に付きまとわれているのを見つけることができました[34]。

最初の組織的反発

ニューヨーク・タイムズ紙によると、「人間が猿と一緒に檻の中に入っている光景に、はっきりと異議を唱える者はほとんどいなかった」ものの、市内の黒人聖 職者が大きな不快感を示したため、論争が勃発したのである。ブルックリンのハワード孤児院の管理人であるジェームス・H・ゴードン牧師は、「我々の人種 は、猿と一緒に展示しなくても、十分に落ち込んでいると思う」と述べている。「私たちは、魂を持った人間とみなされるに値すると思っています」[34]。

ニューヨーク市長のジョージ・B・マクレラン・ジュニアは聖職者たちとの面会を拒否し、ホーネデイから賞賛を浴び、マクレランは彼に手紙を出した。「動物園の歴史が書かれるとき、この事件はその最も愉快な一節を形成するだろう」[34]と書いている。

論争が続く中、ホーンデイは、自分の意図は民族学的な展示会を開くことだけだと主張し、謝らないままであった。別の手紙では、彼とグラント(10年後に人 種差別的な小冊子『偉大なる人種の通過』を出版)は、黒人聖職者によって「社会が指示されているようにさえ見えないことが必須」だと考えていると述べてい る[34]。

1903年、日本の大阪で開催された博覧会の「人間館」において、人間動物園に対する最初の広範な抗議が行われた。原始的な」住居に住む朝鮮人と沖縄人の 展示は、朝鮮と沖縄の政府から抗議を受け、中国風の服を着たタイワンアカシアの女性は、東京に留学中の中国人学生のグループを怒らせることになった。ま た、アイヌの学校教師が、校舎の建設費を捻出するために動物園に出演したところ、日本政府が支払いを拒否した。その学校教師が民族衣装を着て雄弁な演説を し、資金集めをしたことが、見物人を混乱させた。日本の雑誌の匿名の一面コラムは、これらの例と「人間館」全体を非難し、人間を見世物として展示すること は非人道的であるとした[35]。
St. Louis World's Fair

In 1904, over 1,100 Filipinos were displayed at the St. Louis World's Fair in association with the 1904 Summer Olympics. Following the Spanish-American War, the United States had just acquired new territories such as Guam, the Philippines, and Puerto Rico.[36] William H. Taft was the civil governor of the Philippines at the time and allowed the U.S. to put together a Philippines exhibition in an attempt to "showcase the new colony."[37] Filipinos were put into villages, known generally by fair attendees as the "Igorrote Village," despite the variety of ethnic groups represented.[37] While the exhibit was promoted as a display of U.S. power and growth, it is believed that to achieve this perspective, the Filipinos themselves were construed as "racially inferior and incapable of national self-determination in the near future."[38] This was done by encouraging the performance of tribal customs that were seen as bizarre and 'savage' by Americans, such as eating dog. The villages also took part in western-influenced demonstrations, such as attending model school and participating in police drill teams.[39]

One of the activities the indigenous people held in the zoo had to participate in were the "Special Olympics." This was an activity decided by the organizers of the zoos at the 1904 world's fair.[40] The people that were kept in the zoos were a symbol for the U.S. latest victory, keeping groups of people in the zoo to look at and showcase their newest territories. Igorot, Negrito, Visayan, and Moro were the four tribes that were brought over from the Philippines to show the diversity of the Filipino people.[39] When originally transported to St. Louis people put in the zoos were originally only given rations of rice, some hardtack, and canned goods. A lot of the Filipinos who arrived came coughing and ill from their travels on the train to St. Louis. They were given temporary live quarters while their traditional huts were being built in the zoo for them to live in during the fair.[37] While being a part of the fair the members of the tribes that were brought to the zoo were made to showcase their unique traditions during the fair to entertain. There was also a school made for the children in these tribes, where visitors could observe from an elevated balcony and view the children learning.[37]
セントルイス万国博覧会

1904年、夏季オリンピックに関連して開催されたセントルイス万国博覧会では、1,100人以上のフィリピン人が展示された。米西戦争の後、アメリカは グアム、フィリピン、プエルトリコなどの新しい領土を獲得したばかりだった[36] ウィリアム・H・タフトは当時フィリピンの民間総督で、アメリカは「新しい植民地を紹介する」試みとしてフィリピン展を許可した[37] フィリピン人は村に分けられ、その民族的な多様性にかかわらず、フェア参加者は一般に「イゴロテ村」として知られるようになった。 [この展示はアメリカの力と成長を示すものとして宣伝されたが、このような観点を達成するために、フィリピン人自身が「人種的に劣り、近い将来に民族自決 をすることができない」と解釈されたと考えられている[38] これは、犬を食べるなどアメリカ人から奇妙で「野蛮」だと見られる部族の習慣を行うよう促すことによって行われていた。また、村々はモデル・スクールへの 参加や警察演習チームへの参加など、西洋の影響を受けたデモに参加した[39]。

動物園で開催された先住民が参加しなければならない活動のひとつに、"Special Olympics "があった。これは1904年の万国博覧会で動物園の主催者が決めた活動だった[40]。動物園で飼われていた人々は、アメリカの最新の勝利の象徴とし て、動物園に人々のグループを飼って、新しい領土を見て見せようとしたのである。イゴロット、ネグリート、ビサヤ、モロの4つの部族は、フィリピンの人々 の多様性を示すためにフィリピンから連れてこられた部族である[39]。もともとセントルイスに運ばれたとき、動物園に入れられた人々は、米、いくつかの 乾パンと缶詰の配給しか与えられていなかった。到着したフィリピン人の多くは、セントルイスまでの汽車の旅で咳をし、病気になっていた。フェアの一環とし て、動物園に集められた部族のメンバーは、フェアの期間中、彼らのユニークな伝統を披露し、楽しませることになった。また、これらの部族の子供たちのため に学校が作られ、訪問者は高いバルコニーから観察し、子供たちが学んでいる様子を見ることができた[37]。
France and Great Britain

Between 1 May and 31 October 1908 the Scottish National Exhibition, opened by one of Queen Victoria's grandsons, Prince Arthur of Connaught, was held in Saughton Park, Edinburgh. One of the attractions was the Senegal Village with its French-speaking Senegalese residents, on show demonstrating their way of life, art and craft while living in beehive huts.[41][42]

In 1909, the infrastructure of the 1908 Scottish National Exhibition in Edinburgh was used to construct the new Marine Gardens to the coast near Edinburgh at Portobello. A group of Somali men, women and children were shipped over to be part of the exhibition, living in thatched huts.[43][44]

In 1925, a display at Belle Vue Zoo in Manchester, England, was entitled "Cannibals" and featured black Africans in supposedly native dress.[45]

In 1931, around 100 other New Caledonian Kanaks, were put on display at the Jardin d'Acclimatation in Paris.[46]

United States (1930s)

By the 1930s, a new kind of human zoo appeared in America, nude shows masquerading as education. These included the Zoro Garden Nudist Colony at the Pacific International Exposition in San Diego, California (1935–36) and the Sally Rand Nude Ranch at the Golden Gate International Exposition in San Francisco (1939). The former was supposedly a real nudist colony, which used hired performers instead of actual nudists. The latter featured nude women performing in western attire. The Golden Gate fair also featured a "Greenwich Village" show, described in the Official Guide Book as "Model artists' colony and revue theatre."[47]

Ethnological expositions during Nazi Germany

As ethnogenic expositions were discontinued in Germany around 1931,[17] there were many repercussions for the performers. Many of the people brought from their homelands to work in the exhibits had created families in Germany, and there were many children that had been born in Germany. Once they no longer worked in the zoos or for performance acts, these people were stuck living in Germany where they had no rights and were harshly discriminated against. During the rise of the Nazi party, the foreign actors in these stage shows were typically able to stay out of concentration camps because there were so few of them that the Nazis did not see them as a real threat.[48] Although they were able to avoid concentration camps, they were not able to participate in German life as citizens of ethnically German origin could. The Hitler Youth did not allow children of foreign parents to participate, and adults were rejected as German soldiers.[48] Many ended up working in war industry factories or foreign laborer camps.[48]
フランスとイギリス

1908年5月1日から10月31日にかけて、ヴィクトリア女王の孫であるコンノート公アーサーが開会したスコットランド国立博覧会がエディンバラのソー トンパークで開催された。見どころのひとつはセネガル村で、フランス語圏のセネガル人が蜂の巣小屋に住みながら、彼らの生活様式、芸術、工芸を実演してい た[41][42]。

1909年、エディンバラで開催された1908年のスコットランド万国博覧会のインフラを使い、エディンバラ近郊のポートベローの海岸に新しいマリンガー デンが建設された。この展覧会に参加するため、ソマリアの男性、女性、子供のグループが輸送され、藁葺き屋根の小屋で生活した[43][44]。

1925年、イギリスのマンチェスターにあるベルヴュー動物園の展示は「人食い人種」と題され、原住民と思われる服を着たアフリカの黒人を特集していた[45]。

1931年、パリの順化庭園に約100人のニューカレドニアのカナック族が展示された[46]。

アメリカ(1930年代)

1930年代になると、アメリカでは新しいタイプの人間動物園が登場しました。教育を装ったヌードショーです。カリフォルニア州サンディエゴの太平洋国際 博覧会(1935-36年)のゾロ・ガーデン・ヌーディスト・コロニーやサンフランシスコのゴールデンゲート国際博覧会(1939年)のサリー・ランド・ ヌードランチなどがそれです。前者は本物のヌーディスト・コロニーとされ、実際のヌーディストの代わりに雇われたパフォーマーが使われた。後者は、西部劇 の衣装を着た裸の女性が出演していました。ゴールデンゲートフェアでは「グリニッジビレッジ」のショーも行われ、公式ガイドブックでは「モデルアーティス トコロニーとレヴューシアター」と説明されている[47]。

ナチス・ドイツ時代の民族学的博覧会

1931年頃にドイツで民族学博覧会が廃止されると[17]、出演者にも多くの反響があった。民族博で働くために母国から連れてこられた人々の多くは、ド イツで家庭を築き、ドイツで生まれた子供も多くいた。動物園で働けなくなった人たちは、ドイツで何の権利もなく、厳しい差別を受けて生きていくしかなかっ た。ナチス党の台頭期には、これらの舞台の外国人俳優は、数が少ないためにナチスが本当の脅威と見なさないため、通常強制収容所から逃れることができた [48]。ヒトラーユーゲントでは外国人を親に持つ子供の参加を認めず、成人はドイツ兵として拒否された[48]。 多くの者は戦争産業の工場や外国人労働者収容所で働くことになった[48]。
Modern exhibitions

As part of the Portuguese World Exhibition in 1940, members of a tribe from the Bissagos Islands of Guinea-Bissau were displayed on an island in a lake in the Lisbon Tropical Botanical Garden.[49]

A Congolese village was displayed at the Brussels 1958 World's Fair.[50]

In April 1994, an example of an Ivory Coast village was presented as part of an African safari in Port-Saint-Père, near Nantes, in France, later called Planète Sauvage.[51]

In July 2005, the Augsburg Zoo in Germany hosted an "African village" featuring African crafts and African cultural performances. The event was subject to widespread criticism.[52] Defenders of the event argued that it was not racist since it did not involve exhibiting Africans in a debasing way, as had been done at zoos in the past. Critics argued that presenting African culture in the context of a zoo contributed to exoticizing and stereotyping Africans, thus laying the ground work for racial discrimination.[53]

In August 2005, London Zoo displayed four human volunteers wearing fig leaves (and bathing suits) for four days.[54]

In 2007, Adelaide Zoo ran a Human Zoo exhibition which consisted of a group of people who, as part of a study exercise, had applied to be housed in the former ape enclosure by day, but then returned home by night.[55] The inhabitants took part in several exercises, and spectators were asked for donations towards a new ape enclosure.

Also in 2007, pygmy performers at the Festival of Pan-African Music (Fespam) were housed at a zoo in Brazzaville, Congo. Although members of the group of 20 people—among them an infant, age three months—were not officially on display, it was necessary for them to "collect firewood in the zoo to cook their food, and [they] were being stared at and filmed by tourists and passers-by".[56]

In 2012, a video surfaced showing a safari trip to the Bay of Bengal. The safari trip included showcasing the Jarawa tribe of the Andaman Islands in their own home. This indigenous tribe had not had much contact with outsiders, and some were asked to perform dances for the tourists. At the beginning of the safari trip there were signs stating not to "feed" the tribespeople, but tourists still brought food to give to the tribespeople. In 2013, the Indian Supreme Court banned these safari trips.

In August 2014, as part of the Edinburgh International Festival, South African theatre-maker Brett Bailey's show Exhibit B was performed in the Playfair Library Hall, University of Edinburgh; then in September at The Barbican in London. This explored the nature of Human Zoos and raised much controversy both amongst the performers and the audiences.[57]

With a view to tackling the morality of Human Zoo exhibits, 2018 saw the poster exhibition, Putting People on Display, tour Glasgow School of Art, the University of Edinburgh, the University of Stirling, the University of St Andrews and the University of Aberdeen. Additional posters were added to a selection from the French ACHAC's exhibition, Human Zoos: the Invention of the Savage, in relation to the Scottish dimension in hosting such shows.[58]
現代の展覧会

1940年のポルトガル万国博覧会の一環として、ギニアビサウのビサゴス諸島の部族の人々がリスボン熱帯植物園の湖の中の島に展示された[49]。

1958年のブリュッセル万国博覧会ではコンゴの村が展示された[50]。

1994年4月、フランスのナント近郊のポルト・サンペールでアフリカンサファリの一部としてコートジボワールの村の例が展示され、後にプラネテ・ソバージュと呼ばれた[51]。

2005年7月、ドイツのアウグスブルク動物園では、アフリカの工芸品やアフリカ文化のパフォーマンスを特徴とする「アフリカ村」が開催された。イベント の擁護者は、それが過去の動物園で行われていたような卑下した方法でアフリカ人を展示することを伴わないので、人種差別的ではないと主張した[52]。批 評家は、動物園という文脈でアフリカ文化を紹介することは、アフリカ人をエキゾチック化しステレオタイプ化することに貢献し、その結果、人種差別の土台を 築くことになると主張した[53]。

2005年8月、ロンドン動物園は、4日間、イチジクの葉(と水着)を着た4人の人間のボランティアを展示した[54]。

2007年、アデレード動物園は、研究の一環として、昼は旧猿の囲いに収容されることを申請し、夜には帰宅する人々からなる人間動物園の展示を行った[55]。 住人たちはいくつかの演習に参加し、観客は新しい猿の囲いのための寄付を求められた。

また、2007年には、コンゴのブラザビルにある動物園に、汎アフリカ音楽祭(Fespam)のピグミーパフォーマーが収容された。20人のグループのメ ンバー(中には生後3ヶ月の乳児もいた)は公式には展示されていなかったが、「食事を作るために動物園内で薪を集める必要があり、(彼らは)観光客や通行 人に見つめられたり撮影されたりしていた」[56]。

2012年、ベンガル湾へのサファリ旅行を紹介する動画が表面化した。このサファリ旅行には、アンダマン諸島のジャラワ族を自分たちの故郷で紹介すること が含まれていました。この先住民族は外部との接触が少なく、観光客に踊りを披露するように頼まれた者もいた。サファリ旅行の冒頭には、部族に「餌を与えな い」旨のサインがあったが、それでも観光客は部族に与えるための食料を持参した。2013年、インドの最高裁判所は、こうしたサファリ旅行を禁止しまし た。

2014年8月、エディンバラ国際フェスティバルの一環として、南アフリカの演劇人ブレット・ベイリーのショー「Exhibit B」がエディンバラ大学プレイフェア図書館ホールで、その後9月にロンドンのバービカンで上演されました。これは人間動物園の本質を探るものであり、演者 と観客の間で多くの論争を巻き起こした[57]。

人間動物園の展示の道徳性に取り組むという観点から、2018年にはポスター展「Putting People on Display」がグラスゴー美術学校、エジンバラ大学、スターリング大学、セントアンドリュース大学、アバディーン大学を巡回した。フランスの ACHACの展覧会「Human Zoos: the Invention of the Savage」からのセレクションに、このような展覧会を主催するスコットランドの次元に関連して、追加のポスターが追加された[58]。
Human safari

The threatening, exploitative and degrading practice of "human safari" tourism has been a prevalent problem particularly for indigenous peoples in voluntary isolation, such as the Sentinelese.[59]


ヒューマンサファリ

「人間サファリ」観光の脅威的、搾取的、劣化的な実践は、特にセンチネル人のような自主的に孤立している先住民族に広く見られる問題であった[59]。
Abraham Ulrikab – Inuk man and his family
Cultural appropriation
Living history museum
Natural state
Noble savage
Orientalism
Othering
Primitivism
Racial fetishism
Reality television
Romantic racism
Scramble for Africa
Wild man

Bibliography
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https://en.wikipedia.org/wiki/Human_zoo
https://www.deepl.com/ja/translator

◎1987 ラジオドラマ 人類館

「琉球、朝鮮、おことわり」という稚拙な字での貼り紙から知念正真『人類館』(脚本)がはじまる。津嘉山正種さんのひとり語り版がありますが、こちらはラジオ版(短く編集されている? YouTube)のほうです https://www.youtube.com/watch?v=G5RlLrB6U5w

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