はじめに よんでください

日本文化人類学史

A History of Japanese Cultural Anthropology, from 1832 to present

Año 1930. El periodista japonés Y. Okada, junto al hechicero Selk'nam Pachek y su familia. Tierra del Fuego. República Argentina.(追加情報は1930年を参照)

池田光穂

1750
1800
1810
1820
1830
1840
1850
1860
1870
1880
1890
1900
1910
1920
1930
1940
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1970
1980
1990
2000
2010
2020
2030









現在 (202X年)日本において文化人類学を学ぶということは、文化人類学という学問を 含めて、考古学、人類学(自然人類学)、民族学(民族誌学)、言語 学(言語人類学)、民俗学、歴史 学、社会学、地域科学(地域 研究)を学ぶということを意味します日本文化人類学会を 含め て、それらに関連する多くの学問が日本の文化人類学の歴史を形づくっています。また、世界にはこれらの広義の文化人類学を含めた連合連絡組織(the International Union of Anthropological and Ethnological Sciences, IUAES, 1948- )があります。

世界の文 化人類学・人類学も同様ですが、それぞれの各国・各地域の歴史的文化的事情により複数で多様性に満ちた発展の歴史を持っています。それらを統一的にまとめ ようとすることは、まるで「プロクルステスの寝台」のように、記憶すべき必要な事や都合の 悪いことを切り捨てたり、とても重要なことを歴史の中の一コマのように小さな物語であるかのように取り扱うように扱うことにも繋がります。というわけで、 このページの情報はあくまでも、文化人類学を研究する一人の研究者の個人的備忘として作成したものです。このページの作者が日本文化人類学会理事(第25 期[2013-2014年度]・第26期[2015-2016])の学会歴史委員会委員長を務めたこともこのページの増強の原因になりました。

この記事 を参照されて、またここで収載されていな いさまざまな資料をつかって、各人各人が、《文化人類学の多様なイメージ》 を学 んでいただくようにお願いします。

1750 デ・ブロス『物神崇拝 論』

1751 -1772 『百科全書』

1754  ルソー『人間不平等起源論』

1772  ウィルバーフォース(William Wilberforce, 1759-1833)、英国議会で「イギリスに上陸するすべての奴隷は自由である」旨の演説。

1776  イエズス会が南インド宣教から解任され、パリ外国宣教会(Missions Étrangères de Paris, MEP)が引き継ぐ

1785  フランス、セネガル・ゴム会社に特許授与。

1788  アフリカ協会設立(英国)

1794  フランス国民公会、グレゴワール神父提案の仏領植民地の奴隷制 を廃止を採択。コンドルセ『人間精神進歩史』

1795  本居宣長『玉勝間

1799  パーク『アフリカ内陸旅行記』。人類観察協会創設(仏国)

1800 

1802  ゴルベリー『アフリカ旅行記』

1806  ウィルバーフォース、英国議会に奴隷貿易廃止法案の採決を促 す。

1807  英国奴隷交易の廃止。

1810 

1812  Franz Joseph GallとJohann Gaspar Spurzheimは、Anatomie et physiologie du système nerveuxを発刊する。骨相学(Phrenology)研究のパイオニアにな る。

1820 

1823  シーボルト( Philipp Franz Balthasar von Siebold, 父, 1796-1866)が出島のオランダ商館医になる(〜1830離日)。

1824  エディンバラ骨相学協会のローバト・エリスとウィリアム・グレ イは「クラニオメーター」の器具の使用を提案する。

1830

1832

1833  

1838  英国先住民保護協会の分派として、ロンドン民族学会が設立。

1839  

1840 『ビー グル号航海記

1842  アメリカ民族学会創設。

1843  ロンドン民族学協会

1846  英国ウィリアム・トムズ folk-loreを造語する

1847  パリ民族学会、奴隷問題の評価をめぐって紛糾し事実上分解 (→1859年のブローカを参照)。

1848  仏領植民地で復活していた奴隷制を再度廃止。アメリカ合衆国 ニューヨーク州で白人ジョン・ハンフリー・ノイズによる原理主義運動「オナイダ共同 体Oneida Community)」がはじまる(〜1878年)

1849  英国ウィリアム・トムズ Notes and Quieries 誌を創刊。

1850 

1851  ル イス・ヘンリー・モーガン『イロコイ同盟』

1853 -1856 リヴィングストンのアフリカ内陸旅行。

1854  7月11日(咸豊4年6月17日)琉米修好条約(亜米利加合衆国琉球王国政 府トノ定約)

1854 -1859 バルトのアフリカ内陸旅行。1854-1865  フェデルブは、セネガルの仏領植民地化を推進。

1855  カラフトアイヌ、バフンケ(木村愛吉, 1855-1919)樺太 東海岸のアイで出生。

1855  アルチュール・ド・ゴビノー『諸人種の不平等に関する試論』 Essai sur l'inégalité des races humaines(完全版)の出版

1856  デュセルドルフ(ドイツ)近郊でネアンデルタール人骨が 「化石」かどうかに関する論争

1859(安 政6) 

1860 

1861  フランス、植民地特恵条約を廃止。メイン『古代法』

1863 

1865  マドリードで人類学協会設立。英国人アイヌ墳墓発掘事件(蝦夷地)(植木 2017:6-22)

1866  モスクワで人類学協会設立

1867 G. Busk, ロンドン民族学会誌にアイヌ人骨に関する論文発表(植木 2017:24,268)

1868 (明治元)

1869 (1870?)  

1870 小金 井良精(こがねい・よしきよ)大学南校に入学(72年第一大学区医学 校を経て1880年に東京医学校を卒業)。

1871 

1871 

1872 

琉球処分(= 明治政府が強制的に沖縄 (琉球)に対しておこなった琉球藩の設置から廃藩置県(1879)までの7年間の植民化政策): 明治5 (1872) 年に琉球国を廃して琉球藩とし,中央政府の管 轄とする。国王尚泰は琉球藩王に封じて華族され東京に藩邸が与えられる。

鹿 児島県参事大山綱良(1825-1877)らの台湾征伐論が台頭、自ら「征 伐」を宣言(→琉球処分に派生する植民地領有覇権思想のはじまり)

(明治5)地所規制・北海道土地売貸規 則。北海道の土地の私有制度の導入。ただし、アイヌが申請に必要な戸籍の制度が整備される1876(明治9)年までは法的にアイヌが土地所有するチャンス は阻まれていた。またアイヌに識字者がほとんどおらず、実質的にアイヌは土地所有のチャンスから 完全に排除されていた。

Darwin,C.R.,1872, "On the expression of the emotion in man and animals",濱中濱太郎訳)「人及び動物の表情について」、岩波文庫、1931

1873 

1874 台湾出兵

1875 

1876 

1877 明治10 


京浜東北線・大森駅(東京都大田区)構内にある「日本考古学発 祥地」のモニュメント:2012年7月 14日撮影

1878 

1879 

From left of front row, Kyōsuke Kindaichi(1882-1971), Nikolai Aleksandrovich Nevsky(1892-1937), Kunio Yanagita(1875-1962), at his house of of Shinobu Orikuchi(1887-1953), in left end at standing. Picture was taken in March, 1921(TAISHO jyu-nen) .source: http://1000ya.isis.ne.jp/1510.html

1921 (続き)藝 術の始源 : 比較人種學的美學  / グローセ原著 ; 安藤弘訳、岩波書店 , 1921

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1922  

小 山内通敏、今和次郎が朝鮮総督府の嘱託で「朝鮮部落調査」をおこなう。マリノフスキー西太平洋の遠洋航海者たち』;中村古峽『迷信と邪教』迷信と邪教、1922年

渋 沢敬三、横浜正金銀行ロンドン支店に赴任。

※ルガード『二重統治論』

1923 

関東大震災。満岡伸一「あいぬノ足跡」。道内の市町村に旧土人救療所を 開設。土人保導員を設置。(→「保健普及員」)。善生永助が、朝鮮総督府嘱託に。

関東大震災。京都に居を移した柳は、濱田 庄司、河井寛次郎(1890-1966)らとともに、いわゆる「民芸運動」。

1923-1941 

1924 

西村眞次文 化人類学』早稻田大學出版部

京城帝国大学予科設置、1926年には法文学部・医学部が設置される。

オーストラロピテクス(Australopithecus afarensis)発見の嚆 矢〜1970年代

清野謙次研究室で日本人骨の統計的発表がはじまる。鳥 居龍蔵、東京帝国大学助教授を辞職。

7月?岡茂雄(Shigeo OKA, 1894-1989)は岡書院(1924-1935)を設立。

7月鳥居龍蔵『人 類學及人種學上より見たる北東亞細亞 : 西伯利、北満、樺太』岡書院。

9月鳥居龍蔵『日 本周圍民族の原始宗教 : 神話・宗教の人種學的研究』岡書院。『武藏野及其周圍』磯部甲陽堂

12月鳥居龍蔵『諏訪史』 上諏訪町 (長野県) : 信濃教育会諏訪部会

村山智順『朝鮮の独立思想及運動』調査資料第十輯

1925 

1925-1929 

柳田国男・岡正雄ら『民族』刊行。岡は創刊号の巻頭論文「民族學の目 的」(1924年の記載あり)で、民族学をWHR.リヴァーズの用語としてい る(→当時の状況「人種概念としての「ミンゾク」」)。 Ethnology (Ethnologie)を「民族学」と訳すようになったのは、岡正雄によるW.H.R.リヴァースの翻訳(1925)においてである。その間、すなわ ち、1889年から35年間は坪井正五郎命名によるEthnology (Ethnologie)=人種学の期間だったのである。

1926 大正15→昭和元 

1927 

1928 昭和3 

1929 

1929(昭和4)

1929 東京考古学会(森本六爾)創 設。雑誌『考古学』は1930年刊(〜1941年)

1929-1933 雑誌『民族』の廃刊。民俗學会編の雑誌『民俗學』刊行(柳田の脱退を受 けて。岡は1929〜1935年オーストリアに留学)

1930-1933 台湾、高砂族全島調査(移川子之蔵、宮本延人[1901-1988]、 馬淵東一[1909-1988]の参加)

1930 昭和 5

1931

1932 

1933 

1934 昭和9 

1935 昭和10 

2.26事件

『民 族學研究』(1巻1号)発刊。柳田は民間伝承の会『民間伝承』創刊、柳田はこの年『郷土生活の研究法』を刊行。エイプ会発足。エイプ会(APE)とは人類 学(AnthropologyのA)・先史学(PrehistoryのP)・民族学(EthnologyのE)の3分野の頭文字をとって名付けられた学究 サークルである[→赤 堀英三(1903-1986)]。

1936 昭和11 

4月1〜2日東京人類学会・日本民族学会の第1回連合大会が 開催(大会会長:小金井良精。特別講演;F.Weidenreich(北 京医学院) "Sinanthropus pekinensis as a Distinct Primitive Hominid";駒井卓(京都帝国大学)「遺伝学上より見たる日本民族の特徴」;移川子之蔵(台 北帝国大学)「未開社會に於ける時の觀念」)。/日本民族衛生学会が民族衛生協 会に改組される。保谷に民族学協会附属博物館開設を建議。アチック・ミューゼアムで蒐 集された民具は、すべて同博物館に寄贈される(出典)。

1937 

1月、鳥居龍蔵『遼の文化を探る』章華社。

3月29〜31日日本人類学会・日本民族学会の第2回連合大会が 開催(於:東京帝国大学理学部)大会会長:白鳥庫吉 (東洋文庫);シンポジウム「最近のアイヌ民族問題」

5月14日、企画院は企画庁に昇格(〜 1943年10月)

7月7日 盧溝橋事件(日華事変:〜1945年、中国と の軍事衝突の嚆矢)

日本民族学会が主催した千島樺太調査(岡正雄はそれに随行)。泉靖一オロチョン調査。

クラ イナー 1912:20
クライナー、ヨゼフ「日本民俗学・民族学:昭和10年代から40年代ま での展開」『近代〈日本意識〉の成立』Pp.2-24、東京:東京堂、2012年。

※ルーシー・メア『アフリカの原住民政策』

1948 

日本考古学協会創設

朝鮮人類学会が、大韓人類学会と改称。

ドイツ人類学会にEgon Freiherr von Eickstedt (1892-1965)が初代会長として就任する。

5月4-6日「日本民族=文化の源流と日本 国家の形成」座談会(翌年、民族學研究, 13(3)2007-277. 1949)

※グリオール『水の神』;ハースコヴィッツ『人間とその業績』

1949 昭和24

1950 

岡正雄の民族学協会の事業として、文部省助成事業として「アイヌ民族綜合調査」(1951-1952)が始まる。「学 界消息(アイヌ民族綜合調査の計 画)」『民族学研究』15(1):34,40,83, 1950.

10月14〜15日日本人類学会・日本民族学会の第5回連合大会が 開催(於:東京大学理学部)大会会長: 長谷部言人 (東北大学)

※財団法人日本常民文化研究所となる(出典)。

文化財保存法施 行。

1951 昭和26 

1952 昭和27年

東京都立大学人文学部に社会人類学科が設置される(翌1953年東京都立大学大学 院社会科学研究科社会人類学専攻が設置)

1952 年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約が発効される。この時にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)による日本占領は終了する。

1953 昭和28

1954 昭和29

東京大学教養学部教養学科文化人類学及び人文地理学分科の設立。杉浦健一死去(泉靖一(1954)「故杉浦健一教授と人類学・民族学:追悼と評伝」『民族学研究』18(3):266 -272.

人種とは何か  / ユネスコ編 ; 日本ユネスコ国内委員会訳, 日本ユネスコ国内委員会 , 1954

10月15〜18日日本人類学会・日本民族学会の第9回連合大会(於: 小田原=城内高等学校・鎌倉=横浜国立大学・東京=東京大学医学部)大会会長: 鈴木尚(東京大学);公開講演(︎「トルキスタンとヒンズークシュ山脈の旅」 ・岩村 忍(京都大学)▶︎「ユーカラの伝承」・金田一京助(国学院大学)▶︎︎記録映画「アイヌの川漁」 「人類の進化と日本人の起源」・長谷部言人(日本学士院)▶︎「日本に於けるドルメンについて」・藤田亮策(東京芸術大学)スライド 解説:斉藤忠、九州 北端ドルメンの発掘、大湯の環状列石の発掘︎)

4月「起源論争」(宮良當壯(みやなが・まさもり, 1893-1964)が、4月14日付の朝日新聞の金関丈夫の記事に対して『民族学研究』18(4)で反論をおこな う)谷川健一編『起源論争』木耳社、1971年に収載されている。金関の主張は、日本人起源論において「渡来説」と呼ばれている。

「▶ 波照間 : 琉球通信4 / 金関丈夫▶琉球民族とその言語 : 金関教授の臆説批判 / 宮良当壮▶八重山群島の古代文化 : 宮良博士の批判に答う / 金関丈夫 ▶琉球の言語と民族の起源 / 服部四郎 ▶琉球の言語と民族の起源 : 服部教授の論考に答える / 金関丈夫 ▶服部教授の論考に答える : 追補と訂正 / 金関丈夫 ▶琉球の言語と民族の起源 (余論) / 服部四郎 ▶日本語の琉球方言について / 服部四郎 ▶南島先史時代の技術と文化 / 国分直一 ▶南島の民族文化 : 特に日本祖語の形成の時期をめぐる問題によせて / 国分直一 」

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クラ イナー 1912:22
クライナー、ヨゼフ「日本民俗学・民族学:昭和10年代から40年代ま での展開」『近代〈日本意識〉の成立』Pp.2-24、東京:東京堂、2012年。

クラ イナー 1912:23
クライナー、ヨゼフ「日本民俗学・民族学:昭和10年代から40年代ま での展開」『近代〈日本意識〉の成立』Pp.2-24、東京:東京堂、2012年。