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日本民芸運動と文化人類学

The Mingei Movement in East Asian Geopolitics

小鹿田焼(おんたやき) Mitzub'ixi Qu'q Ch'ij

The concept of mingei (民芸), variously translated into English as "folk craft", "folk art" or "popular art", was developed from the mid-1920s in Japan by a philosopher and aesthete, Muneyoshi YANAGI; Yanagi Sōetsu (1889–1961), together with a group of craftsmen, including the potters Hamada Shōji (1894–1978) and Kawai Kanjirō (1890–1966). As such, it was a conscious attempt to distinguish ordinary crafts and functional utensils (pottery, lacquerware, textiles, and so on) from "higher" forms of art – at the time much admired by people during a period when Japan was going through rapid westernisation, industrialisation, and urban growth. In some ways, therefore, mingei may be seen as a reaction to Japan's rapid modernisation processes.[1][2]- Mingei.

「民芸という概念は、「民芸」、「民衆芸術」、「民 衆芸術」などさまざまに英訳されているが、日本では1920年代半ばから、哲学者であり美学者でもあった柳宗悦(1889-1961)が、陶芸家の濱田庄 司(1894-1978)や河井寛次郎(1890-1966)をはじめとする職人たちとともに発展させたものである。陶器、漆器、織物などの一般的な工芸 品や機能的な道具を、西洋化、工業化、都市化が急速に進んだ当時の人々が賞賛していた「高尚な」芸術と区別しようとする意識的な試みであった。したがっ て、ある意味では、民藝は日本の急速な近代化への反動と見ることもできる。」

「……ロマン主義独特の大きな未開志向的ノスタル ジーのひとつがある。ポピュラーアーツは、無名をことととする天真爛漫さによって、霊感の真に生きた源泉をつかむことができるのではないか。それは、共同 体の精髄の、おのずからなる発露ではないか。叙事詩の偉大さの残照が、ここでは保たれているのではないか。ここには、原初の単純協勁な世界、根源的な偉大 な情熱、生まれたままの状態における笑いや涙が見出されるのではないか、というのである」——ジャン・スタロバンスキー『道化のような芸術家の肖像』大岡 信訳(一部変えました),p.22.、新潮社、1975年


日本民芸運動(ウィキほか「民芸運動」「日本民藝協会」等より)
日本文化人類学史より
1914
雑誌『白樺』(1910年創刊)の同人であり西洋近代美術の 紹介者でもあった柳宗悦(1889-1961)は、1914年(大正3年)朝鮮陶磁研究家の浅川伯教(あさかわ のりたか, 1884-1964)との出会いを通じて朝鮮の美術に関心をもつようになり朝鮮王朝時代の白磁、朝鮮民画、家具などの素朴な美を世に紹介することに努め た。白樺派はフランスの彫刻家ロダンと文通して、日本の浮世絵と交換でロダンの彫刻を入手する。
【白樺派】武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎、正親町公和、園池公致、木下利玄、里見弴、郡虎彦、長與善郎、柳宗悦、有島生馬、児島喜久雄、千家元麿、高村光太郎、倉田百三、尾崎喜八、犬養健、岸田劉生、中川一政、梅原龍三郎、椿貞雄、バーナード・リーチなど。
今村鞆(いまむら・とも、1870- 1943)『朝鮮風俗集』。柳田國男、貴族院 書記官長に就任。 氏原左蔵『民族衛生学』Rassenhygieneを公刊。 清野謙次、 2年の留学より帰朝。
1914
1915

永井潜『生命論(増補第三版)』において 人種改善学 (eugenics)を紹介。 朝鮮総督府、旧慣および制度の調査、朝鮮総統府博物館を創立。 長谷部・松村が南洋群島に調査。 7月鳥居龍蔵『蒙古及滿洲』富山房。7月ニコライ・ネフスキー2年間の留学予定で東京に到着。

1916
以降、柳宗悦はたびたび朝鮮半島を訪ね、 朝鮮の仏像や陶磁器などの工芸 品に魅了される。
北海道庁『余市郡余市町旧土人衛生状態調 査復命書』『旭川 区近文部落旧土人衛生状態調査復命書』『沙流郡ノ一部室蘭郡ノ一部旧土人衛生状態調査復命書』 アイヌの識字調査では30% (40歳以上では3%) 1916-1917 東京帝国大学法科大学政治学科学生、矢内原忠雄、植民政策講座の新 渡戸稲造の「植民政策講義」を受ける(1917年に卒業)。この授業ノートを中心にして1943年『新渡戸博士植民政策講義及論文集』矢内原忠雄編、岩波 書店が出版される。 鳥居龍蔵、日本 人混血民族説を唱える。

1917



1918

新渡戸稲造「医学の進歩と殖民政策」『南 太平洋協会会報』第4号、第6 号 武隈徳三郎『アイヌ物語』(バチェラー序文、河野常吉校訂)富貴堂書房、1918(大正7) 年※徳三郎はアイヌ先住民で、バチェラーによると初めての先住民による自民族の文化を記した 書物と評する。 西村眞次が早稲田大学で文化人類学を教えはじめる。 7月鳥居龍蔵『有史以前乃日本』磯部甲陽堂 , 1918年。
1918
1919
3月1日に朝鮮半島で勃発した三・一独立 運動に対する朝鮮総督府の弾圧 に対し、柳宗悦は「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。
村山智順(1891 -1968)、東京帝国大学文学部哲学科を卒業後、朝鮮総督府の嘱託になる。柳田、官界を去る。東京帝国大学法学部(法科 大学は同年改組)植民政策講座の助教授として赴任。 松本彦七郎の汎アイヌ説(寺田 1975:151)。

1920
濱田庄司イギリスに帰国するリーチに同 行、共同してコーンウォール州セ ント・アイヴスに築窯する。柳宗悦、6月『改造』に「朝鮮の友に贈る書」を発表、総督政治の不正を詫びた。
平取、静内、浦河、白老に旧土人病院を設 置(〜1922)。柳田國男、 東京朝日新聞客員となり論説を執筆。全国を調査旅行。鳥居龍蔵、アムール川流域調査。 国際連盟事務次長に就任した新渡戸の後任として、矢内原忠雄は、東京帝国大学経済学部助教 授に就任、植民政策学を講じる。
1920
1921

渋沢敬三(1896 -1963)、自宅にアチック・ミュージアム(屋根裏博物館)を開設。澁澤は同年横浜正金銀行に入行。柳田國男、 渡欧し、ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任。国際連盟において、英語とフランス語のみが公用語となっていることによる小国代表の苦労を目の当たりに する。 浜田耕作は、縄文人と弥生人の間に人種的な断絶がないと主張。 "Swedish geologist Johan Gunnar Andersson and American palaeontologist Walter W. Granger came to Zhoukoudian, China in search of prehistoric fossils in 1921."-Peking Man.

1922
『朝鮮とその藝術』(叢文閣)と、『朝鮮 の美術』(私家版・和装本)
小 山内通敏、今和次郎が朝鮮総督府の嘱託で「朝鮮部落調査」をおこなう。マリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者たち』;中村古峽『迷信と邪教』迷信と邪教、 1922年。柳田國男、 新渡戸稲造と共に、エスペラントを世界の公立学校で教育するよう決議を求め、フランスの反対を押し切って可決される。エスペランティストのエドモン・プリ ヴァ(Edmond Privat)と交流し、自身もエスペラントを学習する。
1923
関東大震災。京都に居を移した柳は、濱田 庄司、河井寛次郎(1890-1966)らとともに、いわゆる「民芸運動」。 濱田庄司ロ ンドンで個展を開催、成功。

濱田庄司(1894-1978)、バーナード・リーチ(1887-1979)
1923年、 柳田國男、国際連盟委任統治委員、突如、辞任してを帰国(これを契機に柳田は新渡戸との交流が途絶える)。関東大震災。満岡伸一「あいぬノ足跡」。道内の 市町村に旧土人救療所を 開設。土人保導員を設置。(→「保健普及員」)。善生永助が、朝鮮総督府嘱託に。 「善生永助(1885〜1971)は、朝鮮総督府嘱託として同府刊行の調査資料の編纂に 携わった人物である。明治43年(1910)に早稲田大学専門部を卒業したのち、雑誌記者などを経て大正12年(1923)7月より朝鮮総督府官房調査課 嘱託となり、昭和10年(1935)まで調査活動に従事した。彼が調査および執筆を担当した資料の多くは、「調査資料」シリーズに収録されている。代表的 なものに『朝鮮の市場』(大正13年〔1924〕)、『朝鮮人の商業』(大正14年〔1925〕)、『朝鮮の物産』(昭和2年〔1927〕)、『朝鮮の市 場経済』(昭和4〔1929〕)、『朝鮮の生活状態調査1〜3』(昭和4〔1929〕ー昭和9年〔1934〕)、『朝鮮の聚落 前・中・後篇』(昭和8 〔1933〕ー昭和10〔1935〕)などがあり、現在でも植民地期朝鮮の社会経済状況を知るうえで大変貴重な資料とされている」(出典:「学 習院大学東洋文化研究所」) "Excavation work was begun immediately by Andersson's assistant Austrian palaeontologist Otto Zdansky, who found what appeared to be a fossilised human molar. He returned to the site in 1923, and materials excavated in the two subsequent digs were sent to Uppsala University in Sweden for analysis. In 1926 Andersson announced the discovery of two human molars in this material, and Zdansky published his findings.."-Peking Man. (1923-1941)朝鮮総督府調査資料(1923-1941)に、総督府嘱託として村山智順、善生永助が関 与
1923
1924
濱田庄司帰国、壺屋窯などで学ぶ。日本統 治下の京城(現ソウル)に、柳 宗悦や浅川伯教の巧とともに、文化擁護と継承のため「朝鮮民族美術館」を設 立。柳宗悦、全国の木喰仏調査を行う。
西村眞次『文 化人類学』早稻田大學出版部 京城帝国大学予科設置、1926年には法文学部・医学部が設置される。 オーストラロピテクス(Australopithecus afarensis)発見の嚆 矢〜1970年代 清野謙次研究室で日本人骨の統計的発表がはじまる。鳥 居龍蔵、東京帝国大学助教授を辞職。 7月?岡茂雄(Shigeo OKA, 1894-1989)は岡書院(1924-1935)を設立。 7月鳥居龍蔵『人 類學及人種學上より見たる北東亞細亞 : 西伯利、北満、樺太』岡書院。 9月鳥居龍蔵『日 本周圍民族の原始宗教 : 神話・宗教の人種學的研究』岡書院。『武藏野及其周圍』磯部甲陽堂 12月鳥居龍蔵『諏訪史』 上諏訪町 (長野県) : 信濃教育会諏訪部会 村山智順『朝鮮の独立思想及運動』調査資料第十輯

1925
柳宗悦「民藝」の言葉を用いだす。
4月清野謙次『日 本原人の研究 』岡書院 5月鳥居龍蔵『有 史以前の日本』磯部甲陽堂。 9月、柳田国男・岡正雄ら『民族』を創刊。 10月、鳥居龍蔵『人 類學上より見たる我が上代の文化』叢文閣。 内村祐之、ミュンヘンのドイツ精神医学研究所に留学(〜 1927)。アメリカ合衆国で『ウラキ』(北米朝鮮人留学生雑誌)発刊。 矢内原忠雄『植民政策講義案』 小金井、東大を定年退官。 鳥居龍蔵『武藏野及其有史以前』磯部甲陽堂。柳田国男・岡正雄ら『民族』刊行(〜1929)。岡は創刊号の巻頭論文「民族學の目 的」(1924年の記載あり)で、民族学をWHR.リヴァーズの用語としてい る
1925
1926
柳宗悦は、陶芸家の富本憲吉(1886-1963)、濱田庄司、河井寛次郎の四人の連名で「日本民藝 美術館設立趣意書」を発表。
京城帝国大学創設 ——予科は1924年設置(宗教学教室:赤松智城、社会学教室:秋葉隆、が翌年に就任) 小金井良精『人類学研究』。矢 内原忠雄『植民及植民政策』。清野謙次「津雲石器時代人はアイヌ人 なりや」(小金井良精『人類学研究』のアイヌ説への反論) 西村眞次『体 質人類学』早稲田大学出版部。体質人類学とはPhysical Anthropologyのこと(同書1ページより) 8月15日(財)啓明会第18回講演集で柳田國男「眼前の異人種問題」(柳田国男全集、第26巻 に収載)、金田一京助「アイヌ研究の現状」などを講演(『ア イヌ史資料集 / 河野本道選』)。 啓明会「1919 年(大正8)8月4日,その前年まで埼玉師範学校教員であった下中弥三郎を中心に県下の青年教師によって組織された教育運動団体。会は,教員の地位・待遇 の向上をめざす職能的な教員組合としての性格と〈教育的社会改造運動〉(下中)の性格とをもって出発した。翌20年5月の第1回メーデーには,教員組合と して参加,一般労働組合との組織的連帯をはかっている。同年9月,全国的な運動への発展をめざし,〈日本教員組合啓明会〉と改め,〈教育改造の4綱領〉を 発表」(コトバンク)。 小金井良精『人 類学研究』大岡山書店

1927
景福宮光化門が取り壊されそうになると、 これに反対抗議する評論『失は れんとする一朝鮮建築のために』を、雑誌『改造』に寄稿した。これが多大な反響を呼び、光化門は1927年に移築保存された。

柳宗悦(撮影年不詳)
4月『民 俗學概論 : 英國民俗學協會公刊 / バーン編著 ; 岡正雄譯』岡書院。 長谷部言人[1882-1969]『自然人類学概論』(人類学叢書第1篇、岡書 院) 6月20日小金井良精(70歳)「本邦先住民族の研究」について御前講演 「九、二〇赤坂離宮に到着、ただ一〇分を要したるのみ、講和の間に到りて持参標本を卓上に並 べ、廊下にて出御を奉迎、珍田侍従長自分を紹介せらるる、皇后陛下は時刻に到り出御無かりき、閑院宮載仁[か んいんのみやことひと]殿下のみ。他は牧野内大臣、一木宮内大臣、珍田侍従長、奈良武官長始め宮内官二十名計、一〇、〇五講和を始む、時々写真を陛下御前 に持ち進みて説明申し上る、とくに頭骨脛骨の際は立御になりて窓際卓まで御出てなり天覧あらせらる、一一、一五「各方面から考慮致しまして私は本邦石器時 代民族はアイノであるという結論に達した次第でござります」と講了したり、別室に於て尚ほ御質問あり遺物飾物を持参す「小金井は先刻アイノ と日本人との間 に混血したといふたが何処で如何にせしか、日本民族は何処から来たか」など御質しあり、入御の後別室にて茶菓一折を賜ふ、御下賜品(羽二重一疋[たん]) あり、一一、五五離宮を去る、教室に寄りて標本を置き、一時前家に帰る、先つ滞りなく「本邦先住民族の研究」御前講話終り安堵。」——『金井良精日記』昭 和篇、28ページ、2015年 内村祐之ロックフェラー研究所の野口英世を訪ねる。内村、 9月に渡道し 北海道帝国大学医学部精神科教室教授就任(1928〜1936)の準備をおこなう。 崔南善「薩満教箚記(さっき)」、李能和「朝鮮巫俗考」を『啓明』19号に寄稿。 村山智順『朝鮮の服装』朝鮮総督府、1927年;村山智順『朝鮮 人の思想と性格』調査資料第二十輯、朝鮮総督府、1927年 "Canadian anatomist Davidson Black of Peking Union Medical College, excited by Andersson and Zdansky's find, secured funding from the Rockefeller Foundation and recommenced excavations at the site in 1927 with both Western and Chinese scientists. Swedish palaeontologist Anders Birger Bohlin unearthed a tooth and Black placed it in a gold locket on his watch chain." -Peking Man.
1927
1928
Realising that the general public needed to be educated in his understanding of the beauty of Japanese crafts, Yanagi set about propagating his views in a series of articles, books and lectures, and his first complete work Kōgei no Michi (工藝の道, The Way of Crafts) was published in 1928. 『工藝の道』(柳 宗悦全集:8)
移川子之蔵(1884-1947) が、台北帝国大学文政学部教授(兼・評議員)として赴任し、土俗学・人種学主任となる。移川は自分の教室をInstitute of Ethnologyと称した。 京城帝大に民俗参考品室設置(秋葉隆)。今村豊が京城帝国大学解剖学教室に赴任。 矢内原忠雄『人口問題』岩波書店。 足立文太郎『日本人体質の研究』岡書院(1944, 荻原星文館)。清野・金関丈夫『人類起源論』 村山智順『朝鮮の習俗』朝鮮総督府、1928年 野 村伸一「『朝鮮の習俗』という小冊子をみてみよう。これは全82頁のうちに51枚の図版を添えたなかなかよくできた案内書なのであるが、ここにはどこにも 村山の名前がない。そして、「はしがき」をみると、内鮮は一帯であり、日韓併合が「自然に帰したるもの」と強調している。  総督府の官僚にとって、朝鮮の風習を探求することは「今は学究的な興味からするやうな閑事業ではなくなりました」ということであり、すべては統治に供す る道具である。つまり、孫晋泰の好意的な書評にもかかわらず、村山のすべての知的営為は公的には、個人の責任において著した作品ではなく、あくまでも内鮮 一体化をめざす植民地経営のための調査でしかないということである。  この匿名性はそうなまやさしい状況ではない。村山のすべての叙述はたとえ何千頁書こうとも、基本的には次の枠組、構図を逸れてはならない。すなわち日本 と朝鮮は同一系統の文化の上にあるにもかかわらず、片や陋習にまみれて劣っている朝鮮、片や開化し躍進する日本という基軸があり、こうした前提に立ちつ つ、朝鮮を旧弊から解き放ち、やがて内地の日本人が違和感を感じないような水準にまで善導していくという構図が潜んでいたのだ」https: //bit.ly/2LvcQIr
1928
1929

内村祐之、北海道帝国大学に正式に着任。 村山智順『朝鮮の鬼神』発刊。矢内原忠雄『帝国 主義下の台湾』岩波書店 村山智順『朝鮮の鬼神』調査資料第二十五輯、朝鮮総督府、1929年 9月ニコライ・ネフスキー単身で帰国。北海道帝国大学医学部解剖学教室第二講座に児玉作左衛門(こだま・さくざえもん:1895-1970)教授が赴任。 同教授 は、1959年まで30年間同講座の教授を務めアイヌの「医学的研究」ならびに文化史の研究に従事する[2018年に関 連記事]。雑誌『民族』の廃刊。民俗學会編の雑誌『民俗學』刊行(〜1933)(柳田の脱退を受 けて。岡は1929〜1935年オーストリアに留学)

1930
北大路魯山人は主宰する『星岡』で柳批判 を翌年にかけて展開。濱田庄 司、益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を開始する。柳宗悦『今も続く朝鮮の工藝』(→1947年再刊)
金関丈夫(1897-1983)「琉球人 の人類学的研究」で京都帝国大学より医学 博士号を取得。金関は1928-1929年頃、沖縄県今帰仁(なきじん)村の百按司(むむじゃな)墓より少なくとも26体を持ち出し、京都大学などに保管 していたといわれる(琉球新報 2017年6月1日)。 小信小太郎「同族の喚起を促す」『蝦夷の光』 日本民族 衛生学会創設(→1935年・民族衛生協会へ改組) 移川子之蔵(うつしかわ・ねのぞう)は、南方土俗学会を組織し『南方土俗』を創刊[1931-1939](『臺灣 の土俗・人種』"改造社版日本地理大系臺灣篇抜刷 "16pp.) 岡田謙、台北帝国大学講師 10月7日〜12月 霧社事件(モーナ・ルダオは山中にて消息不詳、4年後に遺体とし て発見). 鹿野忠雄「鳥居博士の報告を疑ふわけではないが、物は試しで、一つ墓地の発掘と なったわけである。……発掘に仍(よ)つて、鳥居博士の報告とは違つた結果を得た。余の発掘は、唯の一回であるが、ヤミに聞いて見ても、皆、かくすると答 へるので、余は現在の所、此の形式である事を確信して居るものである。鳥居博士の報告されたのは、特別な例外であろう」狩野(1930:37-38)※出 典は全京秀(2020:222) アメリカ自然人類学協会の発足。
1930
1931
 Yanagi started a magazine Kōgei (工藝, Crafts) in which he, and a close circle of friends who thought like him, were able to air their views. 雑誌『工藝』

貝澤正(1912 -1992)、アイヌ旧土人保護法を批判(「土人保護施設改正について」『アイヌわが人生』岩波書店、1993年) 直良信夫は西八木で洪積世人類化石を発見。 京城帝国大学解剖学教室で朝鮮人の生体計測がはじまる(〜1945年)。 村山智順『朝鮮の風水』調査資料第三十一輯、朝鮮総督府、1931年

1932

満州国建国。朝 鮮民俗学会創設。宋錫夏が幹事に就任。 村山智順『朝鮮の巫覡』 調査資料第三十六輯、朝鮮総督府、1932年 8月陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室「三研」が開設され る。これが「関東軍防疫給水部本部」設立の嚆矢となる(日本の医療人類学と生命倫理学を 考えるためには重要な「事件」である)。 12月昭和天皇の150万円の御下賜により財団法人日本学術振興会が設置される。

1933

Masao OKA, Oka, Masao, "Kulturschichten in Alt-Japan"にて、ウィーン大学・哲学博士(岡正雄) 『朝鮮民俗』創刊。京城帝大に満蒙文化研究会が設立される。赤松・秋葉による満蒙調査が 開始。 村山智順『朝鮮の占卜と預言』 調査資料第三十七輯、朝鮮総督府、1933年 10月22日、1903年11月に亡くなっ た平取の平村ペンリウク氏の遺骨が、北海道帝国大学の山崎春雄教 授、岡田正雄(夫)助教授らの指導のもとで「発掘」される。 足立文太郎『日本人の静脈系統』Das Venensystem der Japaner / von Buntaro Adachi

1934
朝鮮農地令公布。震檀学会創設(宋錫夏が 幹事)(詳細は右欄)。日本民藝協会発足。 朝鮮農地令公布。震檀学会創設(宋錫夏が 幹事) 「植民地下の朝鮮で1934年5月に設立された研究会。李丙燾(이 병 도 1896-1989)ら歴史学者を中心に, 金台俊(1904?-1949),崔 鉉培,孫晋泰ら文学者,語学者,民俗学者も加わり,国学=朝鮮学研究の発展を目指した,朝鮮人自身による初め ての組織である。史学史的には,植 民地期の歴史研究の三大潮流,すなわち民族史学,実証史学,社会経済史学のうち,前2者に属する人たちが合流した組織であること,のちに朝鮮民主主義人民 共和国の歴史学界において指導的地位を占めることになる金錫亨,朴時亨も,学界へのデビューはこの学会を通じてであったことなど,その幅広い研究者の連合 戦線的な性格が注目される」「震檀学会」より) 「 金台俊(1904?-1949)朝鮮の文学者。出生地は不明。京城帝国大学朝鮮語学 科を卒業し,同学科の講師。1937年日中戦争が始まり植民地下の朝鮮で朝鮮語その他の民族文化が滅亡の危機にさらされるや,朝鮮語文学会,震檀学会など を組織して朝鮮学の研究と発展に努力した。また39年以後は朝鮮共産党再建のため地下活動に参加,44年秋に警察の保護観察を受ける身でありながらソウル から中国へ脱出し,延安の朝鮮独立同盟に参加した。解放後は南朝鮮労働党文化部長となって反米闘争を展開したが,49年秋に李承晩政権によって処刑」(金 台俊) 「崔 鉉培(チュエ・ヒョンべ, 1894-1970)韓国の朝鮮語学者。慶尚南道蔚山出身。京都大学を卒業後、朝鮮語学会で働くが、朝鮮語学会事件(1942-1943)に連座して投獄 される。朝鮮解放後、ハングル専用主義者として朝鮮語文法の体系化に尽力した。著作に『우리 말본(国語文法)』『한글갈(正音学)』など」 「孫晋泰(Son Chin‐t‘ae)1900-?:朝鮮の歴史・民俗学者。号は南滄。ソウルの出身。1927年早稲田大学文学部史学科を卒業。33年以降,延禧・普成両 専門学校講師,45年ソウル大学校教授,49年ソウル大学校師範大学長,文理大学長を歴任し,50年朝鮮戦争で朝鮮民主主義人民共和国に連行後,消息不 明。彼の史観は民族の発展だけでなく,その全構成員がすべて幸福になることを目ざす新民族主義で,主著は《韓国民族史概論》(1948),《国史大要》。 1932年4月宋錫夏(そうしやくか)らとともに朝鮮民俗学会を創設」 4月(1934年)「東京人類学会 創立五十年記念講演会」開催「東京人類學會創立五十年記念講演會記事」( https://doi.org/10.1537/ase1911.49.173)。 小金井「人類の咬合形式」(日、独)論文 日本民族学会の設立(初 代理事長:白鳥庫吉[しらとり・くらきち、1865- 1942]、理事:新村出、渋沢敬三、関屋貞三郎、桑田芳蔵、移川子之蔵) 平野義太郎(「すでに生活力を失ってゐるアイヌ族」→『思想』144号) 柳田国男『民間伝承論』 日本学術振興会「アイヌの医学的、生物学的研究」(永井 潜・班長)。児玉作左衛門は解剖小委員会委員となる。 11月 大阪民俗談話会発足(→近畿民俗刊行会) 今村鞆『人 参史』の刊行がはじまる(→1940) 矢内原忠雄『満洲問題』 この年、霧社事件のリーダー・モーナ・ルダオ(1880-1930)の白骨死体と思しき骨を発見。 その後台北帝国大学考古人類学科に「凶蕃」として陳列される(中川・和歌森編1980:102-103)。遺体は1974年に「霧社山胞抗日起義記念碑」 脇の「莫那魯道烈士之墓」に葬られる。
1934
1935
2.26事件 2.26事件 『民族學研究』(1巻1号)発刊。民間伝承の会『民間伝承』創刊。エイプ会発足。 朝鮮総督府、心田開発運動がはじまる。 秋葉隆がオロチョン調査。 村山智順『朝鮮の類似宗教』調査資料第四十二輯、朝鮮総督府、1935年 4月 岡正雄帰国。 J.エンブリー、熊本県球磨郡須恵村で調査[→リンク「ジョン・エンブリー」]。 6月22日Lectures delivered at Meiji-Seimei-Kan, Tokyo, in 22 June, 1935, von W. Schmidt = ウイルルム・シュミット述 ; 岡正雄譯 ; 國際文化振興會編, Neue Wege zur Erforschung der ethnologischen Stellung Japans (日本の民族學的地位探求への新しき途) 移川子之蔵・宮本延人・馬淵東一『臺灣高砂族系統所屬の研究』※臺北帝國大学土俗・人種學研究 室調査 ; 第1冊: 本篇, 第2冊:資料篇、刀江書院, 1935 「二つの「ミンゾク」学※が袂とを分かったのは、柳田[国男]が一国民俗学を提唱した翌 年の、1935年(昭和10)年ごろのことである」[伊藤 2006:5]。※2つのミンゾク学とは、民俗学と民族学(戦後の文化人類学)のことである。 小金井良精「アイノの人類学的調査の思ひ出」『ドルメン』(1888:明治21年7月8 日〜9月3日の調査紀行:アイヌ人墳墓の学術的「盗掘」記録の傍証となる) 高橋新吉『蝦夷痘黴史考』。北海道帝大医学部・児玉作左衛 門による森村・落部村の遺骨盗掘。 足立文太郎の古希記念論集、複数の大学から出版される。 岡茂雄は、岡書院、梓書房を閉店。 Ryuzo Torii, Ancient Japan in the light of anthropology, Tokyo : Kokusai Bunka Shinkokai , 1935
1935
1936
東京・駒場の自邸隣に日本民藝館を開設 (実業家の大原孫三郎[1880-1943]の支援)
東京人類学会・日本民族学会の第一回連合 大会が 開催(移川子之蔵特別講演「未開社會に於ける時の觀念」)。/日本民族衛生学会が民族衛生協 会に改組される。 内村祐之・東京帝国大学医学部精神病学教授(〜1958) 3月7日付「金 関丈夫、台北帝国大学医学部第二解剖学 教室の教授に就任(1936年に台北 医学専門学校は台北帝国大学附属医学専門部に改組)。赴任は3月下旬と言われる」(→金関丈夫と琉球人の人骨) 4月2日東京人類学会・日 本民族学会の第一回連合大会第二日目に小金井良精[1859-1944]「日本民族中の南方要素の問題について」を発表する。 5月 近畿民俗刊行会を改名し近畿民俗学会と改称。『近畿民俗』の刊行がはじまる。 鳥居龍蔵『考古學上より見たる遼之文化圖譜(1〜4)』東方文化學院東京研究所
1936
1937

1月、鳥居龍蔵『遼の文化を探る』章華 社。 7月7日 盧溝橋事件(日華事変:〜1945年、中国と の軍事衝突の嚆矢) 日本民族学会が主催した千島樺太調査(岡正雄はそれに随行)。泉靖一がオロチョン調査。 旧土人保護法9条の削除 (「土人学校」の廃止)昭和10年代以降、同法が廃止されるまで、土地の無償下付はなかった。 保谷に民族学博物館開設(渋沢のアチック・ミュージアム(1921-1937)資料を移 管) 村山智順『部落祭』調査資料第四十四輯、朝鮮総督府、1937年 Rassenkunde der Aino / von Y. Koya ; unter Mitwirkung von Assistenten, T. Mukai ... [et al.], [Tokyo] : Japanische Gesellschaft zur Förderung der wissenschaftlichen Forschungen , 1937 矢内原忠雄『帝国主義下の印度』 移川子之蔵「琉球藩民の墓」。移 川はオランダに赴き、台湾のオランダ統治時代の資料を写真にして2万5千枚を撮影し、帰国後に整理して約200冊の「台湾史料」にまとめた。 石田英一郎(Ishida Eiichirō, 1903-1968)は、ウィーン大学に留学(〜1939年) 11月24日ニコライ・ネフスキー夫妻、処刑される。

1938
国家総動員法
ウィーン大学が設置した日本学研究所に岡 正雄(Masao Oka, 1898-1982)が所長として就任。太平洋協会設立(実質的な組織運営者は、鶴見祐輔[1885 -1973]) 内村祐之ほか「あいぬノいむ二就イテ」(あいぬノ精神病学 的研究第1報)、内村祐之ほか「あいぬノ潜伏黴毒ト神経黴毒」(あいぬノ精神病学的研究第2報) 6月11日〜10月27日武漢作戦(漢口攻略戦)内閣情報部は文学者と懇談会を開いて漢口攻 略戦への従軍を要請し、陸軍部隊14名、海軍部隊8名、詩曲部隊2名の作家が従軍し、その見聞記を新聞・雑誌に掲載(通称「ペン部隊」) 京城帝大に大陸文化研究会が設立。長谷部言人が東北帝大から東京帝大に移動。モース生誕百年 祭。 村山智順『釈奠・祈雨・安宅』調査資料第四十五輯、朝鮮総督府、1938年 このころから、海外調 査がさかんになる。 9月 企画院の外郭団体として「東亜研究所」が設立される。 9月、岡正雄・馬場脩「北千島占守島及び樺太多來加地方に於ける考古學的調査豫報」日本民族 學會, 1938.9(民族學研究第4巻第3号(1938年9月号)抜刷, 第一回日本民族學會北方文化調査團報告) 里見甫(さ とみ・はじめ:1896-1965)3月阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂(→「昭和通商」の阿片のブローカー組織)の副董 事長(事実上の社長)に就任。
1938
1939

昭和14 東京帝国大学理学部人類学科創 設(長谷部言人[はせべ・ことんど] 1882-1969)。最初の人類学専攻の学生は3名。 第四回人類・民族連合学会開催(これ以降は中止) 小山栄三[社会学者]『人種学概論』(1929,1931の改訂再版) 高田保馬『東 亞民族論』岩波書店(同じ書名の白柳秀湖『東 亜民族論』は1941年刊) 鳥居龍蔵、Harvard–Yenching Instituteから招へいされ、Harvard–Yenching Instituteの客 員教授として燕京大学(Yenching University)に赴任。燕京大学は1941 年に閉鎖、北京に滞在する。1945年にHarvard–Yenching Instituteが復帰して、1951年まで滞在、同年帰国。

1940

2月7日アルフレート・ローゼンベルグ (Alfred Ernst Rosenberg, 1893-1946)はそれまでのInstituts für Biologie und Rassenkunde(ベルリン)を改組してInstitut für Biologie und Rassenlehreを創設する。 2月 学士院に、東亜 民族調査委員会設置(委員長:山田三郎)。4月12日初会合。 5月26日日本文学報国 会が設立(会長:徳富蘇峰、理事に折口信夫、柳田國男、顧問に正力松太郎などが見える) 9月30日施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設された内閣総理大臣直轄の研 究所「総力戦研究所」が企画院に設置される。 11月ウィーンから帰国したばかりの岡正雄(1898-1982)は、古野清人と 連れ立って帝国学士院会員であった晩年の白鳥庫吉を訪問した。当時の近衛文麿首相に民族研究所の設置への働きかけをおこなおうとしていた 秋、 旧制長崎医科大学に大陸医学研究班が設置。 田村幸雄「満洲國に於ける邪病、鬼病、巫醫及び過陰者、並 びに蒙古のビロンチ、ライチャン及びボウに就いて」。国民優生法施行 『朝鮮民俗』3号が、今村鞆(とも)古希記念特集号。(→『鼻 を撫りて : 螺炎隨筆 : 古稀自祝記念出版』) 移川子之蔵、台北帝国大学文政学部長に就任。 足立文太郎『日 本人の動脈系統 II』(独文)

1941
「アイヌへの見方(1941)」(「文化的植民者の眼」) 昭和16 東京人類学会を日本人類学会 (Anthropological Society of Nippon)に改称。 旧制長崎医科大学にあった大陸医学研究班が大陸医学研究所病理部と改称、拡充される。 6月民族研究所の設置が決定されるも、6月22日独ソ戦勃発、近衛内閣総辞職により研究所の 設置は無期延期(→1943年1月) 小山栄三『民族と人口の理論』(日本帝国における民族と人種の統一性を説き、民族の統一 概念が主張される) 内村祐之ほか「アイヌの内因性精神病と神経性疾患」(アイ ヌの精神醫學学的研究第3報) 京城帝大に秋葉隆ら陳列館を設置。村山智順『朝鮮の郷土娯楽』調査資料第四十七輯、朝鮮総督 府、1941年 12月12日日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」を閣議決定。 白柳秀湖(SHIRAYANAGI, Shuko, 1884-1950)『東亜民族論』千倉書房。 村山智順、朝鮮より「帰国」、朝鮮奨学会に勤務する。 W.R.スミス『セム族の宗教』永橋卓介譯、岩波書店。マレット『原始文化 : 人類学序説 』永橋卓介訳、生活社

1942
〜1943 朝鮮語学会 事件
1942年11月1日 大東亜省(Ministry of Greater East Asia)設置
「アイヌ人に送る書(1942)」(「文化的植民者の眼」)
3月 旧制長崎医科大学の大陸医学研究所 病理部が拡充され「東亜風土病研究所」が設置される。「東亜風土病研究所は九州南部の風土病調査な どを行う一方で、中国大陸の日本軍占領地で医療・衛生行政を担っていた同仁会と提携し、漢口などで野外調査を進めた。また当時長崎で大流行をみたデング熱 の調査も行った」東亜 風土病研究所) 大蔵公望日記「昭 和17年5月25日 九時三〇分、企カク院に秋永第一部長を訪ねしも不在。よって石田調査課長を訪ねて、左の事を秋月[永]氏へ伝言頼む。/一、来月より 約一ヶ月半にて満支に旅行すること。(略)/三、今度文部省で新設の民族研究所と 東研【東亜研究所:引用者】との間に摩擦の出来ぬよう、企カク院にて仕事の配 分を考へること」 5月東京帝大五月祭にて、理学部人類学科「南方民族の身長と頭の大きさの分布、南方の土俗 器、身体特徴を陳列」(全 2020:235)。 7月 東亜民族調査委員会報告。文科省「大東亜学術教育連絡協議会」の設置を答申。南方既設学術研究施設の管理運営、民族研究所の設置構想、学術探検派遣、熱帯 医学研究所などの設置などが審議されている(全 2020:234-235)。 7月、岡正雄、総力戦研究所(Institute for Total War, 1940-1945)にて研究生(=各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリート)に対して「民族問題」にて2回講義する。 平野義太郎[1897-1980]・清野謙次『太平洋の民族=政治学』:長谷部言人「大 東亜建設二関シ人類学研究者トシテノ意見」をはじめとして、この当時の専門家は日本人の人種的純粋性を説く。 鈴木栄太郎(1894 -1966)、京城帝大社会学教室に赴任。 12月『民族學研究』8巻4号で巻号シリーズが終わる。「民族研究所」の設立に関 する閣議決定(?) 〜1943 朝鮮語学会 事件 「朝鮮語学会の会員33名が治安維持法違反として検挙投獄された事件。42年夏,一女高 生の日記に〈日本語を使い処罰された〉とあったことに端を発し,同校教員が検挙され,10月にはソウルの朝鮮語学会にまで弾圧が及び,李克魯,崔鉉培,李 熙昇等の言語学者が検挙され,裁判に付された。李允宰,韓澄は拷問のため獄死している。同学会は,李朝末期に朝鮮語研究に大きな足跡を残した周時経のあと を継いだ言語学者が1921年結成した〈朝鮮語研究会〉を,31年改称したもの」(平凡社「朝鮮語学会事件」)。 「朝鮮語学会は「ハングル表記法統一案」を作成し,機関紙 『ハングル』を発刊するなど,朝鮮語の啓蒙,普及活動を盛んに行なっていた。しかし,臨戦体制への移行が進むにつれ,朝鮮語使用に対する弾圧が強まった。 41年太平洋戦争の勃発を機に,弾圧は露骨になり,翌年 10月,治安維持法違反を理由に語学会員を大量検挙し,洪原警察署留置場に1 年間留置し,咸興(ハムン)に護送した。拘束されていた約 30人のうち 13人が公判に付されたが,2人は公判中に拷問により獄死,11人の被告は2~6年の懲役という判決を受け,語学会は解散」(ブリタニカ「朝鮮語学会事 件」)
12月、北海道帝国大学助教授・高 倉新一郎(1902-1990)『アイヌ政策史』日本評論社。
1942
1943

昭和18年1月 民 族研究所、設立(〜1945年9月)。日本民族学会は、一 旦解散し、(財)民族学協会に改組される。『民族學研究』1月新1巻1号の創刊。1943 年11月から44年4月にかけて、民族研究所が主催した都合6回の連 続講義のべ42演者におよぶ「民族研究講座」が開催される[→国際常民文化研究叢書11: 「民族研究講座」講義録]。内村祐之、北支における麻薬問題視察、およびラバウルにお ける航空隊員の精神医学的診断に従事。 6月、鳥居龍蔵『黒龍江と北樺太』生活文化研究會。 7月『新 渡戸博士植民政策講義及論文集 』矢内原忠雄編、岩波書店。 11月7日国家の民族政策の大義とインテリジェンスに与みしていた民族研究所の所長・ 高田保馬(Yasuma TAKADA, 1883-1972)は民族研究講座において大東亜共栄圏の多民族 の共存共栄の未来を危惧。 移川子之蔵、台北帝国大学南方人文研究所所長に就任。 長谷部言人定年退官。鈴木尚が解剖学教室より移動して講師となる。 永橋卓介による最初の『金枝篇・簡約版』one- volume abridgementの翻訳(生活社、三冊のうち上巻の上梓、1944年に中巻。下巻は発行されず)

1944

蒙古善隣協会・西北研究所(蒙古聯合自治 政府首都・張家口に)設立(〜1945)退役軍人の 土橋一次機関長(理事長)、今西錦司が所長、石田英一郎が次長に就任。 民族研究所と民族學協 会は戦災を受けて彦根に疎開。高田保馬を新理事長に、岡正雄が事業部長 に就任する。 澁澤敬三、日本銀行総裁に就任。 小山栄三『南方民族と民族人口政策』(大和民族の雑婚・混血を嫌う)。東亜経済懇 談会編『大東亜民族誌』(大川周明、長谷部言人、清野謙次、美濃口時次郎、平野義太郎、大久保幸次、福田省三)『民族研究所紀要』(国立国会図書館) 409pp. 内容[創刊の辞(高田保馬) 民族政策の基調(高田保馬) 東亜に於ける民族原理の開顕(中野清一) 匈奴・フン同族論(河上波夫) 甘粛回民の二類型(岩波忍) 南洋群島原住民の土地制度(杉浦健一) ラーマクリシュナの生涯とその宗教運動(渡辺照宏) ] 田村幸雄「満洲に於ける民族と精神病に就いて」 京城帝大に大陸資源科学研究所設置され、泉靖一が嘱託。 小金井良精死去。 『人類学雑誌』59巻686号までを出版し、中断を余儀なくされる(4年間の休刊)。

1945
8月15日、敗戦。
『民 族學研究』は新2巻6号まで刊行しその後停止。『民族研究彙報』(1945年8月30日)[民 族研究3(1-2)として発刊] 京城帝大が廃止され、京城大学に。法文学部に人類学科が設置。ソウルに国立民族博物館 (Museum of Anthropology)が設置される(館長;宋錫夏[ソン・ソクハ])。 足立文太郎死去。昭和20年9月、民 族研究所の廃止の決定(10月15日付で廃止)。ただし、その外郭団体(財)日本 民族學協会は、実質的に、民族学会の機能をもつ(→1964年まで続く)R.ベネディクト「天皇はいかに処遇されるべきか」「日本人行動パターン」

1945
1946
1 月19日日本民藝協会北海道支部設立:「植民地的性格を持つ北海道に独自な民衆的手工芸の発達しなかったことは当然であり、その理由も種々に上げられる が、本道の代表的民藝品としてただ一つのアイヌ工芸品が残され、しかもこのアイヌ民藝が将に滅亡に瀕してゐる」(國松 1947)
(財)日本民族学協会、GHQ民間情報教 育(CIE)のパッシンによる講演会開催。 CIEは、国内における文化人類学民族誌調査を開始する。12月民族学協会は役員を改選し、会長・理事長に澁澤敬三を選出。『民族學研究』はこの年度に2 冊発刊(『民族學研究』新3巻1輯、2輯 (昭22.2))——小山栄三編集(1946-1947)。 清野『日本民族生成論』(執筆は1943年) 1月「民科」(民 主主義科学者協会)発足。6月に民科は政治、経済、歴史地理、哲 学思想の5分野にわたる90名の「戦争責任者」のリストを公開する(清水 2009:21)。高田保馬(Yasuma Takata, 1883-1972)、肥後和男(民俗学:)は公職追放(高田の公職追放は1946.12-1951.06)。 高倉新一郎・北海道帝国大学農学部教授に昇進(植民地学講座)。 旧土人保護法「授産・医療・ 救済」に関する規定の削除。 5月8日朝鮮人類学会創設。8月22日京城大学がソウル大学校に改称。ソウル大学校文理 大学社会学部人類学科。

1947
柳宗悦『今も続く朝鮮の工藝』再刊 昭和22 『民族學 研究』は新巻の巻号を引き継がず、この年度(それ以前の巻号を計上して)12巻1号 (昭22.7)-13巻4号 (昭23.4)と発行を続ける。 清水昭俊(2009:24)はそれを「日本民族學協會は、戦時の最末期における『民族研究』 への転換を無視し、その上で戦 後の『民族學研究』を日本民族學會発足以来の伝統に接続させようとしたといえる」と当時の日本民族学会(現在の日本文化人類学会)の姿勢を断罪している。 1947-1948年度の『民族学研究』は3号まで小山栄三を編集代表者としたまま、号ごとに、杉浦健一[1905-1954]、岡田謙、岩村忍が担当し た。 3月 学校教育法により新制大学が誕生。長崎医科大学は、長崎大学医学部になり、風土病研究所は、附属研究所になる。 アメリカ農務省A.F.レーパーら農地改革政策にともなう日本の農村調査を実施。 旧家の古文書・記録類の保存のための文部省が収集を開始(翌1948年、近世庶民史料調 査委員会) 第1回日本人類学会 日 本民族学協会 連合大会の開催(?) 5-6月台湾大学海洋研究所は蘭嶼(紅頭嶼)学術調査班を組織するが、そこに金関丈夫と国分直一が加わる。 7月、鳥居龍蔵が「遼上京城以南伊弗山上之遼代佛」を寄稿した遼海引年集編纂委員會編『遼 海引年集: 慶祝金靜庵先生六十生辰念記文集』出版地不詳。 日本学術振興会、翌1948年度の政府補助金が打ち切られることになり、同年度において「日 本学術振興会維持会」の形で続く。
1947
1948
朝鮮人類学会が、大韓人類学会と改称。
5月2日北海道民藝協会全道大会で「アイヌ手藝品の道外持出反対運動」と「アイヌ手藝品の製作復興」が決議される(北海道民藝協会 1948)

1948
1949

公職追放中(〜1951)の澁澤敬三、水 産庁に水産資料館設置を進言。 石田英一郎民間情報教育局顧問に就任(6月)。石田は1951年東大・東洋文化研究所文 化人類学部門に就任。 柳田國男、日本学士院会員に選任。民間伝承の会を日本民俗学会に発展解消させ、初代会長に就任。 1949 南山大学(カソリック神言会)開学、同時に人類学民族学研究所を設置(民族学 部・言語学部・人類学 部を置く) 内村祐之、松沢病院を退職。東京大学教授は継続。 田村幸雄「蒙古民族のユム・オロショナ(ユム・オロショ ン)の症例 大韓人類学会『人類学研究』創刊。 岡正雄は日本民族学協会理事長を渋沢敬三から引き継ぎ理事長となる
1950
(朝鮮戦争)6月25日に金日成率いる北 朝鮮軍が事実上の国境線と化し ていた38度線を越えて韓国に越境する
岡正雄の民族学協会の事業として、文部省 助成事業として「アイヌ民族綜合調査」(1951-1952)が始まる。「学 界消息(アイヌ民族綜合調査の計 画)」『民族学研究』15(1):34,40,83, 1950. 「アイヌ民族綜合調査」 は、『民族学研究』16(3.4),1952に特集「沙流(さ る)アイヌ共同調査」というかたちで予備報告がされる。調査は1951年8月に実施され、協会からは、泉靖一、杉浦健一、瀬川清子、石田英 一郎、岡正雄の ほかに、現地では久保寺逸彦が参加した(清水 2009:37, n59,n60)。 泉は1950年に日本民族学協会が計画した「アイヌ 民族綜合調査」に参加し、1951年8月に杉浦健一(1905-1954)との沙流アイヌ集落でフィールド ワークをおこない、調査上の困難にであっていた。それは「半世紀以前の彼らの社会生活はあとかたなきまでに変貌」していたと記している(泉 1952:45)。また、同調査で石田英一郎(1952:185)は、この調査が「アイヌ民族の福祉」に寄与する可能性も示唆していた。しかし、この調査 は予備調査だけに終わった。(→「泉靖一とアイヌ民族」) Michigan University, Okayama Project (上掲の図を参照) この年、朝鮮戦争勃発(-1952)
1950
1951

杉浦健一『人類学』の刊行(日本学術会議 人類学研究連絡委員会による新制大学教養科目 「人類学」教授要項による、戦後の代表的人類学教科書) 岡正雄(5/9-6/23;渡仏) 東京大学東洋文化研究所に文化人類学部門が設置される(石田英一郎、泉靖一) 柳田國男、國學院大學教授に就き、神道に関する講座を担当。 文部省資料館発足(〜1972年、後継組織、国文学研究資料館に組み込まれ「国立史料館 (〜2004)」となる。) 8月「アイヌ民族綜合調査」 (1951-1952)のうち沙流川地方で調査がはじまる。「学界消息(アイヌ民族綜合調査 の経過)」『民族学研究』16 (2):179, 1950.「アイヌ関係文献目録作成」(関)、「物質文化目録作成」(名取、八幡)、「アイヌ家系調査」(高倉・小山・泉・鈴木)、「アイヌの社会学的語 彙集成」(知里) 岩波文庫版『金枝篇(簡潔版)』永橋卓介訳で、全翻訳される。

1952

東京都立大学人文学部に社会人類学科が設 置される(翌1953年東京都立大学大学 院社会科学研究科社会人類学専攻が設置)

1953
(朝鮮戦争)7月27日に国連軍と中朝連 合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名 し休戦
1月、鳥居龍蔵『ある老学徒の手記』朝日 新聞社。 澁澤敬三、KDD創設に伴い社長に就任。十和田科学博物館開設。 馬淵東一・東京都立大学(社会学・社会人類学)教授に就任。東京大学理学部人類学科を母 体として大学院生物系研究科に人類学課程が設置。 杉浦健一(1905-1954)東京大学教養部文化人類学科教授(設立は1954) 泉靖一の「アイヌ民族綜合 調査」における1953年8月29日の記録については「泉靖一とア イヌ民族」を参照。 朝鮮戦争休戦協定。
1953
1954
柳宗悦、『朝鮮とその藝術』
東京大学教養学部教養学科文化人類学及び 人文地理学分科の設立。杉浦健一死去(泉靖一(1954)「故杉浦健一教授と人類学・民族学:追悼と評伝」『民族学研究』18(3):266 -272.)
1954
1955



1956

澁澤敬三、日本モンキーセンター初代会長 に就任。

1957
柳宗悦、文化功労者に選定。


1958
12月23日東京タワー竣工

1958
1959



1960



1961
柳宗悦死去。濱田庄司、日本民藝館の第2 代館長に就任。
澁澤敬三、東洋大学理事に就任。小川原湖 民俗博物館開設。 アイヌ人への道庁による福祉政策はじまる(→「アイヌとシサムのためのアイヌ文化入門」) 池田・ケネディ日米首脳会談で、日米間の科学協力事業実施が定められ、日本学術振興会と米国科学財団(NSF)がその実施機関に指定
1961
1962

柳田國男死 去、日本民俗学会葬が営まれる。Ainu creed and cult  / by Neil Gordon Munro ; edited with a preface and an additional chapter by B.Z. Seligman ; introduction by H. Watanabe, Routledge & K. Paul , 1962

1963



1964
東京オリンピック
(財)日本民族学 協会の、日本民族学会へ の再組織化。日本民族学会(Japanese Society of Ethnology)の[再]創設。日本民族学協会は、(財)民族学振興会と改称。
1964


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