In the eyes of a Cutural
Colonialist, Muneyoshi(Sōetsu) YANAGI; 1889-1961.
1921年5月朝鮮民族美術展覧会(京城)の展示場に立つ柳宗悦
「目に見える人文の跡は、今度 の戦争で殆んど影さへ止めぬ災禍を受けたが、併し目に見えぬ音楽と、生活に即 してゐる舞踊とは、その戦ひにも負けず、今も依然としてその美しさを輝かせてゐるのである。古人は「國家亡び て、山河あり」などと述べたが、沖縄では「山河亡びて、藝能あり」とでも云ふべきであらう」(柳宗悦全集 15巻, p.498)——1956年5月
「残忍な支配との共犯関係を隠 す」——レナート・ロ ザルド(1989:108)
ひとつの時代を追体験したけれ
ば、それ以降の歴史について自分が知っていることを頭から追い払うように…… ——ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」VII.
「太平洋戦争以前、大多数の日本の本土人 にとって、沖縄はかつての南蛮にも等しい遠い国でしかなかった。明 治四年の廃藩置県の措置も、ここでは明治十二年まで持越されたように、日本本土の近代化の歩みからは一歩も 二歩も取残された、はるかな絶海の孤島で、この地へ赴任を命ぜられた官吏は左遷として不運を嘆き、一日も早 い内地帰任を希うのが常であった。無論、沖縄が保有する豊かな文化の価値を知る人は、限られた専門家だけだ ったと言ってよい。本土の有識者で最も早く沖縄を訪れたのは、明治四十四年の河上肇であろうか。柳田國男と 折口信夫は大正十年に、伊東忠太は大正十二年に、澁澤敬三は大正十五年に渡沖し、それぞれの学問分野で貴重 な収穫を得ていたが、その意義が一般人に啓蒙されるということはほとんどなかった。また、沖縄の人びと自身 にも、伊波普猷ほか少数の学者を除いて、みずからの文化への認識は極めて乏しく、もっぱら後進性を卑下する 風潮のみが強かったのである。/昭和十三年の暮から始った柳宗悦の沖縄文化との接触 と、その価値の宜揚は、そういう沖縄にとっては有史以来の衝撃的な出来事であって、柳自身の生涯に占める重要さにも劣らぬ意義を沖縄の歴史に付与した、と 言って 過言ではなかろう」水尾比呂志 1981:621(『柳宗悦全集』第15巻、筑摩書房)(『評伝柳宗悦』ちくま文庫版, p.281, 2004年)
●柳宗悦の公認表象代理人としての自負を もつ水尾比呂志
「……すぐれた研究成果の公刊も少なくな い。しかし、同時に、事実誤認や恣意的解釈による無益な議論もまま見受けられる。なにより一般の柳宗悦 認識は、なお依然として浅いものに過ぎないと言わざるを得ないであろう。」(『評伝柳宗悦』ちくま文庫版, p.5, 2004年)
「戦
前の抑圧的状況下での朝鮮・沖縄・アイヌなどの人々とその文化への限りない敬愛を通して、天才の作り出す美から民衆美の発見へと美意識の革命的価値転換を
行ってから民藝運動を展開、近代日本文化の在りようを根底から問うた独創的思想家の全業績を明らかにする」(『評伝柳宗悦』筑摩書房, 帯紙文より,
2004年)
●朝鮮への審美化言説(「朝鮮の友に贈る書」1920 年より)
「私は朝鮮に住む日本人の、いわゆる親しい経験に対しては多くの信頼を持 たない。内なる朝鮮に入り得ない限り、それはただ外面の経験に過ぎぬ。かかる経験は、少しだに理解の裏書とはならぬ。人々には宗教的信念も 薄く、藝術的洞察も乏しいのである。不幸にも人々は貴方がたを朋友として信じる事を忘れている。彼らはただ征服者の誇りで貴方がたを卑(いや)しんでいる。もし彼らに豊かな信 仰や感情があるなら、必ずや貴方がたに敬念を払う事に躊躇しなかったであろう。もし も朝鮮代々の民族が、その藝術において何を求めているかを知り得たなら、おそらく今日の態度は一変されるにちがいない。多くの外国の宣教師は、自(みずから)を卓越した民だと妄想している。しかし同じ醜さが、優秀 だと信じる吾々の態度にもある事を私は感ぜずにはいられない。しかし敬念や謙譲の徳がない処に、どうして友情が保たれよう。真の愛が交され よう。私は日本に対する朝鮮の反感を、極めて自然な結果に過ぎぬと考えている。日本 が自ら酵(かも)した擾乱(じょうらん)に対しては、日本自らがその責を負わねばならぬ。為政者は貴方がたを同化しようとする。しかし不完全な吾々にどうしてかかる権威 があり得よう。これほど不自然な態度はなく、またこれほど力を欠く主張はない。同化の主張がこの世に購(あがない)得るものは、反抗の結果のみであろう。日本のある者が基教化を笑い去るように、貴方がたも日本化を笑い去るにちがいない。朝鮮固有の美や心の自由は、他のものによって犯されてはならぬ。否、永遠に犯され得るものでな いのは自明である。真の一致は同化から来るのではない。個性と個性との相互の尊敬においてのみ結ばれる一があるのみである。」
1920年はこんな時代です→「平取、静
内、浦河、白老に旧土人病院を設 置(〜1922)。柳田國男、
東京朝日新聞客員となり論説を執筆。全国を調査旅行。鳥居龍蔵、アムール川流域調査。
国際連盟事務次長に就任した新渡戸の後任として、矢内原忠雄は、東京帝国大学経済学部助教 授に就任、植民政策学を講じる。」日本文化人類学史・日本民芸運動
と文化人類学)
◎アイヌへの見方(1941)とアイヌ人 に送る書(1942)(全集第15巻解題, p.647.)
1912 明治記念拓殖博覧会(東京・上 野公園:翌年大 阪:天王寺公園)にて、アイヌの人間「展示」とその工芸に出会った(あくまでも可能性——記録なし。同時期は東京帝国大学在学中)
1915年頃 アイヌの花茣蓙の前に座る 宗悦の写真が現存する(『別冊太陽』日本のこころ294号, p.113, 2021年)
1920「朝 鮮の友に贈る書」(朝鮮総督府は掲載された『東亜日報』の連載を禁じる)1920年から、20年後。
1938暮-1939正月 河井寛次郎、 濱田庄司とともに訪沖する
1939 3月兼子夫人と訪沖。第二高女 の座談会で、伝統衣装や沖縄語を排することを「不可解」と発言し、参加者から反発を食らう。
1940 1月7日観光協会と郷土会主催 の座談会で標準化をめぐり激論。柳宗悦はバイリンガルを主張するが、標準化論の県学務部も関わり論 争に(「沖縄方言論争」) (太田 1992, 小熊 1998:392-416, 熊倉 1978:129-142, 竹中 1999:117-138)(『柳宗悦全集』15:148-149)。柳は沖縄県知事と会見までおこなっている(全集 15:597-600)。県知事の発言のなかに「此の県は日清戦争の時でも支那につこうとした人がゐた位です」(p.600).
この方言の抑圧は、方言札のほかに、金城 次郎が昭和15(1940)年7月に召集され熊本県輜重(しちょう)三連隊に配属されたが方言が直 せず日々なぐられ後年聴力を失うことにもあらわれる。また沖縄戦では軍人の前で方言のみで会話することがスパイ扱いされるため厳禁になったことがある。 2016年10月沖縄の高江ヘリコプター着陸帯(通称ヘリパッド)建設予定地を警備する大阪府警の巡査部長(29)と巡査長(26)が、反対運動の沖縄人 に対してどこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」「黙れ、こら、シナ人」と発言、したことにも沖縄人への和人(ヤマト)の偏見の一端がみえる。
1921年5月朝鮮民族美術展覧会(京 城)の展示場に立つ柳宗悦、2013 年の中央日報も「朝鮮を愛した日本人であったのか、それとも朝鮮を軟弱で受動的な植民地として見下げていた人だったのか」と疑問文で問う。
1940「沖縄人に訴ふるの書」——「何 よりも大和文化の独自性を最も大量に所蔵するのは沖縄だと云ふ自覚を有たれよ」15巻p.167.
柳宗悦の沖縄人からの反発がトラウマにな
り、もし、アイヌの民藝研究に向かわしめたとしたら、これは村井紀の「南島イデオロ
ギー」における柳田國男と同じように、山人論を放棄して南島論への
「転向」と同じではないか?
1941「アイヌへの見方」『工藝』 106号:当時金田一(1941)がアイヌ文化工芸展講演で「消えゆくアイヌ」説を展開する。『工藝』 106号は同年12月10日発行だが、その2日前は日本が対英蘭宣戦布告の日であった。
1942「アイヌ人に送る書」
——山崎幸治説(私信
2021)によると、冒頭の文章には、柳がアイヌとの心理的距離を推し量る「行為」があると主張されておられる。また筑摩書房全集22巻(下:271-
272)によると3月15日発行の『工藝』107号を「アイヌ特輯」として当該論文を収載した後の29日にヒトラーユーゲント一行が日本民藝館に来館して
いる。(引用する私も山崎氏も道徳的判断をしているのではなく)時代を感じさせる、と感じるのみである。
499 |
アイヌへの見方 ・これは和人に対してアイヌへ見方を変えるべきだというメッセージである。 (1) ・ある民俗学者との対話より→「実際それ等の人々は哀れである。種族の保存を云々する人逹もあるが、文化に浴してゐない彼等の存在が、永続きしたとて何も ならない。徒らにその悲惨な暮しを長びかすことは、友逹としての吾々の務めではない。消えるべき運命の忍のは寧ろ消える方がいい。只人間の歴史の一段階と して吾々はせめても其の生活や信仰や行事等に就て記録をとっておいてやりたい。之が民俗學者の有つべき思ひやりであり、又務めでなければならない」 |
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500 |
・憐憫をかけることはいいが、かけ方
に何
か不遜なものがある ・実際のアイヌの生活から、「文字をもたない、科学がない、生活の程度が低い、衛生の思想に乏しい、大きな産業がない、人口が少ない、迷信が多い」とあげ つらうのは「容易」という。 ・「驚嘆すべきもの」はアイヌの(民芸的)芸術であると最後に主張される。 ・アイヌのために「闘う」ことの美徳は説いている。 ・民俗学者の知識収集の情熱には「利己的な影」がある。 |
・憐憫は「友誼」であるが、敬念はさ
らに
一層の友誼と主張するので、和人のアイヌに対する憐憫も容認する(差別よりもマシというわけだ) |
501 |
・アイヌに対して三人称的すぎる——
客体
視している。一人称の視点もない。せめて二人称でみてほしい。 (2) ・自文化中心主義的な視点を戒める ・自分はアイヌ工芸に感嘆した |
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502 |
・アイヌを模倣せよとは言っていな
い。む
しろ、アイヌの風格にまで、和人の文化を高めよ |
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503 |
・アイヌはたしかに「原始的な方法」
でつ
くられる。 ・(南洋諸島の)未開人と蔑まれる民族のものが圧倒的に美しい。 |
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504 |
・美の本能が損なわれてない(→プリ
ミ
ティビズム的な称揚) ・土着信仰を例にとってみる |
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505 |
・知識人はとかく懐疑的。しかし、「原素人にとって魂魄(こんぱ
く)の
世界は現実である」「見えないものが目前に見える」 |
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506 |
・神学のある大学で授業を講じた ・みんな篤信だが、アイヌには蔑む態度がみられる (4) |
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507 |
その理由 1)彼らの信仰にある ・霊の囁き 2)禁制の信仰は彼らを道徳的にする。掟に対して誠実だ。 |
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508 |
・土俗的なものの美しさを迷信で片付けてはいけない。 ・「真実なるもの」がアイヌの作物を美しくする ・「アイヌの文化はたとへ程度のおくれたものであつても、そこには何 か本質的なものがあるのである」 ・「アイヌへの見方は色々あらう。併し(しかし)彼等の中に価値あるものを見出す時ほど、正しい見方を有ち得る場合はない。アイヌへの憐憫は、アイヌへの敬念よりも大きな力ではあり得ない」。 |
・論証抜きのアイヌ賛美。だが、これは彼らのつくりあげるものの賛
美を
通して、(自分が理解する内的な美の基準に合わせて、それに感動したので、)アイヌそのものが[無批判に]真実を生きていると柳宗悦が勝手に思い込んでい
るだけである。 |
509 |
挿絵小註(『工藝』106号-1941) ・原始人の工藝には素晴らしい要素がみえる |
・アイヌ=原始人の認定か? |
510 |
・彼等にはタブーがある禁制の宗教がある ・彼等には甘さはない |
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511 |
・つくられるものには誠実さがある ・また美を意識してできたものではない ・だから「美醜等の別れる以前の境地で出来て了(しま)ふのである」 |
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512 |
アイヌの織物 |
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513 |
・メキシコのマヤ芸術 |
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514 |
・ |
東北と北海道の生態系サービスの話から類推できる北国の工芸の類似 性 |
515 |
・コプトやインカ |
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516 |
・図版:アツシ |
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520 |
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524 |
編集(編輯)後記——『工芸』106号 ・杉山寿栄男コレクション、芹沢銈介の選による ・考古学あるいは民俗学観点からではなく、価値的に優れたものを選んだ。「アイヌを最上の姿で示した」展覧会である。 |
・アイヌを表象する権利が全く自分にあることを疑うことのない自信
に満
ちた柳宗悦の記述(全集 15:524-525)をみるとこれはまさに同じ時期に中東を表象する泰西の東洋学者たちの自負に完全に重なってみえる(→「オリエンタリズム」) ・山崎幸治説(私信:2021)によると、アイヌ語についての言及がないのは、柳の「沖縄方言論争」とは異色の対立をなすという |
525 |
・再びコプト ・樺太アイヌの特権的地位 |
・アイヌ文化の真贋を判定するのもいつのまにやら柳宗悦。 |
526 |
・ピカソやマチスのアトリエや書斎のマントルピースの上の「アフリ
カの
土人が作った彫物」がある ・文化人の甘さや病い→治癒のための「原始芸術」 |
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527 |
・アイヌも原始芸術のように「文化人」の驕りを正してくれる。 ・「アイヌを原始的な人種だと見下すのは、至って容易な見方」であるか、そんな見方からは何もうまれない。アイヌ(へ?)の正しい見方は、アイヌに価値認 識をだだしく有(も)つものだ。 |
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528 |
アイヌ人に送る書 ・これは、アイヌ人に対して和人が使う日本語(和人語)によって書かれたメッセージである ・余計なおせっかいだが「君達と吾々との間に於けるかういう事情は、なかば吾々に責任があるのだ」 |
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529 |
・アイヌの辛酸を舐める生活を描写する ・「アイヌの種族であると云ふことが、宿命的な呪ひになってゐるのだ」 |
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530 |
・今度は朝鮮人への辛酸を舐める経験の話をもってくる ・返す刀で沖縄県を憐憫の目でみる |
・柳宗悦の意識のなかでは、朝鮮人もアイヌも、支配民族である和人
によ
りなんらかの辛酸を舐めていることが示唆されている。 |
531 |
・両者の歩み寄りは根本的なものになるか |
・被差別民はその差別を内面化しているので、自分たちのプライドを
取り
戻すことが重要と柳宗悦は主張しているように思える「。 |
532 |
・日本国民の一部分だと言いながら、そのような都合のよい見方が強
要さ
れたものだ。 1)お互いが相手の立場になる ・処方箋→「若し吾々がアイヌ人であったなら」と考えることである。 |
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533 |
・「寧ろ自分の中にアイヌを見出し、アイヌの中に自分を見出さず
ば、本
当の理解はない」 ・アイヌのことは関係ないとしている人は、想定の圏外(相手にしない)である。 2)お互いがお互いを尊敬せよ ・アイヌと和人の関係は、地方の人と都会の人の関係のようなものである ・欠点の矯正ではなく、特点の育成である |
・これこそが、鶴見俊輔の「認識」アプローチであり、彼はそのよう
な思
考法を拒否する(→「知識人の戦争責任」)。 |
534 |
・日本民藝館での展示の回想 ・吾々の進んだ文化のほうが醜いという面もある |
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535 |
・「だがアイヌ人はそんな特別な人間を必要としなくても、立派なも
のが
産めるのだ」 ・「アイヌ人の信仰を只原始的なものと片付けて了(しま)ふのは、何たる粗笨(そほん)な見方あらう。さふ云う見方で終わるのは、浅薄な合理主義者の陥る 悲劇なのだ」 |
・先住民の文化生産というロットの中に押し付けるものとして批判す
るこ
とも容易だが…… ・「合理主義者」というステレオタイプ |
536 |
・君達自身も気付いていない卓越したものが、君達の血の中に流れて
ゐる
のだという事実だ」 ・アイヌとして生まれたことに誇りを持て(なぜなら文化人=文明人が持たないものを君達がもつからだ) ・2つの目的がある。 1)アイヌの文化に和人が学ぶべきものがあることを知ってもらう 2)アイヌの芸能に驚嘆している者(=柳宗悦自身)が少なからずいることを君達(=アイヌ)に知ってほしい |
・発見するのは柳宗悦だとう意識 ・本質的なレイシズム的賛美 ・ネイティブ・アメリカンよりもインディアンのほうがいい先住民ジョーク(インディアン・ジョー ク) ・自然人類学者尾本恵市氏が、あるシンポジウムの会場で1972年当時の人類学民族学連合大会でのアイヌとの邂逅のエピソードを話した折に「アイヌの若者 たちは色々と言ったが、腹を割って話すと、これが素朴でいい人たちなんですよ」と発言した(2017年ごろ) ・(経済近代化もふくめて)全面的なあるいは総合的なアイヌ政策の推進するのではなく、アイヌの芸能に特化して「君達はすばらしい」と主張するのは、アイ ヌの文化の絶滅に加担しながらも、その文化の真贋を判断し、その活動をエンパワーするのは、他ならなぬ自分であるというレトリックは「帝国主義的ノスタルジー」の一種の変奏ではないか。 |
537 |
・アイヌ自身に民族の誇りを持て、運命を肯定する見方を持て、「自 覚あ るアイヌ人が起ち上がることより(「〜ことにより」ではない:引用者)、「民族の誇 り」は祝福すべきことだ、と述べる。 | 「自覚あるアイヌ人が起ち上がることより(「〜ことにより」ではない:引用者)「民族の誇り」は祝福すべきことになる。の箇所が「ことにより」となると、「自覚あるアイヌ人が起ち上がることにより『民族の誇り』は祝福すべきこと」にな り、アイヌに対して積極的抵抗を呼びかけることばになる。 |
538 |
挿絵小註 ・アイヌの木工品 |
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539 |
・タバコ入れ |
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540 |
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541 |
・燧(ひうち)石入れ |
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542 |
・腰刀 ・刀鞘 |
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543 |
・短刀 ・まきり |
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544 |
・矢筒 ・箱枕 |
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545 |
・八 ・樺桶 ・片口 |
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546 |
・盆 ・髭箆(ひげへら) |
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547 |
・餅箆(もちへら) |
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548 |
・織箆(おりへら) |
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・筬=おさ(うおさ) ・匙(さじ) |
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・人形 |
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551 |
(図版) |
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(図版) | |
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(図版) | |
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(図版) | |
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(図版) | |
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(図版) | |
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(図版) | |
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(図版) | |
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(図版) | |
560 |
編集(編輯)後記『工藝』107号(1942) ・従来の粗忽(そこつ)なる見方の修正 ・農業勧業は失敗した、だから、手工芸で援助すべきだという主張 ・熊の木彫りではなく、実用品で。 ・アイヌがもつ「才能」を為政者(=和人)は支援し、アイヌを豊かにすべきだ。 ・「つくってもらいたものが沢山目前に浮かぶ」 ・「よい組織」において発展すべきだ=それがアイヌの名声を高めることになる。 |
◎水尾比呂志を含めて柳宗悦をアイヌ文化 の擁護者ないしは保護者として評価すべき議論がある(※以下の情報は北海道大学アイヌ・先住民 研究セン ターの山崎幸治准教授による:2021年12月)。
杉山(2002);竹ヶ原(010:92
-97);森田(1977);民芸品の普及をはかりエンパワメントした(中見
2003:348-350)
◎これまでの識者の柳宗悦への批判的論点
歴史的には、熊倉(1978:138- 140)が柳宗悦へのアイヌには具体性が欠けると指摘する。山崎先生によると1947年まで柳宗悦は 渡道していなかったという(全集22下:278)。上野昌之(2004)はサイード『オリエンタリズム』に依拠してもっとも早いうちに批判している。その 骨子は、柳宗悦が、民藝 運動のために、アイヌ文化が称揚されているにすぎないということにあるらしい——たしかに上掲のノートからはそう読み取れる箇所が多い。上野は、アイヌの 民藝的な美学が、現実のアイヌの姿を隠蔽する働きをもつとまで指摘している——これには民藝側からの反発が予想される、なぜならば民藝はプロレタリア・リ アリズム芸術運動でもなんでもない、唯、カント的な本質的美学が生活の中に驚くほどあるというのが柳宗悦の美学の特徴だからである。ただ上野の論点は、柳 宗悦のこのような芸術や文化を前面に出して、アイヌへの社会的差別を「隠蔽」する問題性は、今日のアイヌ文化振興法にも繋がると指摘している点である(山 崎幸治,私信)。
そして、隠蔽とは本来は誰にもみえないも
のであり、批判の力のみがそれを可能にするとすれば、アイヌが直面している厳しい現実を、柳の議論
が「隠蔽」するとは言い難く、むしろ、多くの人たちは背をむけることに他ならない。あるいは、アイヌへの過酷な差別を仮に「知っている」としても、アイヌ
と共に「それを生きる」ということにはならない。アイヌのもつ美的な精神と、過酷な差別に立ち向かいその現実に「間違っている(ノー)」ということは果た
して共存不可能なのだろうか?
それ以外に『アイヌのくらし』図録の大坂 拓さんの序の部分にあるという。
また私の盟友、山崎幸治さんは、公益財団 法人日本民藝館 監(2021)別冊太陽『柳宗悦 :民藝 美しさをもとめて』平凡社、に寄稿されています。とりわけ山崎さんは、その時代的制約のなかで、普遍的なヒューマニストでもコロニアリストでもなく、アイ ヌ民藝にむかった一人の人間としての「揺らぎ」に着目することを強調されています。とりわけ、それに先行する「沖縄方言論争」にみられるような、良かれと おもって何気に発言した、伝統民藝と言語(「方言」)の放棄への違和感を語ったことが、ヤマトからの過酷な社会経済的差別に苦しむ(知識人を中心に)沖縄 の人の反発を受けたことに、逡巡する姿です。今であれば(アイヌ文化振興法と同様に)文化も政治もアイデンティティという「徴(しるし)」のもとに、伝統 文化の擁護だけなのか?それとも(むしろそのようなものは旧弊だと批判して)政治的解放を目指すという二分法を克服する試みも模索できたかもしれません ——そんな都合の良い処方せんはつねに権力の側から提示されるもので沖縄やアイヌからではないという反批判を承知で書きます。
他方、沖縄については旺盛な執筆をしたの に、アイヌに関してはほとんど記述がなく、アイヌの2論文も『柳宗悦全集』15巻の多くの沖縄民藝論文 の中に埋もれているにすぎない。
これについての熊倉(1978:140) の処方せんは、アイヌの生き方に関わるよりも、その民藝の芸術に禁欲的に語ることを主張する(それ 以外の批判者は、アイヌ文化と柳宗悦の関係について、どのような処方箋を出しているのかは不詳)。他方で熊倉の批判は、柳宗悦を自ら同時代人としてとら え、また同胞へのアドバイスとして読める。しかし、1974年に崔夏林(チェ・ハリム)※『柳宗悦の韓国美術観(柳宗悦의 韓國美術觀에 대하여)』では、柳の朝鮮文化にみられる「悲哀の美」は朝鮮の隷属を正当化する美意識であると批判している(伊藤 2003:38-41)。金芝河(1969)もやはり柳宗悦を批判す る。また後年の出川直樹(1988)は、柳のフェティシズム性を批判する(伊藤 2003:168-169)。
※抄訳『展望』1976年7月号(211
号)
●日本民藝館「アイヌ文化」特別展
(1941年9月〜10月)
アイヌへの見方(1941)とアイヌ人に 送る書(1942)の同時期に、芹澤を経由した杉山寿栄男のコレクションより600点出品して特別展を おこなった。杉山と金田一による講演もあった。
『民藝』106号の編集後記に、アイヌ 工芸をこれまで「未開人の工芸」として取り扱ってきたが、これは誤りで「正倉院の品に列しても差支へない程の品であり、コプトをさえ彷彿させる」とベタ誉 め。
●柳宗悦(やなぎ・むねよし)全集の編集 顧問と編集協力者たち
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文献(山崎幸治先生による情報)
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