かならずよんで ね!

大戦間期の日本の民族学とアイヌ

Japanese Ethnology and Culural Anthropology during interwar period

池田光穂

「アイヌ研究したら金になるか、と聞く人に、金になるよとよく云ってやった」——違星北斗 「コタン」[1930](1984:57)

論文(構想)の目的と概要

大戦間期(1919〜1939年)から敗戦後の 1946年までの、アイヌ研究について素描する。その際に、これまでのアイヌ歴史研究にみられる、同化政策による言語ならびに伝統文化を和人により剥奪さ れ、同化されてゆく被害民族としての歴史のみならず、アイヌ民族側から(→国家事業への協力、文芸創作活動、社会運動など)近代帝国日本に対する応答やリ アクションについて考える。その際に重要なのは、アイ ヌ研究は、同時期における日本ならびに世界の民族学(=文化人類学)研究の動向や、帝国ならびに植民地における民族学の研究状況や、学術ならびにリアルポ リティークにおける政治力学との影響関係を受けて多様な展開を遂げることに着目することである。また、これまでの、人類学史研究にありがちな、固有の研究 者の活動や功績に焦点をあてて、詳細な資料の中に埋もれ、モノグラフ叙述に徹するアプローチを批判する。それにより、民族学の国家内および国際的な研究動 向やネットワーク、統治権力と研究調査の実施状況、支配的な政治権力と研究者自身の立ち居振る舞いなど、多変数からなる変動要因を意識した、民族学者たち の歴史人類学の動態記述の試み、研究という権力実践におけるジェンダリズムの観点などを考慮した、記述のスタイルの提唱をめざす。

論文(構想)の構成

まず、ヨーロッパ・日本・アメリカにおける大戦間期(1919-1939)についての歴史的素描(ウィキペディア日本語に よる)

ヨーロッパ 戦間期のヨーロッパは、多少の例外や時間の前後はあるものの、ともに似 通った危機と似通った安定を経験した。第一次世界大戦で深刻な被害を受けた地域がヨーロッパに限られたことがあって、戦間期という区切りはヨーロッパにお いてもっとも大きな意義を持つ。 1919年第一次大戦終結から1924年頃までは、戦後危機の時代である。この時期に敗戦国の経済は混乱し、戦勝国も戦争で受けた打撃から立ち直れずにい た。小さな戦争や軍事介入が頻発し、特に敗戦国で革命勢力と反革命勢力の激しい戦争が続いた。 1924年頃から1929年は、相対的安定期と呼ばれる。この時代に各国の経済はカルテルにより合理化をとげ、人々の生活にゆとりが生まれ、大衆文化が登 場した。例外はあるものの、民主主義体制が優勢で、程度の差こそあれ議会政治が重んじられた。各国の協調外交のおかげでヨーロッパに平和が訪れた。 1929年から1939年までは、大恐慌とファシズムの台頭に見舞われた危機の時代である。この時代の前半は倒産と大量失業で経済と生活がどん底に落ち込 み、自国産業の保護の為ブロック経済体制が取られた。新興の民主主義体制は次々に覆され、ファシズム体制か類似の権威主義体制にとってかわられた。後半に は経済の下落に歯止めがかかったが、真の経済回復は訪れなかった。末期には国家社会主義ドイツ労働者党政権下のドイツとファシスト党政権下のイタリアが近 隣諸国を軍事力で脅かし、軍事的緊張が昂進した。
アメリカ 第一次世界大戦終結後のアメリカは、国土が大戦の被害を受けなかったこ ともあり「狂騒の20年代」と呼ばれた好景気の時代であった。ところが、1930年代の世界恐慌の時代には、失業率が25%に達する状態であり、失業対策 としてフランクリン・ルーズベルト政権は「ニューディール政策」を実行した。
日本 日本では、第一次世界大戦時は国土が大戦の被害を受けなかったこともあ り、船や衣類などの成金が勃興した(暗がりで紙幣を燃やして「どうだ、明るくなった ろう」と述べる風刺画は有名)大戦景気の時代で、1980年代末期~1990年代初期のバブル景気と似た時代であった。 ところが、第一次大戦終結後の1920年になると株価が下落して戦後恐慌が始まり、1923年には震災恐慌、1927年には金融機関の破綻が相次ぐ金融恐 慌など慢性的な不況に陥り、1930年代初頭は世界恐慌の影響で「娘の身売り」や「大学は出たけれど」のことばで知られる昭和恐慌の時代であった。 そのため、西洋史において戦間期と呼ばれる時期は、日本の歴史においては「戦前」と呼ばれることが一般的である。

◎世界条約(ウィキペディア日本語、等に よる)

ベルサイユ条約(1919)
「第一次世界大戦に終結を与えた講和条約。1919年6月28日パリ郊 外のベルサイユ宮殿「鏡の間」で連合国とドイツとの間に調印された。中国代表は講和会議には参加したが、山東問題の処理に反対して、この条約に調印しな かった。また、アメリカ合衆国は、のちにこの条約の批准を拒否した。この条約は440条からなる大部なものであり、ベルサイユ体制とよばれる国際秩序を形 成し、戦後の国際関係を規定した重要な意義をもった。 この条約によって、ドイツは海外植民地を失い、アルザス・ロレーヌをフランスに返還し、ヨーロッパにおいて領土を削減された。また、第一次大戦の開始にお ける戦争責任を断定されて、連合国の損害に対して賠償支払いを課せられ、軍備は厳しく制限された。ライン川左岸は非武装地帯として15年間、連合国の保障 占領下に置かれることになった。ザール地方は、15年間、国際連盟の管理下に置かれ、その後住民投票によってザールの帰属を決定することになった。ベルサ イユ条約の第一編は国際連盟規約であり、このことは国際連盟にこの条約維持のための機関という色彩を与えた。 パリ講和会議が、もっぱら連合国の利害によって一方的に運営され、この条約によってドイツへの圧迫も厳しかったことから、ドイツではこの条約を「命令」 Diktatとよんで、大いに恨む気分が強かった。これはナチスによって巧妙にとらえられ、ナチスの政権掌握の一因をなした。1920年代末から30年代 初頭にかけて、ライン地帯から連合国が撤兵し、賠償問題においても賠償総額が軽減されるなど、事実上、ベルサイユ条約はなし崩しに修正されていったが、 35年、ナチス政権がベルサイユ条約の軍備制限条項を一方的に破棄し、翌36年ラインラントの非武装地帯を武装化するに及んで、この条約は事実上消滅し た。」斉藤孝ニッポニカ
四カ国条約(1921)
 アメリカ・イギリス・フランス・日本の太平洋における領土 と権益の相互尊重と現状維持。この条約の発効により日英同盟は更新されなかった。
ワシントン海軍軍縮条約(1921)
当時の戦勝国である五大国(アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタ リア)の戦艦・航空母艦等の保有の制限。
九カ国条約(1922)
アメリカ・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルト ガル・日本・中華民国が参加。戦後のワシントン体制が整えられた。
ジュネーブ海軍軍縮会議(1927)
アメリカ、イギリス、日本における補助艦(巡洋艦や潜水艦など)の保有 制限交渉であったが、軍人主体であったため決裂に終わる。
ロンドン海軍軍縮会議(1930)
イギリス、日本、アメリカ、フランス、イタリアが政治的解決策を検討。 建艦技術の発展に合わせて各種艦艇の定義を厳密化して、各国の戦力を比率で制限。この際、「対英米7割」が達成されなかったために日本では「統帥権干犯問題」が発生した。
第二次ロンドン海軍軍縮会議(1936)
イギリス、アメリカ、フランスが締結。日本、イタリアは脱退。

◎大戦間期〜1945年の敗戦までの民族学および文 化人類学(左のカラムの資料は「日本文化人類学史」よ り)

【前史:1900年〜1919年】

1899 北海道旧土人保護法の施行

1901 ジョン・バチェラーThe Ainu and their Folk-Loreの出版。

1902(明治35) 八甲田山雪中行軍訓練での遭 難に、茅部郡落部村(かやべぐんおとしべむら)のアイヌ・イカシパ(和名:辨開凧次 郎/べんかい たこじろう; 1847-)は、仲間10人とともに67日間捜索に参加。イカシパは、1876年から辨開凧次郎を名乗るようにな る。(「辨 開凧次郎翁物語」八雲町)

1903 第五回内国勧業博覧会、学術人類館:伏 古、胆振7〜12名が参加する。

1904 日露戦争における北風磯吉(第七師団; 1880-1969)。北風は後に、,知里真志保『分類アイヌ語辞典』、,服部四郎『アイヌ語方言辞典』にインフォーマントとして貢献。セントルイス万国 博覧会、人類学展示場、日高ほか9名。同時参加のオリンピックにも参加。

1905 (明治38)ポーツマス条約(日露講和条 約)により北緯50度以南の樺太の日本領有(割譲)。翌1906年まで(樺太千島交換条約1875年で国内移住していた)樺太アイヌが帰還する。

1907 『ワールド』紙の特集号に「父さんのからだを返して」の記事が掲載される。当事者で あったミニックはそれ以降、陰鬱になる

1910(明治43)白瀬矗(しらせ のぶ)探検隊における、ヤヨマネクフは、和名:山辺安之助(やまべ やすのすけ)は樺太犬20頭をつれて参加。山辺は後に金田一京助に協力し『あいぬ物語』等の著作を残す。樺太アイヌのシシラトカ(花守信吉)も参加。シシラトカは、1903年にタライカで調査隊のアイヌ語辞典 制作に協力し、蠟管録音を行った(Materials for the Study of the Ainu Language and Folklore (Cracow 1912). https://doi.org/10.1515/9783110818833-008)。

1912 明治記念拓殖博覧会(東京・上野公園:翌 年大阪:天王寺公園)にて、日本の知識人はアイヌの人間「展示」とその工芸に出会った可能性あり。

【総力戦体制下におけるアイヌ】

1942-1943 昭和17年(1942年8月7 日)〜昭和18年(1943年2月7日)にかけて、フィリピン・ガダルカナル島の戦い。第七師団の一木清直支隊長の「一木支隊」は、全滅に近い損害を受け た。

1943 第七師団「北海支隊」は、昭和18年 (1943年)5月12日〜 5月29日にかけてアリューシャン列島のアッツ島・キスカ島の攻略で、玉砕。

1944 2月留守第七師団を基幹に第七十七師団が 再編成される。

1945 沖縄戦に参戦した日本軍兵士の出身地は、 6万4千人のうち1万人が北海道出身者。アイヌ43人。

1919
村山智順(1891 -1968)、東京帝国大学文学部哲学科を卒業後、朝鮮総督府の嘱託になる。柳田、官界を去る。東京帝国大学法学部(法科 大学は同年改組)植民政策講座の助教授として赴任。 松本彦七郎の汎アイヌ説(寺田 1975:151)。 3月1日に朝鮮半島で勃発 した三・一独立 運動に対する朝鮮総督府の弾圧 に対し、柳宗悦は「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した(「日 本民芸運動と文化人類学」)。
・フランツ・ボアズ「スパイとしての科学者(Scientists as Spies)」をThe Nation, December 20, 1919に投稿し、米国科学アカデミー会長でカーネギー研究所理事長のチャールズ・ドゥーリトル・ウォルコット(Charles Doolittle Walcott, 1850-1927)は、学会などあらゆる手段をつかってボアズを糾弾する。
1919
・ 松本彦七郎の汎アイヌ説(寺田 1975:151)
1920
平取、静内、浦河、白老に旧土人病院を設置(〜1922)。柳田國男、 東京朝日新聞客員となり論説を執筆。全国を調査旅行。鳥居龍蔵、アムール川流域調査。 国際連盟事務次長に就任した新渡戸の後任として、矢内原忠雄は、東京帝国大学経済学部助教授に就任、植民政策学を講じる。 ※国際連盟創設、委任統治制度発足
・柳宗悦「朝鮮の友に贈る書」1920年
・【岡正雄】東京帝国大学文学部社会学科に進学
1920
・平取、静内、浦河、白老に旧土人病院を設置(〜1922)
・金成(かんなり)マツ、江賀寅三、違星滝次郎(北斗)、知里真志保ら伝道誌『ウタリグス』を創刊。
1921
渋 沢敬三(1896 -1963)、自宅にアチック・ミュージアム(屋根裏博物館)を開設。澁澤は同年横浜正金銀行に入行。柳田國男、 渡欧し、ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任。国際連盟において、英語とフランス語のみが公用語となっていることによる小国代表の苦労を目の当たりに する。 浜田耕作は、縄文人と弥生人の間に人種的な断絶がないと主張。 "Swedish geologist Johan Gunnar Andersson and American palaeontologist Walter W. Granger came to Zhoukoudian, China in search of prehistoric fossils in 1921."-Peking Man.

1921
1922
小山内通敏(おだうち・みちとし)、今和次郎が朝鮮総督府の嘱託で「朝 鮮部落調査」をおこなう。マリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者たち』;中村古峽『迷信と邪教』迷信と邪教、1922年 ※ルガード『二重統治論。柳田國男、 新渡戸稲造と共に、エスペラントを世界の公立学校で教育するよう決議を求め、フランスの反対を押し切って可決される。エスペランティストのエドモン・プリ ヴァ(Edmond Privat)と交流し、自身もエスペラントを学習する。翌1923年、 国際連盟委任統治委員、突如、辞任してを帰国(これを契機に柳田は新渡戸との交流が途絶える)。
・マリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者たち』
・ラドクリフ=ブラウン『アンダマン島民』
・伊波普猷『古琉球の政治』柳田國男編・炉辺叢書
・佐喜眞興英『南島説話』炉辺叢書
1922
・知里幸恵(1903-1922)は金田一宅にて心臓病で死す、享年 19歳。
・バチェラー(69歳)はアイヌの教育のためのアイヌ保護学園を設立。

1923
関東大震災。満岡伸一「あいぬノ足跡」。道内の市町村に旧土人救療所を 開設。土人保導員を設置。。善生永助が、朝鮮総督府嘱託に。 関東大震災。京都に居を移した柳は、濱田 庄司、河井寛次郎(1890-1966)らとともに、いわゆる「民芸運動」。 「善生永助(1885〜1971)は、朝鮮総督府嘱託として同府刊行の調査資料の編纂に 携わった人物である。明治43年(1910)に早稲田大学専門部を卒業したのち、雑誌記者などを経て大正12年(1923)7月より朝鮮総督府官房調査課 嘱託となり、昭和10年(1935)まで調査活動に従事した。彼が調査および執筆を担当した資料の多くは、「調査資料」シリーズに収録されている。代表的 なものに『朝鮮の市場』(大正13年〔1924〕)、『朝鮮人の商業』(大正14年〔1925〕)、『朝鮮の物産』(昭和2年〔1927〕)、『朝鮮の市 場経済』(昭和4〔1929〕)、『朝鮮の生活状態調査1〜3』(昭和4〔1929〕ー昭和9年〔1934〕)、『朝鮮の聚落 前・中・後篇』(昭和8 〔1933〕ー昭和10〔1935〕)などがあり、現在でも植民地期朝鮮の社会経済状況を知るうえで大変貴重な資料とされている」(出典:「学 習院大学東洋文化研究所」) "Excavation work was begun immediately by Andersson's assistant Austrian palaeontologist Otto Zdansky, who found what appeared to be a fossilised human molar. He returned to the site in 1923, and materials excavated in the two subsequent digs were sent to Uppsala University in Sweden for analysis. In 1926 Andersson announced the discovery of two human molars in this material, and Zdansky published his findings.."-Peking Man.[1923-1941]朝鮮総督府調査資料(1923-1941)に、総督府嘱託として村山智順、善生永助が関与
・【岡正雄】母校(二高)の講演会で天皇制批判を展開する
1923
満 岡伸一「あいぬノ足跡」
・道内の市町村に旧土人救療所を 開設。土人保導員を設置。
・違星北斗は陸軍旭川第7師団輜重輸卒に入隊。
・知里幸恵『アイヌ神謡集』——柳田國男編・炉辺叢書として。
1924
西村眞次『文化人類学』早稻田大學出版部。 京城帝国大学予科設置、1926年には法文学部・医学部が設置される。 オーストラロピテクス(Australopithecus afarensis)発見の嚆 矢〜1970年代 清野謙次研究室で日本人骨の統計的発表がはじまる。鳥 居龍蔵、東京帝国大学助教授を辞職。 7月?岡茂雄(Shigeo OKA, 1894-1989)は岡書院(1924-1935)を設立。 7月鳥居龍蔵『人 類學及人種學上より見たる北東亞細亞 : 西伯利、北満、樺太』岡書院。 9月鳥居龍蔵『日 本周圍民族の原始宗教 : 神話・宗教の人種學的研究』岡書院。『武藏野及其周圍』磯部甲陽堂 12月鳥居龍蔵『諏訪史』 上諏訪町 (長野県) : 信濃教育会諏訪部会。 村山智順『朝鮮の独立思想及運動』調査資料第十輯
・ オーストラロピテクス(Australopithecus afarensis)発見の嚆矢
・喜舎場永珣編『八重山島民謠誌』炉辺叢書
・【岡正雄】東京帝国大学文学部社会学科を卒業「早期社会分化における呪的要素」。卒業直前に柳田國男を訪ね、フレイザー『王政の呪術的起源』の翻訳の序 文執筆を依頼するが、柳田は怒って拒絶(貴族院書記官長)
・【岡正雄】(大正10年)文部省学術研究会議嘱託と東京女子歯科医学専門学校のドイツ語教師を兼任
1924
・金田一京助『アイヌの研究』内外書房において、当時のアイヌは「原始 社会」の特徴を残す「見本」として、その研究の価値を主張する。
1925
4月清野謙次『日本原人の研究 』岡書院 5月鳥居龍蔵『有 史以前の日本』磯部甲陽堂。 9月、柳田国男・岡正雄ら『民族』を創刊。 10月、鳥居龍蔵『人 類學上より見たる我が上代の文化』叢文閣。 内村祐之、ミュンヘンのドイツ精神医学研究所に留学(〜 1927)。アメリカ合衆国で『ウラキ』(北米朝鮮人留学生雑誌)発刊。 矢内原忠雄『植民政策講義案』 小金井、東大を定年退官。 鳥居龍蔵『武藏野及其有史以前』磯部甲陽堂。[1925-1929]柳田国男・岡正雄ら『民族』刊行。岡は創刊号の巻頭論文「民族學の目 的」(1924年の記載あり)で、民族学をWHR.リヴァーズの用語としている
・ 矢内原忠雄『植民政策講義案』
・ 小金井、東大を定年退官
・柳宗悦「民藝」の言葉を用いだす。
・佐喜真興英『シマの話』炉辺叢書
・東恩納寛惇『琉球人名考』炉辺叢書
・【岡正雄】(大正14年)から柳田國男とともに民族学雑誌『民族』を共同編集し、岡書院から刊行した(〜1929年)
1925
・違星は金田一宅で、知里幸恵(1903-1922)のことを聞き衝撃 をえる。
・バチェラー『アイヌ人と其説話』『アイヌの炉辺物語』
・違星は東京で講演する、アイヌをタスマニアアボリジニの「死滅」と例え、水平運動に言及「エタ」は蔑称だが、彼らが自称として使う時を想像すると言及。 伊波普猷は参加しメモを残す(シドル 2021:172)。
1926
京城帝国大学創設 ——予科は1924年設置(宗教学教室:赤松智城、社会学教室:秋葉隆、が翌年に就任) 小金井良精『人類学研究』。矢 内原忠雄『植民及植民政策』。清野謙次「津雲石器時代人はアイヌ人 なりや」(小金井良精『人類学研究』のアイヌ説への反論) 西村眞次『体 質人類学』早稲田大学出版部。体質人類学とはPhysical Anthropologyのこと(同書1ページより) 8月15日(財)啓明会第18回講演集で柳田國男「眼前の異人種問題」(柳田国男全集、第26巻 に収載)、金田一京助「アイヌ研究の現状」などを講演(『ア イヌ史資料集 / 河野本道選』)。 啓明会「1919 年(大正8)8月4日,その前年まで埼玉師範学校教員であった下中弥三郎を中心に県下の青年教師によって組織された教育運動団体。会は,教員の地位・待遇 の向上をめざす職能的な教員組合としての性格と〈教育的社会改造運動〉(下中)の性格とをもって出発した。翌20年5月の第1回メーデーには,教員組合と して参加,一般労働組合との組織的連帯をはかっている。同年9月,全国的な運動への発展をめざし,〈日本教員組合啓明会〉と改め,〈教育改造の4綱領〉を 発表」(コトバンク)。 第3回汎太平洋学術会議が東京で 開催される。「人類学及び人種学」分科会。 小金井良精『人 類学研究』大岡山書店 柳宗悦は、陶芸家の富本憲吉(1886-1963)、濱田庄司、河井寛次郎の四人の連名で「日本 民藝 美術館設立趣意書」を発表(→「日本民芸運動と文化人類学」)。 ※ルガード、マリノフスキー、ドラフォスらにより、国際アフリカ協会創設。
・松岡靜雄『チャモロ語の研究』炉辺叢書 1926
・清野謙次「津雲石器時代人はアイヌ人 なりや」(小金井良精『人類学研究』のアイヌ説への反論)
・金田一京助「アイヌ研究の現状」などを講演(『ア イヌ史資料集 / 河野本道選』)
辺泥和郎(べてわろ う)と吉田菊太郎で、違星は「アイヌ一貫同志会」を結成。
1927
4月『民 俗學概論 : 英國民俗學協會公刊 / バーン編著 ; 岡正雄譯』岡書院。 長谷部言人[1882-1969]『自然人類学概論』(人類学叢書第1篇、岡書 院) 6月20日小金井良精(70歳)「本邦先住民族の研究」について御前講演 「九、二〇赤坂離宮に到着、ただ一〇分を要したるのみ、講和の間に到りて持参標本を卓上に並 べ、廊下にて出御を奉迎、珍田侍従長自分を紹介せらるる、皇后陛下は時刻に到り出御無かりき、閑院宮載仁[か んいんのみやことひと]殿下のみ。他は牧野内大臣、一木宮内大臣、珍田侍従長、奈良武官長始め宮内官二十名計、一〇、〇五講和を始む、時々写真を陛下御前 に持ち進みて説明申し上る、とくに頭骨脛骨の際は立御になりて窓際卓まで御出てなり天覧あらせらる、一一、一五「各方面から考慮致しまして私は本邦石器時 代民族はアイノであるという結論に達した次第でござります」と講了したり、別室に於て尚ほ御質問あり遺物飾物を持参す「小金井は先刻アイノ と日本人との間 に混血したといふたが何処で如何にせしか、日本民族は何処から来たか」など御質しあり、入御の後別室にて茶菓一折を賜ふ、御下賜品(羽二重一疋[たん]) あり、一一、五五離宮を去る、教室に寄りて標本を置き、一時前家に帰る、先つ滞りなく「本邦先住民族の研究」御前講話終り安堵。」——『金井良精日記』昭 和篇、28ページ、2015年 内村祐之ロックフェラー研究所の野口英世を訪ねる。内村、 9月に渡道し 北海道帝国大学医学部精神科教室教授就任(1928〜1936)の準備をおこなう。 崔南善「薩満教箚記(さっき)」、李能和「朝鮮巫俗考」を『啓明』19号に寄稿。 村山智順『朝鮮の服装』朝鮮総督府、1927年;村山智順『朝鮮 人の思想と性格』調査資料第二十輯、朝鮮総督府、1927年 "Canadian anatomist Davidson Black of Peking Union Medical College, excited by Andersson and Zdansky's find, secured funding from the Rockefeller Foundation and recommenced excavations at the site in 1927 with both Western and Chinese scientists. Swedish palaeontologist Anders Birger Bohlin unearthed a tooth and Black placed it in a gold locket on his watch chain." -Peking Man. (1927年以前に)景福宮光化門が取り壊されそうになると、 柳宗悦は、これに反対抗議する評論『失は れんとする一朝鮮建築のために』を、雑誌『改造』に寄稿した。これが多大な反響を呼び、光化門は1927年に移築保存された(→「日本民芸 運動と文化人類 学」)。

1927
・小金井良精(70歳)「本邦先住民族の研究」について御前講演。 「「各 方面から考慮致しまして私は本邦石器時 代民族はアイノであるという結論に達した次第でござります」と講了したり、別室に於て尚ほ御質問あり遺物飾物を持参す「小金井は先刻アイノ と日本人との間 に混血したといふたが何処で如何にせしか、日本民族は何処から来たか」など御質しあり」
・バチェラーAinu life and loreの出版.
1928
移川子之蔵(1884-1947) が、台北帝国大学文政学部教授(兼・評議員)として赴任し、土俗学・人種学主任と なる。移川は自分の教室をInstitute of Ethnologyと称した。台北帝国大学文政学部に設置された「土俗学・人種学」 講座の土俗学とはエスノグラフィを、人種学というのはエスノロジーを意 味しているが、これは、1889年に坪井正五郎が『東京人類学会雑誌』で翻訳したことに由来する。 京城帝大に民俗参考品室設置(秋葉隆)。今村豊が京城帝国大学解剖学教室に赴任。 矢内原忠雄『人口問題』岩波書店。 足立文太郎『日本人体質の研究』岡書院(1944, 荻原星文館)。清野・金関丈夫『人類起源論』 村山智順『朝鮮の習俗』朝鮮総督府、1928年
・移川子之蔵の台北帝大への赴任は海外における民族学の確立に重要。
・ 足立文太郎、清野賢次、金関丈夫らによる日本人種論の研究が盛んになる。
1928
・高倉「アイヌ政策史」の原稿執筆開始。
・バチェラー『我が記憶をたどりて』
1929
内村祐之、北海道帝国大学に正式に着任。村山智順『朝鮮の鬼神』発刊。 矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』岩波書店。 村山智順『朝鮮の鬼神』調査資料第二十五輯、朝鮮総督府、1929年 9月ニコライ・ネフスキー単 身で帰国。北海道帝国大学医学部解剖学教室第二講座に児玉作左衛門(こだま・さくざえもん:1895-1970)教授が赴 任。同教授 は、1959年まで30年間同講座の教授を務めアイヌの「医学的研究」ならびに文化史の研究に従事する。 「昭和4年に平光教授は九州帝国大学に転任し、児玉作左衛門教授が第二講座を担当するこ とになった。山崎教授のもとではおもにアイヌの人類学的研究とくにそ の容貌の研究がすすめられ、児玉教授のもとではヒト大脳基底核を中心とした解剖学的研究に主力がそそがれた。これは児玉教授がチューリッヒのモナコフ教授 の所で行った研究の継続で あった。顕微鏡切片標本は児玉教授に従って東北大学からきた大場利夫(後の北大文学部教授)が作成した。(児玉作左衛門)昭和8年に、アイヌの医学的総合 研究のために日本 学術振興 会学術部第八小委員会が 永井潜東大教授を委員長として編成され、北大医学部の教授陣を主力として2年間にわたって調査が行われた。このとき山崎・児玉両教授が解剖学の部門を協同 で担当した。この総合研究がきっかけと なって、その後、両講座の仕事の主力はアイヌ骨格の収集および人類学的研究に向けられた。この流れは昭和23年山崎教授の退官、同34年の児玉作左衛門教 授の退官 の後、伊藤昌一教授と松野正彦教授に引き継がれ、成果の多くは「北大解剖研究報告」に収録されている。(児玉作左衛門) 昭和7年7月26、27、28日の3日間、北海道で初めての日本解剖学会集会(第40回)が 会頭山崎教授、副会頭児玉教授のもとに北大で開かれた。演題数77、標本供覧7の計84題、参加者約100名であった。(児玉作左衛門) 昭和15年には北大医学部に臨時附 属医学専門部が設置され、(児玉作左衛門) 昭和18年には樺太医学専門学校が設立された。しかし、太平洋戦争が終了するとともに樺太医専は廃止になり、北大医専は昭和25 年に廃止になった。昭和33年には第63回日本解剖学会総会が、会頭児玉作左衛門北大教授、副会頭伊藤昌一北大教授・渡辺左武郎札幌医大教授のもとに 札幌医大を会場として7月4、5、6、の3日間開催された。演題は口演と紙上発表を合わせて277題であった」出典:https: //aande.hokkaido.university/history.html(2018 年7月22日)[1929-1933]誌『民族』の廃刊。民俗學会編の雑誌『民俗學』刊行(柳田の脱退を受 けて。岡は1929〜1935年オーストリアに留学) ・内村祐之の北海道帝大赴任、村山智順や矢内原忠雄の著作にみられるよ うに、帝国における統治において、現地社会の民族学ないしは民族誌上の知見が重要視されるようになる。
・【岡正雄】(昭和4年)、渋沢敬三の援助を得てオーストリアへ渡り、ウィーン大学のヴィルヘルム・シュミットのもとで民族学を学ぶ
1929
・北海道帝国大学医学部解剖学教室第二講座に児玉作左衛門(こだま・さ くざえもん:1895-1970)教授が赴任。同教授 は、1959年まで30年間同講座の教授を務めアイヌの「医学的研究」ならびに文化史の研究に従事する。 「昭和4年に平光教授は九州帝国大学に転任し、児玉作左衛門教授が第二講座を担当するこ とになった。山崎教授のもとではおもにアイヌの人類学的研究とくにそ の容貌の研究がすすめられ、児玉教授のもとではヒト大脳基底核を中心とした解剖学的研究に主力がそそがれた。これは児玉教授がチューリッヒのモナコフ教授 の所で行った研究の継続で あった。顕微鏡切片標本は児玉教授に従って東北大学からきた大場利夫(後の北大文学部教授)が作成した。昭和8年に、アイヌの医学的総合研究のために日本 学術振興 会学術部第八小委員会が 永井潜東大教授を委員長として編成され、北大医学部の教授陣を主力として2年間にわたって調査が行われた。このとき山崎・児玉両教授が解剖学の部門を協同 で担当した。この総合研究がきっかけと なって、その後、両講座の仕事の主力はアイヌ骨格の収集および人類学的研究に向けられた。この流れは昭和23年山崎教授の退官、同34年の児玉作左衛門教 授の退官 の後、伊藤昌一教授と松野正彦教授に引き継がれ、成果の多くは「北大解剖研究報告」に収録されている。
1930
金関丈夫(1897-1983)「琉球人の人類学的研究」で京都帝国大 学より医学 博士号を取得。金関は1928-1929年頃、沖縄県今帰仁(なきじん)村の百按司(むむじゃな)墓より少なくとも26体を持ち出し、京都大学などに保管 していたといわれる(琉球新報 2017年6月1日)。 小信小太郎「同族の喚起を促す」『蝦夷の光』 日本民族 衛生学会創設(→1935年・民族衛生協会へ改組) 移川子之蔵(うつしかわ・ねのぞう)は、南方土俗学会を組織し『南方土俗』を創刊[1931-1939](『臺灣 の土俗・人種』"改造社版日本地理大系臺灣篇抜刷 "16pp.) 岡田謙、台北帝国大学講師 10月7日〜12月 霧社事件(モーナ・ルダオは山中にて消息不詳、4年後に遺体とし て発見). 鹿野忠雄「鳥居博士の報告を疑ふわけではないが、物は試しで、一つ墓地の発掘と なったわけである。……発掘に仍(よ)つて、鳥居博士の報告とは違つた結果を得た。余の発掘は、唯の一回であるが、ヤミに聞いて見ても、皆、かくすると答 へるので、余は現在の所、此の形式である事を確信して居るものである。鳥居博士の報告されたのは、特別な例外であろう」狩野(1930:37-38)※出 典は全京秀(2020:222) アメリカ自然人類学協会の発足。 柳田國男『明治大正史世相編』「朝日新聞の論説委員をしていた柳田が,60年間の各地の新聞記事をもとに明治・大正期 の世相を民俗学の手法で論評した」といわれる
・ハイレ・セラシエ1世は、エチオピア帝国皇帝に即位。翌1931年7 月16日に大日本帝 国憲法を範とし、7章55条から成るエチオピア帝国初の成文憲法たる「エチオピア1931年憲法」を制定した。
1930
・北海道アイヌ協会設立
違星北斗『コタン 違星北斗遺稿』

1931
貝澤正(1912 -1992)、アイヌ旧土人保護法を批判(「土人保護施設改正について」『アイヌわが人生』岩波書店、1993年) 直良信夫は西八木で洪積世人類化石を発見。 京城帝国大学解剖学教室で朝鮮人の生体計測がはじまる(〜1945年)。 村山智順『朝鮮の風水』調査資料第三十一輯、朝鮮総督府、1931年 ※植民地博覧 会(パリ)開催
・植民地博覧会(パリ)開催で、カナク人の人間展示(以降、先住民の生 きたままの展示が流行する) 1931
貝 澤正(1912 -1992)、アイヌ旧土人保護法を批判(「土人保護施設改正について」『アイヌわが人生』岩波書店、1993年)
・バチェラー八重子『若 きウタリに』(歌集)
1932
満州国建国。朝 鮮民俗学会創設。宋錫夏が幹事に就任。 村山智順『朝鮮の巫覡』 調査資料第三十六輯、朝鮮総督府、1932年 8月陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室「三研」が開設され る。これが「関東軍防疫給水部本部」設立の嚆矢となる(日本の医療人類学と生命倫理学を 考えるためには重要な「事件」である)。 12月昭和天皇の150万円の御下賜により財団法人日本学術振興会が設置 される。「昭和恐慌の中、学術研究の振興が不可欠であるという認識のもと、帝国学士院院長であった櫻井錠二が中心となり、学術研究振興機関の設立運動が行 われた。この動きを受けて、1932年に文部省は財団法人「日本学術研究振興会」の創設に係る予算要求を行ったが、政府の財政は逼迫しており、調査費とし て3万円が計上されるにとどまった。このような事態を受け、昭和天皇より1932年8月20日に、学術振興奨励のための基金として150万円の御下賜があ る旨の「御沙汰」があり、この基金により同年12月に財団法人「日本学術振興会」が設立された」(「日 本学術振興会70周年記念行事;日本学術振興会の歩み(国会図書館ミラーサイト)」より)

1932
・(児玉作左衛門) 昭和7年7月26、27、28日の3日間、北海道で初めての日本解剖学会集会(第40回)が 会頭山崎教授、副会頭児玉教授のもとに北大で開かれた。演題数77、標本供覧7の計84題、参加者約100名であった。
1933
Masao OKA, Oka, Masao, "Kulturschichten in Alt-Japan"にて、ウィーン大学・哲学博士(岡正雄) 『朝鮮民俗』創刊。京城帝大に満蒙文化研究会が設立される。赤松・秋葉による満蒙調査が 開始。 村山智順『朝鮮の占卜と預言』 調査資料第三十七輯、朝鮮総督府、1933年 10月22日、1903年11月に亡くなっ た平取の平村ペンリウク氏の遺骨が、北海道帝国大学の山崎春雄教 授、岡田正雄(夫)助教授らの指導のもとで「発掘」される。 10月国策研究会の前身、国策研究同志会が、大蔵公望、小野塚喜平次、美濃部達吉、矢次一夫らにより結成される(→1938年に国策研究会に改称) 足立文太郎『日本人の静脈系統』Das Venensystem der Japaner / von Buntaro Adachi
・【岡正雄】ウイーン大学より博士号を授与
1933
・(児玉作左衛門)昭和8年に、アイヌの医学的総合研究のために日本 学術振興 会学術部第八小委員会が 永井潜東大教授を委員長として編成され、北大医学部の教授陣を主力として2年間にわたって調査が行われた。このとき山崎・児玉両教授が解剖学の部門を協同 で担当した。この総合研究がきっかけと なって、その後、両講座の仕事の主力はアイヌ骨格の収集および人類学的研究に向けられた。
・1933年 10月22日、1903年11月に亡くなっ た平取の平村ペンリウク氏の遺骨が、北海道帝国大学の山崎春雄教 授、岡田正雄(夫)助教授らの指導のもとで「発掘」される。
久保寺逸彦、アイヌの口承文芸の録音をはじめる(〜1935年)。このと き久保寺は知里幸恵の兄、向井山雄(1890-1961)に録音をもう知れ たときに、当時でもアイヌの口承がわからないのに、そんな録音を残しても、未来ではますますわかりにくくなると、録音を拒絶したといわれる。
・樺太アイヌに対して、日本人との国籍が付与されて、兵役の義務化がなされる——勅令第373号「樺太に施行する法律の特例に関する件改正」※送り仮名カ タカナ(高木 1993:248)。
1934
朝鮮農地令公布。震檀学会創設(宋錫夏が幹事) 「植民地下の朝鮮で1934年5月に設立された研究会。李丙燾(이 병 도 1896-1989)ら歴史学者を中心に, 金台俊(1904?-1949),崔 鉉培,孫晋泰ら文学者,語学者,民俗学者も加わり,国学=朝鮮学研究の発展を目指した,朝鮮人自身による初め ての組織である。史学史的には,植 民地期の歴史研究の三大潮流,すなわち民族史学,実証史学,社会経済史学のうち,前2者に属する人たちが合流した組織であること,のちに朝鮮民主主義人民 共和国の歴史学界において指導的地位を占めることになる金錫亨,朴時亨も,学界へのデビューはこの学会を通じてであったことなど,その幅広い研究者の連合 戦線的な性格が注目される」「震檀学会」より) 「 金台俊(1904?-1949)朝鮮の文学者。出生地は不明。京城帝国大学朝鮮語学 科を卒業し,同学科の講師。1937年日中戦争が始まり植民地下の朝鮮で朝鮮語その他の民族文化が滅亡の危機にさらされるや,朝鮮語文学会,震檀学会など を組織して朝鮮学の研究と発展に努力した。また39年以後は朝鮮共産党再建のため地下活動に参加,44年秋に警察の保護観察を受ける身でありながらソウル から中国へ脱出し,延安の朝鮮独立同盟に参加した。解放後は南朝鮮労働党文化部長となって反米闘争を展開したが,49年秋に李承晩政権によって処刑」(金 台俊) 「崔 鉉培(チュエ・ヒョンべ, 1894-1970)韓国の朝鮮語学者。慶尚南道蔚山出身。京都大学を卒業後、朝鮮語学会で働くが、朝鮮語学会事件(1942-1943)に連座して投獄 される。朝鮮解放後、ハングル専用主義者として朝鮮語文法の体系化に尽力した。著作に『우리 말본(国語文法)』『한글갈(正音学)』など」 「孫晋泰(Son Chin‐t‘ae)1900-?:朝鮮の歴史・民俗学者。号は南滄。ソウルの出身。1927年早稲田大学文学部史学科を卒業。33年以降,延禧・普成両 専門学校講師,45年ソウル大学校教授,49年ソウル大学校師範大学長,文理大学長を歴任し,50年朝鮮戦争で朝鮮民主主義人民共和国に連行後,消息不 明。彼の史観は民族の発展だけでなく,その全構成員がすべて幸福になることを目ざす新民族主義で,主著は《韓国民族史概論》(1948),《国史大要》。 1932年4月宋錫夏(そうしやくか)らとともに朝鮮民俗学会を創設」 4月(1934年)「東京人類学会 創立五十年記念講演会」開催「東京人類學會創立五十年記念講演會記事」( https://doi.org/10.1537/ase1911.49.173)。 小金井「人類の咬合形式」(日、独)論文 日本民族学会の設立(初 代理事長:白鳥庫吉[しらとり・くらきち、1865- 1942]、理事:新村出、渋沢敬三、関屋貞三郎、桑田芳蔵、移川子之蔵) 平野義太郎(「すでに生活力を失ってゐるアイヌ族」→『思想』144号)。柳田国男『民間伝承論』 日本学術振興会「アイヌの医学的、生物学的研究」(永井 潜・班長)。児玉作左衛門は解剖小委員会委員となる。 11月 大阪民俗談話会発足(→近畿民俗刊行会) 今村鞆『人 参史』の刊行がはじまる(→1940) 矢内原忠雄『満洲問題』 この年、霧社事件のリーダー・モーナ・ルダオ(1880-1930)の白骨死体と思しき骨を発見。 その後台北帝国大学考古人類学科に「凶蕃」として陳列される(中川・和歌森編1980:102-103)。遺体は1974年に「霧社山胞抗日起義記念碑」 脇の「莫那魯道烈士之墓」に葬られる。 ※ルース・ベネディクト『文化の型』
・『アザンデ族における妖術、託宣、呪術』
・朝鮮農地令公布。震檀学会創設(宋錫夏が 幹事)(詳細は左欄)。日本民藝協会発足。
1934
・平野義太郎(「すでに生活力を失ってゐるアイヌ族」→『思想』144 号)
・ 日本学術振興会「アイヌの医学的、生物学的研究」(永井 潜・班長)。児玉作左衛門は解剖小委員会委員となる。
・「10月下旬、北海道帝国大学医学部解剖学第二講座 の児玉作左衛門教授らが町内愛牛(あいうし)地区のアイヌ墓地から持ち去る。幌内では少なくとも76人分」
1935
2.26事件 『民族學研究』(1巻1号)発刊。民間伝承の会『民間伝承』創刊。エイプ会発足。 朝鮮総督府、心田開発運動がはじまる。 秋葉隆がオロチョン調査。 村山智順『朝鮮の類似宗教』調査資料第四十二輯、朝鮮総督府、1935年 4月 岡正雄帰国。 J.エンブリー、熊本県球磨郡須恵村で調査[→リンク]。 5月10日内閣総理大臣直属の国策調査機関である「企画院」が発足する。 6月22日Lectures delivered at Meiji-Seimei-Kan, Tokyo, in 22 June, 1935, von W. Schmidt = ウイルルム・シュミット述 ; 岡正雄譯 ; 國際文化振興會編, Neue Wege zur Erforschung der ethnologischen Stellung Japans (日本の民族學的地位探求への新しき途) 移川子之蔵・宮本延人・馬淵東一『臺灣高砂族系統所屬の研究』※臺北帝國大学土俗・人種學研究 室調査 ; 第1冊: 本篇, 第2冊:資料篇、刀江書院, 1935 「二つの「ミンゾク」学※が袂とを分かったのは、柳田[国男]が一国民俗学を提唱した翌 年の、1935年(昭和10)年ごろのことである」[伊藤 2006:5]。※2つのミンゾク学とは、民俗学と民族学(戦後の文化人類学)のことである。 小金井良精「アイノの人類学的調査の思ひ出」『ドルメン』(1888:明治21年7月8 日〜9月3日の調査紀行:アイヌ人墳墓の学術的「盗掘」記録の傍証となる) 高橋新吉『蝦夷痘黴史考』。北海道帝大医学部・児玉作左衛 門による森村・落部村の遺骨盗掘。 足立文太郎の古希記念論集、複数の大学から出版される。 岡茂雄は、岡書院、梓書房を閉店。 Ryuzo Torii, Ancient Japan in the light of anthropology, Tokyo : Kokusai Bunka Shinkokai , 1935
・2.26事件
・【岡正雄】帰国
1935
・ 小金井良精「アイノの人類学的調査の思ひ出」『ドルメン』(1888:明治21年7月8 日〜9月3日の調査紀行:アイヌ人墳墓の学術的「盗掘」記録の傍証となる) 高橋新吉『蝦夷痘黴史考』。北海道帝大医学部・児玉作左衛 門による森村・落部村の遺骨盗掘。
・1935年のアイヌ調査(日本学術振興会).
1936
4月1〜2日東京人類学会・日本民族学会の第1回連合大会が 開催(大会会長:小金井良精。特別講演;F.Weidenreich(北 京医学院) "Sinanthropus pekinensis as a Distinct Primitive Hominid";駒井卓(京都帝国大学)「遺伝学上より見たる日本民族の特徴」;移川子之蔵(台 北帝国大学)「未開社會に於ける時の觀念」)。/日本民族衛生学会が民族衛生協 会に改組される。 内村祐之・東京帝国大学医学部精神病学教授(〜1958) 3月7日付「金 関丈夫、台北帝国大学医学部第二解剖学 教室の教授に就任(1936年に台北 医学専門学校は台北帝国大学附属医学専門部に改組)。赴任は3月下旬と言われる」(→金関丈夫) 4月2日東京人類学会・日 本民族学会の第一回連合大会第二日目に小金井良精[1859-1944]「日本民族中の南方要素の問題について」を発表する。 5月 近畿民俗刊行会を改名し近畿民俗学会と改称。『近畿民俗』の刊行がはじまる。 鳥居龍蔵『考古學上より見たる遼之文化圖譜(1〜4)』東方文化學院東京研究所。 柳宗悦、東京・駒場の自邸隣 に日本民藝館を開設 (実業家の大原孫三郎の支援)

1936
・高倉新一郎、北海道帝国大学農学部植民学講座・助教授に就任。
・高倉「アイヌ政策史」の原稿はひととおり完成。
1937
1月、鳥居龍蔵『遼の文化を探る』章華社。 3月29〜31日日本人類学会・日本民族学会の第2回連合大会が 開催(於:東京帝国大学理学部)大会会長:白鳥庫吉 (東洋文庫);シンポジウム「最近のアイヌ民族問題」 5月14日、企画院は企画庁に昇格(〜1943年10月) 7月7日 盧溝橋事件(日華事変:〜1945年、中国と の軍事衝突の嚆矢) 日本民族学会が主催した千島樺太調査(岡正雄はそれに随行)。泉靖一がオロチョン調査。 旧土人保護法9条の削除 (「土人学校」の廃止)昭和10年代以降、同法が廃止されるまで、土地の無償下付はなかった。 保谷に民族学博物館開設(渋沢のアチック・ミュージアム(1921-1937)資料を移 管) 村山智順『部落祭』調査資料第四十四輯、朝鮮総督府、1937年 Rassenkunde der Aino / von Y. Koya ; unter Mitwirkung von Assistenten, T. Mukai ... [et al.], [Tokyo] : Japanische Gesellschaft zur Förderung der wissenschaftlichen Forschungen , 1937 矢内原忠雄『帝国主義下の印度』 移川子之蔵「琉球藩民の墓」。移 川はオランダに赴き、台湾のオランダ統治時代の資料を写真にして2万5千枚を撮影し、帰国後に整理して約200冊の「台湾史料」にまとめた。 石田英一郎(Ishida Eiichirō, 1903-1968)は、ウィーン大学に留学(〜1939年) 11月24日ニコライ・ネフス キー夫妻、処刑される。
※ルーシー・メア『アフリカの原住民政策』
・【岡正雄】日本民族学会が主催した千島樺太調査に随行
1937
・北海道帝国大学は北方文化研究室を設置。
アイヌ旧土人保護法の改正
・『新撰北海道史』の編纂が完了する。
・(昭和12) 旧土人保護法9条の削除 (「土人学校」の廃止)昭和10年代以降、同法が廃止されるまで、土地の無償下付はなかった。
森竹竹市(1902-1976)『原始林』(→『北海道文学全集11: アイヌ民族の魂』)
・山本多助、屈斜路湖のコタンでヒグマの木彫りなどの民芸品を製造販売を開始する。
1938
ウィーン大学が設置した日本学研究所に岡 正雄(Masao Oka, 1898-1982)が所長として就任。太平洋協会設立(実質的な組織運営者は、鶴見祐輔[1885 -1973]) 3月所長である大久保幸次により設立され、当初の名称は「回教圏攷究所」であった。ほどなく して善隣協会(1934年設立)の経営となり、1940年に回教圏研究所と 改称。 4月6〜8日日本人類学会・日本民族学会の第3回連合大会が 開催(於:東京帝国大学理学部・文学部)長谷部言人 (東京帝国大学理学部)シンポジウム: 「満蒙支諸民族の問題」 内村祐之ほか「あいぬノいむ二就イテ」(あいぬノ精神病学 的研究第1報)、内村祐之ほか「あいぬノ潜伏黴毒ト神経黴毒」(あいぬノ精神病学的研究第2報) 6月11日〜10月27日武漢作戦(漢口攻略戦)内閣情報部は文学者と懇談会を開いて漢口攻 略戦への従軍を要請し、陸軍部隊14名、海軍部隊8名、詩曲部隊2名の作家が従軍し、その見聞記を新聞・雑誌に掲載(通称「ペン部隊」) 京城帝大に大陸文化研究会が設立。長谷部言人が東北帝大から東京帝大に移動。モース生誕百年 祭。 村山智順『釈奠・祈雨・安宅』調査資料第四十五輯、朝鮮総督府、1938年 このころから、海外調 査がさかんになる。 9月 企画院の外郭団体として「東亜研究所」が設立される。 9月、岡正雄・馬場脩「北千島占守島及び樺太多來加地方に於ける考古學的調査豫報」日本民族 學會, 1938.9(民族學研究第4巻第3号(1938年9月号)抜刷, 第一回日本民族學會北方文化調査團報告) 里見甫(さ とみ・はじめ:1896-1965)3月阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂(→「昭和通商」の阿片のブローカー組織)の副董 事長(事実上の社長)に就任。 国策研究同志会は国策研究会に改称——「民間企画院」とも呼ばれる。
※ケニヤッタ『ケニア山のふもと』;グリオール『ドゴン族の仮面』; ハースコ ヴィッツ『文化変容』
・国家総動員法
・【岡正雄】ウィーン大学が設立した日本学研究所の所長として招かれ、戦況の悪化する1940年(昭和15年)まで再びウィーンに滞在
1938

1939
昭和14 東京帝国大学理学部人類学科創設(長谷部言人[はせべ・こと んど] 1882-1969)。最初の人類学専攻の学生は3名。 4月1〜3日日本人類学会・日本民族学会の第4回連合大会が 開催(於:慶應義塾大学医学部)大会会長: 桑田芳蔵 (慶應義塾大学医学部)シンポジウム: 「南方諸民族の問題」:公開講演・大山柏(慶応大学)「北支調査第二回報告」;公開講演・原田淑人(東京帝国大学)「元の上都の遺跡に就て」(これ以降は 中止) 小山栄三[社会学者]『人種学概論』(1929,1931の改訂再版) 高田保馬『東 亞民族論』岩波書店(同じ書名の白柳秀湖『東 亜民族論』は1941年刊) 鳥居龍蔵、Harvard–Yenching Instituteから招へいされ、Harvard–Yenching Instituteの客 員教授として燕京大学(Yenching University)に赴任。燕京大学は1941 年に閉鎖、北京に滞在する。1945年にHarvard–Yenching Instituteが復帰して、1951年まで滞在、同年帰国。 11月〜1940年企画院の岡倉古志郎・玉城肇ら4名が検挙された(「判任官グループ」事件)
カーディナー『個人とその社会』


1939

1940
2月7日アルフレート・ローゼンベルグ(Alfred Ernst Rosenberg, 1893-1946)はそれまでのInstituts für Biologie und Rassenkunde(ベルリン)を改組してInstitut für Biologie und Rassenlehreを創設する。 2月 学士院に、東亜 民族調査委員会設置(委員長:山田三郎)。4月12日初会合。 5月「回教圏攷究所」が、回教圏研究所に改名(東京市白金三光町から原宿に移転) 5月26日日本文学報国 会が設立(会長:徳富蘇峰、理事に折口信夫、柳田國男、顧問に正力松太郎などが見える) 9月30日施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設された内閣総理大臣直轄の研 究所「総力戦研究所」が企画院に設置される。 10月企画院が発表した「経済新体制確立要綱」 が財界などから赤化思想の産物として攻撃され、翌1941年1月~4月にかけて、原案作成にあたった稲葉秀三・正木千冬・佐多忠隆・和田博雄・勝間田清 一・和田耕作ら中心的な企画院調査官および元調査官(高等官)が治安維持法違反容疑で逮捕され、検挙者は合計17名となった(「高等官グループ」事件) 11月ウィーンから帰国したばかりの岡正雄(1898-1982)は、古野清人と 連れ立って帝国学士院会員であった晩年の白鳥庫吉を訪問した。当時の近衛文麿首相に民族研究所の設置への働きかけをおこなおうとしていた 秋、 旧制長崎医科大学に大陸医学研究班が設置。 田村幸雄「満洲國に於ける邪病、鬼病、巫醫及び過陰者、並 びに蒙古のビロンチ、ライチャン及びボウに就いて」。国民優生法施行 『朝鮮民俗』3号が、今村鞆(とも)古希記念特集号。(→『鼻 を撫りて : 螺炎隨筆 : 古稀自祝記念出版』) 移川子之蔵、台北帝国大学文政学部長に就任。 足立文太郎『日 本人の動脈系統 II』(独文)
・2月7日アルフレート・ローゼンベルグ(Alfred Ernst Rosenberg, 1893-1946)はそれまでのInstituts für Biologie und Rassenkunde(ベルリン)を改組してInstitut für Biologie und Rassenlehreを創設する。
※アメリカ応用人類学会創設
・エヴァンズ=プリチャード『ヌアー族:あるナイロート系の人々の生業形態と政治制度の記述』
・柳宗悦と沖縄人のあいだで「沖縄方言論争」。その後、柳宗悦「沖縄人に訴ふるの書」
・【岡正雄】文部省直轄の民族研究所設立に奔走した
1940
・(児玉作左衛門) 昭和15年には北大医学部に臨時附 属医学専門部が設置された。
・山本多助『阿寒国立公園とアイヌの伝説』
1941
昭和16 東京人類学会を日本人類学会 (Anthropological Society of Nippon)に改称。 旧制長崎医科大学にあった大陸医学研究班が大陸医学研究所病理部と改称、拡充される。 6月民族研究所の設置が決定されるも、6月22日独ソ戦勃発、近衛内閣総辞職により研究所の 設置は無期延期(→1943年1月) 小山栄三『民族と人口の理論』(日本帝国における民族と人種の統一性を説き、民族の統一 概念が主張される) 内村祐之ほか「アイヌの内因性精神病と神経性疾患」(アイ ヌの精神醫學学的研究第3報) 京城帝大に秋葉隆ら陳列館を設置。村山智順『朝鮮の郷土娯楽』調査資料第四十七輯、朝鮮総督 府、1941年 12月12日日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争 ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」を閣議決定。 白柳秀湖(SHIRAYANAGI, Shuko, 1884-1950)『東亜民族論』千倉書房。 村山智順、朝鮮 より「帰国」、朝鮮奨学会に勤務する。 W.R.スミス『セム族の宗教』永橋卓介譯、岩波書店。マレット『原始文化 : 人類学序説 』永橋卓介訳、生活社
・柳宗悦「アイヌへの見方 (1941)」『工藝』106号:当時金田一(1941)が アイヌ文化工芸展講演で「消えゆくアイヌ」説を展開する。『工藝』106号は同年12月10日発行だが、その2日前は日本が対英蘭宣戦布告の日であった。
1941
・内村祐之ほか「アイヌの内因性精神病と神経性疾患」(アイ ヌの精神醫學学的研究第3報)
・柳宗悦「アイヌへの見方(1941)
・日本民藝館「アイヌ文化」特別展(1941年9月〜10月)
・貝澤正、移民として満州にわたる(出典:本多勝一『「学 者」について学者たちに問う』)
1942
3月 旧制長崎医科大学の大陸医学研究所病理部が拡充され「東亜風土病 研究所」が設置される。「東亜風土病研究所は九州南部の風土病調査な どを行う一方で、中国大陸の日本軍占領地で医療・衛生行政を担っていた同仁会と提携し、漢口などで野外調査を進めた。また当時長崎で大流行をみたデング熱 の調査も行った」東亜 風土病研究所) 4月3日 大日本拓殖学会創立総会開催(古野清人、松本信廣、小泉丹、清野謙次、前島信次、高倉新一郎などが参加)『大日本拓殖学会年報』第1輯「大東亜 政策の諸問題」1943。 大蔵公望日記「昭 和17年5月25日 九時三〇分、企カク院に秋永第一部長を訪ねしも不在。よって石田調査課長を訪ねて、左の事を秋月[永]氏へ伝言頼む。/一、来月より 約一ヶ月半にて満支に旅行すること。(略)/三、今度文部省で新設の民族研究所と 東研【東亜研究所:引用者】との間に摩擦の出来ぬよう、企カク院にて仕事の配 分を考へること」 5月東京帝大五月祭にて、理学部人類学科「南方民族の身長と頭の大きさの分布、南方の土俗 器、身体特徴を陳列」(全 2020:235)。 7月 東亜民族調査委員会報告。文科省「大東亜学術教育連絡協議会」の設置を答申。南方既設学術研究施設の管理運営、民族研究所の設置構想、学術探検派遣、熱帯 医学研究所などの設置などが審議されている(全 2020:234-235)。 7月、岡正雄、総力戦研究所(Institute for Total War, 1940-1945)にて研究生(=各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリート)に対して「民族問題」にて2回講義する。 平野義太郎[1897-1980]・清野謙次『太平洋の民族=政治学』:長谷部言人「大 東亜建設二関シ人類学研究者トシテノ意見」をはじめとして、この当時の専門家は日本人の人種的純粋性を説く。 鈴木栄太郎(1894 -1966)、京城帝大社会学教室に赴任。 9月第一次満鉄調査部 事件(満鉄調査部内の左翼分子とされた大上末広・具島兼三郎・野々村一雄・堀江邑一・小泉吉雄・渡辺雄二・稲葉四郎・横川次郎ら33名が検挙) 12月『民族學研究』8巻4号で巻号シリーズが終わる。「民族研究所」の設立に関 する閣議決定(?) 〜1943 朝鮮語学会 事件 「朝鮮語学会の会員33名が治安維持法違反として検挙投獄された事件。42年夏,一女高 生の日記に〈日本語を使い処罰された〉とあったことに端を発し,同校教員が検挙され,10月にはソウルの朝鮮語学会にまで弾圧が及び,李克魯,崔鉉培,李 熙昇等の言語学者が検挙され,裁判に付された。李允宰,韓澄は拷問のため獄死している。同学会は,李朝末期に朝鮮語研究に大きな足跡を残した周時経のあと を継いだ言語学者が1921年結成した〈朝鮮語研究会〉を,31年改称したもの」(平凡社「朝鮮語学会事件」)。 「朝鮮語学会は「ハングル表記法統一案」を作成し,機関紙 『ハングル』を発刊するなど,朝鮮語の啓蒙,普及活動を盛んに行なっていた。しかし,臨戦体制への移行が進むにつれ,朝鮮語使用に対する弾圧が強まった。 41年太平洋戦争の勃発を機に,弾圧は露骨になり,翌年 10月,治安維持法違反を理由に語学会員を大量検挙し,洪原警察署留置場に1 年間留置し,咸興(ハムン)に護送した。拘束されていた約 30人のうち 13人が公判に付されたが,2人は公判中に拷問により獄死,11人の被告は2~6年の懲役という判決を受け,語学会は解散」(ブリタニカ「朝鮮語学会事 件」) 1942年11月1日 大 東亜省設置 「1942年6月16日の行政簡素化実施要領において、時局に適応した行 政各庁の組織簡素化が求められ、官吏削減を含む新官制案が各省庁で検討された。同年7月26日に行政簡素化実施案を閣議決定、各省庁等における簡素化案は 9月に纏まり、これらをもとに内閣や各省庁等の官吏削減とそれに伴う省務の調整、改組が進められた。こうした行政改編中に、9月15日、『大東亜省設置 案』と外務省行政簡素化実施案等が一括決定された。この『大東亜省設置案』は、日本 商工会議所等から広域経済圏の担当省庁設置が要望され、企画院を中心として既に検討されていた案のひとつであった。/大東亜省は、東條内閣 (提案の中心となったのは鈴木貞一企画院総裁)の大東亜省設置案に準じ、1942年(昭和17年)11月1日に設置された。大東亜省は、拓務省廃止に伴 い、他省庁(興亜院、対満事務局、外務省東亜局及び南洋局)ととも に一元化したものであり、官房、参事、総務局、満洲事務局、支那事務局及び南方事務局によって構成されていた。構想されていたのは、いわゆ る大東亜共栄圏諸国を、他の外国とは別扱いとして外務省の管轄から分離させるこ とにより、大日本帝国(日本)の対アジア・太平洋地域政策の中心に据えることであった」大東亜省 Wiki) 12月、北海道帝国大学助教授・高 倉新一郎(1902-1990)『アイヌ政策 史』日本評論社。
・〜1943 朝鮮語学会 事件
・1942年11月1日 大東亜省(Ministry of Greater East Asia)設置
・柳宗悦「アイヌ人に送る書(1942)」※山崎幸治説(私信 2021)によると、冒頭の文章には、柳がアイヌとの心理的距離を推し量る「行為」があると主張されておられる。また筑摩書房全集22巻(下:271- 272)によると3月15日発行の『工藝』107号を「アイヌ特輯」として当該論文を収載した後の29日にヒトラーユーゲント一行が日本民藝館に来館して いる。
1942
・12月、北海道帝国大学助教授・高 倉新一郎(1902-1990)『ア イヌ政策史』日本評論社。
1)よき日本人となること
2)同化政策の完了の認識
・柳宗悦「アイヌ人に送る書(1942)」
・山本多助、海軍軍属としてトラック等に従軍するが負傷して帰国。
1943
昭和18年1月 民 族研究所、設立(〜1945年9月)。日本民族学会は、一 旦解散し、(財)民族学協会に改組される。『民族學研究』1月新1巻1号の創刊。1943 年11月から44年4月にかけて、民族研究所が主催した都合6回の連 続講義のべ42演者におよぶ「民族研究講座」が開催される[→国際常民文化研究叢書11: 「民族研究講座」講義録]。内村祐之、北支における麻薬問題視察、およびラバウルにお ける航空隊員の精神医学的診断に従事。 5月 大東亜政略指導大綱(昭和十八年五月二十九日大本営政府連絡会議決定;昭和十八年五月三十一日御前会議決定): 「帝国は大東亜戦争完遂の為帝国を中核とする大東亜の諸国家諸民族結集の政略態勢を更に整備強化し以て戦争指導の主導性を堅持し世界情勢の変轉に対処す」 6月、鳥居龍蔵『黒龍江と北樺太』生活文化研究會。 7月 『新 渡戸博士植民政策講義及論文集 』矢内原忠雄編、岩波書店。 満鉄調査部は憲兵隊に左翼思想者のリストを提出、これに基づき伊藤武雄・石堂清 倫・枝吉勇ら10名がさらに検挙された(第二次満鉄調査部事件) 慶應義塾大学亜細亜研究所を設置(1945年空襲で消失〜1946年3月廃止)。機関紙『亜細亜研究』9月より刊行30巻8号まで(先行誌:財政經濟時報 = The financial & economic review)。亜細亜業書2冊フランケ『 支那治外法權史』錢端升等『最近支那政治制度史』の2冊の業績。 10月 企画院の廃止、再編(→所掌していた業務は、それぞれ内閣、軍需省、内務省などに分散された) 11月 11月7日国家の民族政策の大義とインテリジェンスに与みしていた民族研究所の所長・ 高田保馬(Yasuma TAKADA, 1883-1972)は民族研究講座において大東亜共栄圏の多民族 の共存共栄の未来を危惧。 移川子之蔵、台北帝国大学南方人文研究所所長に就任。 長谷部言人定年退官。鈴木尚が解剖学教室より移動して講師となる。 永橋卓介による 最初の『金枝篇・簡約版』one- volume abridgementの翻訳(生活社、三冊のうち上巻の上梓、1944年に中巻。下巻は発行されず)
・【岡正雄】民族研究所発足時には総務部長として従事
1943
・(児玉作左衛門) 昭和18年には樺太医学専門学校が設立された。しかし、太平洋戦争が終了するとともに樺太医専は廃止
1944
蒙古善隣協会・西北研究所(蒙古聯合自治政府首都・張家口に)設立(〜 1945)退役軍人の 土橋一次機関長(理事長)、今西錦司が所長、石田英一郎が次長に就任。 民族研究所と民族學協 会は戦災を受けて彦根に疎開。高田保馬を新理事長に、岡正雄が事業部長 に就任する。 澁澤敬三、日本銀行総裁に就任。 小山栄三『南方民族と民族人口政策』(大和民族の雑婚・混血を嫌う)。東亜経済懇 談会編『大東亜民族誌』(大川周明、長谷部言人、清野謙次、美濃口時次郎、平野義太郎、大久保幸次、福田省三)『民族研究所紀要』(国立国会図書館) 409pp. 内容[創刊の辞(高田保馬) 民族政策の基調(高田保馬) 東亜に於ける民族原理の開顕(中野清一) 匈奴・フン同族論(河上波夫) 甘粛回民の二類型(岩波忍) 南洋群島原住民の土地制度(杉浦健一) ラーマクリシュナの生涯とその宗教運動(渡辺照宏) ] 田村幸雄「満洲に於ける民族と精神病に就いて」 京城帝大に大陸資源科学研究所設置され、泉靖一が嘱託。 小金井良精死去。 『人類学雑誌』59巻686号までを出版し、中断を余儀なくされる(4年間の休刊)。
※マリノフスキー『文化の科学的理論』
1944

1945
5月東京大空襲。回教圏研究所も全焼。機能の停止(『回教圏』1938 年7月に創刊1944 年12月号まで通巻69号)。 8月15日、敗戦。『民族學研究』は新2巻6号まで刊行しその後停止。『民族研究彙報』(1945年8月30日)[民 族研究3(1-2)として発刊] 京城帝大が廃止され、京城大学に。法文学部に人類学科が設置。ソウルに国立民族博物館 (Museum of Anthropology)が設置される(館長;宋錫夏[ソン・ソクハ])。 足立文太郎死去。昭和20年9月、民 族研究所の廃止の決定(10月15日付で廃止)。ただし、その外郭団体(財)日本 民族學協会は、実質的に、民族学会の機能をもつ(→1964年まで続く) R.ベネディクト「天皇はいかに処遇されるべきか」「日本人行動パターン」
※リントン編『世界危機下の人間科学』
※イギリス社会人類学会創設。
※ R.ベネディクト「天皇はいかに処遇されるべきか」「日本人行動パターン」
・【岡正雄】民族研究所は敗戦とともに閉鎖され、公職追放の対象者に。岡もしばらくは郷里の松本で農業に従事。
1945
・高倉新一郎「アイヌ政策史」で農学博士
1946
(財) 日本民族学協会、GHQ民間情報教育(CIE)のパッシンによる講演会開催。 CIEは、国内における文化人類学民族誌調査を開始する。12月民族学協会は役員を改選し、会長・理事長に澁澤敬三を選出。『民族學研究』はこの年度に2 冊発刊(『民族學研究』新3巻1輯、2輯 (昭22.2))——小山栄三編集(1946-1947)。 清野『日本民族生成論』(執筆は1943年) 1月「民科」(民 主主義科学者協会)発足。6月に民科は政治、経済、歴史地理、哲 学思想の5分野にわたる90名の「戦争責任者」のリストを公開する(清水 2009:21)。高田保馬(Yasuma Takata, 1883-1972)、肥後和男(民俗学:)は公職追放(高田の公職追放は1946.12-1951.06)。 高倉新一郎・北海道帝国大学農学部教授に昇進(植民地学講座)。 旧土人保護法「授産・医療・ 救済」に関する規定の削除。 5月8日朝鮮人類学会創設。8月22日京城大学がソウル大学校に改称。ソウル大学校文理 大学社会学部人類学科。

1946
・北海道帝国大学農学部植民学講座は、農学部農業経済第三講座に改称さ れる。高倉新一郎は同講座教授に就任。
・旧土人保護法「授産・医療・ 救済」に関する規定の削除
・泉は1950年に日本民族学協会が計画した「アイヌ 民族綜合調査」に参加し、1951年8月に杉浦健一(1905-1954)との沙流アイヌ集落でフィールド ワークをおこない、調査上の困難にであっていた。それは「半世紀以前の彼らの社会生活はあとかたなきまでに変貌」していたと記している(泉 1952:45)。また、同調査で石田英一郎(1952:185)は、この調査が「アイヌ民族の福祉」に寄与する可能性も示唆していた。しかし、この調査 は予備調査だけに終わった。
・北海 道アイヌ協会(1930年設立)が社団法人となる
・1 月19日日本民藝協会北海道支部設立:「植民地的性格を持つ北海道に独自な民衆的手工芸の発達しなかったことは当然であり、その理由も種々に上げられる が、本道の代表的民藝品としてただ一つのアイヌ工芸品が残され、しかもこのアイヌ民藝が将に滅亡に瀕してゐる」(國松 1947)
・山本多助(1904-1993)、北海道アイヌ協会釧路支部の初代支部長。

●高木博志「ファシズム期、アイヌ民族の同化論」(赤澤・北河編『文化とファシズム編』所 収、1993)

はじめに

1. 「北海道旧土人保護法」改正をめぐる同化論

2. 高倉新一郎の同化論

おわりに

◎考察:理論枠組み01「民族学者たちの歴史人類学の動態記述の試み」

ファシズム期における、社会体制、民族学者、そして 研究対象になった先住民、これらの関係は、その与えられた歴史的状況においてはたして「必然の結果」だったのだろうか?それとも偶然の枝葉の1本にしか過 ぎないのではないか」という 疑問がむくむ くと浮かんできた。すなわち加藤史学の問題点は、わかりやす過ぎること。そして、一度、納得してしまうと、それ以外の可能性の細部に入るための認識論的な [可能性の広がりの]障壁になってしまうということだ。それに加えて、歴史的データをより多くもって いる研究者が、より正 確に推論ができる[のではないか]という、暗黙の前提を共有してしまい、将来の研究者集団を「資料収集の鬼」に変貌させてしまう。つまり、限られたデータ の中で、仮説をたて、新 しいアノマリーなデータが出てきた時に、パラダイムチェンジを引き起こしにくい学問集団を作ってしまう(→「加藤哲郎史学の可能性と限界」)。

◎考察:理論枠組み02「研究という権力実践におけるジェンダリズム」

「良妻賢母」は、日本、中国、韓国を含む東アジアの 女性らしさの伝統的な理想を表す言葉で、19世紀後半で生まれたと言われている。その提唱者は、中村正直(まさなお; 1932-1891)だと言われている(Sharon Sievers, Flowers in Salt: The Beginnings of a Feminist Consciousness in Modern Japan, 1983, 22./ 小山静子『良妻賢母という規範』1991/ 『家庭の生成と女性の国民化』1999)

アイヌの伝統的社会のジェンダリズムについては、そ の批判が出ているが、現在までまとまった研究はない。

Links

リンク(アイヌおよび先住民)

リンク(脱植民地化)

リンク

文献

その他の情報

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