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岡 正雄

Masao Oka, 1898-1982

1970年頃撮影

池田光穂

複雑な顔をもつ魅力ある知識人としての岡正雄(ウィキペディアの記述)→「岡が 留学した当時のウィーン大学民族学研究所(→ウィーン大学人類学研究所の歴史)には、ウィーン学派と呼ばれるヴィルヘル ム・シュミットWilhelm Schmidt SVD, 1868-1954)やヴィルヘルム・コッパースWilhelm Koppers, 1886-1961)、ハイネ・ゲルデルンRobert Freiherr von Heine‐Geldern, 1885-1968)など文化史的民族学の黄金期を支えた研究者が結集しており、岡による学説紹介は、彼が用いる「エトノス」や「種族文化複合」などの概 念とともに当時の日本の民族学に大きな理論的影響を与えた。また「座談の名手」と称されたほどに、教育者あるいは理論的指導者としての才を発揮した。/加 えて民族学が未だ大学に基盤を持たなかった時代に、人類科学全般の研究会「APE会」や雑誌『民族』の編集作業を通し、学会組織化の土台となる人的ネット ワークを作り、戦後の学制のもとでは東京都立大学大学院にいち早く社会人類学の専攻を設け、東京大学の石田英一郎とともに大学での文化人類学の研究・教育 制度の構築に貢献するなど、民族学草創期のオーガナイザーとしても高く評価されている。/一方、戦前・戦時中、植民地における民族政策の要請から、民俗学 は国策として重用されていた。岡自身、文部省民族研究所の設立などを通じて、政府や軍部と民族学者との関係を取りまとめる立場にあったことから、学問と植 民地主義の結びつきを検証する人類学史では批判的に描かれることも多い」岡正雄

主 著『古日本の文化層Kulturschichten in Alt-Japan.』「ウィーン大学へ提出した博士論文『古日本の文化層』は、当時のウィーン学派民族学の手法をベースに、先史・考古学、言語学、宗教 学、形質人類学、神話学の手法を併せて日本の基層文化を論じた、5巻1452ページに及ぶ畢生の大著であり、寡作だった岡にとっては、まさに代表作と言え る。現在に至るも邦訳はないが、2012年にドイツ語原文で出版された[3]。戦後の1948年(昭和24年)5月4日から6日にかけて、東京神田の喫茶 店2階で行なわれた、民族学者の石田英一郎や考古学者の江上波夫及び八幡一郎らとの座談会の内容をまとめた『日本民族の起源』は、岡の論文の内容を基礎と して展開されている。また、住谷一彦が、岡の論文の目次部分を邦訳して簡単な紹介を加えている[4:住谷一彦「岡正雄「古日本の文化層」- 或る素描-」『歴史民族学ノート』未來社、1983年、173〜197頁]。論文『古日本の文化層』のドイツ語訳を手伝ったアレクサンダー・スラヴィクAlexander Slawik, 1900-1997)は、岡の問題意識や方法論に大きな影響を受け、『古朝鮮の文化層』という題の論文を提出し、博士号を取っている[5 A・スラヴィク 『日 本文化の古層』未来社、1984年]。」

関係者たち

岡正雄年譜(ウィキペディアなどの情報による)

1892  兄、細見惟雄が生まれる(Koreo HOSOMI, 1892-1963)

1894  兄、岡 茂雄(Sigeo OKA, 1894-1989)が生まれる。

1898  明治31 岡正雄、6月5日長野県東筑摩郡松本町生まれ

1916  旧制松本中学を卒業

1917  第二高等学校に入学。マルクス主義に「かぶれ」る。エンゲルスやモルガンに親しむ。モルガンにより大学で民族学研究をめざす。

1918  東京帝大「新人会」の発足。

1920  第二高等学校(仙台)を卒業。東京帝国大学文学部社会学科に進学

1923  母校(二高)の講演会で天皇制批判を展開する

1924  東京帝国大学文学部社会学科を卒業「早期社会分化における呪的要素」。卒業直前に柳田國男を訪ね、フレイザー『王政の呪術的起源』の翻訳の序文執筆を依 頼するが、柳田は怒って拒絶(貴族院書記官長)

1924  (大正10年)文部省学術研究会議嘱託と東京女子歯科医学専門学校のドイツ語教師を兼任

1925  

1925 (大正14年)から柳田國男とともに民族学雑誌『民族』を共同編集し、 岡書院から刊行した(〜1929年)。坪井正五郎の人種学(ethnology)を、エスノロジー(民族学)と訳すようになり、その語が定着する。

1927  バーン『民 俗学概論』を翻訳し、岡書院より刊行。

1928  

4月昭和医学専門学校教授。「異人・その他」、「文化は文化から」『民 族』3(3):490-496.1928.

この年、ヴィルヘルム・シュミットの尽力で、民族学研究所と自然人類学研究所の2つの研究所が設立された。民族学研究所の初代所長は、ヴィルヘルム・シュミット神父の同僚であり、最も親しい科学的協力者であったヴィルヘルム・コッパース神父(1886-1961)

1928 ウィーンでは、国立自然科学博物館民族学部門にあったヘンリー・フォン・シーボルトの日本コレクションが基礎になり、国立民族学博物館として分離独立し、その場所を新宮殿において開館した。


1929  (昭和4年)


渋沢敬三の援助を得て(シベリア経由)オーストリア・ウィーンへ渡る。


10月ウィーン大学哲学部民族学科に入学、
ヴィルヘルム・シュミットのもとで民族学を学ぶ。当時は、人類学講座から民族学研究所が独立しヴィルヘルム・コッパース教授が主任として赴任した(→ウィーン大学人類学研究所の歴史

当時のウィーン大学の民族学の学者・学生たちには、シュミットコッパースの他に、ロベルト・フォン・ハイネ=ゲルデルン、フリッツ・フロア(Friz Flor)、クストフ・フォン・フュラー=ハイメンドルフが おり、それ以外にコペンハーゲンからカハ・ビルケット=スミス(Kaj Birket-Smith)、ヴォルフラム・エバハルト(Wolfram Eberhard)、エランド・ノルデンショルド(Erland von Nordenskiöld)などの教授陣がいた[クライナー 2013:5-7]。

また、考古学教室には、オスヴァルド・メンギーン(Oswald Menghin)、自然人類学のヨーゼフ・ヴェーニンガーJosef Weninger)が、民族学研究所で教育をしていた。

学 生の1/3は海外からの留学生。その中には、ベルンハルト・フロクラーゲ(Bernhard Vrocklage)、ガストン・ファン・ブルク(Gaston van Bulck)、ミロヴァン・ガバナッツィ(Milovan Gavanazzi)、エドウィン・レーブ(Edwin O. Loeb)、クライド・クラックホーン(Clyde Kluckhohn)

岡は、コッパース教授よりワルター・ヒルシュベルク(Walter Hirschberg, 1904-1996)を紹介される。

1931 岡はサンクト・ガブリエル修道院ちかくに下宿する。この時期から、シュミットと同時にハイネ=ゲルデルンに近づく。

1932 

岡は博士論文を提出することを決め、そのタイプには同級生のアレクサンダー・スラヴィックAlexander Slawik)が協力する。

なお、第二次世界大戦中、スラヴィックはヴォルフガング・シュマル博士とともに、ドイツ国防軍最高司令部暗号局言語部の日本語デスクを担当し、少尉(独:ロ イトナント)ヴァルター・アドラー博士を指揮者として、最も経験ある人物であった[3]。ヴォルフガング・シュマールやヴァルター・アドラーについてはほ とんど知られていない[TICOM_I-150.pdf]。

1933  

ウイーン大学より「古日本の文化層」博士号を授与(指導教官:コッパースヴェーニンガー)指導教官。なお試験では他に考古学者のメンギーンと哲学のハインリッヒ・ゴンペルツHeinrich Gomperz)が陪席した。6月以降、米国のロックフェラー財団奨学金を得てウィーン滞在を1935年3月まで延長されることになる[クライナー 2013:9]

1934  

ロンドンで開催された、第一回国際人類学民族学会議に出席、「日本-琉球の秘密結社の存在」のタイトル(ドイツ語)で発表をおこなう[Oka 1934]。

同年、ユーゴスラビアからトルコまで旅行した。

1935  

4月帰国。ウィルヘルム・ハインリッヒ・リールの研究方法に関心をもつ。

6月日本民俗学講習会(東京)「独墺における民俗学的研究」柳田國男編『日 本民俗學研究』Pp.327-372, 1935.

ヴィルヘルム・シュミットの来日。シュミットは大阪で講演。三井高陽とシュミットと岡の間で、ウィーン大学に日本研究をおこなう機関の設置の合意がなされた(政府が決定するのはその2年後)。

岡書院、梓書房とも閉店、岡茂雄は出版業から身を引いて『辞苑』(広辞苑の前身)の編集作業などに従事するようになる。

1937  

国際人類学民族学会議日本委員幹事に推薦される。

7月日本民族学会が主 催した千島樺太調査に随行(北千島占守島=しゅむしゅとう、での発掘調査;樺太オロッコの調査)。

石田英一郎(Ishida Eiichirō, 1903-1968)は、ウィーン大学に留学(〜1939年) 。同年11月24日ニコライ・ネフスキー夫妻、処刑される

1938  

1938年2月3日岡がウィーンに到着。ウィーン大学が設立した日本学研究所の所長(客員教授)として招かれ、戦況の悪化する1940年(昭和15年)まで再びウィーンに滞在。

1938年3月12日のアンシュルス(独墺合邦)以降、ウィーン大学の教員がナチのSS隊員に占められ、ヴィルヘルム・シュミットならびにウィルヘルム・コッパースの両神父はウィーンを去る(1931年創設のアントロポス研究所は1938年アンシュルス以降は実質亡命化する;実質的なウィーン文化圏学派の終焉あるいはバチカンへの亡命化)

「第 三帝国」がオーストリアを1938年3月に併合した後、SVDの代表者は、ナチスの支 配下(1938-45年)、ウィーンでの大学のポストを即座に剥奪された。これらのプロセスとそのフォローアップは、ナチ党員で新学部長のヴィクトール・ クリスチャン(1885 - 1963)が担当した(それまでは非合法だった)。ヴィクトール・クリスチャンは、セム語の言語学者で中東の専門家であり、1921年から24年まで、 NHMの民族誌博物館部門の責任者であった。学部長として、当初はフューラー=ハイメンドルフの協力を得て、民族学研究所の臨時所長も務めた(ハイメンド ルフがインドに向かうまで;Campregher & Mihola 2006も参照のこと)。クリスチャンはSSのメンバーでもあり、SSアーネンエアベ(「祖先の遺産」)の「研究センター」の責任者となった (Gingrich & Bendix 2014)。そのアーネンエアベの「研究センター」でクリスチャンとともに関わったのが、この研究所の博士課程を修了し、当時アフリカの新しい博物館学芸 員だったヴァルター・ヒルシュベルクである(Dick 2009, Loidl 2008)。クリスチャンの監督の下、ウィーンの人類学協会とその機関誌『Mitteilungen der Anthropologischen Gesellschaft zu Wien』もアーネンエアベとその出版社に編入された」ウィーン大学における民族学・文化人類学の形成史

岡は、独日協会(der Deutsch-Japanischen Gesellschaft)東南支部で活躍[クライナー 2013:14]。会長は、カール・フライヘル・フォン・バルドルフCarl Freiherr von Bardolff)。理事に岡のほかに、テオドール・フォン・レルヒ(Theodor von Lerch)。さらに独日研究者協議会(deutsch-japanischer Akademiker-Tagungen)にも参加。これには、ワルター・ハイシッヒ(Walther Heissig)が参加している。後者の協議会ではギュンター・ヴェンク(Günther Wenck, 1916-1992)が、日本の国体について発表している。

シュミットコッパースは実質的に亡命。メンギーンのみが残り、アフリカニストのヘルマン・バウマン(Hermann Baumann)が招へいされる。

7月コペンハー ゲン第二回国際人類学民族学会議で、日本民族学会を代表して占守島発掘の 調査発表をおこなう。

1939  

4月ブ ダペスト大学客員教授を兼任(岡 1970:450)。

5月1日ウィーン大学日本研究所が、運用を開始する。アドルフ・シュトルファーAdolf Josef Storfer)の旧部屋を事務所に使う[クライナー 2013:12]。

中央政情流動化に 巻き込まれ、バルカンの専門家と呼ばれるようになる。

1940  

11月帰国(サバティカルを理由に:クライナー[2013:16]はウィーンでの研究継続の困難さを自覚し、また大島大使からの二等書記官待遇の発令と関連づけられるのではないか主張している)。

帰国後から、文部省直轄の民族研究所設立に奔走した。

1943  民族研究所発足時には総務部長として従事。メンギーン『石器時代の世界史(上)』聖紀書房から刊行。

1945  民族研究所は敗戦とともに閉鎖され、公職追放の対象者に。岡もしばらくは郷里の松本で農業に従事。

1948  12月上京。

1949  「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」(石田英一郎・江上波夫・八幡一郎と討論)『民族学研究』13(3)。

1950  4月日本民族学協会理事長(1950)として学界に復帰。日本学術会議人類学民族学研究連絡委員を委嘱される。

1951  東京都立大学教授。文化人類学を担当。明治大学非常勤講師として社会人類学を担当。国際人類学民族学会議日本委員。5月国際人類学民族学会議常置委員会に出席(パリ)

1952  第30回アメリカニスト会議に出席(ケンブリッジ)。第四回国際人類学 民族学会議(ウィーン)に出席、副会長に就任。文部省文化財保護委員会専門審議会委員。

1953  4月東京都立大学大学院社会人類学研究科設置され、主任教授。

1956  第5回国 際人類学民族学会議(フィラデルフィア)に出席、副会長に就任

1957  国際人類学民族学会議の副会長に就任

1958 (60歳) 日本民族学協会理事長を辞任。

1960  東京都立大学教授を辞任し、明治大学教授。明治大学第一次アラスカ学術調査団に参加。北西インディアン、極北エスキモーの調査。アメリカニスト 会議、国際人類学民族学会議、東洋学者会議等に出席。

1962  明治大学第2次アラスカ学術調査団団長として5か月調査。9月日本学術 会議アジア・アフリカ研究特別委員会委員。

1963  ウィーン民族学会名誉会員。還暦記念『民 族学ノート

1964  東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長。国際人類学民族学会議会長。

1966  東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長に再任。

1969  東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長に再再任。

1971  月 と不死 / N.ネフスキー著 ; 岡正雄編,  平凡社 , 1971.4. - (東洋文庫 ; 185)

1972  退官

1973  和洋女子大学教授

1978  撮影の岡正雄(80歳)


1982  12月5日死去(84歳)

1983  『民族学研究』48巻1号にて、「岡正雄教授追悼特集」/  歴史民族学ノート / 住谷一彦著, 未来社 , 1983.

視 座 : 日本的心性Das Japantumの祖型を求めて/ W.コッパース「高神の造形化的表現」 : 神の無像性の普遍史的意義について 《比較の視点》インドゲルマーネンの原郷Urheimat : 日本民族=文化系統論のたてかたに寄せて A.L.クローバー「オイクメネー」 : 文化成長Culture Growthに関する一考察 R.v.ハイネーゲルデルン「二つの古世界観とその文化史的意義」 A.スラヴィク「隼人」 : 日本建国神話におけるアウストロネシア語系諸要素と隼人問題アカマタ・クロマタ : 南島の秘密結社ヨーロッパの男子結社Männerbündeと男子集会所 Männerhaus : 「共同体」解体の民族学的視角岡 正雄「古日本の文化層」 : ある素描 石田英一郎 : 文化人類学的思想像喜多野清一「日本の家と家族」 : 有賀・喜多野論争の問題点福武直『中国農村社会の構造』: 福武社会学の秘められた可能性「日本の村」序論伊豆伊浜部落の村落構造 小河内峰部落の村落構造三宅島・御蔵島の社会構造日本法社会学の農村調査 : ひとつの素描オーストリア・ネッケンマルクト村の調査ノート : 東欧型村落の一分析ヴィーン・スペイン馬術学校街時代の日本学研究所 : 在りし良き時代の思い出 / アレクサンダー・スラヴィク著

2013  日本民族学の戦前と戦後 : 岡正雄と日本民族学の草分け / ヨーゼフ・クライナー編, 東京堂出版 , 2013

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Oka Masao (japanisch 岡 正雄; * 1898 in Matsumoto, Präfektur Nagano; † 1982) war ein japanischer Ethnologe und begründete die Japanologie an der Universität Wien[1].
岡 正雄(おか まさお、* 1898年長野県松本市生まれ、† 1982年)は、日本の民族学者であり、ウィーン大学において日本学を創設した[1]。
Leben
Oka Masao studierte von 1920 bis 1924 an der Universität Tokyo Soziologie. Von 1925 bis 1926 betrieb er Forschungen zur Minzokugaku (Volkskunde) zusammen mit Yanagita Kunio. Oka entdeckte in einer Schweizer Buchhandlung das Buch Völker und Kulturen von Pater Wilhelm Schmidt, (SVD). Er war davon begeistert und zeigte es Yanagita, der ihn bei sich als Schüler aufnahm. Gleichzeitig fand sich Oka mit Gleichaltrigen zusammen in einer AG, die sie APE-Kai nannten (Archeology, Prehistory, Ethnology)[2].

Yanagita hatte, nachdem er aus Genf zurückgekommen war, den sogenannten Donnerstagssalon (Mokuyōkai) gegründet. Dort trafen sich Forscher und konnten sich über die neuesten Forschungsergebnisse austauschen, es gab Vorträge. Origuchi Shinobu, ein Religionswissenschaftler, hielt dort einen Vortrag über das Phänomen der Marebito (稀人, Besuchergottheiten)[3]. Zu diesem Zeitpunkt war Oka gerade Praktikant (Shosei) bei Yanagita und wohnte bei seinem Meister im Haus. Er betreute in dieser Zeit die Zeitschrift Minzoku (民族). Oka war beeindruckt von Origuchis Vortrag und verfasste selbst einen Artikel: Ijin to sono ta (異人とその他, Fremde und anderes, 1928). Er brachte in diese Überlegungen die Wirtschaftsgeschichte und auch das Besucherbrauchtum Melanesiens mit hinein und beschränkte sich damit nicht nur auf Japan. Zu diesem Zeitpunkt, da Oka seinen Artikel publizierte, hatte Origuchi seine Arbeit noch nicht publiziert. Oka hatte deswegen Gewissensbisse und hat dann mit Shibusawas Hilfe auch Origuchis Arbeit rausgebracht – gegen Yanagitas Willen. Dieser schmiss daraufhin beide aus der Gruppe, die sich anschließend auflöste.
生活
岡正雄は、1920年から1924年まで東京大学で社会学を学んだ。1925年から1926年にかけては、柳田国男とともに民俗学の研究を行った。岡は、 スイスの書店でヴィルヘルム・シュミット神父(SVD)の『民族と文化』(Völker und Kulturen)という本を発見した。と意気込んで、柳田に見せると、柳田は弟子として迎え入れた。同時に、岡はAPE会(Archeology, Prehistory, Ethnology)という同業者の集まりに参加した[2]。

ジュネーブから帰国した柳田は、木曜サロン(木曜会)と呼ばれるものを立ち上げていた。研究者が集まり、最新の研究成果を交換したり、講演会を開いたりし ていました。宗教学者である折口信夫は、そこで「まれびと」現象について講演を行った[3]。当時、岡は柳田のもとで修行中で、師匠の家に居候していた。 この間、雑誌『民俗』を担当した。岡は、折口の講演に感銘を受け、自らも論文を書いた。異人とその者』(1928年)。彼は、メラネシアの経済史や訪問者 の習慣を考慮に入れて、日本だけにとどまらない考察を行った。岡が論文を発表した時点では、折口はまだ論文を発表していなかった。岡は反省し、渋沢の協力 を得て、柳田の意に反して折口の作品を出版した。その後、柳田は2人をグループから追い出し、グループも解散してしまった。
1929 studierte er Völkerkunde in Wien. Seine Reise wurde von Shibusawa Keizō finanziert, dem Mäzen der Volkskunde. In Wien hatte sich gerade der Lehrstuhl für Völkerkunde von dem der physischen Anthropologie getrennt. Chef des Instituts war Pater Wilhelm Koppers, (SVD). In Wien lernte Oka historische Methoden und eignete sich deren Vorgehensweise an. Er lernte dort auch Alexander Slawik kennen. Slawik hatte nach dem Studium der Ostasienwissenschaften bereits seine Dissertation eingereicht, durfte aber nicht promovieren, denn die Fächer Sinologie und Japanologie gab es damals noch nicht. Schließlich traf er Oka, der ihn von der Ethnologie überzeugte. Slawik sagte über Oka: Er „verführte mich zur Völkerkunde; ein Glücksfall“[4]. In den späten 1930er Jahren initiierte Oka Masao, späterer Begründer der japanischen Kulturanthropologie, die Errichtung eines Lehrstuhls für Japankunde an der Universität in Wien. Seine Idee wurde von Wiener Völkerkundeprofessoren gefördert und mit der finanziellen Unterstützung durch Baron Mitsui Takaharu (三井高陽) 1938 ermöglicht. Als Gastprofessor übernahm Oka die Leitung des Instituts, das offiziell am 1. April 1939 seinen Lehrbetrieb aufnahm. Der Einfluss Okas auf Slawiks Japanstudien ist unübersehbar, aber umgekehrt hat sich auch Slawiks Interesse an der japanischen Frühgeschichte auf Okas Theorienbildung ausgewirkt. Slawik übersetzte immer etwas für Oka.

1941 kehrte Oka zurück nach Japan und richtete dort die Minzoku Kenkyūsho (民族研究所, etwa Seminar für Volkskunde) ein und begründete 1943 das Institut für Völkerkunde. Dieses wurde nach dem Krieg zur Bunkashinrigaku (Kulturpsychologie bzw. Sozialanthropologie). Dort arbeiteten später auch Ishida Eiichirō und Umesao Tadao, ein Ökologe, der Rinderherden in der Mongolei untersuchte. Ishida hat sich später der Andenforschung zugewandt. 1945 wurde der Lehrstuhl für Japanforschung in Wien aufgelöst, weil die Gelder dafür fehlten. Er wurde wieder der Völkerkunde angeschlossen. Die Forscher kamen aus dem Exil zurück. Erst ab 1964 gab es wieder einen eigenen Lehrstuhl für Japanwissenschaften.

1953 machte Oka Expeditionen in das Dorf Ihama an der Südspitze der Izu-Halbinsel (organisiert von der Hauptstadt-Universität). Dort entdeckte er eine Dorforganisation nach Altersklassensystem. Über die Meiji-Universität beteiligte er sich 1960 auch an Eskimostudien. Bei einem dreitägigen Symposium der APE-kai 1958, an dem neben Oka auch der Volkskundler Ishida Eiichirō, der Archäologe Egami Namio und der Prähistoriker Yahata Ichirō (1902–1987) beteiligt waren, entwickelten sie entgegengesetzt zu Yanagitas Theorie der Verbreitung in Kreisen eine Theorie der Verbreitung von Kultur in Schichten bzw. Komplexen. Sie unterteilten die Herkunft der Japaner und die Besiedelung Japans in 5 Schichten. Das war revolutionär und schockte einige Forscher, darunter auch Yanagita, nach der Veröffentlichung sehr. 1964 gründete er schließlich sein eigenes Institut an der Universität Tokio.

Nach seiner Pensionierung als Professor an der Universität Tokio zog Oka sich nach Genf zurück und schrieb dort ein Buch (Der Winter in Genf ist einsam). Das Buch handelt von Okinawa. Er schreibt, dass in der Nähe ein großer alter Mann wohnt, den er nicht besucht hat. Er meinte Yanagita. Yanagita war gefürchtet und hochverehrt, ein Pate der Ethnologie.

Zu den Feierlichkeiten der Abteilung Japanologie des Instituts für Ostasienwissenschaften der Universität Wien im WS 2007/2008 wurde Oka Masao in einer Ringvorlesung "160 Jahre Japanforschung in Österreich", noch einmal besondere Aufmerksamkeit zuteil.
1929年、ウィーンに留学し、民族学を学ぶ。この旅は、民俗学のパト ロンであった渋沢敬三の資金によって行われた。ウィーンでは、ちょうど民族学の講座が身体人類学の講座から分離したところであった。研究所の責任者はヴィ ルヘルム・コッパース神父(SVD)であった。岡はウィーンで歴史的な手法を学び、その手法を流用した。また、そこでアレクサンダー・スラウィックに出 会った。スラウィック氏は、東アジア研究を経てすでに論文を提出していたが、当時は中国学や日本学という科目が存在しなかったため、論文提出を許されな かった。やがて岡と出会い、民俗学の道に進むことを説得される。スラウィックは岡について、「私を民俗学に誘惑してくれた。1930年代後半、後に日本文 化人類学の創始者となる岡正雄が、ウィーン大学に「日本学」の講座を開設することになった。この構想は、ウィーンの民俗学の教授たちによって進められ、 1938年に三井高陽男爵の資金援助によって実現した。岡は客員教授として研究所を担当し、1939年4月1日に正式に授業を開始した。岡がスラウィック の日本研究に影響を与えたことは間違いないが、逆にスラウィックの日本初期史への関心も岡の理論展開に影響を与えた。スラウィックは、いつも岡のために何 かを訳していた。

1941年に帰国した岡は、民族研究所を設立し、1943年には民族研究所を設立した。戦後は「文化心理学」(社会人類学)となった。石田栄一郎や、モン ゴルで牛の群れを研究していた生態学者の梅棹忠夫も、後にここで仕事をすることになる。その後、石田はアンデス研究に転向する。1945年、ウィーンの日 本学講座は、資金がないため解散した。民俗学に振り分けられた。亡命していた研究者たちが帰ってきた。1964年になってから、再び日本研究のための独立 した講座が設けられた。

1953年、岡は伊豆半島南端の伊浜村に探検に行った(首都大学東京主催)。そこで彼は、年齢階級制度に基づく村の組織を発見した。また、1960年には 明治大学を通じてエスキモー研究にも参加した。岡のほか、民俗学者の石田英一郎、考古学者の江上波夫、先史学者の八幡一郎(1902-1987)らが参加 した1958年のAPE会3日間のシンポジウムで、柳田の円環伝播説に対抗して、文化の層・複合化伝播説を展開した。日本人の起源と日本への入植を5つの 層に分けたのだ。これは画期的なことで、発表後、柳田を含む一部の研究者に大きな衝撃を与えた。 やがて彼は、1964年に東京大学に自分の研究所を設立することになる。

岡は東京大学教授を定年退職後、ジュネーブに引きこもり、本(『ジュネーブの冬は淋しい』)を書いた。沖縄に関する本です。近くに訪問していない偉い老人が住んでいると書いている。柳田のことだ。柳田は、民俗学のゴッドファーザーと恐れられ、尊敬されていた。

2007/2008年冬学期のウィーン大学東アジア研究所日本学科の祝賀会で、岡正雄は「オーストリアにおける日本研究の160年」という講演シリーズで再び注目された。
1933 Kulturschichten in Alt-Japan. 3 Bände. Dissertation, Universität Wien (Text in Deutsch).[5] Neuauflage, hrsg. von Josef Kreiner: 2 Bände. Bier’sche Verlagsanstalt, Bonn 2012, ISBN 978-3-936366-40-2, ISBN 978-3-936366-41-9.
1958 Nihon minzoku no kigen (日本民族の起源, dt. etwa: Ursprung des japanischen Volkes), Gespräche mit Ishida Eiichirō, Egami Namio, Yawata Ichirō
1979 Ijin sono ta – nihon minzoku = bunka no genryū to nihon kokka no keissei (異人その他 日本民族 = 文化の源流と日本国家の形成, dt. etwa: Fremde und anderes – japanisches Volk = Ursprung der Kultur und Bildung des japanischen Staates)



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Günther Wenck (* 24. Oktober 1916 in Döbeln; † 7. Dezember 1992) war ein deutscher Japanologe. Nach der Promotion zum Dr. phil. in Leipzig am 11. Juli 1940 wurde er 1950 Dozent für Japanologie und 1957 außerplanmäßiger Professor für Japanologie in Hamburg. Von 1966 bis 1979 lehrte er dort als Professor für Japanologie.

Schriften (Auswahl)
Wortgebrauch und Assoziation in den erotischen Epigrammen des „Haifū Sue-tsumu-hana“. Wiesbaden 1983, ISBN 3-447-02350-3.
Japanische Parodie im 17. Jahrhundert. Studien zum Nise-Monogatari. Wiesbaden 1985, ISBN 3-447-02528-X.
Pratum Japanisticum. Exemplifizierender Entwurf einer „Japanistik“. Wiesbaden 1987, ISBN 3-447-02695-2.
Textkritische Studien zum Soga-monogatari. Wiesbaden 1991, ISBN 3-447-03137-9.
ギュンター・ヴェンク(Günther Wenck, * 1916年10月24日、デベルン生まれ、† 1992年12月7日)は、ドイツの日本研究者である。1940年7月11日にライプチヒで博士号を取得後、1950年に日本学講師、1957年にハンブ ルクで日本学助教授となる。1966年から1979年まで、日本学教授として教壇に立った。

著作物(抜粋)
海風末摘花」のエロチックなエピグラムにおける語法と連想-「海風末摘花」のエロチックなエピグラムを中心に Wiesbaden 1983, ISBN 3-447-02350-3.
17世紀における日本のパロディ。二瀬物語の研究。Wiesbaden 1985, ISBN 3-447-02528-X.
Pratum Japanisticum. Japanistik "の模範的なドラフト。Wiesbaden 1987, ISBN 3-447-02695-2.
曽我物語のテキスト批評研究。Wiesbaden 1991, ISBN 3-447-03137-9.










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【資 料】清水昭俊「岡正雄:想外の挑戦——戦地の民族政策と民族研究所設立運 動」論文の構造

1.  戦時の民族学、戦後の文化人類学

1.1  風に乗った戦時、敗戦後の逆風

1.2  自己批判と純粋学術の志向

2.  民族学を志すまで

2.1  幼少期の軍人志向

2.2  思想的模索——マルクス主義かぶれから民族学へ

2.3  フレイザーと天皇制——解釈の岡民族学、刑事の訪問、心意の柳田民俗学

3.  文献研究から現実の民族へ、中欧バルカンを踏査

3.1  大学卒業後の曲折、ウィーン留学 390

3.2  ウィーン民族学、「民族」概念、中欧バルカン旅行 391

4.  民族研究所設立運動 395

4.1  試行錯誤の運動 395

4.2  厳しい環境、民族学の低い評価 396

4.3  運動の想外の展開、企画院による設置案 397

4.4  軍主導の研究所設立計画、逡巡と決断、民族学の刷新 399

4.5  企画院案の進展、東亜研究所との対決 400

4.6  文部省の所管で最終案 402

4.7  「バルカン通」の岡、ドイツの「民族研究」の模範例、その翻案 402

5.  戦時の深み——踏み込みと抑制

5.1  民族研究所の設立決定、延期、岡の飛躍 404

5.2  研究所と協会——民族学の総動員体制

5.3  民族学刷新のマニュフェスト、民族研究所設立 407

5.4  環境への順応戦術 409

6.  「時」に従う、に乗る、に逆らう、を越える——結語

共 同研究「第二次大戦中および占領期の民族学・文化人類学」グループ編『国際常民文化研究叢書11:「民族研究講座」講義録

第1期「民族研究講座」の案内ポスター(神奈川大学日本常民文化研究所蔵

参照文献

泉 水英計
 2015「まえがき」『国際常民文化研究叢書11:「民族研究講座」講義録』Pp.11-13、神奈川大学日本常民文化研究所。
中生勝美
 2015「民族研究所構想と「民族研究講座」」『国際常民文化研究叢書11:「民族研究講座」講義録』Pp.355-374、神奈川大学日本常民文化研 究所。
中根千枝
 1999「財団法人民族学振興会の解散について」『民族学研究』64(3):388-390.

神奈川大学日本常民文化研究所
 Online, 「国際常民文化研究叢書11」 http://icfcs.kanagawa-u.ac.jp/publication/report_03_11.html (2015年8月15日閲覧)

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