土人(どじん)というコトバの起源について
What is the person who called as "DO-JIN" in old Japanese?
土人(どじん)というコトバの起源について調べてみた。ネット上で もっともよくまとまった記述があるのがウィキペディア(日本語)の「土人(どじん)」 の項目である。
「明治末以降には、北海道・樺太などの開拓に伴いアイヌ民族を公式に「旧土人」と称した。1899年(明治32年)(北海道旧土人保護法) (「旧土人」は土人の派生語として「旧の土人」と解釈する場合のほか、「旧土の人」と解釈する意見もある)」この出典は:1968年5月9日衆議院内閣委 員会での厚生省社会局保護課長曾根田郁夫答弁(→国 会の議事録サイト)
その当該サイトの発言をそのまま引用すると……
「曾根田説明員 必ずしも私の所管でもない点がございますけれども、数そのものは、その後混血あるいはいわゆる和人との結婚ということでだ んだん減ってまいっておるわけであります。人種保存あるいは民族、民芸の保存というような点につきましては、道庁のほうも非常に心配しておりまして、実は この旧土人関係の社団法人にウタリ協会というのが現在あるのですが、こういうところに若干道のほうでも補助金等を支出しておりまして、そういう点にいろい ろ配慮しておるようでございますが、私どものほうも、できるだけそういう点でお手伝いしたいと思っております。/それからちょっと前後しましたけれども、 冒頭先生がお尋ねの旧土人保護法という名前の問題でございますけれども、これはいわ ゆる南洋の土人という意味の土人ではございませんで、旧土、つまり明治新政府になるまでの北海道を旧土といっておった、その旧土の人という意味だそうでご ざいます」。(→国 会の議事録サイト)
引き続き、ウィキペディア「土人」をみていこう。
「現在の辞書の第一語義は土着の人。1891年(明治24年)冨山房の「言海」、1907年(明治40年)三省堂の「辞林」、1914年 (大正3年)三省堂の「辞海」、1917年(大正6年)冨山房の「大日本国語辞典」では土着(土著)の人や土偶(土人形)の意味であったが、1920年 [1917?] (大正9年)啓成社のベストセラー「大字典」の第二語義は「野蠻の民」、 1925年(大正14年)田中宋栄堂の「新式大辞典」では「土着のものでまだ開化 せない人」が加わる。言海の著者大槻文彦没後に出版された1934年(昭和9年)冨山房の「大言海」では「原始的生活ヲ榮メル土着ノ人種」が加わるが、 他の辞典は概ね従来の意味での掲載であった」。
用例として、福沢諭吉(1889)と北一輝(1906)をあげておく
「亜非利加アフリカの土人に智識少なし、ゆえに未だ文明の域に至らず」福 澤諭吉『文明教育論』1889年(明治22)
「恰もアイオー洲のスウ土人が......斯の意味に於て今日の文明人は恰もチェラデルヒーゴの土人が......徳にして、移住の際にブ
ラジル土人が......土偶を恐怖するは南洋の土人部落にして東洋の土人部落中亦之を爭奪して......即ち、今日の憲法國の大日本天皇陛下に非らず
して、國家の本質及び法理に對する無智と、神道的迷信と、奴隷道徳と、顛倒せる虚妄の歴史解釋とを以て捏造せる土人部落の土偶なるなればな
り。......彼の文科大學長文學博士井上哲次郎氏の如きこの土人の酋長なりとす。......國家社會黨の領袖山路愛山氏の如き其の
土人的歴史家」北
一輝「国体論及び純正社会主義」(1906)
1872 湯島聖堂(東京)で開催された、湯島聖堂博覧会に、グマ飼育係として石狩アイヌが参加(→1872年のアイヌの状況は「アイヌとシサムための文化略奪史」を参照)。
1873 ウィーン万国博覧会にて、北海道物産としてアイヌ民族の展示
1903 第五回内国勧業博覧会にて、場外展示、学術人類館:伏古、胆振7〜12名のアイヌが展示
1904 セントルイス万国博覧会にて、人類学展示場、日高アイヌほか9名。同時参加のオリンピックにも参加(→「異民族を生きたまま展示することの倫理問題」)
1923 道内の 市町村に旧土人救療所を 開設。土人保導員を設置。
第2次大戦後になり、日本が植民地領有という政治制度を放棄した後では、土人(どじん)は「野蛮人」同様、否定的な意味で使われることが指摘さ れ、政治的に正しい(politically correctness)用語としては実質的に使われなくなる。(引用は前後するが)ウィキペディアの著者は、そのような経緯を、植民地主義への反省や、 野蛮への偏見の修正という観点から指摘している。
「江戸時代の民も移転の自由、職の選択の自由は制限され働く場所も一所懸命の土地とされていた。幕末〜開国以降は日本国内と同じく植民地で
も現地の民を土人と呼称したが、外地では日本人と支配階層であった欧米列強側の市民を土人と呼ぶことはなく、次第に植民地の有色人種を意味するようになっ
た。列強各国と共に行った植民地政策やそれ以前に繰り広げられた奴隷貿易の影響により植民地側を経済的に困窮させ激しく疲弊させながら、その窮状を植民地
側の未開性や文明の遅れによるものと錯誤したため未開の意や野蛮という偏見が加わった」。
「1973年(昭和48年)三省堂の「広辞林第5版」では「〜蛮人」が第一語義となる。1975年(昭和50年)小学館の日本国語大辞典」
では「特に、黒色人種をいう」が加わる [13]
。1983年(昭和58年)岩波書店の「広辞苑第3版」は第2版1969年(昭和48年)の原始的〜から「未開〜軽侮の意〜」へ更新、1990年(平成2
年)講談社の「日本語大辞典」では「natives」「uncivilized」が添えられ、2001年(平成2年)集英社の「広辞典」では「未開の民の
俗称」と解説された」。
ファーニバル『蘭印経済史』南太平洋研究会訳(川又昇ほか)昭和17(1942)年のネィティブは、土人ではなく土民になっている。土民社会 (native society)もそのように訳されている。補足的ながら、ナショナリズムを「民族主義」と訳する伝統は戦前からあることに私は気づいた。この訳語は、平 野義太郎らによるものなのか、それともそれよりもはるか以前からか……
2016年 10月沖縄の高江ヘリコプター着陸帯(通称ヘリパッド)建設予定地を警備する大阪府警の巡査部長(29)と巡査長(26)が、反 対運動の沖縄人に対してどこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」「黙れ、こら、シナ人」と発言。府警は戒告の懲戒処分をおこない、処分を受けた巡査部長らは、 「体に泥を塗っているところを見たのでつい言ってしまった」「その場で飛び交った言葉をつかってしまった」など発言に侮辱的な意味合いはないと釈明した。
★先住民脱植民地化理論
先住民脱植民地化理論は、西欧中心の歴史
記述や政治言説を、世界中の先住民や周縁化された人々とその経験を否定しようとする、現在進行中の政治的構築物であるとみなす。世界の先住民は、あらゆる
西欧中心の植民地化プロジェクトとその結果としての歴史的構築物、一般的な言説、概念化、理論に先んじて、それらを否定する。この見解では、米国、オース
トラリア、ブラジルなど、ヨーロッパ型の旧西欧植民地の独立は、入植者植民地主義の継続的な新植民地化プロジェクトとして概念化され、脱植民地化とはみな
されない。これらの国家の誕生は、単に進行中のヨーロッパの植民地主義を継続しただけである。西欧の影響から完全に解放されていない旧ヨーロッパ植民地
は、すべてこのような概念に当てはまる。そのような旧植民地の例としては、南アフリカ、オーストラリア、メキシコ、ブラジル、米国などが挙げられる
[Smith, L. T. (1999). Decolonizing Methodologies: Research and
Indigenous Peoples. Zed Books.]。
リンク
文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
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