北海道の地名由来はアイヌ語起源である
The origin of name of Hokkaido came from Ainu vocabulary by great Sisam advocator, Takeshiro Matusu-ura
北海道の語源は、東海道や西海道の名前にみられるよ うに日本語であり、アイヌの先住民としての土地を示すのは蝦夷が良いのだという主張を時々耳にすることがある。これに疑問符をつけるのがこのページの主張 である。
「蝦夷」がいいと主張する方法は、沖縄より琉球と言 うほうが良いという論理と同 じロジックである。ちなみに後者では、琉球(本島)と八重山を峻別することがあるために、沖縄=琉球ということが歴史的に単純に言い換えできない事情があ る。おまけに琉球王朝時代における琉球(本島)と八重山の政治的支配・従属関係などを勘案すると事情は複雑になる。ポイントは、どのような命名法を使おう とも、そこに居住したり/移住したりして、その土地で多様な人が、民主的な取り決めのもとで共存する意図をもつ限り、その土地の当事者たちに、自分の居住 地の名称を自他ともに示すことができることが重要であることだ。
さて結論を先取りすれば、北海道という言葉の起源 も、その命名者であり和人(シサム=アイヌ語で隣人の意味がある。なお和人=シャモはシサムの音訛[おんか: lingustic corruption]といわれている)でアイヌ文化と人権擁護の先駆者であった松浦武四郎(1818-1888)が、原案のも とになった語が堂々とアイヌ語由来であると主張しているからである。しかし、その解説は、今日(インターネット等で)手に入る資料で微妙に、そのニュアン スが違う点にある。
まず、北海道庁によるものを見て見よう(出典は: http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/mnj/d/faq/faq02.htm)。なお下線強調は引用者である私による ものである。
○
いつから「北海道」という名称(めいしょう)になったのですか?
明治(めいじ)2年(1869)です。8月15日の太政官布告(だじょうかんふこく)で、「蝦夷地(えぞち)自今(いまより)北海道ト被稱(しょうさ
れ)十一ヶ国ニ分割國名郡名等別紙之通被 仰出(おおせいだされ)候(そうろう)事」と周知されました。
この布告の出される以前は、「蝦夷(えぞ)が島」「蝦夷地(えぞち)」などと呼(よ)ばれていました。「蝦夷」とは、華夷思想(かいしそう)※4に基づ
く異(い)民族の呼称(こしょう)です。したがって、「蝦夷地」とは「異民族の住む地」ということになります。
日本には、北の境の概念(がいねん)が希薄(きはく)だったのですが、江戸(えど)時代後期以降(いこう)、ロシアの進出に伴(ともな)って意識せざる
をえなくなりました。いつまでも「蝦夷地」ではいけないので、新名称をつけるべきであるという意見は、江戸時代末期から多かったようです。しかし、それが
実現したのは明治になってからのことでした。これにより、北海道が日本の版図(はんと)であることが、内外に宣言されたのです。
※4 中華(ちゅうか)思想とも。古代中国で、自国・民族を「華」として尊(たっと)び、異民族を東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくて
き)・南蛮(なんばん)などと称して卑(いや)しみしりぞけた思想。日本など中国の周辺国に、広くその影響がおよんでおり、古代日本でも、みやこを中心と
する地域を「華」とし、王権のおよばない地域を夷狄(いてき)として、征服を正当化する思想となっていました。
○北海道という名前の由来は?
幕末(ばくまつ)の探検(たんけん)家として名高い松浦(まつうら)武
四郎(たけしろう)が名付け親とされています。
松浦は、明治2年に道名に関する意見書を提出し、6つの道名候補(こう
ほ)をあげました(日高見(ひたかみ)・北加伊(ほっかい)・海北・海島・東北・千島)。このうち、「北加伊道」の「加伊」を「海」と変更(へんこう)し
て「北海道」となったとされています。松浦の意見書では、「加
伊(カイ)」とは「夷(い)人」の自称(じしょう)であると説明されています。
すでに古代から、東海道、西海道、南海道などがあったので、北海道とい
う名称は、ごく自然な感じがするのではないでしょうか。
ところで、松浦はみずから「北海道人」と号していたこともあるので、結
果的には、松浦の雅号(がごう)が道名になったとも言えるでしょう。
この道庁の解説では、語源にはアイヌ語起源はあるも のの(もちろんそれすら明確に指摘されていない!)、「東海道、西海道、 南海道など」などの《日本列島の一連の地名》の延長上に北海道を位置づけようとする作為がよくわかる。「北海道という名称は、ごく自然な感じがするのではないでしょうか」と いう念の押しようである。
他方、音の響きとしての北海道(ホッカイドウ)にア イヌ語をしっかり位置づけた解説がある。松浦武四郎の本人から主張を、花崎皋平(はなざき・こうへい, 1931- )が解説したものを紹介しよう。
彼(=松浦武四郎)は、明治2(1869)年7月 17日、「道名の義につき意見書」を政府に提出している。その中で彼は、日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北道、千島道の6つを原案としている。そ のうち北加伊道と海北道の折衷したようなかたちで「北海道」が正式名称にえらばれるのだが、彼が北加伊道を案とした理由は、アイヌ民族が自分たちの国をカイと呼び、同胞相互にカイノー、またはアイ ノーと呼びあってきたからというところにあった。北 加伊道が北海道に変えられたとき、そこにこめられた大事な意味も消された。その名づけを産んだ流れは、武四郎一人の力や思いではどうにもな らない滔々たる濁流となって、この近代百年を押し通してきているものであった。武四郎は、明治に入るとすぐその流れの外に身をおいてしまう(花崎 1988:9-10)。
花崎の紹介によると、道庁が解説する「夷人」(夷狄 =イテキ、つまり潜在的な敵である異邦人)とは、和人(シャモ、日本人)が言うアイヌのことに他ならないということになる。アイヌであることが明々白々で あるのに、わざと「夷人」という歴史的用語をそのまま使って、何も註釈を与えようとしないのは、道庁版は、アイヌに対する不当なネグレクトである可能性が ある。それは文脈上明らかであるから説明の必要はないと反論をしても、わざわざルビを振っているために、文字が理解できる子供たちや外国の人たちも閲覧す るわけだから、やはり、不親切であるという誹りは免れないだろう。
松浦武四郎は江戸幕府時代には、場所請負制における 和人(つまり近代国家以前のプロト日本人)のアイヌに対する不当で非人道的な行為を告発して『近世蝦夷人物誌(志)』を記すが幕府により公刊が禁止され た。また花崎が指摘するように、この年(1869年)に開拓判官を任じられ、5月に開拓使御用掛を命じられた。しかし「蝦夷地から松前藩を転封し、妖商 (=悪徳商人のこと)の請負を廃止し、蝦夷地を諸侯へ分割するという三カ条」を提言したが、松前藩の転封は実現せず、翌明治3年3月に御用掛を辞任してい る。
そのため、先の北海道の地名の命名において、花崎は 「北加伊道が北海道に変えられたとき、そこにこめられた大事な意 味も消された」とやや消極的な評価を下している。確かに、保護定住政策とは言え(アイヌを対等な相手として見ず徹底的に保護対象としてみ る)国内植民地における少数民族への不平等条約的な性格をもつ「北海道旧土人保護法」 (1899-1997年)などの押しつけを通して、アイヌ文化と言語――今日ではそれらの保護は重要な生存権の擁護であると認められている――を構造的に 奪っていった日本政府の過ちは歴史的事実としてある。
しかし「北海道の地名は和人のみの言葉」としてある のか? 果たして、そうであろうか? 呼び名としての、ホッカイドウ の中にアイヌ語が残っているのではないだろうか?あるいは、北海道という和名風の読み方の中に、和人とアイヌの混成語として、両者の民族の併存は確保され たのではないだろうか? アイヌ文化振興法(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律、アイヌ新法とも言う。 1997年7月1日施行)として、アイヌの言語やアイデンティティの尊重が謳われている。その意味で、アイヌ語と和人語(シサム語と言ってもいい)の合成 語の中に、北海道の未来が託されているのではないだろうか? このような言挙げは、日本政府の悪業を隠蔽する内的植民地主義の一変奏に過ぎないのであろう か? 私の真意はそのような点にあるとは思えず、ホッカイドウの造語法のなかに、2つの文化が平等に配分されている可能性があったことを指摘したまでであ る。その共存の理想が実現されなかったとすれば、それは用語法に現れているのではなく、その土地と土地の人びとへの処遇が間違っていたからなのである。
文献
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For all undergraduate
students!!!, you do not paste but [re]think my message.
Remind Wittgenstein's phrase,
"I should not like my writing to spare other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate someone to thoughts of his own," - Ludwig Wittgenstein