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ビルマ・キャンペーン

The Burma Campaign

Mitzub'ixi Qu'q Ch'ij

以下の情報は、主に、ウィキペディア「ビルマの戦い ( the Burma Campaign)」より情報を吸い上げたものである。英国側の記録の中にエドマンド・ロナルド・リーチ(Edmund Ronald Leach, 1910-1989)の高地ビルマに関するフィールドワークに関する記録も僅かであるが収載した。私の関心は、ビルマ・キャンペーンの時期における洋の東 西を問わない文化人類学・民族学者たちの活動である。

ビルマの戦い(the Burma campaign)は、第二次世界大戦の局面の1つ。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐって、日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍と、イギリス軍・ア メリカ軍・国民革命軍とが戦った。戦いは1941年の開戦直後から始まり、1945年の終戦直前まで続」く。

"The Burma campaign was a series of battles fought in the British colony of Burma. It was part of the South-East Asian theatre of World War II and primarily involved forces of the Allies; the British Empire and the Republic of China, with support from the United States. They faced against the invading forces of Imperial Japan, who were supported by the Thai Phayap Army, as well as two collaborationist independence movements and armies, the first being the Burma Independence Army, which spearheaded the initial attacks against the country. Puppet states were established in the conquered areas and territories were annexed, while the international Allied force in British India launched several failed offensives. During the later 1944 offensive into India and subsequent Allied recapture of Burma the Indian National Army, led by revolutionary Subhas C. Bose and his "Free India", were also fighting together with Japan. British Empire forces peaked at around 1,000,000 land and air forces, and were drawn primarily from British India, with British Army forces (equivalent to eight regular infantry divisions and six tank regiments),[31] 100,000 East and West African colonial troops, and smaller numbers of land and air forces from several other Dominions and Colonies.[6]"-The Burma campaign.


英国
アメリカ合衆国
インド国民軍
ビルマ国内の軍事組織
国民革命軍(中国)
日本
19世紀
ビルマは19世紀以来イギリスが植民地支 配していた。ビルマは1824 年に始まった英緬戦争の結果、1886年にイギリス領インド帝国の一州に編入された。




1889年 北村紫山『印度史 : 附 朝鮮 安南 緬甸 暹羅 各国史 』博文館
1900-1910






1911-1920





1914年ビガンデー『緬甸仏伝』無我山房
1920年島田彌市・ 越村長次『ビルマ事情』(南洋叢書 ; 5巻)、台北 : 南洋協会台湾支部.
1921-1930





1926年原宜賢『印度佛蹟緬甸暹羅視察冩真録』東光堂
1931-1935
1935年ビルマ統治法が制定された。


ビルマ独立運動は1930年代に活発化し た。運動の前衛は1930年に 結成された「タキン党」だった。タキン党にはラングーン大学の学生が数多く参加しており、学生運動のリーダーとして活躍したのがタキン・オンサン(アウ ン・サン)やウ・ヌーらである。第二次世界大戦が勃発すると、タキン党はバー・モウの「シンエタ党」(貧民党)などと共に「自由ブロック」を結成した。


1936-1940
1937年ビルマ統治法の発効により、ビ ルマはインドから分離し、進歩 穏健派のバー・モウを首班とする内閣と議会が設置された。しかしイギリス人総督の拒 否権はほとんど統治全般に及び、自治権は完全には程遠く、ビルマは植民地と自治領との中間的状態に留め置かれた。議会における自治権拡大運動は、イギリス の行った小党分立政策のため勢力を持つには至らなかった。

1939年エドマンド・リーチ、カチン調査に赴く。
1940年秋エドマンド・リーチ、秋、ビルマ北部ならびにアッサムを転戦。ビルマにおいて英国はビルマと交戦、以降英国軍人と して従軍し現地人を組織して反日ゲリラ活動に従事。(→『高地ビルマの政治体系』)


ビルマ民族主義者の中には議会を通じた穏 健な運動を目指す者もいたもの の、タキン党は対英非協力と武装蜂起を掲げ、インド国民会議派、中国国民党、中国共産党、日本など、いずれの外国勢力からの援助でも受け入れる考えを持っ ていた。1940年に入ると、イギリスは自由ブロックに対して弾圧を加えた。バー・モウら首脳陣が相次いで投獄される中、オンサンは同志ラミヤンととも に、外国勢力からの援助を求めるために苦力に変装して密出国した。

《ビルマ独立義勇軍》
第二次世界大戦前、イギリスの植民地であったビルマでは、軍事部門への現地人関与はカレン族など少数民族だけに認める統治政策が採られていた[1]。そう した中で、タキン党急進派は武装独立運動を目指して活動していた。日本陸軍は、日本がイギリスと戦争状態となった場合のビルマ侵攻作戦を想定しており、こ のタキン党などを支援することで日本軍に協力的な現地人組織の育成を図ろうとした。タキン党側でも、外国からの支援を積極的に受け入れる方針であったため [2]、日本陸軍の支援を受けることにした。日本陸軍は、1940年(昭和15年)から翌年7月にかけて、アウンサンら30人のタキン党員を密かに亡命さ せた。また、ビルマ独立支援の謀略を担当する特務機関として「南機関」を創設した。アウンサンらは、南機関の支援を受けて、日本軍占領下の海南島で軍事訓 練を開始した。南機関としては、訓練を施したゲリラ要員をビルマに帰国させて、ビルマ公路の遮断工作をさせる計画であった。 1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発して日本とイギリスが戦争状態に陥ると、アウンサンらは、南機関とともにタイ領バンコクに拠点を移 し、ビルマ独立義勇軍(BIA)の編成に着手した。12月28日に宣誓式が行われ、タイ在住のビルマ人約200人を主力とするビルマ独立義勇軍が結成され た。南機関員や現地商社員の義勇兵など日本人74人も参加した。独自の階級制を敷き、軍司令官には南機関長の鈴木敬司大佐がビルマ名でボーモージョー大将 を名乗って就任、アウンサン(階級は大佐)らは参謀などとされた。日本から支給された小火器で武装し、専用の軍服なども支給された。 ビルマ独立義勇軍は、1942年(昭和17年)1月3日から、ビルマ侵攻作戦に参加した。任務の重点は、戦闘よりも民衆工作に置かれた。ビルマ独立義勇軍 は、占領地各地で志願兵を募って軍事訓練を施しつつ前進した。一部では敗走中のイギリス軍と交戦した。3月25日には、首都ラングーンで4500人による 観兵式を行った[3]。4月には日本人将兵が指揮系統から外れ、軍事顧問としての立場に退いた[4]。ビルマ攻略戦終結時には、ビルマ独立義勇軍の総兵力 は約2万7千人に激増していた[5]。 1942年6月には、クリーク地帯での作戦用に、兵力30人の小規模な海軍が、ビルマ独立義勇軍の下に設置された。元イギリス海軍兵が主体だった。現在の ミャンマー海軍の起源とされる[6]。

日本と中国とは1937年に勃発した日中戦争の最中にあった。日本軍は 沿岸部の主要都市を占領したが、中国の蔣介石政府は重慶へと後退し頑強に抗戦を続けていた。日中両国とも国際社会に対しては「これは戦争ではない」との立 場をとったため、アメリカ政府は交戦国への軍需物資の輸出を禁止する「中立法」を発動しなかった。軍需物資の多くを輸入に頼っていた日本はこれにより恩恵 を受けていたが、中国へのアメリカやイギリスからの援助も妨げることはできなかった。蔣介石政府への軍需物資の輸送ルート(援蔣ルート)があり、1939 年当時、ビルマのラングーンからのルート(ビルマルート):10,000トンの補給路があった。ビルマルートとは、ラングーンの港からマンダレー経由でラ シオ(現在のラーショー)までの鉄道路「ビルマ鉄道(Rail transport in Buruma)」と、ラシオから山岳地帯を越えて雲南省昆明に至る自動車道路「ビルマ公路」とを接続した、全長 2,300キロの軍需物資の輸送ルートの呼称である。蔣介石政府はトラックがどうにか通れるだけの山越えの道路を1938年7月に完成させていた。
1940年6月、ドイツ軍のパリ占領を機に、日本政府はイギリス政府に 対して申し入れを行い、ビルマおよび香港を経由する蔣介石政府への物資輸送を閉鎖させた。さらに日本は9月の北部仏印進駐により仏印ルートをも遮断した。 しかしビルマルートの閉鎖はアメリカの反発により3か月間にとどまった。再開されたビルマルートを遮断するため、日本軍航空部隊は雲南省内の怒江(サル ウィン川の中国名)にかかる「恵通橋」と瀾滄江(メコン川上流部の中国名)にかかる「功果橋(現在、中国が建設した Gongguoqiao Dam がある)」を爆撃したが、橋を破壊するまでには至らなかった。
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1940年3月、日本の大本営陸軍部は、参謀本部付元船舶課長の鈴木敬司大佐に対し、ビルマルート遮断の方策について研究するよう内示を与えた。鈴木はビ ルマについて調べていくうちにタキン党を中核とする独立運動に着目した。運動が武装蜂起に発展するような事態となれば、ビルマルート遮断もおのずから達成 できるであろう。 鈴木は「南益世」の偽名を使ってラングーンに入り、タキン党員と接触した。そこで鈴木はオンサンたちがアモイに潜伏していることを知り、彼らを日本に招く ことを決意する。オンサンたちはアモイの日本軍特務機関員によって発見され日本に到着した。これを契機に陸海軍は協力して対ビルマ工作を推進することを決 定し、1941年2月1日、鈴木を機関長とする大本営直属の特務機関「南機関」が発足した。 南機関は、ビルマ独立運動家の青年30名を国外へ脱出させ、軍事訓練を施し、ビルマへ再潜入させて1941年の夏頃に武装蜂起させるという計画を立ててい た。1941年2月から6月までの間に、脱出したビルマ青年は予定の30名に達し、ビルマ青年たちは海南島で軍事訓練を受けた。しかし1941年の夏に は、ドイツ軍のソ連進攻や、日本の南部仏印進駐とこれに対するアメリカの対日石油禁輸など、国際情勢の緊迫の度は深まっていった。このような情勢下、ビル マでの武装蜂起の計画にも軍中央から待ったがかけられた。

1940年桑原官吉・龜尾松治『印度・緬甸の展望』大阪 : 大阪雑貨印度輸出組合。
1941-1942
1940年に入ると、イギリスは自由ブ ロックに対して弾圧を加えた。連 合国軍は一旦退却したが、1943年末以降、イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援蔣ルートの回復を主な目的として本格的反攻に転 じた。連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回した。

《ラングーン陥落》
1941年、モールメンを含むテナセリウム(現在のタニンダーリ管区)を守るイギリス軍は英印軍第17インド師団だった。しかしこの部隊は準備不足で、日 本軍の急襲を 受けて退却に移り、2月22日、アーチボルド・ウェーヴェルは逃げ遅れた友軍を置き去りにしたままシッタン川の橋梁を爆破した。日本軍はサルウィン川と シッタン川を渡って進撃し、3月8日首都ラングーンを占領した。ウェーヴェルは責任を問われて解任された。

《第一次アキャブ作戦(三十一号作戦、第一次アラカン作戦)》
1942年から1943年の乾季、ビルマ戦線の連合軍にはまだ本格的反攻に移る余力はなかったが、2つの限定的な作戦を実施した。第1はビルマ南西部のア キャブ(現在のシットウェ)の奪回を目指した作戦、第2は「チンディット」部隊(いわゆるウィンゲート旅団)によるビルマ北部への進入作戦である。

1942年日本軍ビルマ・ラングーンを占領(3月)。エドマンド・リーチはインドへ退却。カチンでのフィールドノー トを失う。
アメリカとしては、ヨーロッパでの戦局を 有利に導くためには、蔣介石政 府の戦争からの脱落を防ぎ、100万の日本軍支那派遣軍を中国大陸に釘付けにさせ、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻勢を行えないような状況を作ること が必要だった。蔣介石政府への軍事援助は、1941年3月以降は「レンドリース法」に基づいて行われるようになった。さらにアメリカは、志願兵という形を 取って、クレア・リー・シェンノートが指揮する航空部隊「フライング・タイガース」をビルマへ進出させた。

《連合軍総退却》
アメリカ政府はジョセフ・スティルウェル陸軍中将を中国へ派遣した。スティルウェルは中国で駐在武官として勤務した経験が長く、事情に通じ中国語も堪能 だった。蔣介石はビルマルート確保のために遠征軍を送ったが、アメリカ政府は遠征軍をスティルウェルの統一指揮下に置くよう要求し、蔣介石も実質上の指揮 権を留保しつつこれに同意した[3]。中国軍はビルマ中北部に到着し、ウィリアム・スリム中将が指揮を引き継いだビルマ軍団、シェンノートの率いるフライ ング・タイガースとあわせて体勢を整えた。

《ビルマ防衛軍》
日本は、ビルマに軍政を敷いて、ただちに独立は認めなかった。ただし、バー・モウを首班とする自治政府の整備を進めた。それと同時に、日本軍は、ビルマ独 立義勇軍の縮小再編を進める方針を決めた。これは、肥大化したビルマ独立義勇軍を規律のとれた国軍として整備する意図と、アウンサンらがビルマ人の支持を 集めて日本の占領統治の妨げとなることへの危惧から、決まった方針だった[5]。 1942年7月、ビルマ独立義勇軍は解散となり、3個大隊(2800人)からなるビルマ防衛軍(BDA)が創設された。ビルマ防衛軍は、自治政府の下では なく日本軍の補助部隊としての地位にあり、第15軍兵備局に隷属した。アウンサンらに同情的だった南機関は、解散させられた。将来的には1万人程度の規模 まで拡大することを予定し、日本軍指導下での幹部養成のため、ビルマ幹部候補生隊も設置された[5]。幹部候補生隊の卒業生の一部は、日本の陸軍士官学校 へと留学している(第1期生からは30人が陸士57期に編入)[7]。

《ビルマ国民軍》
1943年(昭和18年)8月、日本の指導下で「ビルマ国」(首班:バー・モウ)が独立すると、ビルマ防衛軍は、その国軍であるビルマ国民軍(BNA)に 移行した。軍事担当の官庁として国防省が置かれ、アウンサンが国防相に就任。後任の軍司令官にはネ・ウィン大佐が就くなど、国防省や軍の要職は独立義勇軍 初期からの面々が占めた。 しかし、ビルマの独立が名目的であったことに不満を持つ軍幹部が多く、密かに抗日組織が軍内部に構成されていった。ビルマ防衛軍時代の1942年末にはす でに反日的傾向が表れていたが、その後、「独立」してビルマ国民軍となってから反日傾向は顕著となった[8]。インパール作戦の失敗でビルマ戦線での日本 軍の劣勢が明らかになった1944年(昭和19年)8月には、アウンサンらも加わった抗日組織「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL)が、ビルマ共産 党などと協力して結成された。カレン族などの少数民族もこれに加わり、連合国側との連絡も密かに始まった[9]。イギリス軍は、特務機関136部隊 (en:Force 136)を通じて工作を行った[10]。 ビルマ国民軍は、インド国民軍のように自ら進んで戦列に加わることはなかった。日本政府からの戦闘への協力要請は遅くまでなかった。1945年(昭和20 年)1月に軍事顧問部長に桜井徳太郎少将が着任すると、イラワジ会戦の戦況が悪化する中、ビルマ国民軍の前線投入がついに発案された。検討の結果、3個大 隊3000人の派遣軍を遊撃戦や後方支援用として出動させることになり、3月17日にラングーンで出陣式を行った。このほか、桜井少将は、大規模な民兵の 整備などを構想していた[11]。 出陣式を終えたビルマ国民軍であったが、すでに抗日軍事蜂起を決意していた。これ以前に、メイクテーラ駐屯の第5歩兵大隊は、イギリス軍が接近した 1945年2月28日には大隊長に率いられて集団脱走しており、3月8日には北部の一部の部隊が公然と反乱を開始していた[12]。3月27日、アウンサ ンは、全軍へ、バー・モウ政権に対する反乱を命じ、ビルマ国民軍は日本軍への全面攻撃を開始した。なお、アウンサンは、指導を受けた日本人軍事顧問の殺傷 は避けるよう指示していたが、徹底されなかった[13]。
《ラングーン陥落》
12月28日、「ビルマ独立義勇軍」(Burma Independence Army, BIA)が宣誓式を行い、誕生を宣言した。タイ・ビルマ国境は十分な道路もない険しい山脈だったが、第15軍はあえて山脈を越える作戦を取った。沖支隊 (歩兵第112連隊の一部)は1942年1月4日に国境を越えてタボイ(現在のダウェイ)へ向かい、第15軍主力は1月20日に国境を越えてモールメン (現在のモーラミャイン)へ向かった。BIAも日本軍に同行し、道案内や宣撫工作に協力した。日本軍は山越えのため十分な補給物資を持っていなかったが、 BIAとビルマ国民の協力により、給養には不自由せずに行動できた。さらにビルマの青年たちは次々とBIAへ身を投じた。
・1941年小西干比古編『最近の緬甸事情』(東半球 ; 1029號)東京 : 東半球協會
・1941年長谷川傳次郎撮影・編輯『佛蹟 : 印度・緬甸・泰国・佛印 : 故伊藤次郎左衛門氏佛蹟巡拝の記録』    東京 : 目黒書店
・1941年矢部治『緬甸の經濟事情』(資料 / 東亞研究所 [編] ; 丙232號D)東京 : 東亞研究所.
・参謀本部編『皇軍必携緬甸語會話』東京 : 参謀本部.
・1941年小西干比古編纂『緬甸歴史概説』(緬甸研究資料 ; 第4號)東京 : 緬甸問題研究會.
・1942年大場忠『ビルマ : 緬甸』京都 : 芸艸堂
・1942年J.S.ファーニヴァル『緬甸の経済』東亞研究所譯(東研叢書 ; 7)東京 : 東亞研究所

1941年夏以降、アメリカやイギリスとの関係悪化を受け、日本軍は南 方作戦を具体化していった。11月6日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍の戦闘序列を発し、各軍および支那派遣軍に対し南方作戦 の作戦準備を下令した。南方軍総司令官には寺内寿一大将、第15軍司令官には飯田祥二郎中将が親補された。以降陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対 米英蘭戦争の準備を本格化した。それまで大本営はビルマへの進攻は考えておらず、南機関の活動は南方作戦計画とは無関係に進められていた。ビルマ作戦の詳 細や兵力は開戦時においてすら固まっていなかった。計画では、連合軍の反攻に備える防衛線として、西はおおむねビルマを確保するとされていたが、占領地域 を南部ビルマにとどめるのか、あるいはビルマ全土に手を広げるのかは未定だった。日本軍が使用できる兵力も限られており、第15軍を編成した当初の目的 は、マレー作戦を実施する第25軍の背後を確保するためであって、ビルマ作戦を実施するためではなかった。ビルマ作戦に関する大本営の考え方は、緒戦の快 進撃に応じて逐次具体化されていったのである[2]。

《ラングーン陥落》
1941年12月8日、日本はアメリカ、イギリスへ宣戦布告し太平洋戦争が開始された。開戦と同時に、第33師団および第55師団を基幹とする日本軍第 15軍はタイへ進駐し、ビルマ進攻作戦に着手した。まず宇野支隊(歩兵第143連隊の一部)がビルマ領最南端のビクトリアポイント(現在のコートーン(英 語版))を12月15日に占領した。南機関も第15軍指揮下に移り、バンコクでタイ在住のビルマ人の募兵を開始した。

《連合軍総退却》
日本軍では、シンガポール攻略が予想以上に順調に進展したことから兵力に余裕が生じていた。そこでビルマ全域の攻略を推進することとし、第18師団と第 56師団をラングーンへ増援した。両軍の戦闘は各地で激戦となった。特に孫立人少将の率いる中国軍新編第38師(中国語版)は4月17日からの3日間、イ ナンジョン(英語版)において第33師団と激しく戦った。だが4月29日に第56師団がラシオ(現在のラーショー)を占領して中国軍の退路を遮断し、5月 1日に第18師団がマンダレーを占領すると、連合軍は次第に崩れ始めた。第56師団はビルマ・中国国境を越えて雲南省に入り、5月5日怒江の線まで到達し た。中国軍は怒江にかかるビルマルートの命脈「恵通橋」を自ら爆破した。連合軍は総退却に移った。中国軍の大部分は雲南へ、孫立人をはじめとする一部はス ティルウェルと共にフーコン河谷を経てインドのアッサム州へ脱出した。スリムのイギリス軍とビルマ総督レジナルド・ドーマン=スミス(英語版)はチンド ウィン川を渡りインパール方向へ退却した。5月中旬からビルマは雨季に入り、連合軍の退却は困難をきわめた。将兵は疲労と飢餓とに倒れ、多くの犠牲者と捕 虜が残された。5月末までに日本軍はビルマ全域を制圧した。

《インド北東部進攻計画(二十一号作戦)》
 援蔣ルートは実はもうひとつ生き残っていた。アッサム州のチンスキヤ飛行場からヒマラヤ山脈を越えて昆明へ至る「ハンプ越え」[注 1](The Hump)と呼ばれる空輸ルートである。危険性が高く、輸送量は月量5,000トンが限度だったが、人と物資の往来は続けられ中国軍は戦力を蓄えていっ た。日本軍はハンプ越えを遮断すべく、雨季明け後の10月頃を目標に、第18師団と第33師団をもってインド北東部へ進攻する「二十一号作戦」を立案し た。だが補給確保の困難を理由に第18師団長牟田口廉也中将も反対し[4]、作戦は実施には至らなかった。

《ビルマ軍政》
開戦時には日本軍はビルマの全面占領までは意図しておらず、第15軍は軍政部を持っていなかった。那須義雄大佐を長とする軍政部が設置されたのはラングー ン占領後である。5月13日、マンダレー北方のモゴク監獄から脱出していたバー・モウが日本軍憲兵隊によって発見された。これまでオンサンもビルマの指導 者としてバー・モウを推奨していたこともあって、8月1日、バー・モウを行政府長官兼内務部長官としてビルマ中央行政府が設立され、長官任命式が行われ た。 BIAはビルマ作戦が終了した時点で23,000人に膨張していた。規律は弛緩し、部隊への給養も問題となっていたためBIAは解散された。選抜した人員 をもって「ビルマ防衛軍」(BDA)が設立された。 日本軍は戦勝後のビルマ独立を予定し、ビルマ国民の軍政への協力を要求する一方で、批判的な民族主義者や若いタキン党員の政治参加は抑圧した。
 
《泰緬鉄道》
タイ・ビルマ国境のテナセリム丘陵(英語版)北部のビラウクタウン(英語版)サブレンジには、イギリスによる鎖国政策のため、鉄道はおろか満足な道路も整 備されていなかった。日本軍は補給ルート確保を目的として山脈を越える全長約400キロの鉄道を計画し、建設工事は1942年6月から開始された。
1943
《第一次アキャブ作戦(三十一号作戦、第 一次アラカン作戦)》
アキャブはベンガル湾に面し、インドとの国境に近い最前線の要地だった。守備隊は宮脇支隊(歩兵第213連隊の一部)だった。1942年12月、イギリス 軍第14インド師団[注 2]が国境を越えて南下した。宮脇支隊はアキャブ前面まで後退し堅固な陣地を構築した。イギリス軍がこれを攻めあぐねている間に、日本軍第55師団が援軍 に向かった。1943年3月末、第55師団主力はイギリス軍が横断不可能と判断したアラカン山脈を踏破して第14インド師団の側面を急襲した。奇襲は完全 に成功し、第14インド師団は包囲されて大損害を受け、作戦開始地点まで後退した。こうして連合軍の反攻の初動は日本軍の快勝に終わった。

《第一次チンディット(ロングクロス作戦)》
第2の作戦はオード・ウィンゲート准将の発案によるものだった。ウィンゲートは非正規部隊を指揮した経験から、小部隊が航空機による補給を受けつつ敵地奥 深く進入する長距離挺進作戦を構想していた。ウィンゲートはこの作戦のために第77インド旅団を編成し、「チンディット」の通称を与えた。「チンディッ ト」とはビルマの寺院を守護する神獣「チンテ」に由来する名前である。 1943年2月8日「ロングクロス作戦」が開始され、チンディット部隊3,200名は7個縦隊に分かれインパール方面からビルマ北部へ進入した。各縦隊は アラカン山脈を越え、チンドウィン川を渡り、情報を収集しつつ鉄道や橋梁を爆破、一部はさらにイラワジ川を渡河し中国国境近くまで進出した。日本軍は第 18師団を中心に各地から部隊をかき集めて掃討を試みたが、チンディット部隊は優勢な敵と遭遇すれば分散して後退するためつかみどころがなかった。だが小 部隊に分散すると航空機による補給も難しくなる。3月24日、ウィンゲートは各縦隊に後退を命じた。 4か月間の作戦行動の末、インドまで帰還したチンディット部隊の将兵は2,182名だった。作戦は戦略的にはさして意味はなかったが、連合軍の部隊が航空 機による補給を受けながらジャングルで長期間行動が可能であることを証明した。イギリスへ戻ったウィンゲートは英雄となった。チャーチルはアジアで傷つい たイギリス軍のイメージを回復してくれる人物であると賞賛し、8月のケベック会談にも随行させた[5]。
《東南アジア連合軍司令部創設》——米英
1943年1月、カサブランカ会談が開かれ、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相は、同年11月頃から のビルマにおける本格的反攻に合意した。イギリス陸軍は戦力を回復しつつあり、空軍は日本軍に対する航空優勢を確立していた。イギリス軍はインパール方面 および南西沿岸部から、米中連合軍はフーコン河谷および雲南方面からの反攻を計画していた。 だがビルマに関するイギリスとアメリカの戦略には根本的な不一致があった。イギリスにとってビルマの失陥は、資源供給地であるイギリス領インド帝国への直 接の脅威であり、さらには日本とドイツ・イタリアとの連携をも可能にさせるものだった。またイギリスの対日反攻の目標はマレー、シンガポール、香港の奪回 であり、その前段階としてラングーンの奪回が必要だった。一方アメリカにとっては、アジアへの経済的依存は限定的だった。アメリカの関心は、援蔣ルートを 回復し、中国を連合国につなぎとめることに向けられていた[6]。 8月、指揮統一を目的として東南アジア連合軍司令部が創設された。総司令官にはイギリス王族で海軍中将のルイス・マウントバッテン伯爵が就任した。チャー チルははじめ43歳という伯爵の若さを懸念していたが、経験豊かなヘンリー・パウノル陸軍中将が参謀長として補佐することになった。アメリカ側からはス ティルウェルが副総司令官に就任した。司令部はインド・ビルマに加えて東南アジア全域を統括するとされ、戦略全般はワシントンの米英連合参謀本部が立案 し、ロンドンのイギリス参謀総長会議を通じて伝達すると決定された[7]。

《自由インド仮政府》
1943年8月1日の独立記念式典に参列した中にスバス・チャンドラ・ボースがいた。インド独立運動のリーダーの1人だったチャンドラ・ボースは、 1943年4月にドイツから日本へ招致され、10月にシンガポールで自由インド仮政府の設立を宣言した。自由インド仮政府は、インド国民軍(INA)の統 率を委ねられるとともに、連合国へ宣戦布告した。1944年1月、自由インド仮政府はラングーンへ進出し、インド進撃への熱意を示した。
《ビルマ独立と占領政策の綻び》
ビルマ防衛軍は「ビルマ国民軍」(BNA)と改名した。オンサンが国防大臣に就任したため、ビルマ国民軍の司令官にはネ・ウィンが任命された。独立と同時 に「日本ビルマ同盟条約」が締結され、ビルマは連合国へ宣戦布告した。南シャン州(東部のケントゥン州とモンパン(英語版)州)がタイへ割譲され、カチン 州は防衛上の理由から日本軍の軍政が続けられた。北シャン州(ラシオ(現在のラーショーなどを含む)については、気候風土や民族の違いから、ビルマから分 離して日本の永久領土に編入し、日本人の集団移民を送り込もうという議論があった。だがビルマ側からの希望も強く、9月に日本政府は北シャン州のビルマ編 入を決定した[9]。
《中国軍新編第1軍誕生》
その頃(1943年)アメリカの中国戦略をめぐってはスティルウェルとシェンノートとが対立していた。フライング・タイガース司令官から昇格してアメリカ 陸軍航空軍第14空軍司令官となり、中国空軍を指導していたシェンノートは、中国戦線に戦力を集中すれば制空権確保は可能であると主張した。戦力をビルマ へ割くのを渋っていた蔣介石もこれを支持した。しかし、中国戦線での日本軍航空部隊との戦いはシェンノートの主張するようには進展しなかった。 一方スティルウェルは、ハンプ越えだけでは輸送量に限界があるとして、北部の上ビルマを日本軍から奪回し、インドのアッサム州レド(Ledo, Assam)から国境を越 えてカチン州に入り、フーコン河谷からミイトキーナ、ナンカンに至る「Stillwell Road」と、ナンカンから龍陵を経由し昆明へと至るビルマ公路を接続した、「レド公路」を早期に打通すべきと主張した。スティルウェルは、中国兵にアメ リカ式の武装と訓練とを施して中国国内で30個師団、インドで数個師団を編成してビルマ北部奪回作戦に投入し、その後さらに中国軍全体を再建するという長 期的な構想を持っていた[8]。 スティルウェルはインドに退却してきた中国軍部隊にハンプ越えで空輸された中国兵を加えて、ビハール州(2000年、ジャールカンド州に分割された)のラ ムガルー野営地(Ramgarh Cantonment)で「新編第1軍(英語版)」を編成した。軍司令官にははじめ鄭洞国、後に孫立人が任命された。中国国内でも昆明に訓練所が 設置された。蔣介石もスティルウェルの主張を認め、ビルマへの再出兵を容認する。

《日本によるビルマ方面軍創設時》
1943年10月30日、中国軍新編第1軍がフーコン河谷ニンビン(現在の Ningbyen, en:Tanai Township)の日本軍陣地を攻撃した。スティルウェルの構想する「レド公路」打通作戦の第一歩だった。連合軍の本格的反攻が開始されたのである。
《泰緬鉄道》
工事の指揮は鉄道第5連隊および第9連隊が取り、作業員として捕虜62,000人、募集で集まったタイ人数万人、ビルマ人18万人、マレー人8万人、蘭印 人4万人が参加した。日本軍は人海戦術による突貫工事を要求し、雨季の間も強引に工事を進めた。作業現場ではコレラが流行し、約半数とも言われる大量の死 者を出した。こうした犠牲のうえに、鉄道は1943年10月に開通した。

《第一次チンディット(ロングクロス作戦)》
(英国側の記述参照)日本軍は、アラカン山脈とチンドウィン川を防壁とするという構想が覆され衝撃を受けた。特に掃討作戦に奔走させられた第18師団長牟 田口廉也中将は、イギリス軍の拠点インパールを攻略せねばビルマの防衛は成り立たないという認識を持つに至り、インパール作戦を構想し始める。

《ビルマ独立と占領政策の綻び》
日本は戦勝後のビルマへの独立付与を予定していたが、戦勝の見込みは当面立たなかった。一方でビルマ住民の全面的な戦争協力を必要としていた。そこで日本 政府は早期のビルマ独立の方針を具体化し、1943年3月10日『緬甸独立指導要綱』を決定した。8月1日、軍政は廃止され、ビルマは独立を宣言し独立記 念式典が行われた。国家元首となったバー・モウによって任命された主な大臣は次の通りだった。 首相:バー・モウ 副首相:タキン・ミヤ(英語版) 財務相:ティン・モン 外相:タキン・ヌー 国防相:タキン・オンサン
《占領政策》
日本軍のビルマ占領は副次的効果を生んだ。ビルマ南部では戦前、インド人地主が農地の半分を所有し、ビルマ人の小作農に貸し付けていた。だがイギリス軍と ともに、ビルマ人の敵対行動を恐れた地主たちもインドへ逃げた。バー・モウは放棄された土地をビルマの小作農へ引き渡した。コメの市場としては日本軍がお り、農民の負債は解消された[10]。 だが日本軍の占領政策には綻びも出てきていた。日本軍が征服者意識をもってビルマ国民に接し、彼らを下に見たことは否めない事実だった[11]。また 1943年以降、ビルマ全土に対する連合軍の爆撃が激化し、ビルマ国民も被害を受けた。爆撃は生産活動を阻み、交通通信を途絶させた。流通の停滞とともに 農民は自家消費分の農作物しか生産しなくなり、次第に食糧不足が顕著になっていった[12]。 ビルマの僧侶は、日本軍が自分たちを宣撫工作に利用しようとすることに憤った。日本式の仏教とビルマの上座部仏教とは大きく異なっていた。妻帯したり従軍 したりする日本の僧侶など、ビルマの僧侶からすれば想像を絶した。ビルマ仏教の教えからみれば天皇崇拝や戦死者の慰霊祭は邪教であった。コレラや天然痘の 予防接種運動に動員されるのも嫌った。注射針を通じて女の体に触れさせられるからである。日本人は仏教徒同士の連帯を期待したが、期待は空回りに終わった [13]。 日本軍とバー・モウ政権の関係も決して良好とは言えず、4月25日に南方軍ビルマ方面軍参謀副長・磯村武亮の示唆を受けた参謀部情報班所属の浅井得一によ るバー・モウ暗殺未遂事件が発生した[14]。

《ビルマ方面軍創設》
日本軍もビルマの戦力を増強していた。それまでの第15軍の4個師団体勢では戦力不足であるため、1943年3月27日、河辺正三中将を方面軍司令官とし て「ビルマ方面軍」を創設し、その下に第15軍(軍司令官:牟田口廉也中将)を置いた。さらに1944年1月15日ビルマ南部担当の第28軍(軍司令官: 桜井省三中将)を、4月8日ビルマ北部担当の第33軍(軍司令官:本多政材中将)を編成し、戦力は最大時で10個師団・3個旅団・1個飛行師団を数えるま でとなった。しかし広大なビルマを防衛することはそれでもなお困難だった。第15軍司令官牟田口中将は、連合軍の機先を制すべくインパール方面で攻勢をと り、その間アキャブ(現在のシットウェ)、フーコン河谷、雲南方面では最小限の兵力で持久するという戦略を主張した。
1944
《第二次アキャブ作戦(ハ号作戦、第二次 アラカン作戦)》
ビルマ南西部ではイギリス軍第15軍団が再度アキャブへ向けて前進していた。日本軍は2月、アキャブ北方のシンゼイワ盆地において、桜井徳太郎少将が指揮 する第55師団桜井支隊が東方から第7インド師団の側背に進出し、正面からの師団主力とともにこれを包囲した。戦況は第一次アキャブ作戦の再来となるかに 見えた。だがイギリス軍は戦車と野砲を円形に配置し、航空機による補給を行って戦線を維持した。日本軍はこの空地一体の「円筒陣地」(Admin Box)を崩すことができなかった。イギリス軍が救援を差し向けると、日本軍は2月26日包囲を解いて後退した。
連合軍はフーコン戦線で反攻を開始した。 日本軍はインパール作戦によりその機先を制しようとしたが、作戦は惨憺たる失敗に終わり、ビルマ方面軍の戦力は決定的に低下した。雲南では中国軍が怒江を 越え、拉孟と騰越の日本軍守備隊は包囲され玉砕した。米中連合軍はレド公路打通を達成した。

《第二次チンディット(サーズデイ作戦)》
第18師団の捕捉に失敗したことは米英中の連帯不足が原因であり、スティルウェルにとって不満の残る結果だった。
《第二次チンディット(サーズデイ作 戦)》
チンディット部隊は増強され第3インド師団と改名されていた。1944年2月、フーコン河谷での米中連合軍の作戦を支援するため、チンディット部隊は2回 目のビルマ侵入作戦「サーズデイ作戦」を開始した。3月5日、大量のグライダーを使用した空挺作戦により、3個旅団9,000名がマンダレー・ミイトキー ナ間に降下し、フーコン河谷で苦闘を続ける第18師団への補給路を切断した。だが指揮官オード・ウィンゲート少将は3月24日、飛行機事故により不慮の死 をとげた。

《フーコン作戦》
フーコン河谷は、ミイトキーナに近いモウガンからシンブイヤン(中国語版)を経てインド国境の"Hell Pass"(英語版)に達する、東西30キロから70キロ、南北200キロの大ジャングル地帯である。米中連合軍がフーコン河谷へ進攻したとき、ビルマ方 面軍はインパール作戦の準備に追われていた。フーコン河谷を守備する第18師団に対しては、インパール作戦の勝利のときまで持久するよう任務を課した。 フーコン河谷の連合軍は、スティルウェルの指揮する中国軍新編第1軍(通称「インド遠征軍」)とアメリカ軍第5307混成部隊(通称「ガラハッド」部隊ま たは「メリルズ・マローダーズ(英語版)」)だった。1943年12月24日、中国軍第38師はユパンガを守備する日本軍を攻撃し勝利した。中国兵は日本 軍の精鋭部隊に対する初めての勝利に狂喜した[15]。 厳しい環境と日本軍の持久戦により、フーコンでの戦闘はのろのろと続いた。 米中連合軍は日本軍の包囲殲滅に何度も失敗した。孫立人ら中国軍指揮官は補給の困難さを理由に統制前進を行なったためスティルウェルを激怒させた。
《第二次チンディット(サーズデイ作戦)》
日本軍は再び部隊をかき集めて掃討に努めた。第53師団の掃討部隊4千人はモール付近でチンディット部隊と激しい戦闘となった。 チンディット部隊はモールに陣地を構築し、空輸された増援も含めた1万6千人が立て篭もった。日本軍は4月初めに軽戦車や重砲も繰り出して攻撃したがゲリ ラ部隊による機動戦と陣地戦を併用したイギリス軍の戦術に撃退され、18日に後退した。 5月、モールのチンディット部隊がインドへ撤退したため第53師団は補給路の回復に成功したものの、陸路で後退するチンディット部隊を完全に捕捉すること はできなかった。フーコン河谷では第18師団が補給を回復したのもつかの間、カマインで退路を絶たれ玉砕の危機に至った。6月末、第18師団は退路を切り 開きフーコン河谷から撤退した。

第二次アキャブ作戦(ハ号作戦、第二次アラカン作戦)》
ビルマ南西部ではイギリス軍第15軍団が再度アキャブへ向けて前進していた。日本軍は2月、アキャブ北方のシンゼイワ盆地において、桜井徳太郎少将が指揮 する第55師団桜井支隊が東方から第7インド師団の側背に進出し、正面からの師団主力とともにこれを包囲した。戦況は第一次アキャブ作戦の再来となるかに 見えた。だがイギリス軍は戦車と野砲を円形に配置し、航空機による補給を行って戦線を維持した。日本軍はこの空地一体の「円筒陣地」(Admin Box)を崩すことができなかった。イギリス軍が救援を差し向けると、日本軍は2月26日包囲を解いて後退した。
インパール作戦(1944)
インド北東部マニプル州の中心都市イン パールは、ビルマ・インド国境部の要地であり、イギリス軍の反攻拠点だった。 《ミイトキーナの戦い》
ビルマ北部では5月17日、ガラハッド部隊を中心とする空挺部隊と地上部隊がミイトキーナ(現在のミッチーナー)郊外の飛行場を急襲し奪取した。ミイト キーナはビルマ北部最大の要衝であり、インド・中国間の空輸ルートの中継点でもあった。守備兵力は丸山房安大佐の指揮する歩兵第114連隊だったが、各地 に兵力を派遣し、手元の兵力はわずかだった。 この危急に第56師団から増援部隊を率いてかけつけた水上源蔵少将に対して、第33軍作戦参謀辻政信大佐は、「水上少将はミイトキーナを死守すべし」とい う個人宛の死守命令を送った。ミイトキーナでは、ガラハッド部隊と中国軍新編第1軍および新編第6軍の攻撃を、水上と丸山の指揮する日本軍が迎え撃ち激闘 が展開された。だが日本軍は限界に達し、8月2日、水上は生き残った将兵に脱出を命じた後、死守命令違反の責任を取って自決した。 ミイトキーナ飛行場の占領で、従来の危険なハンプ越えのルートは大きく改善された。攻防戦の最中にも、輸送量は7月には25,000トンという実績を示し た。8月2日、スティルウェルは大将へ昇進した
インド北東部マニプル州の中心都市イン パールは、ビルマ・インド国境部の要地であり、イギリス軍の反攻拠点だった。 《AFPFL結成》
ビルマは独立を達成したものの、日本は戦争への協力を要求し、バー・モウのビルマ政府の政策も日本軍優先とならざるを得なかった。またインパール作戦の失 敗により日本の敗北は明白な情勢となってきた。8月1日の独立一周年式典で、オンサンは「われわれの独立は紙の上の独立に過ぎない」と演説した。この頃オ ンサンらは多方面の勢力との接触を持ったらしい。8月から9月にかけて、抗日運動の秘密組織「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL)が結成され、タキ ン党、共産党、ビルマ国民軍をはじめ、農民、労働者の諸団体、少数民族の政治結社も加わり、勢力を拡大していった。日本軍はこの動きを察知できなかった [20]。



インド北東部マニプル州の中心都市インパールは、ビルマ・インド国境部 の要地であり、イギリス軍の反攻拠点だった。第15軍司令官牟田口廉也中将は、インパールの攻略によって連合軍の反攻の機先を制し、さらにインド国民軍に よってインド国土の一角に自由インド仮政府の旗を立てさせることでインド独立運動を刺激できると主張した。牟田口はさらにナガランド州ディマプルへの前進 をも考えていた。これが成功すれば、ハンプ越えの援蔣ルートを絶ち、スティルウェル指揮下の米中連合軍への補給も絶つことができる。 牟田口の案は、第15軍の3個師団(第15、第31、第33師団)に3週間分の食糧を持たせてインパールを急襲し占領するというものだった。そのためには 川幅1,000メートルのチンドウィン川を渡河し、標高2,000メートル級のアラカン山脈を踏破せねばならない。さらに困難な問題は作戦が長期化した場 合の前線部隊への補給だった。ビルマ方面軍は当初牟田口の案を無謀と判断したが、南方軍と大本営は最終的にこの案を支持した。背景には、各方面で敗北続き の戦局を打開したいという軍中央の思惑があったと言われる。

《抗命——コヒマの戦い/テニスコートの戦い》
第33師団は1944年3月8日に、第15師団と第31師団は3月15日に作戦を発起し、インパールとコヒマへ向けて前進した。作戦は順調に進むかに見え たが、この地域を守備していたイギリス第4軍団の後退は予定の行動だった。インパール周辺まで後退し、日本軍の補給線が伸びきったところを叩くのがイギリ ス第14軍司令官ウィリアム・スリム中将の作戦だったのである。 3月29日、第15師団の一部が、インパールへの唯一の地上連絡線であるコヒマ・インパール道を遮断した。4月5日、宮崎繁三郎少将の率いる歩兵第58連 隊がコヒマへ突入した。だがイギリス第33軍団が反撃に移り、コヒマをめぐる戦いは長期化した。南からの第33師団の前進もイギリス軍の防衛線に阻まれて いた。日本軍はイギリス第4軍団をインパールで包囲したものの、イギリス軍は補給物資を空輸して持ちこたえた。 第33師団長柳田元三中将は作戦中止を意見具申したが、牟田口は柳田を罷免した。第15師団長山内正文中将は健康を害して後送された。やがて雨季が訪れ た。日本軍の前線部隊は作戦開始以来満足な補給を受けておらず、弾薬は尽き飢餓に瀕していた。第31師団長佐藤幸徳中将はたびたび軍司令部へ補給を要請す るが、牟田口は空約束を繰り返すのみで、やがて両者が交わす電報は感情的な内容に変わっていった。激怒した佐藤は6月1日に独断で師団主力を撤退させた。 作戦成功の望みがなくなったにも関わらず、牟田口は攻撃命令を出し続けた。第33師団は、新しい師団長田中信男中将の指揮の下、インパール南側の防衛線ビ シェンプール(英語版)への肉弾攻撃を繰り返すが、死傷者の山を築いた。

《白骨街道》
撤退した第31師団の最後尾を務めた宮崎繁三郎少将は、歩兵第58連隊を率い、インパール救出を目指すイギリス第33軍団の前進を巧みな戦術で遅らせ続け た。だが6月22日、ついにイギリス第4軍団と第33軍団がコヒマ・インパール道(英語版)上で握手した。7月3日日本軍は作戦中止を正式に決定した。将 兵は豪雨の中、傷つき疲れ果て、飢えと病に苦しみながら、泥濘に覆われた山道を退却していった。退却路に沿って死体が続く有様は「白骨街道」と呼ばれた。 インパール作戦は、イギリス軍側の損害17,587名[16]に対し、日本軍は参加兵力約85,600名のうち30,000名が戦死・戦病死し、 20,000名の戦病者が後送された[17][19]。インパール作戦の失敗はビルマ方面軍の戦力を決定的に低下させた。また、作戦にはインド国民軍 7,000名が参加し、占領地の行政は自由インド仮政府に一任すると協定されていたが、作戦の失敗により雲散霧消した。 抗命事件を起こした佐藤は精神錯乱として扱われ軍法会議への起訴は見送られた。ビルマ方面軍司令官河辺正三中将、参謀長中永太郎中将、第15軍司令官牟田 口廉也中将らは解任され、後任にはそれぞれ木村兵太郎中将、田中新一中将、片村四八中将が任命された。

《ミイトキーナの戦い》
ガラハッド部隊を中心とする空挺部隊と地上部隊がミイトキーナ(現在のミッチーナー)郊外の飛行場を急襲し奪取した。この危急に第56師団から増援部隊を 率いてかけつけた水上源蔵少将に対して、第33軍作戦参謀辻政信大佐は、「水上少将はミイトキーナを死守すべし」という個人宛の死守命令を送った。ミイト キーナでは、ガラハッド部隊と中国軍新編第1軍および新編第6軍の攻撃を、水上と丸山の指揮する日本軍が迎え撃ち激闘が展開された。だが日本軍は限界に達 し、8月2日、水上は生き残った将兵に脱出を命じた後、死守命令違反の責任を取って自決した。
1944
《イラワジ会戦》
1944年のインパールでの戦いに勝利したイギリス軍はそのまま追撃に移ろうとしたが中国方面における日本軍の大陸打通作戦によるアメリカ軍航空部隊の配 置換えにより一時的に満足な航空支援が受けられなくなった。そのため翌年までのろのろとした追撃戦が続いた。

《レド公路打通》
太平洋方面の戦局悪化により、断作戦の目的も、ビルマルート遮断の堅持から、後退しつつ時間を稼ぐことに変わっていった。任務の変化に伴って第2師団はサ イゴンへ転用され、断作戦は第18師団と第56師団のみで継続された。ミイトキーナ、拉孟、騰越を攻略した米中連合軍は、補充ののち進撃を再開した。雲南 遠征軍は11月初旬に龍陵を攻略、ビルマ領内へ兵を進めた。インド遠征軍は12月15日にバーモを攻略した。第33軍は「15対1」の兵力差となるなか、 持久戦を続けた。

《断作戦》
1944年4月、蔣介石は中国軍のビルマへの再出兵を決断した。5月11日夜半、衛立煌大将を司令官とする16個師の中国軍雲南遠征軍が怒江を渡った。守 備する第56師団は、騰越、拉孟、平戛、龍陵などの要地を固めるとともに、機動兵力による果敢な反撃を行った。しかし中国軍は圧倒的な兵力をもって各地の 守備隊を包囲した。 ビルマ方面軍は第33軍(第18、第56師団)へ第2師団を増援するとともに、ビルマルート遮断の堅持を命じ「断作戦」を発令した。第33軍は各地の守備 隊を救出すべく反撃に移り、9月上旬に龍陵を解囲し、平戛守備隊を救出したものの、拉孟と騰越の救出はできなかった。

《拉孟・騰越の戦い》
拉孟は、ビルマルートが怒江を横切る「恵通橋」の近くの陣地である。陣地は標高2,000メートルの山上に位置し、深さ1,000メートルの怒江の峡谷を 隔てて中国軍と向かい合う最前線だった。日本軍は歩兵第113連隊を守備隊とし陣地設備を強化していた。6月2日、中国軍が拉孟を包囲したとき、連隊長松 井秀治大佐は出撃中だった。金光恵次郎少佐以下1,270名の守備隊は、41,000名の中国軍の攻撃をたびたび撃退した。だが9月7日、木下正巳中尉と 兵2名[注 3]を報告のため脱出させた後、拉孟守備隊は玉砕した。 騰越は、連隊長蔵重康美大佐の指揮する歩兵第148連隊が守備していた。騰越は中世式の城郭都市であり、周囲を高地に囲まれ、近代戦の戦場としては守備の 難しい地勢だった。騰越周辺での戦闘は6月27日に開始された。守備兵力は2,025名、攻囲する中国軍は49,600名だった。蔵重は8月13日に戦死 し、大田正人大尉が代わって指揮を取った。8月下旬以降城壁は破壊され市街戦が展開された。守備隊は9月13日に玉砕した。

《レド公路打通》
太平洋方面の戦局悪化により、断作戦の目的も、ビルマルート遮断の堅持から、後退しつつ時間を稼ぐことに変わっていった。任務の変化に伴って第2師団はサ イゴンへ転用され、断作戦は第18師団と第56師団のみで継続された。ミイトキーナ、拉孟、騰越を攻略した米中連合軍は、補充ののち進撃を再開した。雲南 遠征軍は11月初旬に龍陵を攻略、ビルマ領内へ兵を進めた。インド遠征軍は12月15日にバーモを攻略した。第33軍は「15対1」の兵力差となるなか、 持久戦を続けた。 1945年1月27日、雲南遠征軍とインド遠征軍はついにレド公路上で握手した。ラングーン陥落から2年半、ビルマルート遮断は終わりを告げたのである。 物資を満載したトラック群は昆明へと向かっていった。目的を達成した蔣介石は中国軍を順次帰国させた。
・1944年緬甸研究會編『大緬甸誌(上・下)』東京 : 三省堂
・1944年G. E. ハーヴェイ『緬甸史』東亞研究所譯、東京 : 東亞研究所.
・1944年中島健一『緬甸の自然と民族』波市町(奈良県) : 養徳社創立事務所.

《拉孟・騰越の戦い》——左掲に同じ
拉孟は、ビルマルートが怒江を横切る「恵通橋」の近くの陣地である。陣地は標高2,000メートルの山上に位置し、深さ 1,000メートルの怒江の峡谷を隔てて中国軍と向かい合う最前線だった。日本軍は歩兵第113連隊を守備隊とし陣地設備を強化していた。6月2日、中国 軍が拉孟を包囲したとき、連隊長松井秀治大佐は出撃中だった。金光恵次郎少佐以下1,270名の守備隊は、41,000名の中国軍の攻撃をたびたび撃退し た。だが9月7日、木下正巳中尉と兵2名[注 3]を報告のため脱出させた後、拉孟守備隊は玉砕した。 騰越は、連隊長蔵重康美大佐の指揮する歩兵第148連隊が守備していた。騰越は中世式の城郭都市であり、周囲を高地に囲まれ、近代戦の戦場としては守備の 難しい地勢だった。騰越周辺での戦闘は6月27日に開始された。守備兵力は2,025名、攻囲する中国軍は49,600名だった。蔵重は8月13日に戦死 し、大田正人大尉が代わって指揮を取った。8月下旬以降城壁は破壊され市街戦が展開された。守備隊は9月13日に玉砕した。
1945
《イラワジ会戦》つづき
1945年1月、インパール作戦に敗れた第15軍はイギリス第14軍の追撃を受けつつ、ビルマ中部の中心都市マンダレー付近のイラワジ川の線まで後退して いた。米中連合軍がレド公路打通を達成した以上、ビルマの戦略的価値は大きく低下しており、日本軍でもタイ国境まで後退すべきとする意見もあった。だがビ ルマ方面軍参謀長田中新一中将は、第15軍に「盤作戦」を、第28軍に「完作戦」を命じた。「盤作戦」はイラワジ川を防衛線としてイギリス軍を機に応じて 撃滅するという強気の作戦、「完作戦」はベンガル湾沿いを防衛する作戦である。 だが、第15軍の4個師団(第15、第31、第33、第53師団)はそれぞれ実力1個連隊の戦力にまで損耗していた。それをイラワジ川沿いの200キロ以 上の広正面に配置したところで有効な防御戦闘は困難だった。さらに、ビルマ中部の大平原は、乾季には砂漠のような荒涼たる大地に変貌する。制空権を持ち機 動力に富むイギリス軍にとっては格好の舞台であるが、機動力を持たない日本軍にとっては苦しい戦場だった。

《完作戦(第三次アラカン作戦)》
ビルマ南西部ではイギリス軍第15軍団がアキャブへ向けて前進していた。ビルマ西部の防衛は第28軍の担当で、第54、第55師団の二個師団だけだった。 日本軍はアキャブからイラワジ河周辺までに縦深の防衛線を張り、ラムリー島などの海岸地区を持久地帯、ラングーン周辺を機動反撃地帯とし、エナンジョンか らラングーンまでの線の確保を目的とする完作戦を発令していた。 アキャブは1月3日に陥落したが、第28軍主力は既にここを撤退していた。次いでイギリス軍は1月21日、航空基地確保のためラムリー島(ラムレー島)へ 上陸し、約1ヶ月の戦闘で日本軍を撤退に追い込んだ。第28軍は第55師団をイラワジ戦線へ抽出し、兵力は宮崎繁三郎中将の率いる第54師団のみとなって いたが、アラカン山脈へ後退しつつ抵抗を続けた(170高地の戦い(英語版))。

《ラングーン奪回》
イラワジ会戦で日本軍を粉砕したイギリス軍は雨季の到来前にラングーンを奪回すべく、第33軍団がイラワジ川沿いを、第4軍団がシッタン川沿いを南下し た。日本軍は第28軍にイラワジ川沿い、第33軍にシッタン川沿いでの防戦を命じたが、防衛線は相次いで突破され、イギリス第4軍団の先頭は4月25日に ラングーン北方のペグー(現在のバゴー)まで到達した。 4月23日、ビルマ方面軍司令官木村兵太郎大将は、ビルマ政府や日本人居留民に対する処置も明らかにしないまま、ラングーンを放棄し東方のモールメンへ脱 出した。大混乱の中、イギリス軍は5月2日にラングーンを奪回した。イラワジ川下流部でイギリス第33軍団と戦っていた第28軍は、退路を絶たれ敵中に孤 立してしまった。

《マレー進攻作戦》
英国軍は次の目標であるマレーおよびシンガポールの奪回のため、「ジッパー作戦(英語版)」の準備を開始した。予定では9月9日にクアラルンプール南西岸 に上陸作戦を行い、9月末頃シンガポールを奪回することとなっていた。8月には作戦準備がかなり進展していたが、8月15日マウントバッテンは全ての作戦 の中止を命じた[21]。

《シッタン作戦》
日 本軍第28軍は、イギリス軍のラングーンへの急進撃により、退路を絶たれペグー山系(英語版)に追い詰められていた。ペグー山系はイラワジ川とシッタン川 とに挟まれた標高500メートル内外の丘陵地帯で、竹林に覆われている。雨季が到来し、イギリス軍の作戦行動は不活発となっていたが、第28軍の食糧の手 持ちは7月末が限界となっていた。将兵は竹の小屋で雨をしのぎ、筍粥で飢えをしのいだが、食塩の欠乏症に苦しんだ。食塩が欠乏すると、筋力が低下し、しま いには立っていられなくなるのである。 7月、雨季は最盛期に入り、河川は氾濫し、平地は沼地に変わった。ようやく兵力の集結を終えた第28軍は敵中突破作戦を計画した。闇にまぎれてペグー山系 を脱出し、広大な冠水地帯を横断し、増水したシッタン川を竹の筏で渡るのである。シッタン川を防御していた第33軍は川を越えて第7インド師団へ牽制攻撃 をかけた。戦いは胸の高さまで達する泥水の中で行われた。 7月下旬、第28軍は十数個の突破縦隊に分かれて一斉にシッタン川を目指した。将兵は筏に身を託して濁流へ身を投じた。体力の衰えていた者は濁流を乗り切 ることができず、水勢に呑まれて流されていった。第28軍は34,000名をもってペグー山系に入ったが、シッタン川を突破できた者は15,000名に過 ぎなかった。こうして第28軍が敵中突破を大きな犠牲を払いつつ成功させた頃、8月15日の終戦が訪れた。

《レド公路打通》
1945年1月27日、雲南遠征軍とインド遠征軍はついにレド公路上で握手した。ラングーン陥落から2年半、ビルマルート遮断は終わりを告げたのである。 物資を満載したトラック群は昆明へと向かっていった。目的を達成した蔣介石は中国軍を順次帰国させた。

《メイクテーラ攻防戦》
「盤作戦」は出だしからつまづいた。スリムは第33軍団をマンダレーへ向かわせて日本軍を引きつけつつ、2月17日第4軍団をチンドウィン川とイラワジ川 の合流点の下流で渡河させ、第17インド師団と第255インド機甲旅団を第15軍背後の要衝メイクテーラ(現在のメイッティーラ)へ向けて突進させた。機 械化部隊の進撃速度は日本軍の想像を超えていた。メイクテーラの守備兵力は急遽かけつけた歩兵第168連隊の他は後方部隊ばかりで、3月3日イギリス軍に 制圧された。 日本軍はシャン高原(英語版)から第33軍司令部を抽出し、これに第18師団と第49師団を配属して、メイクテーラの奪回を図った。日本軍はメイクテーラ を包囲し、肉弾攻撃と夜襲を反復したものの、イギリス軍の機械化部隊に対して、十分な対戦車装備を持たない日本軍は一方的な打撃を被った。 その頃マンダレーでは第19インド師団が市内へ突入していた。死守を命じられた第15師団は激しく抵抗し市街戦となったが、幹部が相次いで死傷し、これま でと判断した片村四八軍司令官は独断で撤退を命じた。イラワジ河畔では第15軍の将兵が連日炎暑に耐えて苦闘を続けていたが、イギリス軍は至るところから 突破し、戦線は次第に全面崩壊の様相を呈した。3月28日、日本軍はメイクテーラ奪回を断念し、盤作戦を中止した。第15軍はシャン高原へ後退した。
日本軍はイラワジ会戦で決戦を試みたが、 イギリス軍に圧倒され全面崩壊の様相を呈した。オンサンが率いるビルマ国民軍も日本軍に対して銃口を向け、イギリス軍はラングーンを奪回した。退路を絶た れた第28軍は敵中突破作戦を計画した。第28軍が大きな犠牲を払いつつ作戦を成功させた頃、終戦が訪れた。

《ビルマ国民軍離反》
1945年3月17日、アウンサンが率いるビルマ国民軍の出陣式がラングーンのシュエダゴォン・パゴダ前広場で行われた。バー・モウは「断固として敵を討 て」と演説したが、すでにイラワジ戦線の崩壊によって日本軍の敗北は明白だった。アウンサンが日本と結んだのはビルマの独立のためであって、日本と心中す る意思など持っていなかった。 3月27日、ビルマ国民軍11,000名はアウンサンの指揮のもと、AFPFLの旗を掲げ、日本軍に対して銃口を向けた。日本軍は背後からも攻撃を受ける ことになったのである。バー・モウのビルマ政府も崩壊の一途をたどってゆく


《レド公路打通》
1945年1月27日、雲南遠征軍とインド遠征軍はついにレド公路上で握手した。ラングーン陥落から2年半、ビルマルート遮断は終わりを告げたのである。 物資を満載したトラック群は昆明へと向かっていった。目的を達成した蔣介石は中国軍を順次帰国させた。
《ラングーン陥落》
イラワジ会戦で日本軍を粉砕したイギリス軍は雨季の到来前にラングーンを奪回すべく、第33軍団がイラワジ川沿いを、第4軍団がシッタン川沿いを南下し た。日本軍は第28軍にイラワジ川沿い、第33軍にシッタン川沿いでの防戦を命じたが、防衛線は相次いで突破され、イギリス第4軍団の先頭は4月25日に ラングーン北方のペグー(現在のバゴー)まで到達した。 4月23日、ビルマ方面軍司令官木村兵太郎大将は、ビルマ政府や日本人居留民に対する処置も明らかにしないまま、ラングーンを放棄し東方のモールメンへ脱 出した。大混乱の中、イギリス軍は5月2日にラングーンを奪回した。イラワジ川下流部でイギリス第33軍団と戦っていた第28軍は、退路を絶たれ敵中に孤 立してしまった。

《シッタン作戦》
日本軍第28軍は、イギリス軍のラングーンへの急進撃により、退路を絶たれペグー山系(英語版)に追い詰められていた。ペグー山系はイラワジ川とシッタン 川とに挟まれた標高500メートル内外の丘陵地帯で、竹林に覆われている。雨季が到来し、イギリス軍の作戦行動は不活発となっていたが、第28軍の食糧の 手持ちは7月末が限界となっていた。将兵は竹の小屋で雨をしのぎ、筍粥で飢えをしのいだが、食塩の欠乏症に苦しんだ。食塩が欠乏すると、筋力が低下し、し まいには立っていられなくなるのである。 7月、雨季は最盛期に入り、河川は氾濫し、平地は沼地に変わった。ようやく兵力の集結を終えた第28軍は敵中突破作戦を計画した。闇にまぎれてペグー山系 を脱出し、広大な冠水地帯を横断し、増水したシッタン川を竹の筏で渡るのである。シッタン川を防御していた第33軍は川を越えて第7インド師団へ牽制攻撃 をかけた。戦いは胸の高さまで達する泥水の中で行われた。 7月下旬、第28軍は十数個の突破縦隊に分かれて一斉にシッタン川を目指した。将兵は筏に身を託して濁流へ身を投じた。体力の衰えていた者は濁流を乗り切 ることができず、水勢に呑まれて流されていった。第28軍は34,000名をもってペグー山系に入ったが、シッタン川を突破できた者は15,000名に過 ぎなかった。こうして第28軍が敵中突破を大きな犠牲を払いつつ成功させた頃、8月15日の終戦が訪れた。






・1956年緬甸國軍軍事顧問部起案, 澤本理吉郎[編]『南機関外史 : 緬甸國軍建設資料』[出版地不明] : 澤本理吉郎(昭和19年5月31日に起案した原文を複写)


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