エドマンド・ロナルド・リーチ
Edmund Ronald Leach, 1910-1989
Interviewed by Sir Frank Kermode on 26 May 1982 and originally shown on the BBC
解説:池田光穂
サー・エドモンド・ロナルド・リーチ (Sir Edmund Ronald Leach)FRAI FBA(1910年11月7日 - 1989年1月6日)は、イギリスの社会人類学者、学術関係者である。1966年から1979年までケンブリッジ大学キングス・カレッジのプロボースト (学寮長職)を務めた。また、1971年から1975年まで王立人類学研究所の学長を務めた。
リーチは、ウィリアム・エドモンド・リーチとミルドレッド・ブライアリーの3人兄弟の末っ子とし て、デヴォン州シドマスに生まれた。父親はアルゼンチン北部の砂糖農園を経営していた。1940年、リーチは画家だったセリア・ジョイスと結婚し、後に詩 と2冊の小説を出版した。1941年に娘、1946年に息子をもうけた。
リー
チは、ケンブリッジのマールボロ・カレッジとクレア・カレッジで教育を受け、1932年に工学の学士号を優等で取得して卒業した。
ケンブリッジ大学を卒業後、1933年に中国のバターフィールド社とスワイヤー社で4年間の契約を結び、香港、上海、重慶(現在の重慶)、青島(現在の青
島)、北京(現在の北京)に勤務した。香港、上海、中興(現・重慶)、青島(現・青島)、北京(現・北京)などに駐在したが、契約終了後、ビジネスの雰囲
気が気に入らず、もう二度とオフィスには座れないと思った。彼は、シベリア鉄道でロシアを経由して英国に戻るつもりだったが、ロシアの政治的混乱が激しく
なってきたため、やむなく帰国することにした。北京で、精神科医で元モルモン教の宣教師、そして作家でもあるキルトン・スチュワートと偶然出会い、フォル
モサ沖のボテル・トバゴ島への旅に誘われたのである。そして、リーチは帰路、フォルモサ沖の島、ボテル・トバゴのヤミ族の間で数カ月を過ごした。彼はここ
で民族誌的なメモを取り、特に現地の船の設計に力を注いだ。この研究は、1937年に人類学雑誌『Man』に掲載された論文に結実した[3]。
イギリスに戻り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでレイモンド・ファースのもとで社会人類学を学び、彼の紹介でブロニスワフ・マリノフスキに出会
う。1938年、リーチはクルド人を研究するためにイラク(クルディスタン)に行
き、『ロワンドゥス・クルド人の社会経済組織』を発表した[5]。 しかし、ミュンヘン会談(Munich
Agreement, 30 September 1938)のためにこの
旅を断念した。彼は「私はほとんど何にでも膨大な能力を持っているが、これまでのところ、それを全く利用していない...私は、他の誰にも利用されない高
度に組織化された精神装置の一部に見える」(D.N.B. 258)と書き残している。
1939年、彼はビルマのカチン・ヒルズを調査する予定だったが、第二次世界大戦が勃発した。その後、リーチは1939年秋から1945年夏までビルマ軍 に入隊し、少佐として従軍した。ビルマにいる間、リーチは北ビルマとその多くの山岳民族について優れた知識を身につけた。特にカチン族に精通し、カチン族 の非正規部隊の司令官も務めた[6]。 その結果、『ジンポー親族用語集』を出版することになった。1945年に「ジンポー親族用語:民族誌的代数学の実験」を出版した[7]。 1946年に退役した後、彼はロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに戻り、レイモンド・ファースの指導の下で論文を完成させる。1947年春、人類学 の博士号を取得する。732ページに及ぶ学位論文はビルマでの滞在に基づくもので、『文化的変化、ビルマとアッサムの山岳部族を中心に』というタイトルで あった[8][9]。同年末、サラワク(当時イギリス植民地)の知事だったチャールズ・アーデン・クラーク卿の要請とレイモンド・ファースの紹介で、イギ リス植民地社会科学研究評議会はリーチに地元民の大規模調査を行うよう要請した[10]。 その結果、1948年に報告された『サラワクの社会科学調査』(後に1950年に出版)は、その後の多くの有名な地域の人類学的研究の指針として利用され た[10]。この報告書に加えて、リーチはこの現地調査からさらに5つの出版物を制作した。
ボルネオでのフィールドワークから戻ると、リーチはLSEの講 師となった。 1951年、リーチはカチン族に関する膨大なデータをもとに親族関係に関連する重要な理論的指摘を行った論文『母系血族間結婚の構造的意味』でカール論文 賞[11]を受賞している[12]。 1953年、ケンブリッジ大学の講師となり、1957年に講師に昇進した。 リー チは妻のセリアとともに、1960年から1961年の1年間、カリフォルニ ア 州パロアルトにある行動学高等研究所の研究室に滞在していた。ここで彼は、ロシアの言語学者で、ソシュール派の構造言語学の普及者であり、レヴィ=スト ロースの理論的思考に大きな影響を与え、彼の構造人類学につながったローマン・ヤコブソンと出会う。 1972年、要職(a personal chair.)を授与される。1966年にケンブリッジのキングス・カレッジの学長に選ばれ、1979年に引退した。王立人類学研究所の会長(1971- 1975)、英国学士院のフェロー(1972年から)、1975年にナイトの称号を授与された。
晩年は脳腫瘍に悩まされており、1989年1月6日に脳腫瘍が死因でなくなった。上掲のYouTubeビデオは、亡くなるおそそ7年前にフランク・ケルモード卿によってインタビューされBBCにより収録されたものである()。
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1910 11月7日、イングランド、シドマウス(Sidmouth)に生まれる。
マーバラー校を卒業、ケンブリッジ大学に入学
1932 医科学(と数学)でケンブリッジ大学卒業[数学と工学との主張あり]工学士号を得る。
1933 中国の貿易会社(Butterfield and Swire)[→現?Swire Group?]に就職。サトウキビ取引等に従事する。
出
典:Anthropology and anthropologists : the British school in the
twentieth century / Adam Kuper, Routledge (2015)
ca. mid-1930s
1936年 秋に会社を退職。ソビエト経由で英国に帰国を計画し、北京に滞在。台湾の蘭嶼 (らんしょ:紅頭嶼, Botel Tobago)のヤミの人たち(Yami or Tao people)の間で過ごし人類学転向を決意。
中生勝美が語る蘭嶼の口頭伝承と、中生による「神話の修復的想像/創造(myth making of anthropology)」
「ちなみに蘭嶼島は鳥居龍蔵を始め、多くの人類学者が調査を行ったことがあるので、老人の記
憶に
は、人類学者たちの話がよく出てくる。馬淵東一のインフォーマントにも会ったことがあるが、馬淵
の招待で東京まで観光旅行に行ったと言い、皇居前で撮った記念写真を見せてくれた。彼は、若いと
きから日本語がうまく、最初は通訳、歳をとるに従って自らがインフォーマントとなって蘭嶼島を訪
れた人類学者と接していたので、逆に彼らがどのようにフィールドワークをしていたか熟知してい
た。試みに、ヤミ族の論文を書いた人たちの名前を一人ずつ挙げていくと、彼等のフィールドワーク
の思い出と、仕事振りを克明に語ってくれた。その中で印象的なのは、鹿野忠雄が多くのヤミ族の老
人から慕われていたことだった。/
また、さらに私の興味を引いたのは戦前に来た白人は泳いでばかりいたという話だ。これが、どう
もエドモンド・リーチである可能性がある。リーチが最初に人類学に興味を持ったのは、蘭嶼島に来
ているときだったからだ。リーチは、ここで偶然に出会った鹿野忠雄からマリノフスキーの『西太平
洋の遠洋航海者』を教えられ、ロンドン大学で人類学を勉強するきっかけとなった。このように、見
えざる人類学史、そして民族誌家の横顔が、かつてのフィールドに眠っていて、民族誌の後を訪ねて
いくと、意外な口頭伝承が残っているのである」(中生 2000:26-262)。
1937 ロンドン大学経済学院(London School of Economics, LSE)に入学。マリノフスキーに師事、指導教官やファース[夫人との知悉の縁で]の経済人類学に親しむ。
The Yami of Koto-sho: a Japanese colonial experiment. Geographical Magazine. 5:6(Oct.), Pp.417-434.
Boat construction in Botel Tobago. Man 37:185-187.
1938 クルド人の調査に従事(5週間)
Economic life and technology of the Yami of Botell Tobago. Man. 38(art 4):9.
Stone implements from Botel Tobago island. Man 38:161-163.
1938 Munich
Agreement, 30 September 1938
From left to right: Neville Chamberlain, Édouard Daladier, Adolf
Hitler, and Benito Mussolini pictured before signing the Munich
Agreement
1939 ビルマ高地のカチンの調査に赴く。
1940
クルドに関するモノグラフ出版(「ロワンドゥス・クルドの社会経済組織」)。同年セリア・ ジョイスと結婚。翌1941年娘誕生。
秋、ビルマ北部ならびにアッサムを転戦。ビルマにおいて英国はビルマと交戦、以降英国軍人と して従軍し現地人を組織して反日ゲリラ活動に従事。(詳しくは『高地ビルマの政治体系』)
1942
日本軍ビルマ・ラングーンを占領(3月)。リーチはインドへ退却。カチンでのフィールドノー トを失う。
1947 サラワクでリサーチ・オフィサー
1948
LSE講師(lecturer:日本の助教授に相当)となる。カチンについての博士論文(→ 『高地ビルマの政治体系』出版は1954年)をまとめる。息子誕生。
1953 ケンブリッジ大学講師(社会人類学)、キングズ・カレッジ
1954 『高地ビルマの政治体系』Learch, E., 1965[1954], Political Systems of Highland Burma
「私の『高地ビルマの政治諸体系』は、社会の境界と文化の境界は一致するという当時の一般論 的見解に反論を加えたほかに……」長島信弘訳『社会人類学案内』p.52、1991年
1961 『プル・エリア:セイロンの一村落』『人類学再考』(→表題エッセーpdf「人類学再考」「時間の象徴 的表象に関する2つのエッセー」パスワードがかかっています)
1961 Rethinking anthropology (Robert Cunningham and Sons Ltd., 1961); Pul Eliya: a village in Ceylon (Cambridge University Press, 1961)
1962
Leach's signature in 1962, private collection
1966 キングズ・カレッジの学寮長(provost, 学長に相当)に就任[ただし正式の社会人類学主任教授には就任できなかった]
1968 A runaway world? (London: BBC, 1968)
1969 Genesis as myth and other essays
(Jonathan Cape, 1969)
1970 Claude Lévi-Strauss (1970). Viking
Press.; Lévi-Strauss (Fontana Books, 1970)
1971-1975 Royal Anthropological Institute 会長(1975年 ナイトの称号)
1971 『文化とコミュニケーション』(→補助資料)
「社会人類学者はみな人間の文化と社会の多様性を自分の研究主題とするが、彼らは自分たちの 仕事が単にその多様性を記述することにあるだけでなく、それがどうして存在するのかを説明することにあると考えている。 それについての多くの「説明」が存 在するが、どの説明をとるかはほとんどの場合、研究者個人の偏見 によっている」(翻訳、同書、p.12)。
関連リンク
1976 Culture and communication: the logic by
which symbols are connected (Cambridge University Press, 1976)
1976 INTERVIEW OF
EDMUND LEACH(YouTube)
1979 退職
1982 『社会人類学(案内)』Social anthropology (Oxford University Press, 1982)
1984 Glimpses
of the Unmentionable in the History of British Social Anthropology Annual Review of Anthropology
Vol. 13: 1-24 (Volume publication date
October 1984)
1989 死亡
2001 The essential Edmund Leach (Yale
University Press, 2001, 2 vols.)
文献(ウィキペディア[英語]を中心に)
Edmund Leach Bibliography
The
Papers of Edmund Ronald Leach, by Janus
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【出典】 Ouvrages d'Edmund Ronald Leach:(Universit・de Neuch液el)
高地ビルマの政治体系 / エドモンド R.リーチ著 ; 関本照夫訳. -- 弘文堂, 1995. -- (Kobundo renaissance)
社会人類学案内 / E.リーチ著 ; 長島信弘訳. -- 岩波書店, 1991. -- (同時 代ライブラリー ; 65)
神話としての創世記 / エドマンド・リーチ著 ; 江河徹訳. -- 筑摩書房, 200 2. -- (ちくま学芸文庫 ; [リ-3-2])
人類学再考 / エドマンド・リーチ [著] ; 青木保, 井上兼行訳 ; 新装版. -- 思索社, 1990
人類学再考 / E.リーチ [著] ; 青木保, 井上兼行訳 ; 新装版. -- 思索社, 1 985
断絶の世代に生きる / E.リーチ講演 ; 高久真一,岡野哲編注. -- 朝日出版社 , 1969(REITH LECTURES 1967: A Runaway World)
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099