かならずよんで ね!

いわゆる「日本人起源論」の系譜

So called, the Origin of Japanese..


池田光穂

★片山一道は言う、701年大宝律令後の律令国家が8世紀以降まで「日本」なるもの観念は形 成 されなかったので、それ以前の「日本人」とは、日本列島に居住する人を、便宜的にそう呼ぶしかない(片山 2015:16-17)。

★「第二次世界大戦後、長谷部言人と鈴木尚は、日本人の起源は弥生時代の渡来人ではなく、縄 文 時代の人々であると主張した。しかし、埴原和郎は1984年に新 しい人種混血説を、1991年には「二重構造モデル」を発表した。埴 原氏によれば、現代日本人の血統は、旧石器時代に日本列島に移住してきた縄文人に始ま り、弥生時代(紀元前300年)には東アジアから日本への第二の移住の波が押し寄せた。新石器時代に人口が拡大した後、弥生時代のある時期にこれらの新人 が日本列島にたどり着いた。その結果、九州、四国、本州南部の島嶼部では狩猟採集民の交替が一般的であったが、沖縄や北海道の離島では優勢ではなく、琉球 人とアイヌ人は混在した特徴を示している。マーク・J・ハドソンは、日本人の主要な民族像は紀元前400年から紀元後1,200年にかけて生物学的、言語 学的に形成されたと主張している。現在最も有力な説は、現在の日本人は弥生時代の稲作農耕民と縄文時代の諸民族の両方から形成されたというものである。し かし、最近の研究では、縄文人には当初考えられていたよりも多くの民族的多様性があったという説や、日本人は2つの古代集団だけでなく、3つの古代集団か らの重要な遺伝的特徴を持っているという説もある。」英語ウィキペディアJapanese peopleより).[→「日本人起源論のな かにみられる人種主義」]

★コロニアリズムと日本人起源論の歴史的関係(→今後は「日本人起源論のなかにみられる人種主義」で改善します)

1)1940年代以前:日本人の渡来起源説が定番 だったが、第二次大戦の激化とともに皇民化政策がすすみ、天皇を頂点とする「純粋な人種」としての日本人のイデオロギー的要請が増えてきた。しかし、それ を自然人類学的に「論証」した研究者はいなかった。

2)1940年代後半、長谷部言人などは、混血がなかったことをこの時期に主張するようになる。長谷部言人「『日 本民族の成立』(昭和24年)では、前期洪積世以降の日本列島住民の転変を、身体と文化の両面から考察し、縄文人と古墳時代人との体質的差異は、狩猟採集 経済を基盤とする石器時代の生活から、水田農耕に依存する金属器時代の生活への転換が、租借筋、下肢筋の弱体化を招く結果を生じたと解釈し、弥生式時代お よびその後においても、日本人の体質を一変させるほどの混血はおこらず、日本人は石器時代から現代にいたるまで遺伝的に連続した集団である」と主張。

3)1950年代から60年代にかけて鈴木尚は、 「長谷部言人らの流れをくむと共に自らの長年の研究、なかんずく縄文時代から弥生時代へと移行する時期の人骨の詳細な調査検討に基づき、縄文時代人が弥生 文化の流入に伴う生活環境の変化のため、いわゆる小進化によって弥生時代人に変わったという「変形説」を主張した」。この流れは、1970年代まで(日本 人起源論の)支配的パラダイムとなる。

4)他方、1950 年代から 1970 年代には、台北とソウルの日帝の旧植民地の自然人類学者は、金関丈夫の渡来説を展開し混血渡来説を多く支持するようになる。彼らの見解によると、日本人は 異種混交の「民族」(=意識的に「純粋な単一の人種」を否定する)であり、金関がリー ダーシップをとった、山口県土井ヶ浜遺跡(1950〜)の発掘 し、渡来説を主張するようになる。


5)1980年代から90年代にかけて、それまでの 計測研究を中心とする自然人類学研究に、遺伝学的研究が加わり、遺伝的形質の類似性と多様性があることがわかり、それが埴原和郎の1991年の「二重構造モデル」につながる。これは、東南アジア起源の 縄文人と いう基層集団の上に、弥生時代以降、北東アジア起源の渡来系集団が覆いかぶさるように分布して混血することにより現代日本人が形成された。渡来系集団は、 北部九州及び山口県地方を中心として日本列島に拡散したので、混血の程度によって、アイヌ、本土人、琉球人の3集団の違いが生じた、と説明するものである (→「二重構造モデル」)。


6)二重構造モデルが、本土日本人の混血を主張するために、単一人種=民族と しての日本人説が払拭されたわけではない。埴原のこのモデルでは、弥生から8世紀の後には、混血がおわり、「日本人種」は一千年以上安定した集団になるわ けであるし、また「日本人」としての、沖縄人やアイヌは、縄文人として「古代的」な特徴を保持し、それ自体は、近代化以降における、アイヌ人や沖縄人への (形質的差異にもとづく)「人種的偏見」の原因になってきたことは、歴史社会学的によく知られる事実である。

★土肥直美(2011:36)によると、起源論は3つに分けられる;1)置換説(交代説)、 2)混血説(渡来説、渡来混血説)、3)変形説(小進化説、連続説、移行説)

★池田次郎(1998)による年代区分である(→「起 源論各説」より)。

***

第1期(江戸時代末~大正時代末)
・人種交替説:先住民(石器時代人)と渡来人(金属 器時代人)の交替
・プレ・アイヌ説(モース)、コロボックル説(坪井 正五郎)
・アイヌ説(シーボルト、小金井良精)、固有日本人 説(鳥居龍蔵)

第2期(昭和初年~昭和30年ごろ)
・原日本人説:縄文人は原日本人あるいは先史日本人
・混血説(清野謙次)―渡来人の影響を想定;津雲貝塚など千体の縄文人骨の統計的研究をもとに主張。縄文人は現日本人、混血を経て日本人に、アイヌは縄文 の形質を残す。
・変形説(長谷部言人)―文化的影響で縄文人から弥 生人へと変化し、現代日本人に変化していく。
・須田昭義(1950)「人 類学からみた琉球人」『民族学研究』15(2):109-116.→琉球人は日本人の一地方型にすぎないと報告(1950:113-114)
・許鴻梁(木偏に梁)『琉球人頭骨の人類学的研究』(1950)「琉球人頭骨の人類学的研究」『国立台湾大学解剖学研究室論文集』2(1948)——琉球 は南方集団と比較的近いがアイヌとは遠い関係にある。
第3期(昭和30年代~昭和50年代)
・渡来説(金関丈夫)―地域=九州を限定して渡来を認める。縄文との混血が進む。
・小進化説(鈴木尚)―変形説を強化。生活によって縄文から弥生的な変化は可能と考える。

第4期(昭和50年代~)
・渡来説が復活し、定着
・縄文人と渡来系弥生人の原卿が議論の焦点となる
・埴原和郎「二重構造」説は、基本的に「混血説」
・池田次郎と多賀谷昭(1976)は、アイヌと琉球に共通の特徴は認め られるが、同時に日本人集団とも類似すると結論
・埴原和郎「二重構造」説は、基本的に「混血説」であるが、日本本土中心的にみるのではなく、日本本土は渡来人からの混血が強く(混血の機会が二度あった ので「二重構造」という)、結果的に、アイヌと琉球に古い特徴が残るという、ベルツの同祖論の再演と理解することも可能である。
・ただし土肥によると、アイヌ・琉球同系論 についても、最近、疑問が投げかけられている(→「日本人の起源における二重構造モデルの挫折」)

【再掲】

第1期(江戸時代末~大正時代末)

・人種交替説:先住民(石器時代人)と渡来人(金属 器時代人)の交替

・プレ・アイヌ説(モース)、コロボックル説(坪井 正五郎)

・アイヌ説(シーボルト、小金井良精)、固有日本人 説(鳥居龍蔵)

第2期(昭和初年~昭和30年ごろ)

・原日本人説:縄文人は原日本人あるいは先史日本人

・混血説(清野謙次)―渡来人の影響を想定;津雲貝 塚など千体の縄文人骨の統計的研究をもとに主張。縄文人は現日本人、混血を経て日本人に、アイヌは縄文の形質を残す。

・変形説(長谷部言人)―文化的影響で縄文人から弥 生人へと変化し、現代日本人に変化していく。

第3期(昭和30年代~昭和50年代)

・渡来説(金関丈夫)―地域=九州を限定して渡来を 認める。縄文との混血が進む。

・小進化説(鈴木尚)―変形説を強化。生活によって 縄文から弥生的な変化は可能と考える。

第4期(昭和50年代~)

・渡来説が復活し、定着

・縄文人と渡来系弥生人の原卿が議論の焦点となる

上掲「起 源論各説」のHP解説より:「日本人の起源をめぐる論争の歴史は古く、すでに江戸時代から、新井白石や木内石亭らによる著述が世に問われていた。 本格的な研究は、幕末から明治始めにかけて来日した外国人研究者によって開始され、以後「日本人の起源」は、日本人類学会の最大の研究テーマとして、現在 に至るまで熱い論争が続けられている。とくに昭和30年代以降の研究進展には、金関丈夫、永井昌文らによって収集、保管されてきた、弥生人骨を柱とする九 州大学の人骨資料が決定的な役割を果たした。現在もなお、国内はもとより海外からも多数の研究者が訪れ、多くの研究成果が発表され続けている。」

●二重構造モデル(詳しくは「いわゆる「二重構造モデル」:日本人起源論の系譜仮説」)

日本人の起源における 「二重構造モデル」とはざっと次のようなものである;「現代日本人の形成に関する埴原和郎・東京大学名誉教授の仮説。すなわち、東南アジア起源の縄文人と いう基層集団の上に、弥生時代以降、北東アジア起源の渡来系集団が覆いかぶさるように分布して混血することにより現代日本人が形成された。渡来系集団は、 北部九州及び山口県地方を中心として日本列島に拡散したので、混血の程度によって、アイヌ、本土人、琉球人の3集団の違いが生じた。この仮説は大筋では受 け入れられているが、基層集団の起源が北東アジアではないかとの意見も強い」馬場悠 男, 2007)。

●沖縄からみた「二重構造モデル」批判→「日本人の起源における二重構造モデルの挫折」を参照。

「沖縄に関しては、この他に、かなり一般的になって いるアイヌ・琉球同系論 についても、最近、疑問が投げかけられています。東北大学の解剖の教授をしている百々 幸雄さんは、私たちと同じ骨を研究対象にしていますが、私たちが計測値を比較するとい う手法を用いるのに対して、百々さんは計測できない特徴を研究対象にしています。それ は人の個性みたいなもので、神経や血管の通る穴が―つの人もいれば二つの人もいる。頭 の骨にはそういう非計測的形質といわれる特徴がたくさんあるんです。いろいろな特徴の 出現頻度をアイヌと沖縄と本土の日本人で比較すると、これまで言われているように、琉 球とアイヌが近縁という結果にはならなかったんです。それで琉球=沖縄人とアイヌが 同 系であると言えるかどうかの見直しをしなければならなくなりました。/ 私もその共同研究に参加しています。この共同研究では計測値についても顔面平坦度と いう新しい計測項目を取り人れて、詳しい分析を行いましたが、その結果はアイヌと琉球 =沖縄人はかなり違うというものでした。一般的に琉球=沖縄の人はほりの深い顔立ちを していると言われるんですが、骨で見る限りでは非常に平坦な顔立ちという結果になり、 私たち自身が大変驚いてしまいました。琉球=沖縄、アイヌ、本土日本というのがそれ ぞ れに近い関係ではあるけれども、独自の特徴を持っているという結果です。骨はそれぞれ の地域の歴史をかなり正直に反映しているのではないでしょうか。人の 動きはもっと複雑 で、もっとダイナミックなものだったと思います」(安里・土肥   2011:58-59)。

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