はじめによんでください

  続縄文時代とそれを担った人びと

Zoku-Jōmon period and the people

池田光穂

☆ 続縄文時代(紀元前340年頃~紀元後700年頃)は、日本の先史時代において、弥生時代や古墳時代に相当する「続縄文文化」が北東北や北海道で栄えた時 代である。続縄文は、7世紀ごろから奈良時代(710~794)にかけて薩文(さつもん)へと移行した。 弥生時代中期に本州北東部の「弥生化」が起こり、「続縄文」という言葉は、北海道で「弥生化」しなかった人々に限定して使われる。紐付き陶磁器の生産の継 続、石器技術の継続的使用、稲作農耕への非移行など、縄文人の特徴である「継続性」の要素が強調されているにもかかわらず、続縄文時代には「移動と生業の パターンの大きな断絶」があった。

鈴谷文化続縄文(epi-Jomon)︎文化︎※このページです▶オホーツク文化(Okhotsk culture)︎▶擦文文化(Satsumon)︎︎▶︎トビニタイ文化(Tobinitai culture)

The Zoku-Jōmon period (続縄文時代) (c. 340 BC–700 AD),[1] also referred to as the Epi-Jōmon period,[2] is the time in Japanese prehistory that saw the flourishing of the Zoku-Jōmon culture,[3] a continuation of Jōmon culture in northern Tōhoku and Hokkaidō that corresponds with the Yayoi period and Kofun period elsewhere.[3] Zoku-Jōmon ("continuing cord-marking")[4] in turn gave way to Satsumon ("brushed pattern"[3] or "scraped design"[5]) around the seventh century[3] or in the Nara period[6] (710–794).

The "Yayoinisation" of northeast Honshū took place in the mid-Yayoi period; use of the term Zoku-Jōmon is then confined to those, in Hokkaidō, who did not "become Yayoi".[6] Despite the elements of continuity emphasised by the name, which include the continuing production of cord-marked ceramics, ongoing employment of stone technology, and non-transition to rice-based agriculture, all Jōmon hallmarks, the Zoku-Jōmon period nevertheless saw a "major break in mobility and subsistence patterns".[4]
History of Japan
Okhotsk culture
続縄文時代(紀元前340年頃~紀元後700年頃)は、日本の先史時代 において、弥生時代や古墳時代に相当する「続縄文文化」が北東北や北海道で栄えた時代である。続縄文は、7世紀ごろから奈良時代(710~794)にかけ て薩文(さつもん)へと移行した。

弥生時代中期に本州北東部の「弥生化」が起こり、「続縄文」という言葉は、北海道で「弥生化」しなかった人々に限定して使われる。紐付き陶磁器の生産の継 続、石器技術の継続的使用、稲作農耕への非移行など、縄文人の特徴である「継続性」の要素が強調されているにもかかわらず、続縄文時代には「移動と生業の パターンの大きな断絶」があった。
縄文文化(日本語ウィキペディア)

続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)は、北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀(弥生時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れるまで続いた時 代で、続縄文文化に対応する。縄文時代から引き続くものとして山内清男により名づけられ、実際に連続する要素は多い[1]。 南部に恵山文化、中央部に江別文化、その終末期(5 - 6世紀、古墳時代中期から末期)の北大文化など、内部には地域と時代により異なる文化が含まれる。

概要
本州の住民が水稲栽培を取り入れて弥生時代に移行したときに、気候的条件からか水田を作らず縄文時代の生活様式を継承した人々が営んだ文化が、本州の弥 生・古墳文化に並行する続縄文文化である。このときまで本州と北海道の住民は同じ縄文文化を共有していたが、ここで道が分かれることになった。

続縄文時代には、北海道北部が大陸・樺太方面から、北海道南西部が本州からの文化と産物の流入の窓口になっていた。北方産とみられる琥珀製の玉類が北海道 から東北地方北部にまで分布し、佐渡島産とみられる碧玉製の管玉が石狩川河口付近までみられる。逆に続縄文文化が北海道の外に拡大する動きもあり、樺太南 部や東北地方北部、千島列島に広がっていた。

この時代の後期にあたる5世紀(古墳時代中期)から、樺太から北海道のオホーツク海沿岸にかけてオホーツク文化が定着した。これは続縄文文化とは異質のものである。
https://x.gd/6uKjC

















リ ンク

文 献

そ の他の情報


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

Mitzub'ixi Quq Chi'j