はじめに よんでください

篠田謙一博士の〈研究ために人骨資料が必要という修辞の分析

On Dr. Kenichi Shinoda's Rhetoric as "We need more specimens of Indigenous peoples for scientific reasons"

COデザインセンター梟さん

池田光穂

北海道先住民の成立について(pp.141- 143)[篠田 2007:141-143]

北海道の先住民であるアイヌの人たちの歴史については、ハプログループ Yの説明をしたときにもふれています。二重構造論ではアイヌの人たちは沖縄の人たち と同様、弥生時代に日本に稲作をもたらした渡来系の人々の影響をあまり 受けず、在来の縄文人の特徴を色濃く残した人たちであるとされています。しかし、前述したように沖縄の集団が農耕の受容に際して本土日本の影響を受けたと 考えられているように、北海道のアイヌの人たちもオホーツク文化を担った人たちの影響を受けていたことが最近の研究で明らかになっています (p.141)。
・篠田先生の主張は従来の「二重構造論」を超える重要な研究なのだとい う主張とその論拠が示される。
そこに見えてくるのは、単純に縄文人の延長としてのアイヌの人たちの姿 ではありません。やはり独自の成立の歴史を持った集団として、その過程を解き明かす必要があります。北海道の縄文人骨のDNA分析に関しては後で触れるこ とにしますが、現在のところ彼らからはハプログループY(p.142)を持つものが発見されていません。そしてこの研究が現在のアイヌの人たちが持つハプ ログループYの由来を、オホーツク人に結びつける基礎データとなっているのです(pp.141-142)。
・ アイヌの人たちの遺伝子組成はユニークであり「かつ研究に値する」という主張——でも何のための研究だろうか?それは「アイヌを含めた日本人」の祖先を明 らかにするためである。つまり、アイヌはミッシングリンクに架橋する重要な研究材料なのである。アイヌは遺伝的事実としての面からしか捉えられず、現実の アイヌの生活は篠田先生にとっての関心がないようだ——まるで児玉作左衛門教 授のようである。
アイヌの人たちに関しては、ミトコンドリアDNAのD-ループ領域の配 列データがDNA データバンクに登録されており、利用することができます。亡くなられた宝来さんが人0年代に収集された血液サンプルから解析されたものです。このDNA 配列データからハプログループを推定した結果、現代のアイヌ集団にハプログループY の存在が明らかになりました。しかしながら、そこに登録されているデータは総数でも 50名程度と集団の比較をするのには若干少ないのと、どうも同じ地域で 集められたサンプルのようなので、アイヌの人たちを代表するデータとして用いることを躊躇させられるのです。そういうわけで今回紹介した地 域集団同士の比 較には用いませんでした(p.142)。
・喉から手が出るほど、アイヌ集団のDNAが欲しいらしい。
形質人類学の分野では、とりあえず人骨がなければ研究が進みません。現 在の研究者は各地の博物館や大学に収蔵されている人骨を利用して研究ができますが、私たちの先達は人骨の収集から始める必要がありました。明治、大正、昭 和を通じて、人類学者は各地で人骨の収集に励みましたし、現在でもそれは続いています。その努力なしには人類学の研究は進みません。ただし、過去における 人骨の収集方法には今の基準で考えて適切ではないものもありました。特にアイヌの人たちの人骨の収集に関しては、時代的な背景を考えると無理もない面もあ るにせよ、盗掘と思われでも仕方のないものもありました。率直に言って私たち人類学者には反省すべき点があります。そしてそのことが原因となって、アイヌ の人たちの成立の歴史に関する人類学的な研究を進めることが困難になっている現状があります。特にDNAを用いた研究は、倫理的な面から、 対象となる人た ちの協(p.143)力なくしては進めることができません。北海道では、縄文時代から続く先住民の歴史のなかで、DNAがどのように変遷していったのか、 そしてその原因は何だったのか、あるいはオホーツク文化の人たちの遺伝的な影響は北海道でどのように広がったか、などこれまで手をつけることのできなかっ たさまざまな興味深いテーマがあります。今後アイヌの人たちの協力を得てこの分野の研究が進めばと願っています(pp.142-143)。
・篠田先生はそのような認識に到達したのなら、なぜサンプルを提供する アイヌの人たちと「対話」しないのだろうか?対話をしてインフォームドコンセ ントをもとに、なぜ、研究サンプルを提供してくださいと、誠実に願い出ることをしないのだろうか?
★2019年7月22日付で日本人類学会会長(当時)篠田謙一氏が、京都大学総長(当時)山極壽一氏に送った「要望書」
2019年7月22日
京都大学総長 山極壽一 殿
日本人類学会会長 篠田謙一
要望書

貴職におかれましては、ますますご清祥のことと存じます。

現在、京都大学を被告として沖縄県今帰仁村に所在する古墓、百按司墓より収録された古人骨の返還を求める民事訴訟が進行中であると報道されています。国 内の遺跡、古墓等から収集され保管されている古人骨は、その地域の先人の姿、生活の様子を明らかにする学術的価値を含んでいることから、日本人類学会は、 将来の人類学研究に影響する問題として、この訴訟に大きな関心を持ち、人類学という学問の継承と発展のために古人骨資料の管理はどうあるべきかを理事会で 議論し、以下の原則をとりまとめましたので、ご連絡いたします。京都大学におかれましては、長年にわたり研究資料の管理を行っていただきました事を感謝すると共に、今後も以下の原則に沿った対応をとることを要望するものであります。

日本人類学会は、古人骨の管理と継承について以下の三つの原則が欠かせないと考えています。なお、ここで述べる古人骨は、政府による特別な施策の対象となっているアイヌの人たちの骨、ならびに民法において定義されている祭祀承継者が存在する人骨を含むものではありません。

・国内の遺跡、古墓等から収集され保管されている古人骨は、その地域の先人の姿、生活の様子を明らかにするための学術的価値を持つ国民共有の文化財として、将来にわたり保存継承され研究に供与されるべきである。

・古人骨資料を保管する機関は、必要に応じて、資料の由来地を代表する唯一の組織である地方公共団体との協議により、当該資料をより適切に管理する方法を検討すべきである。

・由来地に係わる地方公共団体との合意に基づき古人骨資料が当該地方公共団体へ移管される際は、研究資料としての保存継承と研究機会の継続的な提供を合意内容に含めるべきである。

京都大学を対象としては、沖縄県以外の地域の古墓から収集された人骨に対しでも個人から返還要求があったと報道されております。上 記の原則が守られない場合、将来、国内古人骨を扱った研究が著しく阻害され、国内の各地において過去にどのような身体特徴・生活様式の変遷があり、地域多 様性が形成されてきたかを明らかにすることができなくなることを憂慮します。また、上記の原則から外れ、当該地域を代表しない特定の団体などに人骨が移管 された場合、人骨の所有権をめぐる問題の複雑化や、さらには文化財全体の所有権に係わる問題へと波及する可能性がある点にも憂慮しています。古人骨資料の 管理につきましては、今後、様々な運動が発生するかもしれませんが、100年、200年先、あるいはさらに遠い将来を見据えながら、国民共有の文化財とい う認識に基づいて対応をとっていただきたいと考えます。
よろしくおねがいします。
以上

出典(短縮URL)https://bit.ly/3O4Q6ud

日本人類学会会長(当時)篠田謙一氏に対する、琉球民族遺骨返還請求訴訟団による抗議文(2019年8月20日)へは、こちら「今帰仁の骨は泣いている」でリンクします

用語解説

ハプロタイプ(haplotype)とは、"haploid genotype"(半数体の遺伝子型)の省略語である。

ハプログループ(haplogroup):単一のDNA一塩基多型 (SNP) ——ある生物種集団のゲノム塩基配列中に一塩基が変異した多様性——変異がある共通祖先をもつよく似たハプロタイプ(haploid genotype=半数体の遺伝子型)の集団のこと。

A haplotype is a group of alleles -- a variant form of a given gene -- in an organism that are inherited together from a single parent, and a haplogroup (haploid from the Greek: ἁπλούς, haploûs, "onefold, simple" and English: group) is a group of similar haplotypes that share a common ancestor with a single-nucleotide polymorphism mutation.

ハプログループY=Y染色体ハプログループHuman Y-chromosome DNA haplogroup)父系で遺伝するY染色体のハプログループ(=ハプロタイプの集団)のこと。「言語学上 の区分に近いが、外見上の人種区分とは違うパターンが少なからずある。これは遺伝子の系統と集団の系統が異なる(incomplete lineage sorting)による」Y 染色体ハプログループ

DNA型鑑定(DNA profiling:デオキシリボ核酸 (DNA) の多型部位を検査することで個人や集団を識別するために行う鑑定方法。

二重構造モデル(Dual structure model for the population history of the Japanese): 埴原和郎は、沖縄人およびアイヌを含む日本人集団の形成史を単一の仮説で説明するモデルを提唱したが、このことをいう。埴原によると、「日本列島の最初の 居住者は後期旧石器時代に移動してきた東南アジア系の集団で, 縄文人はその子孫である。弥生時代になって第2の移動の波が北アジアから押し寄せたため, これら2系統の集団は列島内で徐々に混血した。この混血の過程は現在も続いており, 日本人集団の二重構造性は今もなお解消されていない。したがって身体・文化の両面にみられる日本の地域性-たとえば東西日本の差など-は, 混血または文化の混合の程度が地域によって異なるために生じたと説明することができる。またこのモデルは, 日本人の形質・文化にみられるさまざまな現象を説明するのみならず, イヌやハツカネズミなど, 人間以外の動物を対象とする研究結果にも適合する。同時に, このモデルによって日本の本土, 沖縄およびアイヌ系各集団の系統関係も矛盾なく説明することができる」という(→「二重構造モデル」)。

ミトコンドリア(mitochondrion、 複数形: mitochondria)は真核生物の細胞小器官。「ミトコンドリア中にはDNAが存在しており、ここに細胞核のものとは異なる独自の遺伝情報を持って いる。通常はGC含量が低く(20-40%)、基本的なゲノムのサイズは数十kb程度のDNAであり、電子伝達系に関わるタンパク質、リボソームRNAや tRNAなど数十種類の遺伝子がある」ミトコンドリア

上掲文書の出版から2年後のある、席上での会話か ら。

アイヌ政 策のあり方に関する有識者懇談会(第 5回)議事概要 )2009年2月26日総理官邸4階大会議室でのご発言

【はじめに】
今日は自然人類学、生物学的な立場から見たアイヌの人々の 成立あるいは起源の問 題についてお話しさせていただきたいと思います。 平成7年に「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」が開催されており、この 会議において人類学者の埴原和郎先生が、その当時までの人類学的な知識でアイヌを どのように考えるかということをまとめています。その際に7つの結論というもの (資料1に記載)を出しているのですが、今日はその点を少しお話ししながら、その 先の話と最近分かったことについてお話ししたいと思います。

【ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会時の認識】
上記7つの結論の うち、5番目にある「アイヌ文化の成立は 14、15 世紀のことでは ないか、民族学的には大和民族とは異なるアイヌ民族を構成している。」という点は、 自然人類学的な立場からのものではありませんので、今回はこの点を除いて、他の点 について話をさせていただきます。 まず、人類学者が現在の日本人の成立についてどのように考えているかというお話 を簡単にいたします。縄文時代は、今から1万4,000年前から大体2,000~3,000年前 のことになりますが、この時代には日本列島全体に縄文人と言われている人たちが住 んでいました。大体均一の形質をしていて、埴原先生はこの縄文人が南方から来た集 団としています。 その後に弥生時代が始まり、大陸から稲作と金属器の文化を持った渡来系の弥生人 という人たちが日本列島に入ってきます。北部九州を中心に入ってくるのですが、そ の人たちが在来の縄文人と混血しながら、いわゆる本土の日本人、和人と言われてい る集団を構成していきます。稲作農耕が入らなかった東北の北部から北海道、あるい は南西諸島、沖縄はこの混血の影響をあまり受けずに、最終的には縄文の血を色濃く 残した人たちがそこに住んでいる。その人たちが北ではアイヌの集団になっていく、 と考えています。これが、埴原先生の二重構造説という考え方です。 この二重構造説に従って、埴原先生は、前述の会議でアイヌの起源や成り立ちにつ いて話しましたが、例えばアイヌも本土の和人、これも縄文人を基盤として成立した 集団である、共通の祖先を持っているので、これを生物学的に分類するということは できないだろう、ということを言いました。 それから本土人、いわゆる和人は、在来の縄文人が弥生時代に大陸から渡来した人 たちと混血することによって成立した。一方、アイヌはそうではなくて、縄文人がほ とんどそのまま変化をしながら成立した。あるいは、同じように沖縄の人たちも渡来 人の影響を受けなかった。また、アイヌの人たちは本土から追われて北海道に行った ような人たちではなくて、縄文時代から北海道に住んでいた人たちの子孫である。あ るいは、もう少し長いスパンで見ると、アイヌだけではなくて本土の和人も琉球の 人々も、同じように日本列島の先住集団である縄文人と遺伝的につながっている。し たがって、アイヌ、琉球、本土人は姉妹関係にある集団と位置づけられる。ただし、 日本列島の北部、特に北海道に限れば、縄文時代の北海道の人たちはそのままアイヌ 集団に入れ替わっていった。そのような成立の経緯から、日本人というのを単一の民 族と考えるのではなくて、少なくとも3つの集団が混成してでき上がったと結論づけ ました。 一般的には、この考え方は現在でも踏襲されています。しかしながら、7つの結論 のうち2番と3番に挙げた問題はその後研究が少し進み、現在の定説が若干変わって いますので、その話を今日させていただきます。特に2番です。3番については、こ れは沖縄の話ですので、今回はアイヌの成立という問題についてもう少し詳しいお話 をいたします。

【形態から見た縄文~続縄文~アイヌへの時代的な変遷と周辺集団との関 係】
人類学の研究というのは現在、骨の形を見る形態学的研究と、遺伝子を使ったDN A研究という2つの大きな流れがありますが、まず骨の形の話からいたします。 縄文人と大陸から渡来した弥生人の頭蓋骨は、一見してその姿形が異なっています。 縄文人の頭蓋骨は、どちらかというと四角い感じになります。例えば、眼窩という部 位が四角くなっているなどです。渡来系の弥生人は丸くなります。一方、歯の大きさ は、渡来系の弥生人が非常に大きいのに対して、縄文人は小さな歯をしています。鼻 痕の形も少し異なっています。これらの点から、縄文と弥生というのは系統が違うと 言われています。 さらにアイヌの人々の頭蓋骨を一緒に比較すると、渡来系の弥生人はのっぺりとし たような鼻をしているのに対して、縄文人の鼻は一回落ちくぼんで前に出るような形 になっていて、実はアイヌの人々の頭蓋骨の姿形というのは非常に縄文人に似ており、 渡来系の弥生人とはその姿形が違っています。 頭蓋骨の形態小変異の出現頻度のバリエーションをもとに、日本の周辺の集団の類 似性の比較を行いますと、特定の範囲に歴史時代以降の日本人のすべてと、北部の中 国人、朝鮮半島の人が入ってきます。一方、アイヌの人たちは離れたところに行き、 そのアイヌの横に縄文人が来ます(資料1の図1参照)。このような形質を見ても、縄文・アイヌというグループと、それからそれ以外の本土の弥生時代以降の 歴史時代 の人たちが全部一緒になっているということが分かります。 ところが、アイヌ・縄文は似ていますが、実は時代的には3,000年以上前である縄 文時代と、1200年以降であるアイヌの時代との間には、実に1,500年以上の空白があ ることになり、その間の縄文人とアイヌの人々がどのような関係にあるのか、縄文人 がそのままアイヌの人になったのか、というようなことは、埴原先生が話された15 年前には分かっていませんでした。残念ながら現在でも、北海道の場合、縄文、続縄 文、擦文、アイヌと時代が変わっていきますが、擦文時代の人骨はほとんど出土して いません。 それに対して、今世紀になって、ある程度の数の続縄文人の人骨が発掘され、これ を合わせてアイヌの人たちの起源が分かってくるようになりました。 例えば、噴火湾の有珠の近辺から出土した有珠モシリの続縄文人の人骨にしても、 一見してその形態、姿形はアイヌの人々、あるいは縄文人によく似ているということ が分かってきました。この人たちを合わせて統計的な処理をしますと、実は縄文人、 それが少し変化した形で続縄文人がいて、大分離れるのですが北海道のアイヌの人た ちがいるという系統関係にあるということが見えてきました。 一方、それ以外の本土の日本人、歴史時代の日本人、現代の日本人も合わせて全く 別のグループであることが分かりましたので、やはり北海道では大きな外部からの遺 伝的な侵入なしに、縄文人がアイヌに変わっていった、ということが見えてきました。 ところが、上記と同様の詳細分析を、アイヌの人々を地域別に分けて行いますと、 実はアイヌの人たちの間に地域差がある、ということも見えてきました。というのは、 形態の類似しているものを集めていくと、日本のアイヌの人々、縄文人、続縄文人が 大きく1つのグループになるということは分かりますが、アイヌの中にも、最もこの 続縄文人に近いのは、例えば日高の人たちだろうとか、あるいは少し離れて釧路、根 室のアイヌの人たちがいる、あるいは留萌のアイヌの人たちがいるというような形で まとまっていくということが見えてきました(資料1の図2参照)。 このことは、1980年代から言われていたことですが、北海道全体のアイヌの人々を、 よりアイヌらしい人々と、あるいはちょっとアイヌの人々から外れたような顔つきを している骨というのを比べていきますと、実は道央地方に非常に特徴的にアイヌの形 質を持った人たちが沢山いるということが分かっています。道南になると、また少し 違った顔つきをしている。あるいは、オホーツクの沿岸ですとまたもう少し違うこと が指摘され、その後、少し範囲を広げて北海道から離れて見ていきますと、例えばこ のオホーツクの沿岸の集団というのは、さらにサハリンのほうの人たちに似ている。 千島のアイヌは、残念ながら人骨がほとんどありませんのでよく分からないのですが、 これも数例を見ると、かなり姿形が違っているということが分かります。あるいは道 南になりますと、青森県などの縄文人の中に少々似たような形質があるということで、 アイヌの人たちも長い年月、1,500年という縄文からアイヌに至る時代を経て、それ ぞれの地域はさらにその近辺の人たちとの遺伝的な交流を受けて、姿を少し変えてい ったのではないかと考えています。なお、北海道では、続縄文から擦文の間に、オホーツク海沿岸にオホーツク文化が 栄えましたが、このオホーツク文化人というのは非常に特異的な顔貌をしています。 日本人では他にはいないような、非常に顔の長い、ごつい感じの人々だということが かねて言われていて、アイヌの人々とは大分姿形が違うので、彼らは遺伝的には少な くともアイヌには影響しなかったということが言われていましたが、最近細かい分析 をしていきますと、実はオホーツクの沿岸の人々には、このような人々の影響がある 程度見られるということも言われるようになりました。

【DNAから見たアイヌ集団】
次に、DNAの分析から見たアイヌの集団についてお話しします。先ほど縄文人と いうのは南方から来たというお話をしました。アイヌの人々は南方から来た人々の子 孫ということになりますので、そうすると、アイヌの人々は、実は現代人と比べると 南方の集団になるのではないか、というふうに言われていたのですが、実は遺伝学的 に分析しますと、アイヌとそれから沖縄の集団、それから日本の集団は、すべて北東 アジアの集団の一部になる、ということが分かってきました。遺伝学的には恐らくア イヌの南方説というのは否定されるというのが、現在の遺伝学者の見解になります。 さらに、もう少し細かい分析ができるミトコンドリアDNA、これは母親から子供 に伝わるDNAですが、これについて、本土の日本集団、それから沖縄、アイヌの集 団というのを比較してみます。日本人は全部で16ぐらいのタイプからなっているので すが、アイヌの集団というのは他の集団と比べると少々違うタイプを持っていること が分かります。大きく違うのは、他の例えば日本の本土人ですと0.3%ぐらいしかな いYというタイプを持っている人が沢山いる。あるいは、本土日本人だと7%ぐらい のGというタイプが25%ぐらいになるということで、少しDNAの構成が違っていま す(資料1の図3参照)。 ただ残念なことは、アイヌ民族のDNAは現在利用できるものが51名分しかありま せん。ですから、これも1つの村から採取されたDNAと言われていますので、果た してこれがアイヌの集団全体の遺伝的な構成を表しているかどうかは分かりません が、それを見てもこの2つは大きく違っているということが分かります。 それでは、このような集団が一体どこに住んでいるのか、ということを日本の周辺 地域で見ていきますと、実はYというタイプをもつ集団、本土日本にはほとんどない タイプをもつ集団は、実はサハリンのニブヒの人々であるとか、沿海州の集団である とか、あるいはカムチャツカ半島の集団ということが分かってきました。このように、 ここも少数民族が多量に持っているようなDNAがアイヌの人たちに伝えられてい るということになります。 それから、Gと言われている、アイヌの人たち4分の1ぐらいが持っているタイプ も、高頻度に持っているのはこのような北のグループだということが分かっています。 ですから遺伝的に見ると、アイヌの人々には、本土の日本には見られないような遺伝 子が北方経由で入ってきている、ということが最近分かってきました。さらに最近で は、古人骨のDNA分析というのができるようになり、直接縄文人の遺伝子を比べてみることができるようになりました。 それによりますと、その中にあるほとんどが実はN9bというタイプになります。 このタイプは日本にしか出てこない非常に面白いタイプなのですが、恐らく縄文時代 からずっと日本に伝わっているグループ、もちろん縄文人が持っているのですが、当 然アイヌの人々にも入ってきています。それから、M7aというタイプ、沖縄へ行く と4人に1人ぐらいは持っている非常に大きなタイプですが、これも日本周辺にはあ りません。これがやはりアイヌの人たちにも受け継がれているということが分かって います。それ以外、実は縄文人に出てくるDNAは皆北方系に非常に特化した遺伝子 で、これもやはりアイヌの人たちに入っています。 しかし、縄文人には北方民族にあったYというタイプがないのですが、最近このタ イプをオホーツク文化人が高頻度で持っているということが分かってきました。つま り、アイヌの人々は縄文時代から伝わってくるようなタイプのほかに、その後、歴史 の時代にオホーツク文化人から受け継いだものもあったかもしれない。あるいは、そ れ以外のものに関しては、和人とのコンタクトによって本土から入ってきたものがあ ったのかもしれないということで、ある程度の遺伝的な交流を続けながら、本体とし ては縄文人がそのままアイヌに変わっていくわけですが、そのような形で成立してい った独自の歴史を持っている人々である、ということが遺伝子の分析の結果分かって きました。

【アイヌ人骨収集の歴史と倫理的な責任、今後の研究について 】
最後になりますが、私たちの研究室には 5,000 体位の人骨があります。前にア イヌ の方に「おまえたちはアイヌの骨とクマやシカの骨と一緒に並べているのではない か」とお叱りを受けたことがありますが、どの集団も皆同じように並べるというのが 私たちの考え方、ポリシーです。今お話ししたアイヌの人たちの歴史、あるいは日本 人の成立過程というものも、人骨の研究から地道に導かれたものということをご理解 ください。 資料1に主なアイヌ人骨がどのように集められたかということを表にしました。古 くは明治時代から集められた人骨もあります。大正時代あるいは昭和の初期、あるい は戦後に随分沢山の人骨が集められています。このような先達が集めた人骨の研究に よって、私たちはアイヌの成立あるいはアイヌの集団の地域差といったものを見るこ とができたわけですが、決定的に本土と集め方が違っていたのは、本土の日本ではそ この人々自体に収集の目的、ないしはその意義を説明して人骨を集めましたが、残念 ながらアイヌ人骨の中にはそのような手順を経ずに集めた人骨がかなり混ざってい ます。これは人類学者としても率直に反省しなければいけない点だというふうに思っ ていますが、このような人骨の研究、特にDNAの研究などは、今後更に研究が進め ば、より多くのデータを得る可能性があります。ですから、このような人骨も合わせ て、慰霊とそれから研究というものの両方ができるような設備が整って、今後アイヌ 研究あるいは日本人全体の成り立ちの研究といったものが更に進むといったことを 私どもは願っております
・ 自然人類学者は、動物の骨もアイヌの骨も同じ客観的な材料であるとのべている。つまり、自然人類学の研究は慰霊行為ではないと論じる——しかし他方、死体 解剖保存法では、遺体に対しては敬意をもって扱うように規定しているので、このような発言は限りなく違法的な認識であることはたしかである。しかし、その 後半では、篠田先生は、アイヌの慰霊施設において、「研究」の「慰霊」の両方が可能であることを示唆している。これは、その認識が完全に分裂していると 言っても過言ではない。

●篠田謙一『DNAで語る日本人起源論 』岩波書店、2015年

篠田謙一『DNAで語る日本人起源論 』岩波書店、2015年, pp.236-239.
DNA には学問の垣根を越える力があります。ヨーロッパではDNA 分析によって得られた知見 は自然人類学の分野を超えて、考古学や民族学、歴史学、言語学にも影響をおよぼすようになって います。日本でも古代DNA 分析が進んでいけば、詳細な日本人形成のプロセスが明らかになって いくはずです。日本列島は世界でも例を見ないほど、各時代の人骨試料がそろっている地域です。 今後は先人たちが収集したこれらの人骨試料のDNA 分析を通して、過去にこの列島に暮らした人 たちの成り立ちを調べる作業が続けられることになります。私たちが何者で、どこから来たのかを 明らかにすることで、「日本人とは何か」という私たちにとって重要な問題ることになるはずです。

ただし、そこには乗り越えなければならない壁もあります。その一つは研 究グループをいかにし て構築していくかという問題です。ネアンデルタール人のゲノム解析や、この章で紹介したヨーロ ッパの古代集団ゲノム解析などでは、おおむね30人から50人程度の研究者が―つのプロジェク 卜に参加しています。考古学と骨形態を専門とする研究者が試料を用意し、実験を担当する研究者 がそこからDNA を抽出して、次世代シークエンサーによる解析を行います。実験室の作業によっ て得られた膨大なDNA の配列データは、統計解析を担当するチームに引き渡され、そこから得ら れた情報をもとに結論がまとめられます。古代ゲノム解析は結果を得るために、かなりの数のそれ ぞれ分野の異なる研究者が協同作業をする必要があるのです。しかし、伝統的に発掘から論文作成 までをごく少数の人間によってまかなう伝統のある日本では、このような大規模な研究チームを作 ることが難しいという現実があります。これは今後、日本で大規模な古代ゲノム解析を行うにあた って、第一に解決しなければならない問題です。

さらに、学問の置かれた状況に関する問題もあります。日本では学問分野 が人文社会科学と自然 科学に分けられていて、互いの領域に干渉せずに研究が進められてきました。むしろ、異分野の研 究を認めないという風潮もあったように思えます。日本の霊長類学研究の草分けの一人から、昭和 40年代に日本人類学会でニホンザルの文化について発表をしたときに、文化人類学者から「今日は はサルにも文化があるという驚くべき話を聞いた記念日だ」と言われた、という話を聞いたことが あります。この時代の人文科学系の研究者からの批判は、テリトリーヘの進入に関する不信感が根 底にあったのだと思いますが、それから半世紀がたって、霊長類の研究は人間性や家族の起源など についての多くの注目すべき業績を挙げ、人文科学や社会科学の研究にも大きな影響を与える学問 に育ちました。
・ここには「文化人類学者」のテリトリー墨守の狭隘さと、他分野、とりわけ霊長類学研究を軽視する文化人類学について批判されている。
DNA 人類学も同様に認知され、学際的な研究を進めるためには、研究成果を他の学問領域の研 究者に向かって発信していく努力を続ける必要があります。これまでのDNA 人類学の研究成果は、 「ネイチャー」や「サイエンス」、あるいは「アメリカ遺伝学雑誌」や「自然人類学雑誌」といった 欧米の自然科学系の雑誌に発表されてきました。本書で紹介した成果もほとんどがそのような専門 誌に発表されたものです。日本の研究結果であっても、基本的にはこのような雑誌に英文で発表す ることを目的として論文が執筆されますので、日本の人文社会科学系の研究者の目に留まることは ほとんど期待できません。学際的な取り組みをどのように構築するかということも含めて、この状 況をどのように変えていくかが、これからの研究者が解決すべき課題となっています。

最後に、制度としての問題点を指摘しておきます。DNA 人類学は、私たちの過去を考える際に 考古学や歴史学と並ぶ、欠くことのできない学問分野として成長していくポテンシャルをもってい ます。しかし、その研究の材料である人骨には文化財としての法的な取り扱いが曖味であるという 問題があります。日本の文化財保護法では、出士した人骨を明確には文化財として規定していない のです。ですから、墓地を発掘して出土した副葬品などの遺物は、保存と調査、さらには公開まで を視野に入れて公共のために役立たせることが義務づけられているのに対し、人骨の場合は、再埋 葬されて研究されないまま失われてしまうこともあるのです。本書でも紹介してきたように、人骨 に残るDNAは、その人物のもつ究極の個人情報であり、それを詳細に解析することができるよう になった今、人骨のもつ資料的な重要性はさらに大きなものになっています。歴史資料や考古資料 と同じか、場合によってはそれ以上の情報を引き出すことができる貴重な遺物だと認識する必要が あるのです。

私たちが目指すのは、「私たちは何者なのか」という人類の究極の問いの 解明なのであり、そこ には学問の壁があるわけではありません。人骨からこれだけの情報が取り出されるのですから、資料 的な価値を認めて文化財として位置づけるべきでしょう。人文社会科学の分野のみを対象とした文 化財行政は、時代に即したものに改められるべきであると思います。

日本で将来にわたってDNA人類学の研究を進めるには、ここで指摘したようなさまざまな解決 すべき課題が残されています。しかし、DNA の解析技術は、私たちのDNA が教える人類の成り 立ちの歴史を、かなり正確に解読できる段階まで到達しています。これまでもさまざまなイノベー ションが私たちの社会や生活を変えてきましたが、DNA 解析技術は私たちの認識そのものを変革 する可能性をもっています。「二重らせん」の発見以来、60年余りを経て、ついに人文科学と自 然科学の壁さえも取り払ってしまったこの技術が、この先に何を見ればと思います。

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