かならずよんで ね!

日本人の起源における二重構造モデルの攻防

Rise and Failure of dual structure model (Kazurou HANIHARA, 1927-2004)

池田光穂

日本人の起源に おける 「二重構造モデル」とはざっと次のようなものである;「現代日本人の形成に関する埴原和郎・東京大学名誉教授の仮説。すなわち、東南アジア起源の縄文 人と いう基層集団の上に、弥生時代以降、北東アジア起源の渡来系集団が覆いかぶさるように分布して混血することにより現代日本人が形成された。渡来系集団は、 北部九州及び山口県地方を中心として日本列島に拡散したので、混血の程度によって、アイヌ、本土人、琉球人の3集団の違いが生じた。この仮 説は大筋では受 け入れられているが、(その反論として)基層集団の起源が北東アジアではないかとの 意見も強い馬場悠 男, 2007)。

キーワード:︎縄文人▶ 続縄文人︎▶アイヌ▶︎︎︎南西諸島古墳人▶沖縄人︎本土日本人︎▶北東アジア新石器時代人︎▶北東アジア人︎渡来集団(弥生〜8世紀) ︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎

埴原和郎 はにはら-かずろう(1927-2004)「1927年2年8月17日生まれ。47年東大教授となる。62年国際日本文化研究センター教授。諸人種の歯の 形態を比較し,モンゴロイドの歯の特徴に注目。骨や歯の特徴を統計学的に処理し,性別や年齢を推定する方法を考案。また,南方系の縄文人と北方系の弥生人 が混血したことによって日本人は形成されたとする「二重構造モデル」を提唱した。2004年10月10日死去。77歳。福岡県出身。東大卒。著作に「日本 人の成り立ち」「新しい人類進化学」など」https://bit.ly/3zeNFPk

埴原和郎:「埴原 和郎(はにわら かずろう、1927年〈昭和2年〉8月17日 - 2004年〈平成16年〉10月10日)は、日本の自然人類学者。東京大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。解剖学者で北里大学医学部教授の 埴原恒彦は息子。元外交官で外務事務次官、駐アメリカ大使の埴原正直は伯父。福岡県北九州市出身。旧制成蹊高等学校を経て、東京大学大学院(旧制)修了。 1958年に札幌医科大学法医学教室助教授、1972年に東京大学理学部人類学教室教授、1984年に東京大学総合研究資料館館長兼任(1985年ま で)、1987年に国際日本文化研究センター教授(同年東京大学教授も併任)、1988年に東京大学定年退官、1993年に国際日本文化研究センター定年 退官。その後は国際高等研究所副所長・学術参与・顧問、神戸女学院理事を歴任。人類学の「二重構造モデル」を展開した事で知られた。1958年、東京大学 より理学博士。論文は「日本人及び日米混血児乳歯の研究」[1]2004年10月10日、肺がんのため京都市内の病院で死去。享年77[2]。」

土肥直美:「埴原先生の二重構造論のベースになるの は渡来混血説です。渡来混血説については、 考古学的な証拠や形質的なデータの蓄積、それから遺伝学的研究の成果が揃ってきて、ほ とんど否定できない状況になってきました。そこで、蓄積されたデータを整理して、一般 化する作業をされたのが埴原先生で、それが二重構造モデルなんです。二重構造モデルには柱が二つあります。―つは、日本人には二層性がある。つまり最初 の原日本人である縄文系の人たちと、後から渡来してきた北方系の人たちの混血で成り立 っているということですね。それから、もう―つの柱は、最初の日本人は東南アジア起源 で南方系であるという点です。この二つの柱から成り立っているんです」(安里・土肥  2011:52-53)※図4は(安里・土肥   2011:54)による。

●現日本人とは誰か?

土肥:「日本人の起源については、二重構造モデルに 代表されるように、東南アジア系と北アジア系 という二つの集団の混血によって形成されたという考えが一般的である。つまり、まず、旧石 器時代から日本列島全域に東南アジア系、言い換えれば日本人の基層集団である縄文系の人た ちが住んでいた。そこへ、おそらく縄文時代の終わり頃から、北アジア系の集団である渡来人 が北部九州や本州の西端部に移住してきた。彼らは現在の縄文人と混血しながら日本列島に拡 散していき、混血は現在も進行中である。この二重構造の基層をなす集団(縄文人)のことを 原日本人と呼んでいる」(安里・土肥   2011:132)。

●沖縄人と二重構造モデル(2011年での評価)

今までの渡来混血説と違うところは、金関先生の時 代にはどちらかというと地域的な議 論だったわけです。北部九州や山口県で先生が発掘された弥生人は、縄文人とは非常に違 う特徴を持っていました。その後の古埴人をみましても、やはり北部九州古墳人というの は、渡来系の弥生人に近い特徴を持っています。そこで、北部九州周辺には確かに渡来が あって混血もあっただろうと考えられたわけですが、渡来人の影讐がどれ<らい広がつて いたかという点については、金関先生は「最初はほんの一部分であって最終的には縄文系 に吸収されていったのではないか」とい うことも言っておられます。また、一部 には鈴木先生の小進化説で説明できる地 域もあると考えられていて、日本人全体 を説明できる統合モデルというところま では至っていなかったのです。/北と南という視点はそれまでにもあっ て、北海道と沖縄には縄文系の人たちが 残っており、中心部は渡来系の人たちが 優勢だということはいわれていました。 しかし、埴原先生は、九州周辺の離島に も注目され、そのような離島にも縄文系 の形質がたくさん残っているということ を明らかにされました。つまり、日本の 辺縁部にはまだ渡来人の影響の及んでい ないところがあって、現在も混血は進行中であることを明らかにされたわけです。そして、 全体を統合できるモデルとして考えられたのが二重構造モデルです。/もう―つの柱は日本人の基層集団である縄文人が東南アジア起源であると いうことです が、東南アジア起源の根拠のひとつが沖縄本島の具志頭村(現八重瀬町)で発見された約 1万八千年前の港川人です。港川人は中国南部の柳江人とか東南アジアのワジャク人 に近いと言われていますので、その系統、つまり東南アジアの系統につながるだろうとい うわけです。最近、埴原先生の息子さんである埴原恒彦さんが二重構造論を強力にバック アップするような仕事を展開しています。/これまでの起源論では、琉球=沖縄というのはあまり視野に入っていなかったように思 いますが、二重構造モデルでは沖縄まで含めた日本人論になっています港川人は縄文人 の直接の祖先、すなわち港川人から縄文人へ、そして現在の琉球=沖縄人につながるとい うのが、二重構造モデルのなかの琉球=沖縄人の位置づけです」(安里・土肥  2011:53-55)。

●原日本人の北方起源説

「現在進んでいる文部省の重点領域プロジェクトも、 二重構造論がベースになってい て、二重構造論が本当に成り立っかどうかをさまざまな角度から検証しようとしていま す。 現在、代表者である尾本恵市先生が縄文人の起源について問題提起をしておられます。そ れより前に、東大の針原伸二さんがすでに縄文人はどうも北方系ではないかと いうことを 言われたことがあります。それから外国の研究者、キャバリ•スフォルザの論文にアイ ヌ や沖縄が北に繋がつているという結果がでているんです。その分析に使われたデータとい うのは尾本先生のデータなんですね。当然、尾本先生の分析結果も周辺の集団と比較 する とアイヌと琉球=沖縄人が北方の集団に分類されました。/ 尾本先生の論旨は、〈日本人は遺伝学的に大きく二つの集団に分類できる。これは、こ れまでの遺伝学的な研究成果でも共通して支持されている。しかし、アイヌ、琉球=沖縄 人の起源は南ではなく、北である。〉というものです。この原本人の北方起源というのが、 二重構造をめぐる今一番ホットな問題点ではないでしょうか」(安里・土肥   2011:57)。

人の動きはもっと複 雑でダイナミックである(土肥 直美)

土肥「沖縄に関しては、この他に、かなり一般的に なって いるアイヌ・琉球同系論 についても、最近、疑問が投げかけられています。東北大学の解剖の教授をしている百々 幸雄さんは、私たちと同じ骨を研究対象にしていますが、私たちが計測値を比較するとい う手法を用いるのに対して、百々さんは計測できない特徴を研究対象にしています。それ は人の個性みたいなもので、神経や血管の通る穴が―つの人もいれば二つの人もいる。頭 の骨にはそういう非計測的形質といわれる特徴がたくさんあるんです。いろいろな特徴の 出現頻度をアイヌと沖縄と本土の日本人で比較すると、これまで言われているように、琉 球とアイヌが近縁という結果にはならなかったんです。それで琉球=沖 縄人とアイヌが 同 系であると言えるかどうかの見直しをしなければならなくなりました。/ 私もその共同研究に参加しています。この共同研究では計測値についても顔面平坦度と いう新しい計測項目を取り人れて、詳しい分析を行いましたが、その結果はアイヌと琉球 =沖縄人はかなり違うというものでした。一般的に琉球=沖縄の人はほりの深い顔立ちを していると言われるんですが、骨で見る限りでは非常に平坦な顔立ちという結果になり、 私たち自身が大変驚いてしまいました。琉球=沖縄、アイヌ、本土日本というのがそれ ぞ れに近い関係ではあるけれども、独自の特徴を持っているという結果です骨はそれぞれ の地域の歴史をかなり正直に反映しているのではないでしょうか人の 動きはもっと複雑 で、もっとダイナミックなものだったと思います」(安里・土肥   2011:58-59)。

二 重構造論と港川人

安里「考古学から見ると、埴原先生の二重構造論には いくつかの問題や課題が指摘できる と思います。もちろん二重構造論は、これまでの起源論のなかで最もうまく組み立てられ た説明であり、二重構造論を乗り越えないと新しい展望を開くことができないわけです。 そういう意味で、二重構造論というのは―つの到達点であり、同時に乗り越えるべき大き なハードルだと思います。ですから、二重構造論を吟味・検証するという作業が私たちに 課された課題と考えています。/ まず二重構造論のなかで重要な位憤を占めている港川人が問題になります。二重構造論 では、東南アジアに出現した原アジア人がアジアに拡散する過程でその一部が琉球列島を 北上して日本本士に到達したと考えられています。1万8千年〜1万6千年前の港 川人は、南方から北上してきた旧石器人として扱われています。この港川人が縄文人にな り、沖縄では貝塚人をへて現在の琉球=沖縄人へと展開していくという大きな図式がある わけです。/ ところが日本の旧石器時代を論じた考古学の論文には、港川人はほとんど登場しないの が実状です。つまり港川人が日本考古学の世界ではあまり認知されていないのです。その 理由は、彼らが使った確実な道具、つまり 旧石器が沖縄から出士していないからです。 考古学は人工的な遺物・遺構を扱う学問で すから、遺物が出土しなければ、議論のし ようがない。港川人の年代根拠が放射性炭 素年代である点も、多くの考古学者が認知 しない原因になっているように思います。(さらに骨角器の人工遺物の可能性も疑問視されている)」(安里・土肥   2011:62,64)。

●沖縄からみる二重構造論の弱点

土肥「今、安里さんが考古学の立場から、港川人や二 重構造モデルヘの疑問を提示されま したが、形質人類学では、港川人に関してはほとんど抵抗なしに認知されています。「港 川人=縄文人=今の琉球=沖縄人」という図式もほとんど受け入れられているように思 ます。この図式こそが二重構造モデルの一っの大きな柱でもあるわけですから。しかし、 私は沖縄に来て、沖縄を研究の視野の中心においてみてはじめて、この図式がとんでもな い先入観によって成り立っていることに気がつきました。/ 実際に骨の研究を始めてみると、港川人から今の琉球=沖縄人へという連続性がまった く証明できていないのです。まず、港川人から貝塚時代人の間に一万年以上の長い空白が あります。この空白を埋めて港川人から貝塚時代人への連続が確認されるには、まだ相当 の時間がかかりそうです。貝塚時代の資料もまだ十分ではありません。/ しかし、現段階で少し大胆に貝塚時代人と港川人の特徴を比べてみると、私にはどうも かなり似たところがあるように思えます。高宮広土さんの港川人絶滅論もありますが、グ スク時代以降の人たちの特徴と比べると港川人の方がはるかに似ているという気がするん です。大変小柄であるということ、顔の特徴としては高さが低くて寸詰まりで横幅が広い いう点などですが、空白の時代の資料が見つからないと、この間の連続性の証明は難し いように思えます。/ それから、グスク時代以降の人は、貝塚時代人と比べると全体的に体格が頑丈になって います。サイズが大きくなり顔の特徴も変わるなど、貝塚時代人とグスク時代人の間には かなりの断絶があるように私には見えます。先ほど安里さんも考古学的にかなりの転換が あったんじゃないかといわれましたが、形質の面からも貝塚時代人とグスク時代以降の人 たちの間の特徴にはかなりの差があることが分かってきました。そういう意味では沖縄を二重 構造モデルのなかで矛盾なく説明するには、まだまだ間題が多すぎるような気がします」(安里・土肥   2011:69-70)。

※港川人の独自性については、篠田(2022: 201)が、ハプロタイプMは、東南アジア系を示唆するが、それ以降の琉球人とのつながりをもたない。そのために、港川人は現在の「日本人」には繋がら ず、消滅した可能性があると指摘している(→「「日本人起源論」の系譜」)

★二重構造論説の問題点(篠田謙一『日本人になった祖先たち』2019)

■1990年代のパラダイムは、人類の起源説は「多地域進化説」だったが、現在は「新人のアフリカ起源説」が定説(※コメント→これ自身には、二重構造のパラダイムが大きく批判されることはない)

■「新人のアフリカ起源説」 では、東アジアでの「原人→新人」の進化を考えなくてもよい。

■新しい進化学説では、「日本人」の成立を6万年前以降の新人の移動だけを考えればいい(※コメント→簡潔に表現するために仕方がないが「日本人」の用語が無批判に使われている)。

■日本人の起源の解読は、アフリカ拡散からの人類史の移動という視点から考え直さなければならない。だが二重構造は「後期旧石器時代の移動だけど考え」これを考慮に入れて答えていない(155)

■二重構造説(篠田はモデルとは言わない)は、均質な縄文社会に、水田耕作と金属器の加工技術をもった大陸由来の集団を受け入れて、本土中央、南西諸島・北海道という「周辺」に分化するシナリオだ。

■日本のスケールから考えて、単純化度が高い(※コメント→ゲノムだったら、もっと細かく見れる、との主張)

■縄文人の均質な前提がおかしい(156)

■生態学的環境が異なるので均質化したのではなく、列島のなかで「集団の分化」を促したと考えるのが妥当(157)

■「本州四国九州」の集団と、沖縄、北海道の3つの集団の分化を考えるのが妥当。

■ここでアイヌと琉球の集団の用語が登場し、ミトコンドリアDNAハプログループの両者のあいだには類似性はなしと指摘(157)——このことから、DNAデータは二重構造「説」を指示せずと主張を展開(158)

■琉球の集団は、弥生系の人に類似していく。アイヌ=縄文というのも再考の必要あり。つまり二重構造は「単純」だと批判(158)

用語解説

下田原貝塚(しもたばるかいずか):「琉球列島最南 端の波照間島にある先島先史時代前期を代表する約3千年前の遺跡。石垣 島や西表島を望む島の北側の海岸沿いにある琉球石灰岩の低位段丘上に立地する。近くには大 泊浜貝塚がある。一九五四年に、九州大学の金関丈夫が初めて発掘調査を行い、一対の把手の ある広底の上器や扁平で主に刃先を磨いたヘラ形の扁平局部磨研石斧、丸ノミ形の石斧などが 出土した。金関は、この文化をメラネシア系先史文化の影響を受けたインドネシア系先史文化 ととらえた。下田原貝塚については、その後いくつかの発掘調査が行われ、台湾東部の先史文 化との関連が考えられている」(安里・土肥   2011:121)——土肥直美による。

スウォデツシュの公式と言語年代学:「アメリカの言 語学者のスウォディシュが考案した方法。彼は、どのような言語も時とともに 変化するが、手、足、耳などの基礎語彙は変化が比較的小さく、その速度はほぼ一定であると 考え、これを利用して共通祖語から分かれた二つの言語の分離年代を計算する公式をたてた。 服部四郎は、この公式を京都方言と首里方言に当てはめ、その分離年代を「いまから1450 年ないし1700年前」と計算した。この分離年代は、琉球の日本語化の年代を反映したもの として大きな影響力をもった。しかし、服部は、スウォディシュの公式を一部修正して計算し ていたため、その方法の妥当性で数学者からの批判があった。また、スウォディシュの公式そ のものについても数学的批判があり、今日では、言語年代学はほとんど用いられていない 」(安里・土肥   2011:122)——土肥直美による。

港川人(みなとがわじん):「港川人は那覇市の実業家大山盛保氏によっ て1968年に発見された。大山氏はその前年に 具志頭村港川の石材採掘地から動物化石が出ることを知り、人骨を求めて何度も港川に足を運 んだという。そして翌年ついに人骨を発見し、1970年には完全に近い人骨も発見している。/ これらの人骨は鈴木尚、馬場悠男、遠藤万里等によって詳しく研究され、1982年に報告 書が出版されている。約1.8万年前とされる港川人は少なくとも五体分、多くて9体分ある という。特に保存状態の良かった男性の一号人骨については、詳しい形態学的分析が行われ、 頭骨の特徴がおおむね縄文人と共通するという結果が報告されている。また、周辺地域との関 係では、中国のほぼ同じ時代の更新世人類と比較した結果、北部の周口店山頂洞人は顔の高さ が高く、頭の長さが長い点など多くの点で港川人の特徴とは違っているが、南部の柳江人の特 徴は港川人に似ているという。さらに、港川一号人骨の推定身長およそ155cm あるのに対し て、柳江人は150〜157cm 、山頂洞人は174cmという推定値が得られていることから、 鈴木は港川人のルーツは中国南部であるとし、港川人の特徴はその子孫である縄文人に受け継 がれたと考えた。港川人と柳江人の類似性については異論がないわけではないが、現在のとこ ろは鈴木の考えを支持する研究者が多いように思われる」(安里・土肥   2011:130-131)——土肥直美による。

その後の港川人の位置付けの変化:「これまで港川人は縄文人の直系の祖先と 考えられていましたが、最近では、縄文人の祖先は北からやって来た人たちで港川人に はつ ながらないという考え方が支持されるようになってきたのです。/ では、港川人はどこからやって来て、どこへ行ったのでしょうか。また、貝塚時代人は どこからやって来たのでしょうか。最近、石垣島で、ほとんど半世紀ぶりとも言える大き な発見がありました。保存の良い更新世(旧石器時代)人骨が新たに発見されたのです。 石垣島更新世人骨の研究は始まったばかりですが、琉球=沖縄人研究を飛躍的に進展させ る可能性をもつものであり、その成果が待たれます」(安里・土肥   2011:134-135)——土肥直美による。

★現時点における「二重構造モデル」に関する修正案

注:篠田謙一 2015, pp. 120–123.『DNAで語る日本人起源論』;21. a b 篠田謙一 2015, pp. 190–192.;22. 斎藤成也 2017, pp. 106–109.『核DNA解析でたどる日本人の源流』;23. Niall Cooke et al. (2021). “Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations”. Science Advances (American Association for the Advancement of Science.) 7 (38). doi:10.1126/sciadv.abh2419.; 24. a b 篠田謙一 2015, pp. 140–145.;25. a b 斎藤成也 2017, pp. 103–106.;26. 斎藤成也 2017, pp. 144–148.;

■改良型「二重構造モデル」論者としての斎藤成也ら


●日本列島人の成立に関する通説(斎藤ら 2021:240-241)

1)置換説:最初日本に渡来した移住者が先住民となり、後にそれとは異なる移民の末裔が現在の「日本人」である

2)混血説:最初に渡来した移住者に後の移住者がやってきて混血をした。

3)変形説:第一の移住者が時間的に変化して現在の日本人になった。

++++

1)置換説:フランツ・シーボルトのアイヌ説、小金井良精、エドワード・モースのプレ・アイヌ説、坪井正五郎のコロポックル説

2)混血説:エルヴィン・ベルツ、鳥居龍蔵、清野謙次、金関丈夫、埴原和郎と山口敏の二重構造説、尾本恵市、宝来聡、徳永勝士

3)変形説:長谷部言人、鈴木尚

※沖縄語が日本の方言として分類されている(→琉球文化や琉球語を独自の民族あるいは独自の言語として
承認しない、日本国政府の見解を踏襲している)

☆二重構造説(斎藤ら 2021:254-256)(→埴原じしんは「二重構造モデル」と言い、あくまでも説明仮説であることを強調している) ため、この表記(「二重構造説」)は適切とは言えない

「1980年代に発表された埴原和郎の二重構造説は、明治時代に唱えられたベルツの説を発展 させたものともとらえることができ、広い意味では混血説に属します。それまでの日本列島諸集 団とそれらをとりまくアジアの集団との比較から導きだされたものであり、豊富なデータに裏打 ちされたこの仮説は、現在の定説となっています。二重構造説は、簡単にいうと次のような説で す(図11-7A) 。

※「ルツの説を発展 させたものともとらえること」これも埴原の論文を読めば、このような主張そのものが奇矯である。

★ 「東南アジアに住んでいた古いタイプのアジア人集団の子孫が、旧石器時代に最初に日本列島に 移住して、縄文人を形成した。その後弥生時代に移るころに、北東アジアからの移住があった。 彼らはかつては縄文人の祖先集団と近縁な集団だったが、極端な寒冷地に住んでいたために寒冷 適応を経て、顔などの形態が縄文人とは異なっている。この新しいタイプの人間は、先住民であ る縄文人の子孫と混血をくり返した。ところが北海道にいた縄文人の子孫集団は渡来人との混血 をほとんど経ず、アイヌ人集団につながつていった。沖縄を中心とする南西諸島の集団も、本土 から多くの移住があったために、北海道ほど明瞭ではないが、それでも日本列島本土に比べると 縄文人の特徴をより強く残した。」

★ このように、現代日本人集団の主要構成要素を、旧石器時代の第1波の移住民の子孫である縄 文系と、縄文時代末期以降の第2波の移住民である渡来系のふたつに考えて説明したことから、 二重構造説とよびます。図11-7Bは、二重構造説にもとづいて斎藤(2005)が示した、日 本列島人の変遷のモデルです。

★ 図11-4、図11-5A、図11-6 からわかるように、骨の形態から見ても遺伝子から見ても、ア イヌ人と沖縄人の共通性が示されています。また、図11-4の形態小変異のデータから、彼らと 縄文人の近縁性がわかります。このように、二重構造説はいろいろなデータで支持されています。

★ 2012 年以降になって、斎藤成也の研究グループはゲノム規模のSNP (単一塩基多型)デ ータをアイヌ人、沖縄人、本土日本人(ヤマト人)で比較した結果、二重構造説を明確に支持す る結果を得ました。ただし、沖縄人は本土日本人とかなり近縁であり、一方アイヌ人は両者から かなり離れていました。三者のこの関係は、縄文時代人の古代DNAゲノムが2016年以降明 らかになってきた結果、やはり二重構造モデルを支持しています」(斎藤ら 2021:254-256)。

二重構造説(斎藤ら 2021:254-256)

「1980年代に発表された埴原和郎の二重構造説は、明治時代に唱えられたベル ツの説を発展 させたものともとらえることができ、広い意味では混血説に属します。それまでの日本列島諸集 団とそれらをとりまくアジアの集団との比較から導きだされたものであり、豊富なデータに裏打 ちされたこの仮説は、現在の定説となっています。二重構造説は、簡単にいうと次のような説で す(図11-7A) 。

★ 「東南アジアに住んでいた古いタイプのアジア人集団の子孫が、旧石器時代に最初に日本列島に 移住して、縄文人を形成した。その後弥生時代に移るころに、北東アジアからの移住があった。 彼らはかつては縄文人の祖先集団と近縁な集団だったが、極端な寒冷地に住んでいたために寒冷 適応を経て、顔などの形態が縄文人とは異なっている。この新しいタイプの人間は、先住民であ る縄文人の子孫と混血をくり返した。ところが北海道にいた縄文人の子孫集団は渡来人との混血 をほとんど経ず、アイヌ人集団につながつていった。沖縄を中心とする南西諸島の集団も、本土 から多くの移住があったために、北海道ほど明瞭ではないが、それでも日本列島本土に比べると 縄文人の特徴をより強く残した。」

★ このように、現代日本人集団の主要構成要素を、旧石器時代の第1波の移住民の子孫である縄 文系と、縄文時代末期以降の第2波の移住民である渡来系のふたつに考えて説明したことから、 二重構造説とよびます。図11-7Bは、二重構造説にもとづいて斎藤(2005)が示した、日 本列島人の変遷のモデルです。

★ 図11-4、図11-5A、図11-6 からわかるように、骨の形態から見ても遺伝子から見ても、ア イヌ人と沖縄人の共通性が示されています。また、図11-4の形態小変異のデータから、彼らと 縄文人の近縁性がわかります。このように、二重構造説はいろいろなデータで支持されています。

★ 2012 年以降になって、斎藤成也の研究グループはゲノム規模のSNP (単一塩基多型)デ ータをアイヌ人、沖縄人、本土日本人(ヤマト人)で比較した結果、二重構造説を明確に支持す る結果を得ました。ただし、沖縄人は本土日本人とかなり近縁であり、一方アイヌ人は両者から かなり離れていました。三者のこの関係は、縄文時代人の古代DNAゲノムが2016年以降明 らかになってきた結果、やはり二重構造モデルを支持しています」(斎藤ら 2021:254-256)。

二重構造説(斎藤ら 2021:254-256)

「1980年代に発表された埴原和郎の二重構造説は、明治時代に唱えられたベル ツの説を発展 させたものともとらえることができ、広い意味では混血説に属します。それまでの日本列島諸集 団とそれらをとりまくアジアの集団との比較から導きだされたものであり、豊富なデータに裏打 ちされたこの仮説は、現在の定説となっています。二重構造説は、簡単にいうと次のような説で す(図11-7A) 。

★ 「東南アジアに住んでいた古いタイプのアジア人集団の子孫が、旧石器時代に最初に日本列島に 移住して、縄文人を形成した。その後弥生時代に移るころに、北東アジアからの移住があった。 彼らはかつては縄文人の祖先集団と近縁な集団だったが、極端な寒冷地に住んでいたために寒冷 適応を経て、顔などの形態が縄文人とは異なっている。この新しいタイプの人間は、先住民であ る縄文人の子孫と混血をくり返した。ところが北海道にいた縄文人の子孫集団は渡来人との混血 をほとんど経ず、アイヌ人集団につながつていった。沖縄を中心とする南西諸島の集団も、本土 から多くの移住があったために、北海道ほど明瞭ではないが、それでも日本列島本土に比べると 縄文人の特徴をより強く残した。」

★ このように、現代日本人集団の主要構成要素を、旧石器時代の第1波の移住民の子孫である縄 文系と、縄文時代末期以降の第2波の移住民である渡来系のふたつに考えて説明したことから、 二重構造説とよびます。図11-7Bは、二重構造説にもとづいて斎藤(2005)が示した、日 本列島人の変遷のモデルです。

★ 図11-4、図11-5A、図11-6 からわかるように、骨の形態から見ても遺伝子から見ても、ア イヌ人と沖縄人の共通性が示されています。また、図11-4の形態小変異のデータから、彼らと 縄文人の近縁性がわかります。このように、二重構造説はいろいろなデータで支持されています。

★ 2012 年以降になって、斎藤成也の研究グループはゲノム規模のSNP (単一塩基多型)デ ータをアイヌ人、沖縄人、本土日本人(ヤマト人)で比較した結果、二重構造説を明確に支持す る結果を得ました。ただし、沖縄人は本土日本人とかなり近縁であり、一方アイヌ人は両者から かなり離れていました。三者のこの関係は、縄文時代人の古代DNAゲノムが2016年以降明 らかになってきた結果、やはり二重構造モデルを支持しています」(斎藤ら 2021:254-256)。

二重構造説 (斎藤ら 2021:254-256)

「1980年代に発表された埴原和郎の二重構造説は、明治時代に唱えられたベル ツの説を発展 させたものともとらえることができ、広い意味では混血説に属します。それまでの日本列島諸集 団とそれらをとりまくアジアの集団との比較から導きだされたものであり、豊富なデータに裏打 ちされたこの仮説は、現在の定説となっています。二重構造説は、簡単にいうと次のような説で す(図11-7A) 。

★ 「東南アジアに住んでいた古いタイプのアジア人集団の子孫が、旧石器時代に最初に日本列島に 移住して、縄文人を形成した。その後弥生時代に移るころに、北東アジアからの移住があった。 彼らはかつては縄文人の祖先集団と近縁な集団だったが、極端な寒冷地に住んでいたために寒冷 適応を経て、顔などの形態が縄文人とは異なっている。この新しいタイプの人間は、先住民であ る縄文人の子孫と混血をくり返した。ところが北海道にいた縄文人の子孫集団は渡来人との混血 をほとんど経ず、アイヌ人集団につながつていった。沖縄を中心とする南西諸島の集団も、本土 から多くの移住があったために、北海道ほど明瞭ではないが、それでも日本列島本土に比べると 縄文人の特徴をより強く残した。」

★ このように、現代日本人集団の主要構成要素を、旧石器時代の第1波の移住民の子孫である縄 文系と、縄文時代末期以降の第2波の移住民である渡来系のふたつに考えて説明したことから、 二重構造説とよびます。図11-7Bは、二重構造説にもとづいて斎藤(2005)が示した、日 本列島人の変遷のモデルです。

★ 図11-4、図11-5A、図11-6 からわかるように、骨の形態から見ても遺伝子から見ても、ア イヌ人と沖縄人の共通性が示されています。また、図11-4の形態小変異のデータから、彼らと 縄文人の近縁性がわかります。このように、二重構造説はいろいろなデータで支持されています。

★ 2012 年以降になって、斎藤成也の研究グループはゲノム規模のSNP (単一塩基多型)デ ータをアイヌ人、沖縄人、本土日本人(ヤマト人)で比較した結果、二重構造説を明確に支持す る結果を得ました。ただし、沖縄人は本土日本人とかなり近縁であり、一方アイヌ人は両者から かなり離れていました。三者のこの関係は、縄文時代人の古代DNAゲノムが2016年以降明 らかになってきた結果、やはり二重構造モデルを支持しています」(斎藤ら 2021:254-256)。

http://yaponesian.org/content/files/Yaponesian09102018.pdf
・二重構造モデルでは、1)旧石器〜縄文末(4万〜3000年前)と、2)弥生〜8世紀(3000年〜1200年前)の2相しか、渡来の波はないが、斎藤 の三段階モデルでは、その時代区分も異なり、A)旧石器〜縄文中期(4万年〜4500年前)、B)縄文後期〜晩期(4500年〜3000年前)、C)弥生 時代から現代(3000年前〜現在)までの3相でとらえる。(斎藤 2019:31)
・斎藤成也(2015:167-172)は『日本列島人の歴史』において「三段階渡来モデル」を提唱。


日本列島人の三段階形成モデル(斎藤 2017:139):出典:斎藤成也(2017)「日本列島人の起源と成立」『現代思想』2017年6月号,Pp.128-144.

現時点における修正案(二重構造モデル

この表はウィキペディアの「二 重構造モデル」より。(→サイト内リンク「二重構造モデル」 で詳説する)

# 2.篠田謙一 2015, pp. 120–123. 『DNAで語る日本人起源論』岩波書店〈岩波現代全書〉、2015年。 # 21.篠田謙一 2015, pp. 190–192. # 22.斎藤成也 2017, pp. 106–109.『核DNA解析でたどる日本人の源流』河出書房新社、2017年 # 23.Niall Cooke et al. 2021.Niall Cooke et al. (2021). “Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations”. Science Advances (American Association for the Advancement of Science.) 7 (38). doi:10.1126/sciadv.abh2419 # 24.篠田謙一 2015, pp. 140–145. # 25.斎藤成也 2017, pp. 103–106. # 26.斎藤成也 2017, pp. 144–148.

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