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日琉同祖論

Nichi-Ryū Douso-ron; Japanese-Rykyuan share same roots hyopothesis

池田光穂

☆ 日琉同祖論(にちりゅうどうそろん)は、(本 土)日本人と琉球(沖縄・奄美・宮古・八重山)人はその起源において民族的には同一であり、日本人と琉球人の人種的・文化的同一性を学術的に立証すること によって民族的一体性を強調する理論。

日琉同祖論(にちりゅうどうそろん)は、(本 土)日本人と琉球(沖縄・奄美・宮古・八重山)人はその起源において民族的には同一であり、日本人と琉球人の人種的・文化的同一性を学術的に立証すること によって民族的一体性を強調する理論。

16世紀の京都五山の僧侶等によって唱えられた源為朝琉球渡来説に端を発するとされ、それが琉球へ伝わり17世紀に摂政・羽地朝秀が編纂した『中山世鑑』 に影響を与え、明治以降は沖縄学の大家・伊波普猷によって詳細に展開された。
Nichiryudosoron is a theory that (mainland) Japanese and Ryukyuans (Okinawa, Amami, Miyako, and Yaeyama) are ethnically identical in their origins, and emphasizes ethnic unity by academically proving the racial and cultural identity of the Japanese and Ryukyuans.
日琉同祖論の起源
近年の研究では、日琉同祖論の起源となる源為朝琉球渡来伝説は、16世紀前半にはすでに日本において文献に現れていることが明らかになっている。現在確認 されているその初出は、京都五山の臨済宗僧侶・月舟寿桂(1470年 - 1533年)の「鶴翁字銘并序」においてである。

そこで、月舟は信憑性は分からないがと断りながら、「日本には、源為朝が琉球へ渡って支配者(創業主)となったという伝説がある。そうであるなら、その子 孫は源氏であるから、琉球は日本の附庸国である」という内容を記している[2]。このことから、源為朝琉球渡来伝説が16世紀前半には日本において、特に 京都五山の僧侶の間である程度流布していたことがわかる。なお、この段階で琉球側にも源為朝琉球渡来伝説が流入していたかどうかはわからない[3]。

この源為朝琉球渡来伝説は、日琉間の禅宗僧侶の交流を通じて琉球へもたらされた可能性のほか、袋中の『琉球神道記』や島津氏の外交僧である南浦文之が起草 した「討琉球詩並序」が琉球に伝来、1650年の羽地朝秀による『中山世鑑』によってこの伝説が完成されたとする[3]。

羽地朝秀の日琉同祖論

羽地朝秀は1650年(慶安3年)、琉球最初の正史である『中山世鑑』を編纂した。この中で羽地は、琉球最初の王・舜天は源為朝の子であり、琉球は清和源 氏の後裔によって開かれたと述べ源為朝来琉説を紹介している。舜天が実在の王か否かについては議論があるが、舜天の名自体は『中山世鑑』より100年以上 前の1522年に建てられた「国王頌徳碑」に刻まれている。碑文は、琉球の僧で円覚寺第六代住持・仙岩が撰んだもので、そこには「舜天、英祖、察度三代以 後、其の世の主は遷化すと雖も同行を用いず……」とあり、舜天は16世紀初頭には琉球最初の王であると見なされていたことが分かる。

また羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、ま た有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の 人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている[4]。

こうした羽地の言説は、現在では羽地が当時の因習を打破するために用いたレトリックであるとする説が定説となっている[5]。だがそうした定説を認めつつ も、同時に羽地のなかに日琉を同祖とする思いを有しており、かつ琉球が日本と同等に悠久の歴史を持つ国であることを強調していると見る研究者も存在する [6]。

羽地の日琉同祖論は、王国末期の政治家・宜湾朝保(三司官)に影響を与えた。宜湾は未定稿ながら琉球語彙を編纂して、記紀、万葉集などの上代日本語と琉球 方言を比較して、両者に共通点があると説いた[7]。

江戸時代の日本における日琉同祖論

日本における日琉同祖論は、室町時代の京都五山の僧侶以降では、江戸時代に新井白石がその著『南島誌』(1719年)の総序において、『山海経』に見える 「北倭」「南倭」の南倭とは沖縄のことであると述べ、琉球の歌謡や古語なども証拠に挙げて自説を展開している[8]。

また藤貞幹は天明元年(1781年)刊行の著作『衝口発』[9]において、神武天皇は沖縄の「恵平也(いへや)島」(伊平屋島)に生誕しそこから東征した と述べ、皇室の祖先は沖縄から渡来したとの説を展開した。藤貞幹は伊平屋島には天孫嶽(あまみたけ、クマヤー洞窟)という洞窟があり、地元では天孫降臨説 があるのを知り、ここが高天原の天孫降臨の地であると推定したのである。本居宣長はこの説に激怒し、天明5年(1785年)に成稿した著作『鉗狂人』 [9]でこれに徹底的に論駁している。

伊波普猷の「同祖論」と「日琉同祖論」への位置づけ

伊波普猷は、1911年に刊行される『古琉球』にも収録された、刊行の直前に執筆した論説である「琉球人の祖先に就いて」や「琉球史の趨勢」[10]、さ らには「琉球語の掛結について」「P音考」『琉球の神話」[11]のなかで日本と沖縄の共通性について論じている。

「琉球人の祖先に就いて」は、沖縄人が体質・言語・民俗・神話いずれの点からも「大和民族」との共通性を持っており、紀元後まもなく日本から離れ南に移住 したと結論している。 「琉球人の祖先に就いて」の第二論文という位置づけである「琉球史の趨勢」には、「琉球人の祖先に就いて」をうけたうえで、1609年の島津氏の琉球征服 やその後の圧政、そのもとで培われた沖縄人の面従腹背姓、そのような中から現れた三大政治家である向象賢、蔡温、宜湾朝保の称揚が書かれている。なお、こ の三人が取り上げられている理由は、大正天皇御即位の大典の際に贈位の恩典に預かったためだとされている[12]。

こうした伊波の「同祖論」を、以上のような文脈の下で後世の研究者たちがいわゆる日本への同化や日本からの異化という二項対立構造により読解し、伊波以前 の「日琉同祖論」と関連付けて解釈したのが現在言われる「日琉同祖論」である。

ヒトゲノム研究との関連

最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民は、縄文人を基礎として成立し、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成であり、同じ祖 先を持つことが明らかになっている[13][14]。高宮広土(鹿児島大学)が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降であるとし、 10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したのではないかと指摘するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖 は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている[15][16]。

斎藤成也ら総合研究大学院大学による大規模調査において、アイヌ人36個体分、琉球人35個体分を含む日本列島人のDNA分析を行った結果、アイヌ人から みると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、沖縄にすむ日本人に次いでアイヌ人に近いことが示された。

分析結果から、現代日本列島には旧石器時代から日本列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存するという、二重構造説を強く支持する研究結果と なっている

2021年11月10日、マックス・プランク人類史科学研究所を中心とした、中国・日本・韓国・ヨーロッパ・ニュージーランド・ロシア・アメリカの研究者 を含む国際チームが『ネイチャー』に発表した論文によると、宮古島市の長墓遺跡の先 史時代の人骨をDNA分析したところ「100%縄文人」だったことが分かり、先史時代の先島諸島の人々は沖縄諸島から来たことを示す研究成果となった [17]。また、言語学および考古学からは、中世(グスク時代、11世紀~15世紀)に九州から「本土日本人」が琉球列島に移住したことが 推定でき、高宮広土(鹿児島大学)は、「結果として、琉球方言の元となる言語を有した農耕民が本土から植民した。著名な『日本人二重構造論』を否定すると いう点で大変貴重だ」と指摘している[17][18]。

[17]“宮古島先史の人々「北側の沖縄諸島から」「南から」説を覆す 人骨DNA分析で100%縄文人”. 沖縄タイムス. (2021年11月12日).
[18]“トランスユーラシア言語は農耕と共に新石器時代に拡散した”. 九州大学. (2021年11月26日).

二重構造論

[18]“トランスユーラシア言語は農耕と共に新石器時代に拡散し た”. 九州大学. (2021年11月26日).

国際的研究チームが歴史言語学、考古学および遺伝学の「三角測量」によって、トランスユーラシア言語の起源と初期拡散を解明したことがNature誌で発 表された。

 日琉語族、朝鮮語族、ツングース語族、モンゴル語族及びチュルク語族を含むトランスユーラシア言語の起源はアジア先史学のなかで最も激しい論争となって いる。今回の研究は、歴史言語学、考古学及び遺伝学の「三角測量」によって、トランスユーラシア言語の起源や初期拡散が西遼河地域の新石器時代のキビとア ワを栽培した農耕民まで遡ることを明らかにした。
 トランスユーラシア言語の共通点の多くは借用によるものにもかかわらず、最近の研究では、これらの言語を系図グループ、共通の祖先から出現した言語のグ ループとしての分類を支持する信頼できる証拠が示されてきた。しかし、これらの言語と文化の祖先関連性を受け入れると、最初の話者がいつ、どこに住んでい たか、子孫の文化がどのように維持され、相互作用したか、そして数千年にわたるそれらの拡散の経路について新しい課題が生じる。
 ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心とした、中国、日本、韓国、ヨーロッパ、ニュージーランド、ロシア、米国の研究者を含む国際チームが 11月10日Nature誌に発表した論文では、言語拡散の「農耕仮説」を学際的に支持し、トランスユーラシア言語の最初の拡散が、東北アジアにおける新 石器時代前期のキビ・アワ農耕民の移住と関連すると結論した。新たに解析された中国、韓国および日本の古人骨ゲノム、広範な考古学データベース、および 98言語の語彙概念の新しいデータセットを使用して、トランスユーラシア言語の祖先コミュニティの時間の深さ、場所、および分散ルートを三角測量で分析し た。
 歴史言語学、考古学、遺伝学から得られた証拠によると、トランスユーラシア言語の起源は西遼河地域のキビ栽培の始まりおよび初期のアムール遺伝子プール までさかのぼる。新石器時代後期、アムール地域遺伝子を持つキビ・アワ農耕民は北東アジアの隣接する地域に広まった。その後の数千年の間に、原トランス ユーラシア語から分岐した話者は、黄河、ユーラシア西部および日本列島の縄文文化と混ざり合い、稲作、麦等のユーラシア西部の作物、牧畜民の生活様式をト ランスユーラシアのパッケージに加えた。
 筆頭著者であるマックス・プランク人類史科学研究所の言語考古学グループArchaeolinguistic Research Groupのマーティン・ロベーツ教授は、「一つの学問だけでは言語の拡散を取り巻く大きな問題を決定的に解決することはできません。しかし、歴史言語 学、考古学、遺伝学の3つの分野を組み合わせると、シナリオの信頼性と妥当性が高まります。3つの分野によって提供された証拠を調整することによって、3 つの分野のそれぞれが個別に提供するよりも、トランスユーラシアの移住について、よりバランスのとれた、より豊かな理解を得ることができました。」と述べ る。
 三角測量に使用される言語学的証拠は、100程度のトランスユーラシア言語から、250を超える概念を表す3000を超える同根語セットの新しいデータ ベースから得られた。 その結果、研究者たちは、西遼河地域に住むキビ栽培の農耕民に、9181年前に遡る原トランスユーラシア語のルーツを示す系統樹を構築することができた。
 研究チームの考古学的結果は、約9000年前にキビの栽培を開始した西遼河流域にも焦点を当てた。中国、朝鮮半島、ロシア沿海地方及び日本を含む、 255箇所の新石器時代・青銅器時代の遺跡から出土した遺構・遺物をデータベースに入れ、ベイズ推定分析を行った結果、西遼盆地の新石器時代の文化クラス ターが示された。 その後、このクラスターは韓国新石器文化、およびアムール・沿海地方・遼東の二つに枝分かれした。さらに、青銅器時代に朝鮮半島にイネとムギが伝播し、約 3000年前に日本にも伝播した。

北東アジアにおける言語・農耕・遺伝子の拡散
https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/researches/view/696/(現在リンク切れ)

[17]“宮古島先史の人々「北側の沖縄諸島から」「南から」説を覆す 人骨DNA分析で100%縄文人”. 沖縄タイムス. (2021年11月12日).

宮古島先史の人々「北側の沖縄諸島から」 「南から」説を覆す 人骨DNA分析で100%縄文人
2021年11月12日 09:30
 宮古島市にある「南嶺の長墓遺跡」の先史時代の人骨をDNA分析したところ「100%縄文人」だったことが、マックス・プランク人類史科学研究所(ドイ ツ)や県内研究者などの学際的チームの研究で分かった。従来、先史時代の先島の人々は台湾やフィリピンなどの南方に由来するとされてきた(南方説)が、北 側の沖縄諸島から来たことを示す研究成果。先史時代の先島は奄美・沖縄諸島と接点がないとされてきた説も覆す。英科学誌ネイチャーに掲載され、日本時間 11日に発表された。

 同研究所のマーク・ハドソン氏が長墓遺跡で発掘した先史時代(先島では約4千~千年前)と近世(17~19世紀)の人骨を分析した。近世の人骨は現代沖 縄人とほぼ同じ約20%の縄文DNAを持つが、先史時代は100%だった。先史時代の宮古島では縄文文化を示す土器などは確認されていないが、縄文ゲノム が存在したことは大きな発見だとしている。

 今回の学際的研究では日本語や韓国語、モンゴル語などの「トランスユーラシア言語」の起源は新石器時代の中国・西遼河地域の農耕民までさかのぼり、農耕民の移動により言語と農耕が拡散したことを示した。

 また、言語学や考古学の観点を合わせると、中世(グスク時代、11~15世紀)に九州から「本土日本人」が琉球列島に移住してきたことが推定できるという。

 共同研究者の高宮広土鹿児島大教授は「結果として、琉球方言の元となる言語を有した農耕民が本土から植民した。著名な『日本人二重構造論』を否定するという点で大変貴重だ」と解説した。

 研究に協力した宮古島市教育委員会の久貝弥嗣氏は「DNAを使って人の移動を分析したのは貴重。通説は南との関係性が考えられていたので、インパクトがある。DNAと遺跡から出ている資料をリンクさせて研究する必要がある」と話した。

 研究チームは先史時代の八重山の人々がどこから来たのかは今後の分析が必要だとしている。久貝氏は「宮古、八重山、沖縄の人骨などの資料を総合的に調べていけば、琉球列島全体の人の移動が見えてくるのではないか」と話した。

中世に「本土日本人」が琉球列島へ移住か 沖縄・宮古島、南方説を覆すDNA分析
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/862140(現在リンク切れ)





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