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ゲノム研究の意義ともっと研究費が欲しいという言説の分析

An analysis of the discourse on the significance of genomic research and the need for more research funding in modrn Japan.

池田光穂

★以下の文章は、国立科学博物館館長(2023年当時)である篠田謙一氏が、アダム・ラザ フォード『ゲノムが語る人類全史』垂水雄二訳、文藝春秋社、2017年に寄稿した「東アジアや日本におけるゲノムの研究」の現状を、一般の人にわかりやす く解説したものからの抜粋(一部; Pp.438-446)である。この文章をよめば、ゲノム研究の意義と、篠田氏が主張する「もっと研究費が欲しいという言説」というものが、ど のようなものであり、また、学生は、そのような言説を、日本を代表する科学者がどのような修辞をつかって市井の人に説くのかが、冷静にわかるはずである。

【1】ゲノムというのはヒトひとりを造るため に必要な遺伝子のセットのことだが、その解析技術の進展 は、あらゆる科学の分野に大きな変化をもたらした。なぜなら、ゲノムは生物の設計図にたとえられ る性質を持つからだ。一般に誤解されている面もあるが、基本的には我々の体はゲノムの指示によっ て形作られ、体内で行われている複雑な化学反応もゲノムの指令によって制御されている。病気への 抵抗力や薬剤の効き方、姿形までもゲノムが規定している。様々な個人差、顔かたちの違いから病気 のなりやすさまで、その根本には遺伝子の違いがある。それゆえ、ゲノムに関する研究は多くの分野 に影響を及ぼすことになる。医学や農学、生物学などの分野ではそれは当然のことだと思われるだろ うが、実は一見関係のなさそうな人文.社会科学にも、その影響は及んでいる。

【2】なかでも、最も大きな影響を受けているのが、人類史の分野であ る。人類史の研究では、発掘され た遺骨や遺物をもとに過去の社会を復元する。人骨の研究では、これまでは骨に現れる遺伝的な特徴 を注意深く読み取って、進化の道すじゃ集団の近縁性を判断していた。しかしながら骨形態は環境や 栄養状態にも左右されるので、その結論は限定的なものに留まらざるを得ない。一方、私たちのゲノ ムには、私たち自身の歴史が刻まれている。数千、数万世代に及ぶ祖先のDNA が混ざり合い、時に 突然変異を起こしながら私たちに伝えられてきた。その変化の痕跡を解き明かしていくことで、私た ちは人類がどこで生まれ、どのように離合集散を繰り返して現在に至るのかを正確に知ることができ る。ゲノム解析技術の爆発的な進展、特に次世代シークエンサという従来の手法とは全く異なる原理 でDNA 配列を読み取るマシンの誕生は、比較的簡単にヒトのゲノムを読み取ることを可能にした。 それによって2010年以降には古代人を含むゲノム解析が大き<進み、人類進化のシナリオが書 き替えられる事態になっている。本書(=ラザフォード『ゲノムが語る人類全史』)は、そうした新発見の数々を一般向けに書き下ろした、知的好 奇心に溢れる一冊である。

【3】……本稿では、東アジアや日本におけるゲノムの研究で、現状では どのようなシナリオが描かれているのかを紹介したい。

【4】21世紀になると、本書でも紹介されているSNP (一塩基多型)解析を利用して、アジア集団の 遺伝的多様性を比較する研究が急速に発展した。SNP とは、私たちのゲノムを構成するDNA 配列 の中に見られる、単一のDNA の変異である。DNA の文字列は親から子どもに伝わっていくときに、 まれに突然変異を起こして別の文字に変わっていく。その違いが子孫に受け継がれ、集団の中で1% 以上の頻度を持ったとき、その部分はSNP であると定義している。婚姻で結ばれた集団が隔離され て長い時間が経過すると、その内部で突然変異によって独自のSNP が生じて、他の集団とは異なる SNP を数多く持つことになる。このことを利用して集団間の近縁性などを調べることができるのだ。

【5】私たち日本人は、アジアの中では「東アジア集団」に属している。 では、その東アジア集団は、ど のような遺伝的特徴を持っているのだろうか。2009年には東南アジアから北東アジアにかけての 集団のSNP データの解析結果が公表され、アジア集団の遺伝的な分化は基本的に言語集団に対応し ていることが示された。要するに同じ言語集団に属する人々は似たような遺伝的構成を持っているこ とが明らかになったのだ。また、東南アジア集団の方が東アジア集団よりも遺伝的な多様性が大きく、 東アジア集団が持つ遺伝的な変異の90%以上が、東南アジアか南アジアにも存在することがわかっ た。更に、遺伝的な多様性は東南アジアから東アジアに向けて減少していくことなどが判明したが、 これは東アジア集団が、基本的には東南アジアから移動した集団によって形成されたことを意味して いる。

【6】それに先立つ2008年には、日本の理化学研究所のグループが7 千人あまりの日本人のSNPデ ータを解析し、列島内の遺伝的な地域差を明らかにしている。この研究では、琉球列島集団が本土日 本集団(本州・四国・九州)と明瞭に分離していることが示された。また本土集団でも、東北地方の 人々は、互いに似たようなSNP を持っており、他の本土日本の集団とは区別することができること がわかった。つまり本土日本の内部でも、ある程度の遺伝的な分化があるのだ。

【7】その後も日本列島集団のSNP 解析では、アイヌと本土日本、琉球列島集団を対象としたものや、 琉球列島内部での分化を調べた研究などが行われている。前者からはアイヌと本土人の祖先集団が混 血をはじめたのは古墳時代であるという推定が得られているし、後者では宮古島と沖縄本島の遺伝的 な分化が示されているほか、琉球列島と地理的には近い台湾の先住民との間には、遺伝的なつながり はないことが明らかとなっている。

【8】このように現代の日本人に関してはある程度のゲノムデータが蓄積 されているのだが、注意すべき なのは、現代人ゲノムが描く地図は、絵画で言えばいわば完成された作品であるということだ。それ がどのように描かれたのかを知ることは、完成した絵からだけでは難しい。しかしもし、その下絵が 残されていれば、どのような過程を経て完成に至ったのかをかなり正確に知ることができるだろう。 ゲノムによる起源の研究で下絵を調べる作業にあたるのが、古代DNA の解析ということになる。

【9】古代人の人骨からDNA を取り出して、そのゲノム情報を抽出する。それができれば現代人の遺伝 子構成がどのような経緯を経て完成されたものなのかを知ることができる。これまでは技術的な制約 もあって、古代DNA の解析はもっぱらミトコンドリアDNA の分析が中心だった。ミトコンドリア DNA は母から子どもに伝わっていく。核のDNA より小さいが、短い領域に多数の変異を持ってい るので、DNA 分析技術があまり発達していなかった20世紀の後半には、集団の系統解析などに用 いられて、大きな成果をあげてきた。ひとつの細胞に多数のコピーを持つことから、経年的な変成を 受ける古人骨でも解析できる確率が高いことも、このDNA を分析する理由となっていた。ただし、 母系しか追究できないので、そこから得られる結論には限界があった。

【10】しかし、本書でも取り上げられているように、この古代人の DNA 解析は、2010年以降、次世 代シークエンサが用いられるようになったことで、核のゲノム解析までをその射程とするようになっ た。それによって古代人のDNA 分析から得られる情報は飛躍的に増大することになったのである。 ヨーロッパのラボが精力的に行っているのが、この解析手法を用いた古代人ゲノムの分析である。地 域集団の遺伝的な変遷を時系列に沿って解析し、現代人集団の遺伝的な構成がどのように完成したのか を追究することで、西ユーラシア人の成立についての精密なンナリオが描かれるようになっている のだ。

【11】さて、古代ゲノム分析による日本人の起源に関しての研究の現状 を紹介する前に、これまでの自然人 類学の分野では、この問題をどのように説明してきたかを述べておきたい。従来の研究では、各時代 の人骨の形や、現代人の遺伝的な形質の調査によって、大きく2つのことがわかっている。ひとつは 日本列島から出土する人骨は時代によって違いがあるということで、具体的には縄文人骨と弥生時代 以降の人骨では形質に大きな違いがあるということ。もうひとつは、現代日本人には遺伝子が規定し ていると考えられる形質に地域差があるということだ。紹介した理化学研究所による研究結果もそれ を裏付けている。特に本土日本と琉球列島やアイヌの間の違いが顕著であり、更にはアイヌと琉球列 島集団は見た目がよく似ていることが指摘されてきた。

【12】このような時代的、地域的な違いがどのようにして生じてきたの か、それを解き明かすことは、日本人 の成立の問題に直結している。それは、取りも直さず日本列島に住む人間の成り立ちを語ることにな るからだ。この問題については明治以来、いくつもの学説が提唱されてきたが、現在では列島内部の 多層性に注目する「二重構造説」が定説として受け入れられているので、その概略を説明しよう。

【13】考古学的な証拠から、日本列島に現生人類が到達したのは、後期 旧石器時代にあたるおよそ四万年 前だとされているので、日本人の起源はそこがスタートとなる。しかし現時点では数万年にも及ぶ後 期旧石器時代から縄文時代にいたる期間の中で、いつどこに、どこから、どの程度の規模で人々が 渡来したかは全く明らかになっていない。それを解き明かすには、列島から出土する人骨化石はあま りにも少ないのが現状なのだ。そこで、この学説では、旧石器・縄文時代を通して列島内部の集団の 均一化が進み、弥生の開始期にあたる2800年ほど前には、全国的に均一な形質を持つ縄文人が居 住していたと想定している。つまり長期にわたる融合の期間を想定することで、それより前の時代の シナリオには言及していないのだ。

【14】そして縄文時代末期以降、大陸から金属器と水田稲作農耕を携え た渡来系弥生人が北部九州地域に 到達し、やがて彼らが在来の縄文人と混血して、現在の日本列島集団を形成することになったと考え ている。この混血のプロセスが地理的な条件や環境要因によって遅れることになった北海道や沖縄で は、在来の縄文人の形質を色濃く残した人々が後の時代まで居住することになったということだ。

【15】つまり、列島内における地域差と時代差を、縄文人と弥生人の違 いとその後の混血過程の状況の違 いで説明しているのである。起源の異なる二つの集団が現代の日本列島集団を形成したと考えるので、 二重構造説と呼ばれるのだが、実際のところ列島内部の多様性の要因が縄文・弥生移行期の変化だけ で説明できるものなのか、ということには確証がない。

【16】この学説で仮定されているいくつかの条件には、ゲノムの解析か ら疑問が投げかけられるようにな っている。我々国立科学博物館の行った縄文人のミトコンドリアDNA の系統研究からは、縄文人に も旧石器時代から続く地域差が存在する可能性が指摘されている。すなわち、最初期に列島に侵入し た集団は、その後も全体としての融合のプロセスを経るわけではなく、地域的にある程度独立した集 団として存在していたことが予想されるのだ。そこから、現在ではそもそも「均一な縄文人」という 概念自体に問題があるのではないかと考えている。古代ゲノムの解析は、従来説とは異なる日本人の 成立のシナリオを描く必要があることを示唆しており、特に縄文人の地域差の研究は、日本列島集団 の形成が、縄文と弥生という二集団の混合の問題に帰結できるのかという、根本的な問いを投げかけ ている。

【17】更に、我々と国立遺伝研、山梨大学の研究グループは、縄文人の ゲノム解析を進めており、これま で20体ちかくの縄文人のゲノムを決定してきた。その結果を見ると、本土日本人は縄文人と渡来 系の弥生人との混血であることが示される一方で、縄文人が現代の東アジア集団のどれにも似ていな い遺伝的な特徴を持っていることが明らかとなっている。この状況の説明には以下の2つの解釈が可 能である。ひとつは、縄文人の系統は現在の東アジア集団が個別の集団として確立する前に分岐した と考える解釈である。これは単純な系統解析から支持されている。しかし他方で、縄文人自体が複数 の起源地を持っている混合集団であるという考え方も可能であり、今後は旧石器時代にさかのほる日 本列島集団の成立をどのように解き明かしていくのかが問題となっている。

【18】ここ数年で弥生人に関しても、何体かのゲノム解析が行われてい る。弥生時代は、地域によって形 質の異なる集団が棲み分かれていたことが知られており、九州では北部に渡来系弥生人、長崎県など の西部地域に縄文人の子孫であると考えられる西北九州弥生人、そして種子島などには独特の形質を 持った南九州弥生人が住んでいたとされる。このうち渡来系弥生人については、ゲノムの分析によっ て縄文人との混血が認められ、西北九州弥生人にも渡来系弥生人の遺伝的な影響が見られることが判 明している。弥生時代は、列島の内部で朝鮮半島から渡来した稲作農耕民との混合が進んだ時代であ り、濃淡のある混血の様子がゲノム解析から明らかになりつつある。

【19】こうした研究から明らかとなるのは、次のような問題点である。 そもそも従来の学説では、日本列 島に住む集団の起源と成立は、弥生時代に、先端的な農業と工業技術を受け入れた中央(本土日本) と周辺地域(琉球列島と北海道)に分かれていったという単一の視点から捉えていた。しかし、大陸 の東端に位置し、様々な生態環境を含む南北三千キロに及ぶ列島に住む集団の成立が、このよう単 純化して捉えることができるものなのだろうか。少なくとも北海道、本土、琉球列島は切り離して、 それぞれの地域の集団の成立史を描く必要があることを私たちのゲノムは教えている。

【20】日本の古代ゲノム解析は始まったばかりであり、その進展もヨーロッパなどに比べると遅々とした ものである。現状では、ヨーロッパととアジアでは研究の厚みが違う。考古学にしても人類学にしても 歴史と伝統を持つヨーロッパは、他の地域に比べて格段に研究が進んでいる。人類進化をゲノムから 研究する施設に関しても、ヨーロッパにはドイツに2カ所と、デンマークに1カ所、世界のこの分野 を牽引するラボが存在する。本書で紹介されている結果も、これらの研究室から生み出されたものな のだが、残念ながら日本にはそれに匹敵するような研究施設はない。まだまだゲノムによる日本人起 源論は、発展途上であるのは事実である。しかしながら、確実なデータは積み上がつており、近い将 来に二重構造説に替わる日本人成立のシナリオが描かれることになるだろう。


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