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デウス・エクス・マシーナとしての蒙古平原

Mongolian steppe as Deus Ex Machina

池田光穂

1870 徳島県徳島市東船場町で、煙草問屋の次男として生まれる。実 家は裕福で、周囲から「旦那衆」と呼ばれていた

1876 小学校に入学。学校ぎらいで入学当初は逃げ回ってばかりだっ たという。鳥居は自身の教育観として、学校は単に立身出世の場であり、裕福な家庭に生まれた自分に学校は必要ない。むしろ家庭で自習する方が勝っていたと 語っている。
 中学校の教師の教えを受けながら[1]、独学で人類学を学ぶ。
 『人類学雑誌』の購読者となったことが縁で東京帝国大学の人類学教室と関係を持ち[
1886年(明治19年) - 結成されたばかりの東京人類学会に入会する。
1890年(明治23年) - 東京人類学会の坪井正五郎を頼って単身上京する。坪井は英仏留学中であったため、同郷であった小杉榲邨の世話となる。
1893年(明治26年) - 東京帝国大学人類学教室の標本整理係の職に就く。
1894 標本整理係として坪井正五郎の人類学教室に入り、12月に同門の伊能嘉矩と週1回行われる人類学講習会を催す。東京遊学を言い出した鳥居に両親 はしぶしぶ賛成するが、結局煙草屋は廃業し、両親とともに上京して貧乏生活を送ることとなった

1895 遼東半島の調査を皮切りに、台湾・中国西南部・シベリア・千 島列島・沖縄など東アジア各地を調査した。中でも満州・蒙古の調査は、鳥居と彼の家族のライフワークとも言え、たびたび家族を同伴して訪れている。
1895年(明治28年) - 東京人類学会より派遣され、初の海外調査(遼東半島)。
1896 東京帝国大学は日清戦争によって日本が得た新たな植民地・台 湾の調査を依頼された。その際、人類学調査担当として派遣されたのが鳥居であった。 鳥居は台湾での調査の際、はじめて写真撮影の手法を導入した。また、特に台湾東部の孤島・蘭嶼に住む原住民族・タオ族について念入りな観察を行っている。 身体形態の測定、これは、世界の人類学とは、理系の地質学・医学などなどを基礎とする「形態人類学」であり、地層分析から人骨測量など客観的データをもっ て、研究を進める学問的方法であり、そのため、フィールド・ワークにより、発掘した「証拠物」を理学的に検証し、始めて仮説を立てる、という非常に実証的 研究方式で、だから鳥居は常に現場にいたのである。もちろん表面的「観察」も重要視するが、実証できないことにつき、鳥居は根拠にしない。明治の人類学 は、理系に基づく欧米流人類学であり、人類学者は自然科学者である(鳥居龍蔵『日本の人類学』他)。生活に関する詳細な記録も残しており、その観察眼は大 変細やかであったとされる
1896年(明治29年) - 台湾の先住民の調査。初めて写真機を持っていく。以後、1900年まで断続的に4回調査を行う。
1898年(明治31年) - 東京帝国大学の助手となる。
1899 台湾調査の合間に、坪井正五郎の命を受けて千島列島北部とカムチャッカ半島へのフィールドワークに向かう。この北千島への調査によって、千島ア イヌが最近まで土器や石器を使用し、竪穴式住居に住んでいたことを発見し、鳥居はコ ロポックル論争にひとつの決着をつけることになる。アイヌ民話に登場す る小人・コロポックルは伝説であり、それはアイヌ民族を起源としたものにほかならないということを調査によって実証したのである。これは結果的に師である 坪井正五郎の説を覆すことになる。なお、坪井は自説を実証させるために弟子を派遣したが、裏切られるような結論になったことについても受け入れたとされ る。
1901 この北千島の調査結果は、1901年(明治34年)東京地学 会の例会で発表され、

1905年(明治38年) - 東京帝国大学理科大学講師に任命。
1906年(明治39年) - きみ子が蒙古カラチン王府女学堂の教師に招かれる。同年、龍蔵も同男子学堂教授となる。
1918年(大正7年) - 武蔵野会(現・武蔵野文化協会)を創設し、機関誌『武蔵野』を創刊する。
1920年(大正9年) - パリ学士院からパルム・アカデミー受賞。
1921年(大正10年) - 「満蒙の有史以前」の研究で文学博士を授与。
1922年(大正11年) - 東京帝国大学助教授となる
1923年(大正12年) - 國學院大學教授就任。
1924年(大正13年) - 東京帝国大学を辞職し、鳥居人類学研究所を設立する。

1928年(昭和3年) - 上智大学の設立に尽力。文学部長・教授となる。

1933年(昭和8年) - 國學院大學を辞職。
1939年(昭和14年) - ハーバード燕京研究所(Harvard-Yenching Institute)の招聘で、研究現場の北京に赴任(「客座教授」名義)(『鳥居龍蔵の生涯』、徳島鳥居記念館)。
1941年(昭和16年) - 太平洋戦争勃発。日米開戦で、ハーバード燕京研究所は閉鎖。(『鳥居龍蔵の生涯)』徳島鳥居記念館)北京において、不自由な状態におかれる
1945年(昭和20年) - 日本敗戦により、大学再開。再び客座教授となる。
1951年(昭和26年) - ハーバード燕京研究所を退職し、帰国する。
1953年(昭和28年) - 東京で死去。82歳。
1959年(昭和34年) - きみ子死去。龍蔵と共に徳島県立鳥居記念博物館の、ドルメン型墓碑に葬られている。
1965年(昭和40年) - 龍蔵ときみ子の2人揃って、鳴門市名誉市民に顕彰される[26]。
1935 昭和10
2.26事件

『民族學研究』(1巻1号)発刊。民間伝承の会『民間伝承』創刊。エイプ会発足。

朝鮮総督府、心田開発運動がはじまる。 秋葉隆がオロチョン調査。

村山智順『朝鮮の類似宗教』調査資料第四十二輯、朝鮮総督府、1935年

4月 岡正雄帰国。

J.エンブリー、熊本県球磨郡須恵村で調査[→リンク]。

6月22日Lectures delivered at Meiji-Seimei-Kan, Tokyo, in 22 June, 1935, von W. Schmidt = ウイルルム・シュミット述 ; 岡正雄譯 ; 國際文化振興會編, Neue Wege zur Erforschung der ethnologischen Stellung Japans (日本の民族學的地位探求への新しき途)

移川子之蔵・宮本延人・馬淵東一『臺灣高砂族系統所屬の研究』※臺北帝國大学土俗・人種學研究 室調査 ; 第1冊: 本篇, 第2冊:資料篇、刀江書院, 1935

「二つの「ミンゾク」学※が袂とを分かったのは、柳田[国男]が一国民俗学を提唱した翌 年の、1935年(昭和10)年ごろのことである」[伊藤 2006:5]。※2つのミンゾク学とは、民俗学と民族学(戦後の文化人類学)のことである。

小金井良精「アイノの人類学的調査の思ひ出」『ドルメン』(1888:明治21年7月8 日〜9月3日の調査紀行:アイヌ人墳墓の学術的「盗掘」記録の傍証となる)

高橋新吉『蝦夷痘黴史考』。北海道帝大医学部・児玉作左衛 門による森村・落部村の遺骨盗掘。

足立文太郎の古希記念論集、複数の大学から出版される。

岡茂雄は、岡書院、梓書房を閉店。

Ryuzo Torii, Ancient Japan in the light of anthropology, Tokyo : Kokusai Bunka Shinkokai , 1935
1936 昭和11
4月1〜2日東京人類学会・日本民族学 会の第1回連合大会が 開催(大会会長:小金井良精。特別講演;F.Weidenreich(北京医学院) "Sinanthropus pekinensis as a Distinct Primitive Hominid";駒井卓(京都帝国大学)「遺伝学上より見たる日本民族の特徴」;移川子之蔵(台北帝国大学)「未開社會に於ける時の觀念」)。/日本民 族衛生学会が民族衛生協 会に改組される。

内村祐之・東京帝国大学医学部精神病学教授(〜1958)

3月7日付「金 関丈夫、台北帝国大学医学部第二解剖学 教室の教授に就任(1936年に台北 医学専門学校は台北帝国大学附属医学専門部に改組)。赴任は3月下旬と言われる」(→金関丈夫)

4月2日東京人類学会・日 本民族学会の第一回連合大会第二日目に小金井良精[1859-1944]「日本民族中の南方要素の問題について」を発表する。

5月 近畿民俗刊行会を改名し近畿民俗学会と改称。『近畿民俗』の刊行がはじまる。

鳥居龍蔵『考古學上より見たる遼之文化圖譜(1〜4)』東方文化學院東京研究所

柳宗悦、東京・駒場の自邸隣に日本民藝館を開設 (実業家の大原孫三郎の支援)
1937
1月、鳥居龍蔵『遼の文化を探る』章華 社。

3月29〜31日日本人類学会・日本民族学会の第2回連合大会が 開催(於:東京帝国大学理学部)大会会長:白鳥倉吉 (東洋文庫);シンポジウム「最近のアイヌ民族問題」

7月7日 盧溝橋事件(日華事変:〜1945年、中国と の軍事衝突の嚆矢)

日本民族学会が主催した千島樺太調査(岡正雄はそれに随行)。泉靖一がオロチョン調査。

旧土人保護法9条の削除 (「土人学校」の廃止)昭和10年代以降、同法が廃止されるまで、土地の無償下付はなかった。

保谷に民族学博物館開設(渋沢のアチック・ミュージアム(1921-1937)資料を移 管)

村山智順『部落祭』調査資料第四十四輯、朝鮮総督府、1937年

Rassenkunde der Aino / von Y. Koya ; unter Mitwirkung von Assistenten, T. Mukai ... [et al.], [Tokyo] : Japanische Gesellschaft zur Förderung der wissenschaftlichen Forschungen , 1937

矢内原忠雄『帝国主義下の印度』

移川子之蔵「琉球藩民の墓」。移 川はオランダに赴き、台湾のオランダ統治時代の資料を写真にして2万5千枚を撮影し、帰国後に整理して約200冊の「台湾史料」にまとめた。

石田英一郎(Ishida Eiichirō, 1903-1968)は、ウィーン大学に留学(〜1939年)

11月24日ニコライ・ネフスキー夫妻、処刑される。
【シノプシス】中村半次郎による https: //konoejsr.yukimizake.net/eiga-gionnoansatsu.html#chiheisen
「蒙古の国境近くを、遺跡調査のためにらくだに揺られながら旅する田所慎一・陽子親子に甥の弘一(慎一の弟の息子)とガイドの現地人親子。 風の吹き荒れる夜、設営されたテントの中で、陽子は父に、砂漠で亡くなった母の話を弘一といっしょに聞くのだった。 (回想シーン。十四郎のハルマ王が出てきますが、セリフはありません。) 慎一の妻は結婚当初から慎一といっしょに考古学の研究の旅をしていた。 田所夫妻は、平和なハルマ王の集落(?)で一時落ち着き、蒙古の人々のために学校を開き、日本語や勉強を教えた。 ハルマ王の王子は、特に語学に才能があり、日本語を覚えるのが早かった。 しかし、田所の妻は長年の無理がたたったのか、陽子を産んでからその地で亡くなってしまった。 その後、ハルマ王のもとを離れた慎一は、ハルマ王が外蒙軍の襲撃にあい、殺され、王子も行方知れずとなってしまったと聞いたのだった・・・。 日本の兵士(内蒙軍)に会い、外蒙軍が近くにいるから注意して旅をするようにと慎一たちは言われる。 ある日、ガイドの息子が、葉巻の吸い殻を見つける。それは、先ほど吸い終わって捨てたようなものであった。 そして自動車の轍も見つけた。 それらしき自動車が止まっているのを彼方に見つけ、双眼鏡で見てみると、そこにはハルマ王によく似た外蒙軍の若い兵士がいた。 慎一は、ハルマ王の行方知れずの王子に間違いないと思うのだった。 王子らしき兵士は、慎一たちのほうをじっと見ていたが、もう一人の兵士に無理に車に乗せられ、車は立ち去った。 その車が故障したのか、修理して立ち去るところをまた見つけ、弘一はあとを追いかけた。 車からは弘一に向かってピストルが発射され、弘一は撃たれて(?)気を失ってしまった。 その弘一を誰かが連れ去った。 一方、車を追いかけて戻ってこない弘一を、慎一・陽子は心配した。ガイドの息子が捜しに行くがみつからず、手がかりもつかめなかった。 慎一親子は寺院のある大きな町で、弘一の消息を尋ねるが、行方が全然分からなかった。 弘一は遊牧民の人々に助けられ、娘が介抱していた。 一方、外蒙軍の兵士たちの様子をうかがう王子らしき兵士。 兵士は脱走し、それを追いかける外蒙軍の兵士たち。 兵士は内蒙軍の陣営にきて、自分はハルマ王の息子と名乗る。 父のハルマ王は外蒙軍に殺され、自分は外蒙軍に連れ去られてしまったと言うのだった。 内蒙軍の隊長は王子が日本語がうまいので驚くが、王子は子どもの頃、田所慎一に日本語を習い、田所先生が近くに来ていることを知り、是非会いたいと言うの だった。 外蒙軍の動きが怪しいので、国境付近を偵察するため偵察機が飛び立った。 偵察機は弘一のいる集落の近くまで飛んできて、その音に気づいた弘一は持っていた日の丸の旗を振りつづけた。 日の丸に気づいた偵察機は着陸し、弘一に会う。 弘一は事情を話し、いっしょに偵察機に乗せてくれと頼むが、弘一を介抱している娘は、まだ傷が癒えないのに飛行機に乗るのは無理だと押しとどめた。 偵察機の兵士も弘一にここにいるほうが良いとすすめ、田所先生に連絡する旨約束して別れた。 外蒙軍はついに越境し攻めてきたが、見事、内蒙軍の働きで、外蒙軍を追い払ったのだった。 砂漠の中を行く田所親子、その中にはハルマ王子も一緒にいた。 皆で楽しい会話をし、王子は蒙古の人々の役に立てるようになりたいと抱負を述べた。 やがて着いた集落では、傷の癒えた弘一の明るい笑顔が待っていた。」

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