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フェミニズム理論からクイア理論へ:人類学的解釈

From Feminist theroy to Theories of Feminism/Queer Studies: An anthropological interpretation


What is Queer Theory?

池田光穂

1.差別と弾圧の歴史を書き換える

従来、女性は男性より劣るものと位置づけられてきた。しかし、現在では男性と女性の法的権利に関する点は、原則として男女平等が概ね達成さ れてくるようになった。

しかし、現実には男性と女性の賃金格差は存在し、「女だてらに」という差別語もいまでも平気で使う厚顔無恥な人たちがいる。女性が男性との 平等を勝ち得たというのは、未曾有の成果であると考えるほうが、得策である。なぜなら、どの時代にも歴史の螺旋を巻き戻すことを夢想する反動的な保守思想 の人は存在するからだ。

フェミニズム研究の上野千鶴子らによれば、フェミニズム理論とは20世紀最大の社会科学革命のひとつと、後の時代から指摘される可能性が高 いものと言われている。

今までの歴史を記述してきたのは男性なのだから、女性が女性のために人類の歴史を別のかたちで書き加えなければならないというのは、しごく 妥当性がある。カントの認識論においてすら、男性中心思想がみられるわけだから、女性の社会的平等化への過程は、まさに今始まったばかりであると言わざる をえない。

問題は、男女平等という今日では常識に近い理念が、かくも長い時間にわたって、人間社会の重要な議論とされずに、極めてゆっくりと達成され るにいたったのか。そのために、男性中心主義の社会において犠牲になった女性の数は数えきれない。もし、我々の常識をより日常的なものにするためには、我 々は、これからも長い時間をかけて、女性に対する不当な抑圧・弾圧・虐殺について検討し、このような当たり前の常識に到達するために、なにがそれを妨害し てきたのかについて考察を重ねていかなければならないだろう。

2.君のコミュニティで女性学を!

熊本には人間存在を捉え直す女性の思想家を数多く排出してきた。古くは高群逸枝(たかむれいつえ、1894-1964)。「男女の同志的一 本化」という理念を真正面から考え、実際の生活においてもそれを実践した人である。今日では実証という観点からは問題を含むものの、日本の古代における婚 姻における母系的要素の意味を探求した『母系制の研究』(1938)、『招婿婚の研究』(1953)、『女性の歴史』全四巻(1954〜58)は重要な著 作である。1931年以降、一切の家事を夫・橋本憲三にまかせ、自身は研究生活に埋没した。高群の研究の継続に橋本の支援は不可欠であり、彼女の超人的な 努力は、実際橋本なくしては実を結ばなかっただろう。高群と橋本が、現実の社会での女性と男性の社会的役割が逆転しているゆえに、この2人の関係を考察す ればするほど、当たり前と思われている男性の研究者や執筆者を支える女性の存在を忘却することが、いかに我々の日常生活では普通に行われているかというこ とを再認識される。

君の地元にも、男性と女性の権力関係の位相を変えようとしたヒロインやヒーローや英雄的クイアがいるはずだ!君のコミュニティで女性学を、 そして君のコミュニティでクイア学を勉強しよう!

3.セックスとジェンダー

セックス(sex)と日本語で表現すると性行為をさすことが多いが、社会学的 な分析においては生物学的性別——生き物におけるオスやメスの 区分に相当——のことをセックスという。これに対してジェンダー(gender)は、 社会的な性別の区分を指し示す専門用語のことである。ジェンダーとい う用語を使うことで、社会的に担われされている性の分業は実は歴史的に変化し、また同じ時代や社会の中でも多様性があることを我々に教える。つまり、男性 が家の外で働き、女性が家の中で家事をするという男女の役割分担の区分はジェンダーに よる区分である。なぜなら、現実には例外や全く逆転するものもあり、 それは程度の差はあるが容認されることもあるからだ。

〈男性らしさ〉と〈女性らしさ〉というのも生物学的に決まる——つまりセックスが支配する——こともあるが、その多くは社会的に定義され、 つまりジェンダーの違いであり。それらの中身は、異なった社会では場合によってはまっ たく逆転することすらあるという経験的事実はよく知られている。もち ろん、このような〈常識〉は過去半世紀から、アメリカの文化決定論とよばれる立場を信奉する文化人類学者——その代表はマーガレット・ミードで彼女には 『男性と女性』(1949年)という著作がある——たちによって、次第に明らかにされてきた。ミードはまた、アメリカの思春期における青年の男女の情緒不 安定の原因は生物学的なもの以上に、社会的なものが原因であると主張し、その証拠に思春期の葛藤がほとんど見られない南太平洋のサモア人の少女たちの事例 を証拠にあげた説明をおこなった。

ミードが『男性と女性』を出版した翌年の1950年にフランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、あらゆる人間集団にとって不可欠 な生殖にもとづく親族の再生産の問題を論じた大著『親族の基本構造』の中で、人間が社会を維持してゆくためには〈女性〉が親族の間で交換されなければなら ないと主張した。レヴィ=ストロースは、文化と自然という二項対立する概念をたてて、男性は文化の領域に属し、女性は自然の領域に属するから、文化による 自然の制御として説明を試みた。彼の議論は、人間の親族研究にとって大きな貢献をもたらすと同時に、さまざまな反発をうんだが、その反論のほとんどは理論 の妥当性をめぐってであり、女性がなぜ自然の領域なのかは、出産能力という生物学的な差異を乗り越える社会的説明をもたらすことができなかった。

しかし、親族を維持するための交換財、それがほからならぬ〈女性〉であるのはなぜなのか、という女性の観点からの批判は1970年頃になる まで登場しなかった。このような素朴だか至極もっともな批判的観点から、これまでの人類学的業績や研究されてきた民族誌資料の洗い直しという基本的作業か ら、今日フェミニスト人類学とよばれる潮流が生まれてきたのだ。

4.同性愛からクイア理論

セックスとジェンダーは別の体系であるので、セックスの区分の根拠とジェンダーの区分の根拠にはとくに深い結びつきがあるのではなく、むし ろそれらの関係は無関係であり、驚くべき多様性を生む点で、そこに必然性をもちこむ議論は早晩破綻する運命にある。しかし、自分たちの文化は他の文化より も優秀であるという自文化中心主義(→原語の翻訳に忠実にして自民族中心主義とも言 います)というものが、人間集団のほとんど自然な態度だと、我々が社会のなかで訓育されるように、人間はある特定の社会集団が用意するジェンダーの区分を セックスの区分以上に強固で変わりのないもののように理解し、それを取り扱う。

このような常識を解体するのが、異性愛に対する同性愛であり、さらに踏み込めば男性と女性の間を曖昧にするクイア(変態・おかま)の強烈な 存在である。同性愛が異性愛者にとっていかに奇妙でおぞましいものにみえようとも、同性愛の実践を禁止する根拠を見つけることは用意ではない。精神分析の 理論家たちによれば、人間の性愛のあり方はきわめて多様で多型なものであり、性愛のタイプの細かい分類作業を行えば、異性愛と同性愛の区分を大きく大別す ることは、あくまでも便宜的なものであり、人間の性愛のあり方の全体像からみれば、それほど有効な分別概念ではないということらしい。

むしろ性愛のタイプが、我々のタイプから逸脱すればするほど、その奇妙なことは大きくなり、やがて人間の性愛のタブーのようないくつもの仕 切があることが明らかになる。同性愛や変態というものが、社会の中で一定の存在を確保されている場合、それは奇妙で奇異なものであると同時に、我々が考え るに価する学問的対象になることは明らかだ。

クイアの議論は、また同性愛という乱暴な分類区分にも反省をもたらす。なぜなら、異性装(いせいそう、トランスベスタイド、 transvestite)——服装の倒錯——は、必ずしも同性愛的性行為に結びつくわけではない。服装の倒錯は、性的嗜好の倒錯と言えないこともあるこ とが、異性装から指摘することができる。

(それぞれの社会が規定する近親相姦というルールの外で)自律した人格をもつ人間——基本的には自己の責任のとれる成人を想定している—— 同士において性行為というものが自由におこなえるということを保証した際には、クイアの存在を否定するいなかる〈非クイア側〉の論理も存在しないことにな る。クイアの外的な定義は実は多数派である〈非クイア〉にゆだねられてきたために、クイアは〈非クイア〉の圏外に無関係に存在するわけではない。その時、 クイアは〈非クイア〉の多数派に対するマイノリティとしての権利を主張することになる。

クイア理論が、これまでの男性と女性のセックスとジェンダーの区分を支えてきた思想に対して反省的機能をもたらすことは確実である。あるい は、男性の権利に近づいてきた女性の権利平等の獲得が、男性のもつ権力的ポジションと単純な入れ替わりを目標とするものではなく、マイノリティの権利の保 証と発言権の要求であるとすると、クイアの存在は、男性が性的に支配してきた構造を別の形に移行させてゆくモデルにとっての試金石になるだろう。

男性と女性の人類学というものは、長い間の男性支配の社会の中で理論が誕生し、それなりにフェミニズム人類学にも影響を与えてきた。しか し、クイア理論のような、男女の性的指向(sexual orientation)の多様性・多型性を前提する議論以降、男性と女性を考察する人類学は、新しいステージに突入しつつあることは確実であるように思 われる。

5.フェミニスト人類学者の矜持(the pride for being feminist anthropologists)

ジェンダー批判の概念から、フェミニスト人類学者 は、宗教の[研究の]面において次のような批判が可能になる; 1.宗教における女性の周縁化と不可視化(=記述のなかに重要視されなかったり描かれなかったりする)はどうしておこるのか?、 2.男性中心的な宗教の解釈や、価値観を疑う視点の導入、 3.宗教が、ジェンダーを基軸にして、分割されていることに自覚的になること、 4.ジェンダーの区分による倫理規範を文化相対的に受け入れるのではなく、なぜそのような倫理的にコード化されるのかを疑う、 5.ジェンダー批判の内部の中での多様化に対して、きちんと立ち位置をしめし、論争に立ち向かう、ことの重要性など。

「アイシャ・ヒダーヤトゥツ ラーは、イスラームが本質的に平等主義でフェミニズムからの批判に耐えうるものであるという主張 を撤回することは、多くのムスリム女性を失望させ、さらにイスラームを性差別する宗教と批判した い人たちに燃料を与えることになる、と認めた上で、それでもなお学者としての誠実さを貫くことが、 クルアーン(コーラン)のフェミニスト的再解釈の将来を保証することになる、と強調している (Hidayatullah 2014:ix) Aysha A. Hidayatullah, Feminist Edges of the Qur'an. Oxford University Press.」

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