731部隊と石井四郎
The Uniit 731 and
Lieutenant general Shiro ISHI, 1892-1959
Major,
later General Shirō Ishii (1892-1959),
1892 石井四郎:0歳。6月25日千葉県山武郡芝山町(加茂)の地主 兼 酒造家である石井桂の四男として生誕する。
nd. 千葉中学(現・千葉県立千葉中学校・高等学校)、第四高等学校(金沢市)
1920 石井四郎:28歳、京都帝国大学医学部を卒業。指導教官は清野謙次(1885-1955):清野は1938年京都帝大の辞職後に 731部隊の病理顧問に就任。
1921 石井四郎:29歳、陸軍二等軍医(中尉相当官)に任官し、近衛歩兵第三連隊附。同年8月、東京第1衛戍(せいじゅう)病院
1924 石井四郎:32歳、京都帝国大学大学院に派遣(〜1926年3月);陸軍一等軍医(大尉相当官)に進級
大学院時代に微生物学教室の向かいにあった京大総長の荒木寅三郎の官舎を毎日訪ねてはその娘の浩子との結婚を懇請し、結婚に至った(常石敬一『七三一部隊』講談社、p.9, p82)
1925
「ジュネーヴ議定書では戦争時における化学兵器・生物兵器(細菌兵器)の使用禁止が規定された。ただし、開発・生産・貯蔵といった行為は禁
止項目ではなかった。日本政府はこれに署名はしたものの、上海停戦協定の成立後に五・一五事件で犬養内閣が倒れ、1932年5月、議定書の批准に至らない
まま、シーメンス汚職事件で海軍大臣を辞任した斎藤実の挙国一致内閣が組閣された」731
部隊)
1926 石井四郎:34歳、京都帝国大学大学院に派遣終了(3月);京都衛戍病院(4月より)
1927 石井四郎:35歳、京都帝国大学から医学博士号を授与。博士論文は「グラム陽性双球菌について」
1928 石井四郎:36歳、欧米出張を2年間命じられる。
1930 石井四郎:38歳、帰国(4月)。8月、陸軍三等軍医正(少佐相当官)に進級。陸軍軍医学校教官。
1932 石井四郎:40歳、8月陸軍兵器本部附 兼 陸軍軍医学校附(防疫研究室)。
8月、陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった
満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が
組織された。
1932(昭和7)年撮影の石井
1933 石井四郎:41歳、4月陸軍軍医学校部員。9月防疫研究室主幹。
秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた(秦
1999:554)。
1935 石井四郎:43歳、8月陸軍二等軍医正(中佐相当官)に進級。
1936
4月23日 当時の関東軍参謀長 板垣征四郎(1885-1948) によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」で関東軍防疫部の新設が提案され(下図)、同年8月には、軍令陸甲第 7号によ り正式発足した。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由 来する。この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。同時に、軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成。
石井44歳。8月陸軍兵器本部附(被仰 関東軍防疫部長)
東軍防疫部は、第二師団麾下(きか)にある。
1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人。
1937 石井四郎:45歳、2月陸軍武官官等表の改正により陸軍軍医中佐
1938 石井四郎:46歳、陸軍軍医大佐に進級(→「厚生省1938年」)
1939 石井四郎:47歳、兼 参謀本部附(4月)。同月、兼 中支 那派遣 軍防疫給水部長(〜1941年1月);
1939年5月11日、ノモンハン事件が勃発すると、野戦防疫給 水部長と して出動。7月8日から10日間、海拉爾、将軍廟方面にて防疫給水を指導。10月1日ノモンハン事件での防疫給水への貢献が評価され、石井が長を務める関 東軍防疫部は、第6軍司令官の荻洲立兵中将から部隊感状を授与され(衛生部隊としては史上初)、石井の顔写真付きで新聞報道(東京朝日新聞 1940年5月23日)。
「石井四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあ
たった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部
は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功章が贈られた。一方で、ノモ
ンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある」731部隊)
1940 【この年の後半は、中国大陸での細菌戦が実際におこなわれ、731部隊と659部隊はデータの収 集に動員されている】
部隊規模の拡張に応じるため平房(Pingfang District, ハルビン南方24km)に新施設がこの年に完成。
7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部 (通称号:満州第659部隊)」に改編された。そのうちの本部を「関 東軍防疫給水部本部(通称号:満州第731部隊)」と称するにようになる。
関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人
1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費を得る。
石井四郎:48歳、8月関東軍防疫給水部長 兼 陸軍軍医学校教官。関東軍防疫給水部は、帝国陸軍の慣習により、部隊 長の名を冠した「石井部隊」の通称名で呼ばれるようになる。
8月22日付「関東軍防疫給水部略歴」文書(山本 2016:220-222)
10月27日「寧波へのペスト菌攻撃は、低空飛行の飛行機から細菌をまく方法で行われた。この時使われたノミは、ペスト菌を持つネズミの血 を吸い「ペストノミ」となったものだった。ノミだけではうまく目的地点に到達しない恐れがあり、また着地のショックを和らげる必要もあって、穀物や綿にま ぶして投下した。11月3日までに37人が死亡し、華美病院の丁立成院長が、犠牲者の症状をペスト菌であると宣言している」731部隊)
11月「満州国の新京でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活 動し、流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めたとされる。しかし、この点についてシェルダン・ハリス(Sheldon H. Harris, 1928-2002)や解学詩(xie xue shi)『戰爭與悪疫 : 七三一部隊罪行考(Zhanzhen yu e yi)』は、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったと述べている」731部隊)
防
疫給水部(ぼうえききゅうすいぶ)【Epidemic
Prevention and Water Purification Department】
とは大日本帝国陸軍に置かれた、疫病対策を目的とした医務、ならびに浄水を代表するライフライン確保を目的とした部隊である。自然に存在する病原体に対し
ての防疫活動のほか、生物兵器に対する防護としての防疫も任務であった。また、軍直属部隊として常設されたものは、陸軍軍医学校と共同で生物兵器や化学兵
器の研究開発機関としての役割も担っていたとされる。 組織 防疫給水部は、各軍直属部隊や各師団隷下部隊として 編成された。師団の平時編制には含まれておらず、戦時にのみ臨時に動員された。第14師団のように、師団防疫給水部が復帰解隊され、師団野 戦病院の防疫給水班に縮小された例もある。独立部隊の野戦防疫給水部という編制もあり、軍直轄などとして運用された。 軍直属部隊として編成された例としては、以下のようなものがある。 関東軍防疫給水部(通称号:満洲第659部隊、所在地:平房) - 関東軍直属 防疫給水部本部(通称号:満州第731部隊 Unit 731)- 石井四郎(後、陸軍軍医中将)が創設し、「石井部隊」とも通称される。 北支那防疫給水部(通称号:甲第1855部隊(Unit 1855)、所在地:北京) - 北支那方面軍直属 中支那防疫給水部(通称号:栄第1644部隊(Unit Ei 1644)、所在 地:南京) - 中支那方面軍直属 南支那防疫給水部(通称号:波第8604部隊(Unit 8604)、所在地:広州) - 南支那方面軍直属 南方軍防疫給水部(通称号:岡第9420部隊(Unit 9420)、所在地:シンガポール) - 南方軍直属 それぞれ、水質の分析や薬品の取り扱いなど専門的な作業を担当する軍医・衛生兵と、水の輸送など一般的な業務を行う普通の兵科の将兵から成っていた。ま た、関東軍防疫給水部本部のような研究部門を持つ場合、研究員となる多数の民間医師などが軍属として加わっていた。 装備 飲用水を浄化殺菌するための濾過機や、浄化した水を前線の各部隊へ給水するための輸送車両などを装備していた。濾過機としては、石井四郎軍医(731部隊 創設者)が開発した石井式濾水機が主力のひとつとして使用された。 その他 1942年(昭和17年)06月03日 朝日新聞報道 ペスト撲滅隊が組織され涙ぐましい活躍続けている防疫給水班 |
1941
石井四郎:49歳、3月陸軍軍医少将に進級。
同年4 月、陸軍の全部隊に通称号が導入されたのに伴い、関東軍防疫給水部本部に「満洲第 731部隊」の通称号が割り当てられる(それまでは「石井部隊」)。同年11月、陸軍技術有功章を受章。
「浙贛への細菌攻撃では、1万人以上の被害が出た。コレラ患者を中心1700人以上が死亡したものの、犠牲者はすべて日本兵だった。被害に あった日本兵は上官から、「これは中国による生物兵器攻撃だ」と教えられたと供述している」731部隊)
1942
石井50歳、8月、第1軍軍医部長。
8月、関東軍防疫給水部長に北野政次(きたのまさじ:1894- 1986)が就任。
1943
石井四郎:51歳、8月、陸軍軍医学校附。
1945
石井四郎:53歳、3月陸軍軍医中将に進級。関東 軍防 疫給水部長に再任。
1945年5月、満洲第731部隊は「満洲第25202部隊」 と改称された。
厚生労働省の集計によれば、1945年(昭和20年)の終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)
1945年8月10日 大本営参謀の朝枝繁春(あさえだ・ しげ はる)は満州に派遣され石井四郎らに速やかに生物兵器研究の証拠隠滅を指示。
ソ連軍の侵攻を受けた満洲国を脱出し、内地へ帰還。この頃、石井は終戦メモを執筆。部隊関係者の一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜とな り、ハバロフスク裁判で戦争犯罪人として訴追される(→『細菌戰用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人 ノ事件ニ関スル公判書類』)。731部隊で人体実験の犠牲になった総数は、3000名といわれるのは、ハバロフスク裁判によるものといわれてい る。
USSR, The War criminal court report, 1950 written in Japanese.
1945
9月連合国軍最高司令官総司令部(Supreme
Commander for the Allied Powers):
アメリカ太平洋陸軍総司令部(GHQ/U.S. Army Forces, Pacific) の命でつくられた科学情報調査団(Scientific
Intelligence Survey to Japan、団長カール・コンプトン、通称コンプトン調査団)が編成。
11月1日付「サンダース・レポート」マレー・サンダース(Murray Sanders, 1910-1987) は、アメリカ合衆国の細菌学者、軍医、アメリカ陸軍中佐。のちのコロンビア大学細菌学教授)による第1次731部隊調査(同年9月-10月)。
「1945年9月、アメリカ太平洋陸軍総司令部(GHQ/U.S. Army Forces, Pacific) の命でつくられた科学情報調査団(Scientific Intelligence Survey to Japan、団長カール・コンプトン、通称コンプトン調査団)の一員として横浜に上陸。元軍医内藤良一や政治家亀井貫一郎を窓口に、関東軍防疫給水部本部(731部隊)の本格 調査に入った。紹介された関係者を尋問しても、みな実態についてほとんど何も知らないことに業を煮やし、連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部部長チャールズ・ウィロビー(Charles Andrew Willoughby, 1892-1972)を介して連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーから731部隊の戦犯免責の保証を得て[5]、内藤に対し「皆がもし真実を語るならその秘密を守り戦争犯罪人として訴追しないことを約束する」 と述べた[6][7]。内藤らとの交渉ののち、アメリカ合衆国旧陸軍省による継続調査を経て、人体実験の資料など研究成果の提供を交換条件に731部隊関 係者は戦争犯罪に問われないこととなった[5][注釈 1]。サンダースは1983年のインタビューで、内藤との交渉の際人体実験はしていないと再三言われこれを信じていたが、最近真相を知って彼に裏切られた 思いだ、と述べている[5]。同年10月に日本での調査を終え帰国、11月1日付で調査報告書(「サンダース・レポート」)をアメリカ国防総省に提出した [8]。」サンダース)ただし、これには部隊組織や実験内容を詳述、人体実験への言及なし。
Vol.02,
Vol.03,
Vol.04,
Vol.06,
1945年12月、予備役編入
1946
石井四郎:54歳、極東国際軍事裁判(東京裁判:1946-1948)において戦犯容疑を問われたが、詳細な研究資料を提供したため、 GHQのダグラス・マッカーサー最高司令官とチャールズ・ウィロビー少将の協議によって訴追を免れた。
5月31日付「ト
ンプソン・レポート(Arvo T. Thompson, Report on Japanese Biological Warfare (BW)
Activities, Army Service Forces, 1990 - Biological warfare - 42 pages)」
「第2次 - 責任者 アーヴォ・トンプソン(Arvo T.
Thompson)、1946年5月31日付「トンプソン・レポート」、部隊組織や実験内容を詳述、人体実験への言及なし」
1947
6月20日付「フェル・レポート」「第3次 - 責任者ノーバート・フェル(Norbert H. Fell)、1947年6月20日付「フェル・レポート」、人体実験への言及あり」(United States Responses to Japanese Wartime Inhuman Experimentation after World War II: National Security and Wartime Exigency)
12月12日付:「第4次 - 責任者エドウィン・ヒル(Edwin V.
Hill)、1947年12月12日付「ヒル・レポート」、人体実験への言及あり」(Japan's Wartime Medical
Atrocities: Comparative Inquiries in Science)
「米軍の細菌戦研究機関キャンプ・デトリック(現フォート・デ トリック;Fort Detrick) のノーバート・フェル博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、日中戦争において、浙贛作戦(1942年)などで12回の生物兵器の使用が あったとする。また、ペスト菌汚染された蚤を空中散布した、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者も複数存在す る[20]。部隊長石井四郎軍医は、フェル博士による尋問で炭疽菌の効果について次のように語っている。「炭疽菌についていえば、もっとも有効な菌である と確信しました。量産できるし、抵抗力があって猛毒を保持し、致死率は80%〜90%にのぼる。最も有効な伝染病はペスト、媒介節足動物による最も有効な 病気は流行性脳炎であると考えました」[21]。一方、田中淳雄少佐は尋問で、1943年に防疫研究の余暇を使ってペストノミの増殖の研究を命ぜられたも のの、ペストノミの増殖に不可欠な白ネズミが不足していたことから、ペストノミの大量増殖は不可能であったと供述している」731部隊)
These workers are standing outside the “8-Ball,” a
1-million-liter sphere used for testing static aerosols of biological
agent preparations during the United States’s offensive biological
warfare program. The building enclosing the 8-Ball and its supporting
infrastructure were destroyed by fire in 1974. The sphere remains today
as a historical monument at Fort Detrick, Frederick, Maryland.
1949
石井四郎:57歳、公職追放(総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、36ページ、1949年)
1949?
石井四郎:57歳ごろ「新宿区内で医院を開業し、近隣の住民が怪我や病気になると無償で診療を行った」“Daughter's Eye View of Lt. Gen Ishii, Chief of Devil's Brigade”. The Japan Times
1953
4月10日河本大作による証言
「満洲事変勃発後の一九三三年頃、関東軍副参謀長石原莞爾少将が研究再開を進言し、同時に牡丹江付近で研究と実験を行なうよう提案した。こ うして関東軍によってこの研究がはじめられたのである〔中略〕石原莞爾は苫のことについてかたく機密を保持していた。(中央档案館ほか編『証言人体事件 ——七三一部隊とその周辺』同文館、五九頁)」
1959
2003 ジャーナリスト青木冨貴子により、石井本人が1945年に書いた大学ノート二冊に及ぶ「終戦メモ」が発見。
2011
「1940年の新京や農安でのペストの大流行が、731部隊の細菌散布により起きたとする元731部隊所属の金子順一軍医の「論文集(昭和 19年)」が、2011年に日本の国立国会図書館関西部で発見。……論文では、1940年6月4日に日本軍が農安(吉林省)でノミ5グラムをまき、1次感 染8人、2次感染607人の患者が発生し、同年10月27日には寧波で2キロ軍機から投下し、1次・2次感染合計1554人、41年11月4日には常徳に 1.6キロ投下し、2810人を感染させ、6つケースの細菌戦では感染者は計2万5946人に上ったと報告している。また、投下した年月日はこれまで判明 していたものと一致している」731部隊)
「渡辺延志【→731 部隊 埋もれていた細菌戦の研究報告―石井機関の枢要金子軍医の論文集発見 (PDF) 、『世界』830号岩波書店、2012年】は、2011年の金子論文発見によって、731部隊の細菌攻撃は新京から60キロの農安で始まり、農安から持ち 込まれた犬が入院していた新京の日本人経営の犬猫病院を起点として、新京でのペスト流行が拡大していったもので、日本軍による細菌攻撃であったと述べてい る」731部隊)
2016 山本武利「対ソ・インテリジェンス機関としての731部隊の謎」『日本のインテリジェンス工作』Pp.218-235、新曜社、
2016。
2018 国立公文書館に保管されていた、1945年1月現在の所属全3605人(軍医52人、技師49人、看護婦38人、衛生1117人他) の氏名・階級・当時の連絡先が記された名簿が開示
2020 細菌戦「731部隊」の新資料発見 「ないはず」の戦後公文書 細菌生産を明記(京都新聞 2020年2月7日)
「第
2次世界大戦中に細菌戦の準備を進めた旧関東軍防疫給水部(731部隊)について、戦後に日本政府が作成した公文書が6日までに、発見された。京都帝大な
どから派遣された医師らが人体実験を行ったとされる731部隊について、政府はこれまで国会で政府内に「活動詳細の資料は見当たらない」と答弁をしてお
り、発見した西山勝夫滋賀医大名誉教授は「まだまだ731部隊に関係する資料が埋もれている可能性がある」と話している。
/発見された公文書は戦後5年目の1950年9月に厚生省(現・厚生労働省)復員局留守業務第三課が作成した「資料通報(B)第50号 関東軍防疫給水
部」との文書。西山名誉教授が昨年11月、国立公文書館から開示決定を受けた。文書は計4ページあるが、もっと分厚い資料の一部だった可能性がある。戦後
中ソに取り残された元731部隊の軍医や軍人らの状況を把握するために作成された資料で、「関東軍防疫給水部の特異性 前職に依る(サ)関係者が多い」と
書かれている。
/うち1枚は「関東軍防疫給水部行動経過概況図」と題された縦約90センチ、横約60センチある大きな図面。「防給本部」について「部隊長 石井四郎中将
以下約1300人内外 本部は開戦と共に全部を揚げて北鮮方面に移動すべく」などと満州(現・中国東北部)から日本に帰国するまでの経路が図説され、本部
第一部が細菌研究、第四部が細菌生産などと部隊構成も記載されている。
/図は大連支部や牡丹江支部、ペスト防疫部隊など、関東軍防疫給水部の各支部がソ連参戦時にどういう部隊構成だったか、武装解除や敗走経路、ソ連に抑留さ
れた人数や指揮官の氏名、中国側に残留している人数なども記載している。731部隊はハルビン近郊にあった本部と実験施設を爆破し研究資料も廃棄処分した
とされるが、撤退の経路が日本側公文書で裏付けられるのは初。731部隊の本部では日本に帰国し、戦後の医学界や製薬会社で活躍した人物が多いが、今回の
資料で各支部は混乱した状況だったことも明らかになった。
731部隊の生体実験やペスト菌散布などを示す戦時中に作成された文書や論文は国内や中国で発掘が相次ぎ、占領期に米国が石井元731部隊長や解剖した医
学者らに尋問した調書も機密開示されているが、戦後に日本政府は731部隊について「調査しない」との見解を繰り返しており、公文書が存在した意義は大き
い。
/日本政府は、731部隊のペスト菌散布を裏付ける金子軍医少佐論文(1943年付)が国会図書館関西館(精華町)で発見された際も、2012年の国会答
弁で「政府内部に資料が見当たらないのが実態」と答弁している。」https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/155056
++
《余滴》
石井四郎の受洗:「死の直前、父は上智大 学の学長になられたヘルマン・ホイヴェルス神父に洗礼をお願いしていました。ホイヴェルス神父とは戦前 から個人的に親しかったのです」(娘・石井春海の発言)猪野修治「書評:ピーター・ウイリアムズ/デヴィド・ウォーレス『七三一部隊の生物兵器とアメリカ −バイオテロの系譜』(西里扶甬子訳、かもがわ出版)/書評:西里扶甬子著『生物戦部隊731−アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪』(草の根出版会、 2002年5月7日)/2004年9月15日『化学史研究』第31巻第3号(通巻108号)掲載」朝日新聞 2007年6月12日にも掲載。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/shonan/peter.htm
◆クレジット:グローバル化する近代医療 と民族医学の再検討:近代合理化の袋小路
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■731部隊は果たして悪魔集団だったのか?(常石敬一)
「「“デュアルユーステクノロジー(dual-use technology)”といって、軍事的な目的にも、日常の民生的な目的にも使える技術を開発しようという流れがあります。 731部隊で石井の右腕だった内藤良一(Ryoichi NATOH, 1906-1982)に、私はインタビューしたことがあります。1981年、自宅を訪ねると、彼はあらかじめ鉛筆書きのメモを用意してい ました。そこには、731部隊の成果として、『乾燥人血漿(輸血代用)、濾水器、ペ ニシリン(碧素)、BCG(乾燥)、ペストワクチン、発疹チフスワクチ ン、コレラワクチン、破傷風血清』と書かれていました。/彼は、これらの成果は軍事目的で開発されたが民生用としても役立っていること、今 でいえばデュア ルユースであることを伝えたかったのでしょうが、それはあくまでも結果論でしかないのです。/そもそも、それらはすべて世界ですでに開発されていたもの で、 戦争で鎖国状態になっていたから自前の開発が迫られたというだけのものではないでしょうか(「731部隊の生物兵器研究は果たして役に立ったのか?」)。 戦争のために、そうした無駄な研究に優秀な科学者の頭脳が使われるとすれば、それこそ無駄なのではないか、と思うのです。/第2次世界大戦でナチスドイツ は毒ガスを開発しながら使用しませんでした。それはヒトラーが第1次大戦でマスタードガスでひどい目に遭ったからという話もありますが、ひとつには当時ア メリカで有機塩素系の論文が出なくなったから、ということもあります。ナチスドイツが開発していたのは有機リン系の毒ガスでしたから、ヒトラーはアメリカ は有機塩素系の毒ガスを開発しているものと思い、使用を取りやめた。しかしアメリカが開発していたのは、発疹チフスの流行を抑えるためのDDTだったんで す。/生物兵器を開発する過程で自らの身を守るためのワクチンが生まれる一方、病気の蔓延を抑えようとして薬品が開発される。どちらが本来の目的なの か」」(出典:「常石敬一神奈川大学名誉教授「731部隊とは」(その4)」 大学公開講座の情報検索)
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