Grave robbery in Japan
『沖縄タイムス』2021年9月21日掲載から一部転載
「私は文化人類学者として遺骨収集とは無縁な人生を歩んできたが、大学院では医学研究科に属し、文化と健康を扱う医療人類学という専攻をしてい る関係で、今般の遺骨問題は対岸の火事のように思えない。また遺骨問題は研究倫理という学者の過去の非倫理的行為にどのように向き合うのかという課題を私 たちにつきつける。例えて言うのなら、過去の非人道的な実験で得られた資料が、仮に将来の人類のために役立つものとして、そのような資料に対してどのよう に向き合うのかということである。これは私自身の責任の立ち位置を明らかにするだけでなく、教壇に立ったときに次の若い世代の学生にどのように教育し、そ の負の歴史から反省するのかということにつながる。
過去の人骨の収集に従事した研究者たちの書き物や日記をみると、多くの者が学問的に収集は正当化できると考え、実行に踏み切っているが、何らか の後ろめたさを持っていることは事実である。それは、あきらかに人骨収集に反対する学者には事前に探りを入れて、そのような人を巻き込むことをしていない ことでもわかる。このような態度は、現在でも一種の道徳的な後ろめたさあるいは精神的負債のように存在している。
それは罪の感覚よりもかつての反倫理的なものとつながっているという感覚すなわち「連累」と表現すべきものだ。ここでの連累とは、自分は人骨を 発掘したり盗骨したりしなかったが、それを使って研究している。あるいは、そのような道徳的な被害にあった人たちと、全く別のテーマではあるが、人間的に 付き合い、骨のデータは使わないが生活誌に関わる情報を教えてもらい、それを使って論文を書いたり発表している、という感覚のような連なりのことをさす。
このような不全感を解消するためには、地域研究者はいったい何をすべきであろうか。研究成果を地元に還元することは言うまでもない。だがその研
究成果が知識や認識として流通し具体的にどのように還元しているのかという評価についての公の議論は寡聞にしてきかない。過去におこなわれた「学問の暴
力」についての歴史をきっちりと地元の人に伝えることも重要な作業である。そして地域研究者と地元の人たちのあいだで過去の連累に関する「対話」を繰り広
げられることが望ましい。松島さんたちの活動に私が興味を寄せ、後塵を拝しながらもついていけるのは、そのような開かれた姿勢があるからなのである。」
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