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大東亜民俗学の噂としての『台湾民俗』の真

Reality and Fiction of the Great-Asian Folklore in Formosa

池田光穂

ピン クの枠内はすべて、植野(2012)からの引用である。『民俗台湾』(1941-1945)

池田敏雄・金関丈夫『民俗台湾』=当事者たち
人種主義的植民地主義批判派
再考派
「皇民化で変化を余儀なくされている在来の習俗を一人の人間だけで細々 と採集するのではなく、大勢の人が参加し、方々の習俗を記録、収集することができるように、そのための雑誌を刊行したいという意向であっ た」[池田鳳姿 1990: 23]。「台湾人の慣習を扱うのに冷たく上から下を見おろすようにして調査を進めるのか、愛情をもって民俗採集するのかでは全く質が違うものに なると強調」[池田鳳姿 1990: 24]「まもなく太平洋戦争も始まろうとする1941年 7 月に、台湾の旧慣を記録しようとして発刊 された『民俗台湾』は、呉密察が指摘するように[呉 2002: 162]、急進的 な皇民化運動の見直しを しようとする、植民地政府の皇民化政策の転換の隙間をぬってタイミングよく現れてきたもの」(植野 2012:100)
川村は、人類学者金関丈夫の優生学的研究がレイシズム的であり、柳田国男との座談会での言説などから、彼が「大東亜民俗 学」をめざしたとし、当該誌は「台湾趣味」というエキゾチズム(あるいはコロニアリズム)に惑溺した人々によるものであるとして批判した[川村 1996: 5-13、118-139]
三尾裕子は以下のように反論している。つまり、皇民化政策に総論として 賛成することが『民俗台湾』の存続の最低条件であったような当時の研究をとりまく状況を考慮せず、また明確な抵 抗以外の言説を植民地主義的であると断罪し、自らを安全地帯の高みにおいたまま批判するのは、 「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯しているとしている[三尾 2004、2006]。(植野 2012:101)

三尾裕子は以下のように述べている[三尾 2005: 152-153]。『民俗台湾』においては、大東亜というものが具体的にどこを指すか については、ほとんど論じられていない。しかし、金関は、ブーゲンビルの伝承を 4 巻 1 号(1944年1 月号)から 3 号にわたって紹介した後の編集後記で、ブーゲンビルの伝承と日本の古代の伝承に似 ているところがあり、同じ説話文化圈にあり、この島をアメリカやオーストラリアの支配下にゆだね ておくことは不適当としている。金関は、大東亜の諸民族は単なる利益共同体ではなく、民族心理の 交感を基調とする高い意味での共同体であるべきとしており、金関が「大東亜共栄圈」に文化の類縁 性という実体を付与しようとしていたことが読み取れると、三尾は論じている。(植野 2012:101)
編集後記のなかで金関は、「わが国の民俗学者が、眼を広く大東亜に開い て、大東亜 民俗学の達成に機運を向けつゝある現状は、当然のことであり、愉快なことである。台湾の民俗学徒 はこの大機運の達成に貢献すべき責務を痛感しなければならない。台湾民俗の研究は、単なる台湾だ けの問題ではないのである」と述べている。しかし、その後、『民俗台湾』において、大東亜民俗学を目指す研究は実際的には行われていないのである。(植野 2012:102)

1944年 5 月に発行された 4 巻 5 号(35号)の巻頭語として、編輯部によって「台湾民俗研究の特殊 課題」が著されている。そこでは、『民俗台湾』が、大東亜民俗学の一部門としての台湾民俗学の研 究が中心となることは自明のことであるが、「従来とは異る特殊課題が課せられてゐる」とし、それ は、内台間の習俗文化の交渉による生活上・思想上の同化の様式を正確に捉え、記録し、日本文化の 発展のための資料とすることであると述べられている。同年 9 月発行の 4 巻 9 号(39号)の「奉公運 動と台湾の民俗研究」と題した座談会でも、台湾において変化していく「内地文化」、また「本島 側」「内地側」に新たに取り入れられたものへの関心が語られている。(植野 2012:102)
小熊英二も、金関丈夫の研究を植民政策と連結した優生学的なものとしてとらえ、『民俗台 湾』の発刊計画は、民族優生政策構想のための手足となる協力者と組織の必要性を感じていた金関にとって、渡りに船となり、彼はその優生政策論を隠して、 『民俗台湾』に参加していたと論じている[小熊 2001]
ツー・ユンフイ[TSU 2003]の研 究である。ツーは、『民俗台湾』は、行きすぎた同化を牽制して台湾の文化を保存すると同時に、同化を進める側面を 持っていたとする。そして、この雑誌の参加者は、日本人と台湾人ではあるが、彼 らはある部分では同等ではない。つまり、彼らはみな日本語で書き、しばしば日本を起源とする調査 のモデルに言及していることを、ツーは述べている。この指摘は重要であり、『民俗台湾』につい て、座談会などの言説に基づくのではなく、実質的なその研究姿勢や研究活動の実態から、当該誌の 目指したものを考えようとしている。(植野 2012:101)

『民俗台湾』で論じられた研究方法に関して、ツーは、以下のような指摘を行っている[TSU 2003: 193-194]。民俗学的研究の必要性は、二つの理由によって強調された。一つは、台湾における民俗学 的研究が、 salvage exercise であったこと、もう一つは、民俗学者は、「事実」を記録することに努力 すべきであるとされることである。『民俗台湾』では、台湾の民俗学的研究は、資料収集の基礎的段階にあるとしている。最も基本的かつ緊急の責務は、「在る が儘に」記録を残そうとすることである。 そして、客観的記述の強調は、共通の、標準的な方法論の追求へと導かれる。『民俗台湾』において、柳田国男・関敬吾著『民俗学入門』(『日本民俗学入門』 ―筆者)が、資料収集の有効な手引きと ならないかと挙げられ、また、一定の質問事項を設けることへの要望が出されていること、さらに金関が柳田に指導を請うていることを、ツーは指摘している。 しかし、客観的方法の追求は、共通のテーマで調査をすべきであるという非公式の見解を生んだに留まり、国際共同研究の呼びかけも、台 湾の全ての民俗学徒のために資料収集の方法を基準化しようとするこの雑誌独自の目的とはかけ離れ たものであったと、ツーは述べている。(植野 2012:102)

1943年10月17日に柳田邸で行われた柳田国男を囲んでの 座談会であり、12月に発行された『民俗台湾』 3 巻12号(30号)にその内容が「座談会 柳田国男氏 を囲みて―大東亜民俗学の建設と「民俗台湾」の使命―」と題して掲載されている。中村哲(台北帝 大教授)と金関丈夫が上京した機会に、柳田を囲む座談会が催されたものであり、他には、以前に台 北帝大で教鞭をとり『民俗台湾』に関わった岡田謙(東京高師教授)、そして『民間伝承』編集者橋 浦泰雄が、出席している。(植野 2012:102) 池田敏雄に対しても、池田が『民俗台湾』の編集後記において、「風俗、 習 慣再検討」に基づいた「生活様式の改善」、つまり「文明化」を肯 定していると、坂野徹によって論 じられている[坂野 2003: 60]
 『民俗台湾』では、古稀記念会によって書かれた、「我日本 民族」「我が民族」をそのまま使えず、 「我が国」と書かざるを得なかったところに、台 湾と日本本土との距離が表れている。日本本土の民 俗学徒にとっては、指導の地位に立つ「我日本民族」は違和感のないものであったろう。しかし、台 湾においては、「我が民族」とは何なのか、その答えは簡単ではない。この齟齬を、日本の中央にいる民俗学者が気づくことは難しい。(植野 2012:106)
1943年 4 月発行の 3 巻 4 号(22号)に掲載された「民俗台湾」編輯座談会 においても、調査研究 方法が、論じられている。陳紹馨は、『民俗台湾』に民俗採集記事の模範を載せること、また『民俗 台湾』で採集の指導をする必要があるとする。そして、陳は、金関丈夫が奉公会 から依頼をうけた 医療の俗信の調査について、具体的な質問項目を決め一般から回答を求めてはどうかと提案する(後 述)。『民俗学入門』の質問条項は、そのまま当てはまらないが非常によい手がかりであるとも陳は述 べる。金関も、調査の回答は、奉公班を通じて集めることにしていると述べているが、さらに雑誌の 読者以外にも、官庁や学校の先生を通じて一般から回答を求めることの可能性を示唆している。これ について、池田敏雄は、質問表の回答のための講習会をしたらどうかと述べる。金関は、調査のため の講習をやるとするならば、柳田国男などにやってもらうことになるが、日本の民俗と台湾の民俗は 違うので、柳田の方法論が直ちに役立つかと疑問を投げかける。ここで、注目しておくべきは、金関 は、この座談会では、「台湾の民俗を調べると云ふことは、日本の民俗学とは直接繋りはない。どつ ちかと云ふと支那の民俗学のブランチになる。」と述べていることである。(植野 2012:104)
台湾の民俗研究が、日本の民俗研究の方法、テーマに倣って台湾での研究 を行おうとしていたこと は明らかである。しかし、実際に日本本土の調査項目で調査しようとしてできなかったことは、池田敏雄が行った調査が示す通りである。台湾の民俗研究を日本 本土の枠組みで捉えようという時局に即 した志向はあっても、実態としては、それはあり得ないことである。「日本」、「大東亜」という枠組 みを台湾に当てることの困難さを、『民俗台湾』の研究方法とその研究活動が示しているといえよう。(植野 2012:108)

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池田蛙