澤瀉久敬
おもだか・ひさゆき:Hisayuki OMODAKA, 1904-1995
——「大変キザな言い方ではございますが『澤瀉は自分を語らず』というのが私の今ま
での生き方でありました(1974年)」(澤瀉 1984:154)
1897 勅令第209号により京都帝国大学がうまれる。
1904 伊勢市に生まれる。
1906 京都帝国大学文科大学(文学部の前身)が設置
1919 京都帝国大学の法・医・工・文・理の各分科大学が学部に改称される。
1929 京都大学哲学科卒業(指導教官は九鬼周造教授『「いき」の構造』は1930)。同年九 鬼周造、フ ランスより帰国。
1931 大阪帝国大学が設置
1935 仏政府招聘留学生:留学中、久保秀雄と親交を結ぶ
1936 『メーヌ・ド・ビラン』西哲叢書第 弘文堂, 1936
1937 久保秀雄(1902-1985)は中川知一教授の後をついで阪大生理学教室教授とな る。第9回国際哲学会(デカルト「方法序説」出版三百年)に出席。その後、帰国
1938年,京都帝国大学文学部講師。
1941年(→「国家国防医学」の カリキュラムについては「中 川米造」の項目を参照)
大阪大学医学部にわが国最初の「医学概論」の講義(久保秀雄教授)が4月より開講され,その 講義 を担当して退 官まで続講。1年生を対象にした「医学の哲学」開始。澤瀉の主張によると、医学概論は、医学の哲学であって、(医学部の伝統的な)「医道論=医学の倫理 学」ではない(澤瀉 1984:136)。久保はまず、医学概論を構想し、それを「国家国防 医学」のカリキュラムの中にねじ込み(当時の医学部長は佐谷友吉)、 教授会での通過後に、奉書をもって澤瀉に依頼したらしい。澤瀉の述懐によると、この晴天の霹靂に当惑し、久保の再三の申し入れにも関わらず断ったが、「科 学概論」を先んじで上梓していた田辺元教授が澤瀉を説得して、常勤講師として教壇に立つことをようやく本人(=澤瀉)は認めたらしい。
1941-1944 この間、久保 の生理学講義、人体解剖の見学、実習講義や回診などに立ち会うなど、真摯に自分なりの「医学概論」を構築していったのだろう、と思われる。
1944年 澤瀉は、医学概論(医学哲学)の講義を通して医学理論の哲学的考察によ
り、この頃「医学の哲学」を構想する(佐藤 2011:117)。
1945年
『医学概論 第1部 科学について』1945年10月に出版。この本は戦争中は澤瀉の述懐(1984:137)によれば発売が予定されていたが禁止措置になり、 戦後に出版が可能になったという。検閲制度の骨子は「著作物は、出版法による文書、図書を発行したときは発行3日前に内務省[警保局、図書課]に製本2部を納本する必要があり……。検閲にあ たって当局は、内容が皇室の尊厳を冒涜し、政体を変改しその他公安風俗を害するものは発売頒布を禁止し、鋳型および紙型、著作物を差し押さえ、または没収 することができた」という(典拠)。初版1万部が売りきれる。佐藤 (2011:117)によると、これは当時の医師数の 1割にあたる数字だという。久敬の14才年長の兄は万葉集研究者で京都帝国大学の澤瀉久孝教授。
1947 『仏蘭西哲学研究』創元社
1948 大阪帝国大学法文学部の創設[翌年、新制大学文学部に昇格]
※この時に、今村総長より文学部に移るとすぐに教授になれると言われ、澤瀉は激昂して「教授 になることが目的でない」旨の反論をする。今村はこのことをしばしば述懐する(澤瀉 1984:137)。
1949 『医学概論
第2部 生命について』創元社, 1949、のち同 生命について 誠信書房
1950 『医学と哲学』創元社/『デカルト』弘文堂・アテネ文庫
1954 大阪大学文学部教授(哲学哲学史第一講座)※当時の総長は「今村荒男(内科)」/中川
米造、大阪大学医学部講師(衛生学講座)に就任。
1955 『科学入門 ベルクソンの立場に立つて』角川新書
1957 医学概論特論「病者論と医師論」(澤瀉)/『哲学と科学 :十三のコーズリ』宝文館, 1957 真理への意志 : 哲学と科学についての十三のコーズリ / 沢瀉久敬著, 東京 : 角川書店 , 1958. - (角川新書 ; 134)
1957年6月「大阪大学医学部教授会に呈するの書——医学概論管見」を阪大医学部教授会に 提出する。
「大阪大学医学部教授会は昭和32 年5 月22
日の会議において、昭和33 年度概算要求に関
して、33 年度講座新設要求の第1 位に栄養学講座を置き、医学概論を第2 位と決定されま
した。過去3 ヶ年に渉って第1 位であった医
学概論を本年に至って第2 位とせられたこと
について、医学概論講義担当者である私は不
可解の念を禁じ得ませぬ。私の疑問に対して
は、それは多数決によって決定したものであ
ると答えられるでありましょう。併し、数の
多少は必ずしも理論の正否を示すものでない
ことは申すまでもありません。2 つ或いは2 つ
以上のものが比較判断されるためには、先ず、
その各々のものが正しく理解されておらねば
なりませんが、今回の教授会において医学概
論はいかなるものとして理解されたのでしょ
うか。医学概論について先ず明確な知識をも
つことなくしてはそれに対する判断も不可能
であった筈でありますが、現在の医学部教授
会はそれをいかなるものとお考えなのでしょ
うか」(野村 2008:5)
1958 医学概論特論「社会医学の基礎的問題」(澤瀉)
1959 医学概論特論「健康の科学としての医学理論」(澤瀉)/『医学概論 第3部 医学について』東京創元社, 1959、のち同 医学について 誠信書房
1960 澤瀉久敬、大阪大学より医学博士授与(内容は「医学概論」の著作)
1961 『「自分で考える」ということ』文藝春秋新社, 1961 のち角川文庫、レグルス文庫, 1991
1964 『医学の哲学』誠信書房
1965 「医の理念」講演、第15回日本病院学会特別講演
1966
3月 生理学第一教室の久保教授の退官。「医学概論」の世話教室は衛生
学教室となる。澤瀉は8月に大阪大学文学部長に就任。/Le problème de la contingence / Kuki Shūzō ;
traduction et introduction par Omodaka Hisayuki, 東京 : Éditions de
l'Université de Tokyo , 1966(この翻訳はユネスコによる依頼で、東京大学出版会から出版)
1967 『医学と生命』東京大学出版会[UP選書]/『哲学と科学』日本放送出版協会[NHK
ブックス], 1967
1968 定年退官。その間,京大,東大,九州大などで講義を行う。医学部において最終講義。澤 瀉久敬・大阪大学を定年退官、南山大学教授 に就任。/『考えるということ』雄渾社 1968/『ベルクソンの科学論』学芸書房, 1968 のち中公文庫
1971 『医の倫理:医学講演集』誠信書房
1972 『個性について』第三文明社[レグルス文庫], 1972
1976 『健康を考える』第三文明社[レグルス文庫], 1976
1978 『形』中央公論社, 1978。主に鉛筆画集
1980 『健康について』聖教新聞社, 1980
1981 『増補 医学の哲学』
1984 『わが師わが友 その思想と生き方』経済往来社 1984
1987 『医学概論とは』誠信書房, 1987/『アンリ・ベルクソン』中公文庫, 1987
1988 『神道随想』皇學館大学出版部, 1988(→三重県立図書館OPAC)
1995 死去
2002 澤瀉久敬蔵書目録 / 天理図書館編, 天理大学出版部 , 2002
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著作一覧
◎編著
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序論「医学概論」の進む道
「今日我国は未曾有の重大期に直面している。諸君の先輩や今までの級友の多くがすでに剣を取って 第一線にあり、すでに護国の神となられた方もあるであろう。このような、一刻の猶予も許さぬ時期に当たって、純粋な理論の学と思える医学概論というような 学科を学ぶ必要がどこにあるであろうか。一切が行動を要求している現在、思索や反省に時を費すことがはたして許されるであろうか。もちろん、このような じっとしておれない愛国の熱情に対し我々は深い敬意を表しなければならない。しかしながらそのような人は、なぜただちに行動に移らないので/あるか。諸君 はなぜ大学に入学されたのであるか。」
「それは決して諸君に憂国の情が無かったからではない。まして諸君は第一線を避けて一時の平穏を 大学に求められたのではない。国家が諸君に学問の探究を命じているのである。現在の諸君には勉学することこそ報国の道である。したがって、一旦大学の門を くぐられた以上、あくまでも理論の厳密さを追求し、学問の道に精進されることこそ、学徒たるものの責務であると言わねばならない・・・」(pp.11- 12)
※「・・「序論」は昭和19年10月5日に行った講義であり、私はこれだけは一つの記録とし て、そのまま残したいのである。実は、拙著「第一部」は戦時下、当局の忌嫌に触れ出版を禁止されたものである。私の講義はそのような時代になされたもので ある」(p.6:1959年の「新刊の序)より
「戦争勃発以来我国と諸外国の交渉は切れた。学問的連絡が絶たれてすでに数年、その間に敵国では 如何なる研究がなされているであろうか。現在アメリカの大学や研究所では如何なる軍陣医学が発展しているであろうか。明治維新以来、我国の科学はどの領域 においても、外国でなされた科学的知識の先端を吸収するのに全力を尽くしてきた。我国の科学的進歩の見通しはまさにそのためであった。しかし、真に科学す るために必要なのは他人のなした先端的業績を模倣し、あるいは模倣ではなくとも彼らのなしているのと同じ問題を自らとり上げるよりも、科学なるものの本質 を身につけることではないか。ことに今日のように外国との交渉の断絶している場合、何よりも必要なのは、如何なる研究にも活かし得る真の科学精神の獲得で はないか。結局自然科学を根源的に反省し、それの神髄を把握することは、医学を学ぶものにとって決して無用な仕事ではないのである。/それのみではない。 今日医学の研究において必要な今一つの事は、西洋医学だけを唯一の可能な医学としてそれにのみ絶対的信頼をおいてはならないということである。…」 (p.13)
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文献
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