グローバル化する近代医療と民族医学の再検討
――研究史における私的メモワール――
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1.はじめに
奥野克巳先生を研究代表者とする本研究課題の報告書をまとめるにあたり、私は、これまでの研究期間において公刊してきたいくつかの拙文の執筆 動機を説明し、それらを整理することで、本研究に対してどのような貢献が可能であるかを検討するものである。冒頭にこのような総論的まとめを記し、その後 は、すでに公刊している拙文「コスモポリタン再考――医術と統治術のはざまで――」『経済学雑誌』第104巻2号、Pp.22-36.(大阪市立大学経済 学会)を再掲する。このような手口を採用する理由は、一にも二にも報告書執筆のための時間的制約があったからであるが、同時にまた私じしんが未だ、その研 究の全体像に対して今後どのような方向性を見いだすべきか呻吟しているからである。しかしながら再度、この拙文を再掲し、私じしんが再読し適宜修正を加え ることを通して、私じしんの頭の中を整理することは、奥野先生をはじめとする新たな研究プロジェクトのメンバーたちと取り組んでいる本研究以降の方向性を つねに精査するという意味でも重要な課題であると信じている。
さて私は、本プロジェクトに参画する以前に、「世界医療システム」(拙著『実践の医療人類学』第3章、2001年)という文章のなかで、グ ローバル化する近代医療を「世界医療システム」と名付け、考察をおこなった。ウォーラスティンの世界システムの理論からすると、そのシステムの中に分節化 され自律的なシステムを含意する「世界医療システム」を概念化するのは形容矛盾であるように思われる。この用語法はシンガーとベアの提唱した用語だが、私 が言わんとしたのは、彼らの理論が前提とする近代医療と伝統医療の二元論の理論的批判を通して、この概念を脱構築したいからであった。彼らの理論に対する 私の論難はただ1点である。彼らが世界医療システムという概念を提示する際に、その用語を通して(それもかなり道徳的非難を込めた)近代医療批判をおこな いためであり、そのために伝統医療の概念が「近代医療に欠けているもの」という理論的空虚(theoretical vacuum)に訴えるという修辞法をとっていることであった。このような伝統医療のイメージの理解は、文化人類学の学説史における医療人類学の最初の勃 興時に好んで使われた近代医療批判の起爆剤として伝統医療という一種のルートメタファーとも言えるもので、今日までつづく医療現象における多元性をすべて 文化の差異で片づけようとする際に人類学者が大衆に訴えかけるもののひとつである。
フィールドワークの現場においてはほとんどありえない伝統医療のユートピアがそこにはある。しかし誰もそのような理論的理想が生起する場 (フィールド)に立ち会うことはほとんど稀であろう。現実は、なになに医療という峻別がむなしいほど概念が混雑しており、また個々の病気の発生は偶発的で あると同時に、その処遇は事後的にみるかぎり唯一なものである。概念的に区分される近代医療と伝統医療はもっと補完的であり、全体論的な行為実践のなかに 包摂されている。また先の文書の中で、いい足りないと事後的に私が思ったのは、世界医療システムの中に包摂されたと思しき(シンガーとベアを含めた)我々 がおこなっている営為は、そのシステムの外に立って容易に批判の対象とできるようなものではなく、我々じしんそのものが世界医療システムという環境(=世 界 Welt)に住まうエージェントそのものではないかという自己批判が、我々には欠けている[のではないか]という認識である。
このような自己反省に立てば、次に何をやるべきかは明らかになる。全地球的拡張を目標にする(あるいはそのように見える)医療を、シンガーと ベアの視点ではないもうひとつの〈世界医療システム〉論という観点から眺めることである。彼らの対抗概念である、もうひとつの〈世界医療システム〉を明確 に定義したいというのが私の理論的悪あがき(つまり未だ成功していない)なのであるが、そのためにコスモポリタンという一度マーガレット・ロックに使われ た医学のカテゴリーを指した用語を掘り起こして考えた。奥野先生らと始めた帝国医療や植民地医療、あるいは開拓医学(飯島 2000)とい う一連の歴史学 から提唱された医療概念の研究がある。国際協力ボランティア(池田 投稿準備中)はグローバルポリティクスという世界医療システムを実現するエージェント の重要なひとつであると考えている。また、存在の普遍性という観点から考えると、亡霊や幻覚(ファントム)の存在に関する意味論の研究が重要になり、ファントム・メディシン(『熊本文化人類学』第4号、Pp.93-98)という枠組み で、医療システムが我々に与える偏見を相対化してくれるかもしれない。
このようなことを私がこだわり続ける理由は、世界医療システムのエージェントかもしれない人類学者の社会的役割について、単に研究対象を観相 するだけでなく(でないとシンガーとベアの陥った穴に戻ることになる)まさに同時進行的に考えたいということである。それは「すでに研究しつくされたこと /すでに判っていることをなぜ私は延々とおこなうのか」という諦めからくる倦怠に抗して、能動的無為(今村 2005)を実践するひとつの方法になりうる ことを私は願っているからである。
Copyright Mitzubishi Chimbao Tzai, 2005