ティエラ・デル・フエゴにおけるダーウィン
Charles Darwin at The Tierra del Fuego
1832年9月24日頃にオーガスタス・アールによって描かれたと思われる、バイアブランカに停泊中のクォーターデッキの様子。中央に位置するシルクハットの人物が標本を調べているチャールズ・ダーウィン、その左隣にフィッツロイがいる。︎
池田光穂
1832年
12.17
正午過ぎル・メール海峡に入り、ティエラ・デル・フエゴ島——以下フエゴ島——沿岸に島民を発見する。グッドサクセス湾にビーグル号停 泊する。
12.18
朝、フィツロイ船長、フエゴ島民との交渉団を派遣する。ダーウィン初めての島住民と接触する。
12.19
奥地探検、森林の一部ならびに沿岸を観察する。
12.20
バンクス・ヒル(Banks Hill)を登る。
12.21
ビーグル号、グッドサクセス湾から錨をあげて、南下する。
12.22
BarneveltsよりCape Deceitを通過し、ホーン岬をまわるが、突風のために南下する。
12.23
ホーン岬に近づくが、Wilgwan Coveに停泊する。
12.25
Wilgwan Cove周辺を探検。入り江の「小屋(wilgwan )」の住民を観察する。6日間そこに留まる。
12.30
外洋に出て航路を西にとる。しかし、時化に遭い数日間漂流する。
1933年
1.11
ヨーク・ミンスター山のから数マイルのところを航行。嵐のため時化はつづく。
1.12
時化は激しくなる。
1.14
時化は続く。False Cape Horn沖を通過し、Windhond Bayに投錨。
1.15
Goree Roadsに投錨した。フィツロイ船長は、3人のフエゴ島民の再帰還をPonsonby Sound周辺におこなうことを決定。4隻の船による探検を準備する。
1.19
Goree Roadsを北上し、ビーグル海峡を西に移動する。
1.20
ダーウィンの解説によると、先住民は白人とはじめて接触したという 心証をもつ。
1.21
ひきつづき先住民との接触。
1.22
帆走を続ける。ジェミー・ボタンによると、これらの土地は「木の葉が紅くなる頃」にオナが襲撃することをダーウィンに語る。夜、 Ponsonbyとビーグル海峡の合流点でキャンプをはる。
1.23
ジェミーの部族(リネージ/クラン?)タケニカのメンバーが到着する。ジェミーWoolya Coveにパーティを案内する。フィツロイは、3人のフエゴ島民の移住計画地として決める(小屋を建て畑を二枚開拓するのに5日間かかる)。
1.24
ジェミーの母親と兄弟の到着。(ダーウィンの観察によるとジェミーは母語をすでに忘れていた)
1.24−1.26
開拓の建設がすすむ。
1.27
先住民とビーグル号のパーティの間が険悪になったので、数マイル離れた入り江にキャンプ。
1.28
先住民の様子を確認し、4隻の小舟のうち、小艇と鯨艇(ホエール・ボート)をビーグル号に返させ。残り二隻の鯨艇で更にビーグル海峡を 西に探検する。
1.29
ビーグル海峡が二岐する海峡の北を西へ航行する。海峡の北に見える最高峰をフィツロイはダーウィン山と命名する。
(2.2−3?)
Stweat島に到達後、ビーグル号に帰還すべく海峡の南側を東に航行をはじめる。この地域は先住民が不在である。
2.6
開拓地のあるWoolya Coveに到着する。開拓地においてきた宣教師マシューは状況が悪化したことを報告したので、そこでの布教入植をあきらめビーグル号で航海を続けることを 決定(マシューはその後ニュージランドに移住)。ビーグル海峡ではなく、Ponsonby Soundを南下してWindhond Bayを経由してビーグル号への帰還をはじめる。
2.7
夕方、ビーグル号に20日ぶりに帰還する。
2.11
フィツロイ船長小艇を出し自ら乗り込んで、Woolya Coveの3人の入植地を再び訪れて定着しているのを確認する。
1834年
1月
「パタゴニアの巨人」と会見。
2.28
ビーグル号のフエゴ島再訪のため、ビーグル海峡東口の入り江に投錨。ビーグル号で海峡を西行する(これは逆風になり、船はタッキングに より航行した)。ダーウィン、1年前の先住民との邂逅を苦々しく回顧する。
3.5
ビーグル号、Woolya Coveに投錨。彼らが不在の間に、オナの襲撃を受けて開拓地は無人の荒れ地に変わっていた。フェギア・バスケットとヨーク・ミンスターは自分たちの「部 族」(たぶんリネージ)とともに、この地を去り、ジェミー・ボタンだけがこの地に留まっていた。
5月末
マゼラン海峡東部に入る。6月10日海峡を抜ける。
ca.1842年
サリヴァン大佐、マゼラン海峡西部で英語を話す現地人(ダーウィンはフェギア・バスケットであることを確信する)と接触する。