聴く力
きく ちから
「聴覚と視覚は同程度に革命的変革になじみやすい、というわけではない——ヴァルター・ベンヤミン」
聴く力、聞き取る力に関する議論が盛んになってきている。
もちろんすべての論者に「耳を貸す」必要はない。つまらない精神論や、聴くことのノウハウについてよりも聴く ことの背景にある対人コミュニケーションの重要性を言い換えている議論も多い。
大切なことは、そのようなバイブル商法(その本を買って所有することが重要だと思わせる商業上の戦略。つまり その本の中身にある常識を再確認したにもかかわらず「この本には真理がある」と後生大事にする詐欺商法)にのせられることなく、自分にとって今他者の話に 耳を傾け、また他者の話からまなぶための、聴く力について自分じしんで考えることなのだ。
● 相手に語らせるために、さまざまな工夫があるが、それ は決してひとつではないことを理解せよ。(2つの耳と一つの舌がある=ひとつ話したら、ふたつ聞くようにする)
● 話させようと手管を思いめぐらせるよりも、相手が語り やすいようにリラックスさせることに留意せよ。
● 話の腰は折るな(=相手が話している間に、答えを考えない)
● 対話者の間での沈黙を恐れない。一呼吸程度の辛抱は必 要。空虚な合いの手は不用。
● 聴くことは受け身の行動ではない。相手に話させる行為 、すなわち聞くことは能動的な行為なのだ。
● 聴いて満足ではなく(聴くことが最終目的ではない)、 そこから話をどのように展開してもらうかを質問者が知っていることが重要。
結局のところ、私は〈聴く力〉というものを、個人に内在する力や、個人が身につけることができる力というイ メージで理解することの有害性について説いているのである。
聴くという行為や、聴くという行為が行われる場所を想定して欲しい。そこには、語る人・語る者・音を奏でるも のなど、もろもろの〈音源〉があるはずだ。我々は音源から出たメッセージを聞き取った上で、考えているということなのだ。
つまり、聴くということは、きわめて社会的な行為実践である。このことを忘れないでほしいということなのだ。
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必死に聞く人にはものが見えない ヴァルター・ベ ンヤミン(1934) |
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