臨床コミュニケーション研究における〈聴覚優位〉の問題
Does listening take more dominant than acting in studies for human communication in practice?
「はじめにことばあり、ことばはかみとと
もにあり、ことばはかみなりき」(ヨハネ
1:1)の言葉は、インスクリプションとしての言葉ではない、聴覚表象としての言葉なのだ。その意味で、真理を聴覚上の現象としたベンヤミン(「独逸悲劇
の起源」序文)は正しく、世界の事物に(発語を通して)名前を与えたアダムが、哲学の文字通りの《父》なのだ……(父の声)
現場力(げんばりょく)とは、実践の現場 で人が協働する時に育まれ、伝達することが可能な技能であり、またそれと不可分な対人関係的能力などの 総称のことをさす(→出典「現場力」)。これに関する対概念は「文字という視覚優位のコミュニケーション」である。
伝統的哲学は、長い間、視覚優位の伝統を 取り続けてきた。例えばホワイト ヘッド(Alfred North Whitehead, 1861-1947)は次のようにいう。
"Philosophers have disdained the information about the universe
obtained through their visceral feelings, and have concentrated on
visual feelings." -
(伝統的)哲学者たちは、内臓の感受を通して得られた宇宙についての情報について蔑み、視覚感受に(のみ)専心してきたのです。Whitehead,
Process and Reality, p.121, The Free Press, 1929.
従って、伝統的哲学の呪縛から解放される
ためには、視覚以外の〈思考〉のメタファーを、取り上げる必要があった。臨床哲学者たちが好んで主張す
る「聴く力」はその典型例である。
臨床コミュニケーション研究における、現場のコミュニケーション能力のうち、聴覚の意義を強調するものがいる。彼らの主張に耳 を傾けてみよう。
「……語ること以上に、聴くことに神経を向ける必要があるということ。わたしは、哲学を〈臨床〉という社会のベッドサイドに置いてみて、そ のことで哲学の、この時代、この社会における〈試み〉としての可能性を探ってみたいとおもうのだが、そのときに、哲学がこれまで必死になって試みてきたよ うな「語る」——世界のことわりを探る、言を分け/る、分析する——ではなく、むしろ「聴く」ことをこととするような哲学のありかたというものが、ほのか に見えてくるのではないかとおもっている」(鷲田 1999: 46-7)。
聴覚のメタファーが、戦略的に優位になる のは次の2つの理由があるように思われる。
まず、従来のコミュニケーション研究にお ける視覚のメタファーの優位である(ミッシェル・フーコーのいう「臨床のまなざし」を想起したまえ)。 視覚→識字能力→ロゴセントリズムという論理に対する批判を含意した、臨床コミュニケーション研究の特異性や優位性を強調することができることである。し かし、臨床のまなざしを、近代理性の論理パターンとして特権化したフーコーの議論は、同じ時期のパリ病院学派を素朴なまでに実証的に検討したA・アッカー クネヒトからみれば、臨床的まなざし(視覚優位の思考)はいつも同じパターンの理性的論理を引き出すというよりも、ある特定の歴史的社会的文脈のなかで、 我々とは異質な思考を生み出す可能性について、十分思慮深い議論をしているとは思えない[→拙稿「臨床 概念の誕生」]。
次に、聴覚はアンプでも使わない限り、あ るいは自然の音でも鳴り響かないかぎり、限りなく肉声を聴くことが重要にされているように思われるから だ。肉声を聞き取るためには、(数メータ以内が妥当な範囲だが)近づかなければならない。聴覚のメタファーに訴えることは、身体的親密性を喚起する。
もちろん「聴く力」「傾聴することの重要 性」が聖典化してしまったり、そこで思考が止まってしまえば、それは聴くことを通して、さまざまな人間 のコミュニケーションの知恵について考えようとするこのユニークな試みを逆に台無しにしてしまうことは、論をまたない。
リンク
文献
《創世記とヴァルター・ベンヤミン》
「はじめにことばあり、ことばはかみとと もにあり、ことばはかみなりき」(ヨハネ 1:1)
【補論】視覚メタファーと着想力