マーシャル・マクルーハンの3つの病気
Three Great Madness of Rev.(or Guru) Herbert Marshall McLuhan
● マ クルーハンの三つの病気
マーシャル・マクルーハン(Herbert Marshall McLuhan, 1911-1980)の理論を病気という観点 から考えるということは正気の沙汰ではない。彼は病気の専門 家どころか病気の修辞表現においても出色なことは何も書いていない。私の主張はマクルーハンの言っていること自体が病気であるということだ。いささか鬼面 人を威す表現だが、彼の次の三つの命題から検討を始めよう。つまり、
(1)印刷文明に対する 病的嫌悪、
(2)電気メディアに対する過剰願望、
(3)地球村 =再部族化
というはかない妄想の三点についてである。
(1)彼は『グーテン ベル クの銀河系』でアルファベットの印刷文字文明が人間の知性と感性を分裂 させ、 さらに文字に対する視覚の優位という脅迫観念を植え付け、ひいてはヨーロッパの空間 概念まで変えてしまったという。読めば一目瞭然、この批判をおこなうのに古代ギリシャからアフリカさらにはアインシュタインまで、万巻の書物を博引旁証か つ病的にブリコラージュする。この印刷文明に対する弾劾は、その批判される印刷 物を不可欠な素材としてまさに異端的に読み解くことによって達成された。最 高の異端審問者は、異端を憎むだけでは不十分で、異端に関するあらゆる知識のエキスパートでなければならない逆説がある。彼は印刷文明に対する最高の異端 審問官ゆえにまた最高の理解者の一人であったのだ。この情熱を支えていたのは、印刷文字文明に対する歪んだ愛である。これが最初の病気である。
(2)電気メディアに対する過剰願望、
(2)次に彼の電気メディアに対する過剰願望は、文字文明に対する病的嫌悪の帰結とみなせ る。 『人間拡 張の原理(メディアの理解)』で、テレビを代表格とする電気時代のメディアが、それまでの視覚偏重で細分化された人間の感性を全体論的で神話的な世界へと 再び解放してくれると彼は託宣する。ここで再びというのは印刷文明以前の部族レベルでの世界に戻れるという彼の預言をさす。オートメーションに関する彼の 見解は、電子化の潜在的可能性の的確な予想と彼自身が妄想する希望的観測がない交ぜになっている。未来社会への観測はまるで外れているどころかナンセンス である。この時代のアメリカのマルクス主義者たちはオートメションについて書いたが、それは独占資本や軍産複合体との関連においてだったが、まだこちらの ほうがましである。メディアへの過剰な愛がかれの平常心を失わせた。
(3)地球村 =再部族化
(3)三番目の病気。電子メディ アに よって我々の五官は本来の感覚を取り戻し、世界はどんどん小 さくな る、つまり我々は地球村の住民となる。そして我々は失われた神話的世界の中に再び生きるようになる。これが再部族化に関するマクルーハンの青写真だ。彼の部族概念は多分に人種主義的なニュアンスを含み、実態としてのイメージが希薄なので割引いて考える必要がある。部族は地球 村とセットで考えられ、その部族 は単一民族のようだ。メディアが彼の人種主義を克服するというのは何とも皮肉だ。そして、その部族概念は新興独立国が誕生する以前の時代の書物を通して得 られたものだ。彼の部族のイメージは「西洋文明の波に曝されて滅びゆく神話的世界に住む人たち」という見解を踏まえている。彼は、印刷文明への抵抗の実践 の果てに到達するユートピアの人間像のなかにかつての部族民を見た。それはルソーの高貴なる野 蛮人の電子版である。
しかし、今日では印刷メディアを通して国家が「国民」という主体を、民族学が「部 族」という研究 対象を造り上げてきた歴史的事実が明らかにされつつある(→このこと彼自身が『メ ディアの理解』(1964)の中で言及しているのだ!これは俗世間の人た ちが信じるB・アンダーソンは創始者ではなく、マクルハーンの“正統な”継承者であることを示唆する:関 連ページの関連箇所)。さらにビデオやカセットの普及は、このような国民の再編成や部族の新たな細分化を促進させている。マクルーハンのメディア による再部族化の予言は当たっていた。しかし地球村の単一部族になったのではない。隣の街の同胞のことは知らないが異なる辺境の諸部族どうしがネットを通 して隣合い親交を深めるという事態を引き起こした。それは地球村化ではなく、地球全体の都市スラム化である。
マクルーハンのテトラッドの概念(グローバル・ヴィレッジ : 21世紀の生とメディアの転換 / マーシャル・マクルーハン, ブルース・R・パワーズ著 ; 浅見克彦訳, 青弓社 , 2003年)
● 病 気にとってのメディア
マクルーハン「理論」とは、この種の過度の思い込み、つまり病気的熱情によって支えられている。 だが病気でないような「理論」は 屑である。病気の理論こそが正常と自惚れる世人を混乱に陥れる。ところで 巧みな修辞の使い手であったマクルーハンは病気のメタファーも多用した。だが、病気に関してはどれも凡庸だ。彼が最も頻繁に使ったのは精神病理学や精神分 析から借用されたものだ。例えば統合失調症(旧名:精神分裂病/分裂病)は文字の使用とともに始まったとか、ナルシシズムは自己愛ではなく自己の拡張によ る感覚の麻痺だとかいう類のものである。新しいメディアの可能性を感覚と知性の切断から救い、人間本来の感性を取り戻すプロセスだというのは彼一流のメ ディア神学の救済理論である。だけど、どことなく彼の病気のメタファーの使い方はぎこちない。それは病気の怖ろしさと面白さを知らなかったからだろう。
彼の成し遂げられなかったメディア神学を、病気および病気のメタファーのメディア論として救済し てみたい。「人間拡張の原理」ではなく「病気拡散の原理」としてのマクルーハンの著作は、まだまだ誤読可能なアイディアの宝庫である。電子メディアは「人 間の拡張」の手段だが、病気からみると、人間というメディアこそは「病気の拡散」にとってなくてはならない存在だからだ。細菌、ウイルス、寄生虫などの生 物由来の病原は他のより高等な生物を宿主としかつそれを媒介にしてその命を維持、再生産しなけばならない。病気のメタファーもまたしかり。
HIV(エイズウイルス)は感染力が弱く、体液を交換するほどの濃厚な肉体接触がなければ感染し ない。ところが薬物と一緒に注射されたり、人間の地球規模での移動というHIV本来もつ感染力を上回る力が外部から導入されたことで、エイズは未曾有の感 染症になった。外部から授けられた能力とは、血液製剤やドラッグの利用による注射針の共有というメディアによって授けられたのである。人間や医薬品、薬物 依存の形態などが地球規模の広がりをもって迅速に拡がり定着していなければ、HIV感染の今日のような「繁栄」はなかった。
誤解のないように言っておくが、薬害エイズ問題のように、臓器の商品化(アメリカでの売血)およ び商品開発(血液製剤)とその世界的流通、国内における不適切な処置(医学の権威保持や商品在庫の一掃という営業的判断)、さらに過剰な消費(不必要な投 与)という人為的な要因が日本におけるHIVの流通を加速させたことは言うまでもない。現在巷間を騒がす病原性大腸菌O−157も元来は一つの株つまり変 異した一個の細菌から由来したものであると考えられている。流行を可能にさせるのは宿主の人間や汚染食品の広範囲にわたる移動である。これら伝染メディア の地球的な拡張によって人類がかつて経験したことのない事態に直面しているのだ。世界最大産業の観光も、人間の世界的流通のみならず病気の地球化を促進さ せる立派なメディアだ。現在このメディアの問題の深刻さについて悩まない医学者はいない。メディアの内容は重要ではない、重要なのはその様式だと主張する マクルハーンの言うことは感染症の理論でも当てはまるのだ。
● メディアは病気を再編成させたか
機械の「感染症」の原 因であるコンピュータ・ウイルスもまたしかり。こちらは病気のメタファーで あるが、感染と拡散のスピードも出てきたウイルスの種類も本家の生物ウイルスを完全に凌駕する。そしてユーザーに与えた心理的恐怖もすさまじい。ネットに アクセスしてソフトやファイルを仕入れた後に、ウイルスチェッカーを起動させるのは、売春宿から帰ってきた男が翌日性病の検査を受けにゆくようなものであ る。ポストモダンの批評家ポスターは『情報様式論』の中で、マクルーハンには変容する知覚ばかりに注目して主観のあり方が変化してゆくという議論の詰めは 弱いと批判する。これは真っ当な批判だ。しかし、コンピュータを手と頭の延長として使う人間としては、感染予防のためにチェッカーを起動させるのは当然の ことである。コンピュータウイルスの存在がサイバー文明にとってどのような意義があるのかわからないが、とりあえず主体の延長である自分のマシンの病気を 防ぐのは賢明なことなのだ。病気の主体は当面なくなりそうにないので、マクルーハンのモダン理論の耐用年数はまだある。
では、そのような新しいメディアは病気そのものを再編成させただろうか。これは無理である。病原 は遺伝子のふるまいに規定される。だから、治療の開発や予防の措置によって、特定の遺伝子のグループに急速な淘汰がかかるかもしれない。しかし、このよう な想像力はもはやこれまでである。先進諸国では懐かしい響きをもった病原による由緒正しい病気は少なくなった。病原でさえ免疫系を破壊する特異なウイルス や原因が分かっても対処療法に主力がおかれる成人病や癌など、人間の生活に深く結びついた病気だらけになってしまったからだ。メタファーもまたしかり。コ ンピュータウイルスなんて、モダンの人間からみれば、まったく正気の沙汰ではない。だからチェッカーは必要なのだ。今日では「メディアの理解」よりも「病 気の理解」のほうが、人類にとって遥かに難問なのだ。
結論である。彼はメディア社会の 到来に関して多少とも目鼻が利き、適度なバランス感覚をもって判 断し、そして読者にはかなり誇張した現状分析と未来予測をおこなったに過ぎない。彼は多少過ぎた「超」楽観主義者だった。その意味では言っている内容は健 全だった。むしろ、その後の世の中の進み方が「病気」だったのだろう。 マクルーハンは死の10年前に患った脳腫瘍の再発が原因で1980年に亡くなった。テレビを見すぎたのか、あるいは万巻の書物の読書のせいなのか、脳腫 瘍に そんな原因などあるまいが、その病名はメディアと印刷文明の極限を見据えた男の死にふさわしい——もちろんこれは私の冗談である。
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合掌・大電脳時代維新居士!
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